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第6章 『導く風の声』

宛名だけが記された一通の手紙を読んだあと、柚希の周囲の空気は、目に見えないほどのわずかなズレを含み始めていた。

昨日まで当たり前だったはずの出来事が、なぜか同じ形では繰り返されない。

選ばなかった道に導かれるように足が向き、偶然耳にした言葉が胸に引っかかって離れない。


真帆はそれを「気のせい」と笑おうとし、神谷は曖昧なまま受け流し、朝比奈は何かに気づいているようで口を閉ざす。

それぞれの反応は違っていても、同じ方向へ引かれている感覚だけは共有されていた。

誰かが強く呼んでいるわけでも、はっきりとした目的が示されているわけでもない。

ただ、進んだ先で立ち止まることが許されない、そんな不思議な流れが生まれていく。


柚希はその感覚に抗いきれず、同時に、どこかで懐かしさにも似た安堵を覚えていた。

理由は分からないまま、それでも選択を重ねるたびに、背後からそっと背中を押されているような気配が強まっていく。

風のように形を持たない何かが、言葉にならない声で進む方向を示している――そんな感覚だけを残したまま、日常は静かに次の局面へと移ろいでいく。

 朝の通学路で、柚希は立ち止まった。ほんの数秒、足が止まっただけだったのに、胸の奥に引っかかるような感覚が残った。理由は分からない。

ただ、今日はいつもより風が強く、制服の裾が思った以上に大きく揺れた。それだけのことのはずなのに、その風が背中を押してきたように感じてしまった自分に、柚希は小さく息を吐いた。


「……変なの」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、歩き出す。昨日までと同じ道、同じ時間、同じはずの朝なのに、周囲の音が少しだけ違って聞こえた。

 自転車のブレーキ音、踏切の警報、誰かの笑い声。それらが妙に鮮明で、まるで注意深く聞けと言われているみたいだった。


校門の前で、真帆が手を振っていた。


「柚希ー! 今日ちょっと遅かったじゃん」


「うん、なんか……途中で考え事してた」


「また? 最近ほんと多いよね」


真帆は笑いながら言ったが、その目は少しだけ探るようだった。柚希は誤魔化すように肩をすくめる。


「自分でもよく分からないんだ。ただ、ぼーっとしてただけ」


 二人並んで校舎に入ると、廊下の先に神谷の姿が見えた。相変わらず周囲と距離を取った立ち位置で、誰とも話していない。

 それなのに、なぜか目が合った。神谷は一瞬だけ視線を逸らし、次の瞬間には何事もなかったような顔で前を向いた。


「……今、目合ったよね」


「合ったね。でも神谷って、ああいう感じじゃない?」


「そうなんだけど……」


柚希は言葉を切った。胸の奥で、さっきの風と同じ感覚が小さく渦を巻いたからだ。

偶然にしては、妙に重なりすぎている。

そう思いかけて、首を振る。考えすぎだ、と自分に言い聞かせた。


教室に入ると、朝比奈が窓際の席で外を見ていた。風に揺れる木の枝を、じっと目で追っている。


「おはよう」


柚希が声をかけると、朝比奈は少し驚いたように振り返った。


「ああ、おはよう。今日は風、強いな」


「うん。なんか落ち着かない感じする」


「……そうだな」


短い返事だったが、その間に一拍の間があった。

朝比奈は何か言いかけて、やめたようにも見えた。柚希はそれ以上踏み込めず、席に座る。


チャイムが鳴り、朝の喧騒が落ち着いていく。その中で、柚希はふと、自分が選んでいないはずのことばかりが、静かに積み重なっている気がした。

足を止めたこと、目が合ったこと、声をかけたこと。そのどれもが、意識する前に起きていた。


偶然だと片付けるには、少しだけ多すぎる。けれど、意味を探すには、まだ形がなかった。


柚希は窓の外を見る。風に押されて雲が流れていく。

その動きを、ただ黙って目で追いながら、胸の奥に残る感覚から目を逸らすことができずにいた。


昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴るまで、まだ少し時間があった。

教室の中は、机を寄せて話す声や、売店のパンの袋を開く音が混ざり合い、いつもの光景のはずなのに、柚希にはどこか落ち着かない場所に感じられた。

朝から続いている、言葉にできない違和感が、静かに足元にまとわりついて離れない。


「ねえ柚希、午後の体育って何だっけ」


真帆がパンを半分残したまま聞いてくる。


「バレーだったと思うけど……たぶん」


「うわ、最悪。今日風強いし、窓開けっぱなしになりそう」


真帆はそう言って顔をしかめたが、すぐに笑ってごまかした。

そのやり取りを聞きながら、柚希は窓の外に視線を向ける。

校庭の木々が、朝よりもさらに大きく揺れていた。枝が擦れ合う音が、窓越しでもはっきり聞こえる。


「ほんと、今日は風が落ち着かないね」


柚希がそう言うと、真帆は「確かに」と頷いた。


「なんかさ、天気が荒れてると気分も引っ張られる感じしない?」


「……するかも」


柚希は曖昧に答えた。気分というより、選ばされている感覚に近い。

そう言いかけて、やめた。説明しようとしても、きっと伝わらない。


そのとき、教室の後ろのほうで椅子が引かれる音がした。神谷が立ち上がり、何も言わずに教室を出ていく。

誰かと約束しているようにも見えなかったし、急ぐ様子でもない。ただ、ふと呼ばれた場所へ向かうような歩き方だった。


「神谷、どこ行くんだろ」


真帆が小声で言う。


「さあ……トイレじゃない?」


そう答えながら、柚希の視線は神谷の背中を追っていた。

理由は分からない。ただ、見失ってはいけない気がした。視界から消えた瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。


「柚希?」


「……ごめん、ぼーっとしてた」


真帆の声で我に返る。自分でも驚くほど、集中力が散っていた。


「最近、ほんとどうしたの? 無理してない?」


「してないよ。ただ……」


言葉が途切れる。その先をどう続ければいいのか分からなかった。

ただ、昨日まで当たり前だった輪郭が、少しずつ曖昧になってきている。その感覚だけが、はっきりと残っている。


予鈴がもう一度鳴り、教室の空気が切り替わる。

柚希は椅子に深く座り直し、ノートを開いた。黒板の前に立つ先生の声が聞こえる中で、ふと、朝比奈の方を見る。

彼は窓の外から視線を戻し、柚希と一瞬だけ目が合った。


何も言葉は交わされなかった。それでも、その短い視線のやり取りが、偶然とは思えなかった。

柚希は視線を逸らしながら、胸の奥で小さく息を整える。

今日一日が、このまま何事もなく終わる気が、なぜかしていなかった。


午後の授業が始まると、教室は一気に静まり返った。窓の外では相変わらず風が吹き続けていて、ガラス越しに低い唸りのような音が断続的に聞こえてくる。

先生の声は黒板に向けられていたが、柚希の意識はどうしてもそこに集中しきれなかった。ノートにペンを走らせながらも、文字が頭に入ってこない。

書いているはずなのに、どこか他人のノートをなぞっているような感覚があった。


「……次、ここ大事だからな」


先生の声に一瞬だけ背筋を伸ばすが、すぐにまた思考が逸れる。

朝から感じている、選ばされているような流れが、授業の時間になっても途切れない。それは不安というより、静かな圧力に近かった。


隣の席の真帆が、ノートの端に小さく文字を書いて、そっと見せてくる。


「あとで一緒に復習しよ」


柚希は小さく頷き、「ありがとう」と口の動きだけで返した。声に出すと、この微妙な集中の糸が切れてしまいそうだった。


黒板の前から振り返った先生と目が合い、慌てて視線を戻す。その拍子に、教室の後方が視界に入った。

神谷は相変わらず無表情で座っていたが、どこか落ち着かない様子で、ペンを持つ指先だけが小さく動いている。何かを書いているわけでもなく、ただ無意識に触れているように見えた。


――神谷も、同じなのかな。


そう思った瞬間、柚希は自分に驚いた。

なぜ、他人の内側を探るような考えが浮かんだのか分からない。ただ、今の教室には、見えない糸が何本も張り巡らされている気がしてならなかった。


授業の途中、窓際の席から小さな音がした。風に煽られたカーテンが、窓枠に当たった音だった。

朝比奈がそれに気づき、立ち上がってカーテンを押さえる。


「すみません、ちょっと開いてました」


「いいよ、そのまま閉めといて」


先生の返事に、朝比奈は頷いて席に戻る。その動作は自然だったが、柚希はなぜか、その一連の流れが目に焼き付いて離れなかった。

風、視線、立ち上がるタイミング。すべてが、偶然にしては整いすぎている。


「柚希、大丈夫?」


真帆がまた小声で聞いてくる。


「うん……ちょっと眠いだけ」


そう答えながら、柚希は自分の胸の内を誤魔化しているのを自覚していた。

眠気ではない。もっとはっきりした、方向を持った感覚だ。誰かが遠くから合図を送っていて、それを見逃さないように、感覚だけが研ぎ澄まされている。


チャイムが鳴るまでの残り時間が、妙に長く感じられた。

柚希はペンを置き、ゆっくりと息を吐く。まだ何も起きていない。それなのに、もう何かが始まっている気がしてならなかった。


チャイムが鳴ると同時に、教室の空気が一気に緩んだ。椅子を引く音や、伸びをする気配があちこちから聞こえてくる。

柚希はノートを閉じながら、肩の力を抜いた。けれど、頭の中に溜まっていたものは、そう簡単には消えてくれなかった。


「はー、やっと終わった」


真帆が大きく息を吐いて、柚希の方を見る。


「今日の授業、やたら長く感じなかった?」


「うん……時計、何回も見ちゃった」


「だよね。先生の声も、いつもより単調だったし」


他愛のない会話を交わしながらも、柚希の視線は自然と教室の後ろへ向いていた。

神谷はすでに席を立ち、鞄を肩にかけている。誰かに声をかけるでもなく、まっすぐ出口へ向かっていた。


「神谷、もう行くんだ」


真帆が呟く。


「部活かな」


「さあ……」


柚希は曖昧に答えたが、胸の奥がわずかにざわついた。

さっきまで同じ空間にいたはずなのに、離れていく背中を見ていると、取り残されるような感覚がある。

それは神谷に対してというより、何かの流れから外れてしまう不安に近かった。


そのとき、教室の入口で神谷が一瞬だけ足を止めた。

振り返ることはなかったが、何かを確かめるように、ほんの数秒立ち尽くしている。やがて何事もなかったように歩き出し、姿は廊下の向こうへ消えた。


「今の、何だったんだろ」


真帆が首を傾げる。


「……分からない」


柚希はそう答えながら、自分の心臓の音を意識していた。さっきよりも、少しだけ速くなっている。


教室に残った生徒が次々と帰り支度を始める中、朝比奈が柚希の席に近づいてきた。


「柚希、この後、少し時間ある?」


突然の声に、柚希は顔を上げる。


「あるけど……どうしたの?」


「ちょっと聞きたいことがあってさ。放課後でいい?」


朝比奈の口調はいつもより柔らかかったが、どこか慎重でもあった。柚希は一瞬迷い、それから頷く。


「うん、いいよ」


「ありがとう。じゃ、校門のところで」


それだけ言って、朝比奈は自分の席へ戻っていった。真帆がすぐに身を乗り出す。


「なに? 朝比奈と二人で?」


「たぶん、すぐ終わると思う」


「ふーん」


真帆は意味ありげに笑ったが、柚希はその表情を深く考える余裕がなかった。

朝比奈の「聞きたいこと」が何なのか、見当もつかない。

ただ、今日一日感じてきた違和感と、どこかで繋がっている気がしてならなかった。


鞄にノートをしまいながら、柚希はふと、自分が朝よりもずっと周囲の変化に敏感になっていることに気づく。

誰かの動き、視線、間の取り方。その一つひとつが、無関係ではないように思えてしまう。


教室を出る直前、窓の外を見る。風は少し弱まっていたが、雲の流れは速いままだった。止まらない何かに促されるように、柚希は廊下へと足を踏み出す。

その先に何が待っているのかは分からない。それでも、立ち止まる選択肢は、もう最初から与えられていない気がしていた。


放課後の校舎は、昼間とはまるで別の顔をしていた。授業中に満ちていたざわめきは消え、代わりに遠くから部活の掛け声やボールの弾む音が断片的に届いてくる。

廊下を歩く足音もまばらで、少し声を出すだけで響いてしまいそうだった。


柚希は昇降口へ向かいながら、鞄の持ち手を無意識に強く握っていた。朝比奈に呼ばれた理由を考えようとすると、どうしても答えが一つに定まらない。

単なる相談かもしれないし、何気ない質問かもしれない。それでも、胸の奥に溜まっているものが、そんな軽い用件では済まない気がしていた。


校門の近くには、すでに朝比奈が立っていた。

スマートフォンを片手に、空を見上げたり、足元の影を踏んだりしている。柚希に気づくと、少しだけ表情が緩んだ。


「あ、来てくれてありがとう」


「ううん。そんなに待たせた?」


「全然。俺も今来たとこ」


その言い方は自然で、構えた様子はなかった。柚希は少し安心しながら、朝比奈の隣に立つ。


「それで、話って?」


柚希がそう聞くと、朝比奈は一度だけ視線を校舎の方へ向けた。まるで、誰かがいないことを確認するような仕草だった。


「大したことじゃないんだけどさ。最近、ちょっと気になってて」


「何が?」


「柚希、ここ数日……いや、もう少し前からかな。様子、変じゃない?」


思いがけず核心を突かれて、柚希は言葉に詰まった。否定しようとして、できなかった。


「変、っていうほどじゃ……」


「無理に言わなくていい。責めたいわけじゃないし」


朝比奈は慌ててそう付け足す。その口調は柔らかく、探るというより、確かめたいという色が強かった。


「たださ、授業中とか、急に遠くを見るような目をしてるときがあって。呼びかけても、一瞬遅れるだろ」


「……見てたんだ」


「まあ、同じクラスだし」


軽く笑ってごまかすが、その視線は真剣だった。柚希は息を整え、正直に答えることにした。


「自分でも、よく分からないの。ぼーっとしてるって言われれば、そうかもしれない。でも……」


「でも?」


「誰かに呼ばれてる気がする、って言ったら変かな」


言葉にした瞬間、空気が少し張り詰めた。朝比奈は驚いた顔をしたが、すぐに首を振る。


「いや、変じゃない。……実はさ」


一瞬、言葉を選ぶように間が空く。


「俺も、似たような感じがある」


「え?」


「風が強い日とか、急に立ち止まりたくなったり、逆に急がなきゃって思ったり。理由はないのに」


柚希は朝比奈の顔を見る。冗談を言っているようには見えなかった。むしろ、今まで誰にも言えずにいたことを、ようやく口にしたような表情だった。


「それって……偶然、なのかな」


「さあ。でも、最近こういうのが重なりすぎてる気はする」


二人の間に沈黙が落ちる。校庭から聞こえる笛の音が、やけに遠く感じられた。


「ねえ、柚希」


朝比奈が静かに声を落とす。


「悠真のこと、覚えてる?」


その名前が出た瞬間、柚希の胸がきゅっと縮んだ。忘れたはずはない。けれど、はっきりと答えようとすると、言葉が喉の奥で引っかかる。


「……覚えてるよ」


「本当に?」


朝比奈の問いかけは、疑うというより、確認に近かった。柚希は小さく頷きながら、自分の中で何かが微かに揺れるのを感じていた。

ここから先の会話が、ただの雑談では終わらないことだけは、もう分かっていた。


「本当に?」と問い返されて、柚希は自分でも驚くほど答えに間が空いてしまった。忘れていない。それは確かだ。

でも、朝比奈の言う「覚えてる」は、ただ名前や顔を思い浮かべられるか、という意味じゃない気がした。


「覚えてるよ。小さい頃から一緒だったし……忘れるわけない」


そう言い切ろうとして、声が少しだけ揺れた。朝比奈はそれを見逃さなかったようで、目を伏せてから、ゆっくり口を開く。


「じゃあさ、最近……悠真の声、思い出せる?」


「声?」


「話し方とか、笑ったときの感じとか。具体的に」


急に細かいところを聞かれて、柚希は言葉を失った。頭の中に浮かぶのは、断片的な映像ばかりだ。

夕暮れの道、並んで歩く影、何かを言いかけた横顔。でも、声だけが、どうしてもはっきりしない。


「……思い出せない、かも」


正直に言うと、胸の奥がざわついた。朝比奈は「やっぱり」と小さく呟く。


「俺もなんだ。顔は浮かぶのに、声だけが曖昧でさ。変だと思わないか?」


「変、だと思う」


柚希はそう答えながら、自分の手が冷えていることに気づいた。

あんなに身近だったはずの存在が、音を失っていく。その感覚が、静かに怖かった。


「神谷も、同じこと言ってた」


朝比奈のその一言に、柚希は顔を上げた。


「神谷が?」


「直接じゃないけどさ。前に雑談してたとき、『昔のことって、音から消えるらしい』って言ってて。何の話だと思ったけど……今なら、少し分かる気がする」


柚希は唇を噛む。今日一日で感じてきた違和感が、一本の線で繋がり始めていた。

風に押される感覚、視線が合うタイミング、名前を出されたときの胸の痛み。全部が、偶然で済ませられなくなっていく。


「ねえ、朝比奈」


「なに?」


「もし……もしだけど。悠真が、どこかにいるって言われたら、信じる?」


朝比奈はすぐには答えなかった。少し考えてから、肩をすくめる。


「信じるかどうかは分からない。でも、否定はしない」


「どうして?」


「否定した瞬間に、何か大事なものまで消えそうだから」


その言葉は、柚希の胸に静かに落ちた。守りたいのは、事実よりも、感覚なのかもしれない。

そう思ったとき、校門の外から強い風が吹き抜け、二人の間を通り過ぎていった。


「……ねえ」


柚希が思わず声を出す。


「今の、風」


「うん。俺も感じた」


同時に同じことを思ったと分かって、二人は顔を見合わせた。

笑うには重すぎて、黙るには近すぎる沈黙が流れる。


「今日のこと、真帆には言う?」


朝比奈が聞く。


「……まだ、やめとく。自分の中でも整理できてないし」


「分かった。無理に共有する必要はない」


そう言って、朝比奈は一歩下がった。


「でもさ、柚希。一つだけ約束してほしい」


「なに?」


「違和感を、なかったことにしないで。気のせいだって片付ける前に、ちゃんと立ち止まってほしい」


柚希は、ゆっくり頷いた。


「うん。約束する」


その言葉を交わした瞬間、胸の奥に小さな重みが残った。それは不安ではなく、責任に近い感覚だった。何かが静かに動き出している。

その中心に、自分が立ってしまったことを、柚希ははっきりと自覚していた。


翌朝、柚希は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。はっきりとした夢を見た記憶はないのに、胸の奥に何かが引っかかったままで、二度寝をする気にはなれなかった。

カーテン越しの光はまだ柔らかく、外は静かだったが、昨夜のやり取りが頭の中で何度も再生されていた。


洗面所で顔を洗い、鏡に映る自分を見つめる。寝不足のせいか、目の下に薄く影がある。それでも、不思議と表情は沈んでいなかった。

むしろ、何かを確かめに行かなければならない、そんな気持ちが体の奥から湧いてきている。


「……今日は、ちゃんと話そう」


誰に向けた言葉なのか、自分でもはっきりしないまま呟く。悠真のこと、手紙のこと、そして最近感じている違和感の正体。

頭の中で整理しようとしても、すぐに一つにまとまるものではなかった。


学校へ向かう道は、いつもと同じ景色のはずなのに、どこか違って見えた。

通学路の角を曲がるたびに、知らない場所に足を踏み入れているような感覚がある。風が少し強く、制服の裾が揺れた。


校門の前で、真帆の姿を見つけた。いつもより早く来ているらしく、スマホを見ながら落ち着かない様子で立っている。


「おはよう、真帆」


声をかけると、真帆ははっと顔を上げた。


「柚希! よかった、会えて」


「どうしたの? 朝から珍しいね」


真帆は周囲をちらりと確認してから、少し声を落とした。


「昨日の続きなんだけど……やっぱり、変だよ。神谷も、朝比奈も、同じこと言ってた」


「同じこと?」


「うん。夢なのか現実なのか分からないけど、誰かに呼ばれてる感じがするって」


柚希は足を止めた。その言葉は、昨夜から自分の中で何度も形を変えていた感覚と、ぴったり重なっていた。


「……それ、私も」


「え?」


「私も、同じこと思ってた」


真帆は驚いたように目を見開き、それから少しだけ安心したように息を吐いた。


「やっぱり、偶然じゃないよね。ねえ、これって……悠真のことと関係あると思う?」


その名前が出た瞬間、柚希の胸が強く脈打った。避けて通れない問いだと分かっていながら、どこかで聞くのを怖れていた。


「分からない。でも……無関係じゃない気はしてる」


言葉にしたことで、不安と同時に、決意のようなものが胸に落ち着いた。


そのとき、少し離れたところから声がした。


「おはよう。二人とも、早いね」


振り返ると、朝比奈が手を軽く振りながら近づいてくる。いつもの柔らかい口調だったが、表情はどこか真剣だった。


「朝比奈も?」


真帆が聞くと、彼は小さく頷いた。


「うん。昨日から、ずっと頭が冴えちゃってさ。考え始めると止まらなくて」


「……やっぱり、みんな同じだね」


柚希がそう言うと、朝比奈は少しだけ苦笑した。


「偶然にしては出来すぎてる、ってやつかな。でも、怖い感じはしない。不思議と、前に進めって言われてる気がするんだ」


その言葉を聞きながら、柚希は胸の奥で何かが静かに動いたのを感じていた。

それは不安でも恐怖でもなく、もっと穏やかで、確かな感触だった。

ここから先、何かが変わる。その始まりが、もうすぐそこまで来ている気がしていた。


放課後、校舎の裏手にある小さな並木道に、四人は並んで立っていた。夕方に近い時間帯で、空はまだ明るいが、日差しは柔らかく傾き始めている。

木々の間を抜けてくる風が、葉を揺らし、微かな音を立てていた。


「ここ、前にも来たことある気がするんだよね」


真帆が足元の落ち葉を見ながら言う。


「私も……はっきり覚えてるわけじゃないけど」


柚希はそう答えながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。

懐かしいとも違う、でも初めてではない感覚。目に映る景色よりも、風の流れの方が、強く意識に残る。


神谷は黙ったまま、並木の先を見つめている。朝比奈は腕を組み、何かを待つような表情だった。


そのとき、ふっと風向きが変わった。

冷たくもなく、強すぎもしない。ただ、はっきりと存在を主張するような風だった。

柚希の髪が揺れ、耳元で葉擦れの音が重なる。


「……今の、感じた?」


思わずそう言うと、神谷がゆっくり頷いた。


「ああ。さっきまでと違う」


真帆も周囲を見回す。


「風、急に集まったみたいじゃない?」


朝比奈は一歩前に出て、低く息を吐いた。


「これだな」


「何が?」


柚希が聞き返すと、朝比奈は視線を並木道の奥に向けたまま言った。


「伝えようとしてる。言葉じゃなくて、感覚で」


その瞬間、柚希の胸に、はっきりとした声が浮かんだ。耳で聞いたわけではないのに、確かに“言葉”だった。


――一人で抱えるな。


足元の落ち葉が転がり、風がさらに強まる。


――迷ってもいい。立ち止まってもいい。


柚希は思わず胸元を押さえた。


「……悠真」


名前が、自然と零れ落ちた。


真帆が驚いたように振り向く。


「今、柚希も聞こえた?」


「うん……はっきりじゃないけど、分かった」


神谷が静かに言葉を継ぐ。


「先に進め、じゃない。置いていくな、でもない」


朝比奈が小さく笑った。


「一緒に進め、だな」


風は並木道を抜け、四人の間を行き交うように流れていく。

その流れは、急かすことも、引き留めることもなかった。

ただ、同じ場所に留まり続けることだけは、望んでいないように感じられた。


「守るとか、救うとか、そういう大げさな話じゃない」


柚希はゆっくり言葉を選んだ。


「ちゃんと覚えて、ちゃんと向き合えって……そう言われてる気がする」


神谷は短く息を吸い、頷く。


「忘れるな、じゃなくて。置き去りにするな、ってことか」


真帆は少し目を潤ませながら笑った。


「ずるいよね。こんな伝え方」


「でも、悠真らしい」


柚希はそう言って、空を見上げた。風はもう強くない。それでも確かに、そこに残っている。


言葉にならない思いを、言葉以上に真っ直ぐ届けるために、彼は風を選んだのだと、柚希はそう思えた。

四人は並木道を抜けながら、それぞれが同じ感覚を胸に抱いていた。

これから先、何が待っていようとも、この声だけは、もう迷いの中で消えることはないと。


並木道を抜けると、校舎の影が長く伸びていた。夕方の空気は少し冷え始めていて、さっきまで四人を包んでいた風は、嘘のように静まっている。

けれど、何もなかったかのように戻れないことだけは、全員が分かっていた。


「……さっきの、気のせいってことにできないよね」


真帆がぽつりと言う。冗談めかした口調にしようとしているのに、声の端が震えていた。


「無理だな」


神谷は即答だった。「同じものを、同時に感じた。偶然じゃ説明つかない」


柚希は足を止め、校舎を振り返った。窓ガラスに映る夕焼けは穏やかで、普段と何一つ変わらない放課後の風景なのに、その中に確かに“抜け落ちた何か”があるように思えてならない。


「悠真は……私たちに、何をしてほしかったんだろう」


問いかけるように言うと、朝比奈が少し考えてから答えた。


「答えを急ぐな、ってことじゃないか」


「どういう意味?」


「分かった気になるなってこと。たぶん、まだ全部は揃ってない」


神谷がその言葉を受け取るように続ける。「写真も、手紙も、今日の風も。全部、途中だ」


柚希の胸の奥で、何かが静かに噛み合った気がした。

悠真は道を示したわけでも、結論を残したわけでもない。ただ、進む方向を間違えないための“感触”だけを渡してきたのだ。


「ねえ」


真帆が柚希を見る。「もしさ、これからもっと変なことが起きたら……怖くなったら、どうする?」


柚希は一瞬迷い、それからはっきりと言った。


「逃げない」


その言葉に、自分でも驚くほど迷いがなかった。


「全部分からなくてもいい。でも、なかったことにはしない」


朝比奈は小さく息を吐き、柔らかい声で言う。「それでいいと思う」


神谷も頷いた。「俺も、最後まで付き合う」


真帆は少し間を置いてから笑った。「じゃあ、私だけ置いていかれるわけにはいかないね」


四人は自然と歩き出した。誰かが合図をしたわけでもなく、ただ同じ速度で、同じ方向へ。

風はもう吹いていない。それでも、背中を押されているような感覚だけが、確かに残っていた。


柚希は胸の奥で、もう一度悠真の気配をなぞる。声は聞こえない。でも、伝えたかったことは、はっきりと届いていた。


一人になるな。忘れるな。そして、前を向け。


その言葉は、今も四人の間に、静かに生きていた。


翌朝、柚希は目覚ましより少し早く目を覚ました。カーテン越しの光はまだ淡く、部屋の輪郭が完全にははっきりしない。

その曖昧さが、昨夜の感覚とよく似ていた。はっきり見えないのに、確かにそこにあったもの。風の中に残った言葉の感触が、まだ胸の奥に引っかかっている。


朝食の支度をしながらも、頭の片隅では昨日のやり取りが繰り返されていた。

神谷の断言、真帆の不安そうな声、朝比奈の落ち着いた視線。

そして、自分が口にした「逃げない」という言葉。勢いではなかったと思う。それでも、その先をどう進めばいいのかまでは、まだ見えていない。


学校へ向かう道で、柚希はスマホを一度だけ確認した。

新しい通知はない。それなのに、何かを見落としている気がして、画面を閉じる指が少し遅れた。


校門の近くで真帆が手を振っているのが見えた。


「おはよ。なんか今日、静かじゃない?」


「そうかな。普通だよ」


そう答えながらも、柚希は自分の声が少し硬いことに気づいていた。


教室に入ると、神谷はすでに席に着いていた。視線が合うと、小さく顎を引いて挨拶代わりにする。

その仕草が、昨日よりも自然に感じられたのは、気のせいではないだろう。


「朝比奈、まだ来てないね」


真帆が言う。


「すぐ来るだろ」


神谷はそう言ってから、少し間を置いた。「……昨日のこと、考えた?」


「考えない方が無理でしょ」


柚希が答えると、神谷は苦笑した。


「だよな。でも、焦って答え出す必要はないと思う」


その言葉に、柚希は頷いた。悠真が残した感触は、答えそのものじゃない。進み方を間違えないための合図みたいなものだ。


そこへ朝比奈が教室に入ってきた。普段と変わらない様子なのに、四人の間には自然と視線が集まる。


「おはよう。みんな、早いな」


「朝比奈こそ」


真帆が言ってから、少し声を落とす。「昨日のこと……覚えてる?」


朝比奈は一瞬だけ視線を伏せ、それから静かに答えた。


「忘れる方が難しい」


その言葉で、全員の中にあった迷いが、少しだけ形を持った。

何かが始まっている。その感覚は、もう曖昧なものではなかった。けれど、それが何なのかを断定するには、まだ情報が足りない。


チャイムが鳴り、教室が一斉に静まる。

日常は何事もなかったように進み始めるが、柚希の中では、昨日から続く流れが確実に次の段階へ向かっていると感じられた。


悠真の言葉は、もう過去のものではない。今この瞬間にも、どこかで四人を同じ方向へ押し出している。柚希はノートを開きながら、小さく息を整えた。

この先に何が待っているのかは分からない。それでも、立ち止まる理由は、もうなかった。


午前の授業が進むにつれて、柚希の集中力は少しずつ削られていった。

板書を書き写す手は止まらないのに、耳に入ってくるはずの説明が、途中から霧がかかったように遠のいていく。

黒板の前に立つ教師の声の合間に、ふと別の音が混じる気がした。昨日の風の音に似た、言葉にならない何かだ。


休み時間になると、真帆が椅子ごと近づいてきた。


「ねえ、放課後、ちょっと話せる?」


「うん、いいよ」


柚希が答えると、神谷もそれに気づいたように振り返った。


「俺も行く」


「もちろん」


短いやり取りなのに、三人の間には共通の前提ができていた。

偶然じゃない何かが、また起きるかもしれないという予感。それを確かめずにはいられない気持ちだった。


昼休み、朝比奈も合流し、四人は中庭の端にあるベンチに腰を下ろした。

人の出入りが少なく、声を落とせば会話が外に漏れにくい場所だ。


「今朝さ」


神谷が切り出す。「登校中、変な感じしなかった?」


「変、って?」


真帆が首を傾げる。


「説明しづらいけど……同じ道なのに、ちょっと違うみたいな」


柚希ははっとした。「分かる。私も思った。景色は同じなのに、距離感が違うっていうか」


朝比奈は静かに頷いた。「俺も。時間がずれてる感じがした」


四人とも、同じ感覚を抱いていたことに気づき、しばらく沈黙が落ちた。

誰も笑わない。それが冗談では済まない領域に入っていると、全員が理解していた。


「ねえ」


真帆が少し声を落とす。「悠真って……本当に、今もどこかにいると思う?」


柚希はすぐには答えられなかった。いる、と言い切るには根拠がない。

でも、いないと決めてしまうには、あまりにも多くの感触が残っている。


「……分からない」


正直にそう言った。「でも、完全に消えたって感じはしない」


朝比奈が静かに言葉を継ぐ。「存在って、見えるかどうかだけじゃないと思う」


「それって、希望?」


神谷が聞く。


「違うな」


朝比奈は少し考えてから答えた。「感覚だ」


その言葉に、柚希の胸がわずかに熱くなった。

昨日の風、今朝の違和感、そして今ここで交わされている会話。すべてが一本の線で繋がり始めている。


チャイムが鳴り、昼休みが終わる。立ち上がりながら、真帆が小さく言った。


「放課後、昨日の公園、もう一回行ってみない?」


柚希は一瞬迷い、それから頷いた。


「行こう」


神谷も朝比奈も、何も言わずに同意するように視線を交わす。その沈黙が、逆に心強かった。


教室へ戻る途中、柚希はふと窓の外を見た。風は吹いていない。

それでも、確かに何かがこちらを見ている気がした。呼ばれている、というより、見守られている感覚に近い。


悠真がどこにいるのか、何者になってしまったのか、それはまだ分からない。

ただ一つ確かなのは、彼が残したものが、今も四人を同じ場所へ引き寄せているということだった。


柚希は胸の奥でそっと確かめるように呟いた。もう、目を逸らさない。たとえ答えがすぐに出なくても、この流れの先に進む覚悟だけは、できていた。


放課後、公園へ向かう道は思っていたよりも静かだった。

部活に向かう生徒の声や、自転車のベルの音は聞こえるのに、四人の周囲だけが少し切り取られたみたいに落ち着いている。

昨日と同じ道、同じ景色のはずなのに、足取りは明らかに違っていた。


「なんかさ」


真帆が歩きながら言った。「昨日より、ちゃんと来てる感じしない?」


「分かる」


柚希は頷いた。「昨日は引っ張られてる感じだったけど、今日は……自分で歩いてる」


神谷が前を見たまま言う。「覚悟が決まったってやつじゃないか」


「大げさ」


真帆はそう返しながらも、否定はしなかった。


公園に着くと、夕方の光が遊具の影を長く伸ばしていた。

ベンチも、砂場も、何も変わっていない。それなのに、柚希の胸は少しだけ締めつけられる。

ここに来れば、何かが起こる気がしていたからだ。


「……昨日、ここで風が吹いたよね」


柚希が言うと、朝比奈が静かに頷いた。


「ああ。偶然じゃなかったと思う」


「じゃあ、今日は?」


真帆が問いかける。


神谷は周囲を見渡してから、低く言った。「何も起きないかもしれない。でも、それでもいい」


「どうして?」


「起きるかどうかより、俺たちが来たこと自体に意味がある気がする」


その言葉に、柚希は少し驚いた。神谷がこんな言い方をするのは珍しい。それだけ、彼自身もこの流れを受け止め始めているのだと分かる。


四人はベンチに腰を下ろした。しばらくは誰も口を開かず、夕方の空を見上げていた。風は弱く、木の葉がかすかに揺れる音だけが聞こえる。


「悠真はさ」


真帆が静かに切り出す。「答えを教えたいんじゃなくて、気づいてほしいだけなんじゃないかな」


柚希はその言葉を噛みしめるように考えた。

確かに、ここまで起きたことは全部、ヒントみたいなものだった。写真、手紙、風、違和感。どれも決定的な答えにはならない。

でも、無視できない。


「気づくって、何に?」


柚希が聞くと、朝比奈は少しだけ間を置いて答えた。


「自分たちが、もう前と同じ場所にはいないってこと」


その一言で、胸の奥にすとんと何かが落ちた。戻れない、という意味じゃない。進んでしまった、という感覚。知らないうちに。


夕焼けが濃くなり、公園に灯りが入り始める。帰宅を促す放送が遠くで流れた。


「そろそろ、帰ろうか」


真帆が言う。


「うん」


柚希は立ち上がり、ベンチを見下ろした。

昨日、確かにここに残っていた気配は、もう見えない。それでも、不思議と不安はなかった。


歩き出す前に、柚希は小さく言った。


「来てよかった」


神谷が軽く笑う。「それだけで十分だろ」


朝比奈も頷いた。「今日は、ここまででいい」


四人は並んで公園を後にした。何かが解決したわけでも、はっきりした答えが出たわけでもない。

それでも、胸の奥には確かな感触が残っている。導かれるように進んできた流れが、ひとまず一息ついたような、そんな感覚だった。


柚希は歩きながら、空を見上げた。風はもう強くない。

それでも、どこか遠くで、確かに誰かの意思が続いている気がした。

この先も、迷うことはあるだろう。でも、今は分かる。自分たちはもう、目を閉じたまま進むことはしない。


その確信を胸に、四人はそれぞれの帰り道へと別れていった。


家に戻ってからも、公園の空気はなかなか抜けなかった。

靴を脱ぎ、部屋着に着替えても、柚希の中にはまだ夕方の感触が残っている。窓を少しだけ開けると、夜の風が静かに入り込んできた。

強くもなく、主張するでもない。ただ、そこにあると分かる程度の、控えめな風だった。


スマホが短く震える。真帆からのメッセージだった。


〈さっきのさ、聞こえたよね〉


柚希は少し迷ってから返信する。


〈うん。気のせいって言えない〉


間を置かずに、神谷からも通知が入った。


〈俺もだ。言葉まではっきりじゃないけど、確かに〉


柚希は画面を見つめながら、胸の奥を探る。音として聞こえたわけじゃない。

耳で捉えたというより、意識の隙間に滑り込んできた感覚に近い。それでも、そこに「誰のものか」ははっきりと分かっていた。


そのとき、また風が吹いた。カーテンがわずかに揺れ、夜の匂いが部屋に広がる。


「……悠真?」


声に出したつもりはなかった。でも、唇は確かにその名前を形にしていた。


次の瞬間、胸の奥で、確かな響きが返ってくる。


――ちゃんと、聞いてるな。


柚希は息を止めた。今のは想像じゃない。そう思わせるだけの重さがあった。


スマホが再び震える。今度は朝比奈だった。


〈今、窓開けてみろ〉


柚希はその通りにして、少しだけ身を乗り出す。

街は静かで、特別な音はしない。それなのに、不思議と一人じゃない感覚があった。


〈聞こえた〉


短い朝比奈の言葉に、柚希はゆっくりと頷いた。


〈うん〉


それだけで、十分だった。説明はいらない。四人とも、同じものを受け取っていると分かる。


風は次第に弱まり、部屋はまた静けさに包まれる。それでも、完全な無音にはならなかった。

耳の奥に残る、かすかな余韻。それは言葉にならないまま、確かにそこにあった。


忘れるな。立ち止まるな。一人になるな。


誰かに言われたわけじゃない。でも、四人の中には同じ意味が、同じ温度で残っている。


柚希は深く息を吸い、部屋の明かりを少し落とした。静けさの中で、確かに何かが、また動き出していた。

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