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第5章 『宛名だけの手紙』

拾われた写真の欠片は、柚希の中に消えかけていた記憶と感情を静かに揺り起こした。悠真との距離は確かに縮まったはずなのに、その先に待っているものの輪郭は、まだ霧の中にある。誰かが意図的に残したかのような手がかりは、偶然と呼ぶにはあまりにも整いすぎていた。


そんな折、柚希のもとに一通の封筒が届く。差出人の名前はなく、書かれているのは宛名――柚希の名前だけ。それは問いかけのようでもあり、警告のようでもあった。開くべきか、開かざるべきか。その選択一つが、これまで積み上げてきた日常を静かに揺さぶり始める。


手紙をきっかけに、柚希はこれまで見過ごしてきた周囲の視線や、言葉にならなかった沈黙に気づき始める。悠真、真帆、神谷、朝比奈――それぞれの立ち位置が、少しずつ違って見えてくる中で、「知らなかったはずの誰か」の存在が、確かな重みを持ち始めていた。


宛名だけの手紙は、過去と現在を繋ぐ鍵なのか、それとも新たな問いの始まりなのか。答えはまだ示されない。ただ一つ確かなのは、柚希がもう、何も知らずに戻ることはできないということだった。


静かに、しかし確実に、選択の時が近づいている。

 朝、玄関の扉を開けた瞬間、柚希は足元に違和感を覚えた。新聞受けの下、いつもなら何もないはずの場所に、薄い封筒が一通、きれいに置かれていたからだ。白くも茶色くもない、ごく普通の封筒。それなのに、なぜか目が離れなかった。


「……?」


 屈んで拾い上げると、表に書かれているのは自分の名前だけだった。住所も、差出人も、郵便番号すらない。ただ、少しだけ癖のある文字で「柚希」と書かれている。


「なに、これ……」


 声に出した途端、胸の奥がひやりとした。知らないはずなのに、まったくの他人が書いたとは思えなかったからだ。誰かが、柚希の名前を書くとしたら――そんな考えが、勝手に頭の中を巡る。


 一度、家の中に戻り、靴を脱いでからも、封筒は手から離れなかった。中身を確認すべきなのは分かっている。でも、開けた瞬間に何かが変わってしまう気がして、指が動かない。


「朝からどうしたの?」


キッチンから母の声が飛んできた。


「……ポストに、手紙が」


「友達?」


「分かんない」


そう答えると、母はそれ以上気にする様子もなく、「遅れないようにね」とだけ言った。その何気な一言が、かえって現実との温度差を際立たせる。


結局、柚希は封筒を開けないまま、鞄に入れて家を出た。


通学路を歩きながらも、意識はずっと鞄の中に向いている。昨日見つけた写真の切れ端、倉庫での会話、朝比奈の曖昧な言葉。それらが、一本の線で繋がろうとしている気がしてならなかった。


教室に入ると、真帆がすぐに気づいた。


「おはよ。……どうしたの、その顔」


「そんな顔してる?」


「してる。考えごと中って顔」


柚希は少し迷ってから、鞄から封筒を取り出した。


「これ、今朝」


真帆は封筒を見て、眉をひそめる。


「宛名だけ?気持ち悪くない?」


「……うん」


「中、見た?」


「まだ」


「なんで?」


即答できなかった。理由ははっきりしているのに、言葉にすると重くなりそうで。


「見たら、戻れなくなりそうで」


真帆は一瞬黙り込み、それから小さく息を吐いた。


「昨日の写真と関係ありそう?」


「たぶん……」


そこへ、後ろの席から椅子を引く音がした。悠真だった。


「何の話?」


自然な問いかけだったが、柚希は一瞬だけ言葉に詰まる。


「これ」


封筒を見せると、悠真の視線が止まった。


「……柚希の名前?」


「うん」


「差出人は?」


「ない」


悠真はしばらく黙って封筒を見つめていたが、やがて低く言った。


「昨日の続き、って感じだな」


その一言で、柚希の背中に緊張が走る。


「やっぱり、そう思う?」


「思うよ。偶然にしては、重なりすぎてる」


そこへ、神谷が会話に入ってきた。


「朝から面白そうだな」


「面白くはないよ」


真帆が即座に返すと、神谷は肩をすくめた。


「でも、無視できる話でもなさそう」


その視線が、柚希の手元に向けられる。


「開けないの?」


「……まだ」


「なら、誰かに見せた方がいい」


「誰に?」


神谷は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。


「朝比奈」


その名前が出た瞬間、教室の空気がわずかに変わった気がした。柚希は封筒を握りしめる。


「……今日、会えるかな」


「昼なら」


悠真がそう言って、時計を見る。


「昨日も、昼にいた」


柚希は小さく頷いた。封筒の重みが、朝よりもはっきりと感じられる。


開いていないのに、もう始まっている。そんな予感が、確信に変わりつつあった。

この手紙は、ただの紙切れじゃない。そう思ってしまった時点で、もう巻き込まれているのだと、柚希は理解していた。


屋上に流れる空気は、どこか薄かった。音は確かに聞こえているのに、距離感だけがおかしい。柚希はフェンスに背を預けながら、手の中の封筒を何度も見つめていた。そこには、やはり名前しかない。差出人も、日付も、何もない。ただ「柚希」とだけ、迷いなく書かれている。


「それ、本当に誰が出したんだろうな」


神谷がそう言いながら、遠くの校舎を眺めた。


「分かってたら、こんなに気味悪くないよ」


真帆は腕を組み、風に揺れる前髪を押さえる。

朝比奈だけが、ずっと柚希の様子を見ていた。


「……柚希」


「なに?」


「さっきから、悠真の話題、出てないな」


その一言で、空気がわずかに張り詰めた。


「あ……」


柚希は、言われて初めて気づいたように目を伏せた。


「だって、いないし」


「でも、いつもなら名前出るだろ」


朝比奈の口調は軽い。それなのに、どこか探るような響きがあった。


「……連絡、来てないの?」


真帆が聞く。


柚希はスマホを取り出し、画面を見る。通知はない。メッセージの履歴を開こうとして、指が止まった。


「……あれ?」


「どうした?」


「悠真とのトーク、上にない」


「消したんじゃなくて?」


神谷が言うと、柚希は首を振った。


「消してない。そんなこと、する理由ないし」


慌てて検索をかけても、名前は出てこなかった。まるで、最初から存在していなかったみたいに。


「ちょっと待ってよ」


真帆が焦った声を出す。


「昨日まで普通に話してたじゃん。私も見てたよ」


「うん……」


それなのに、スマホの中には痕跡がない。


朝比奈は一拍置いて、ぽつりと言った。


「……それ、夢じゃないよな?」


その言葉に、柚希の胸がざわついた。


「夢だったら、もっとはっきり変だよ」


「じゃあ、現実?」


誰も答えられなかった。


柚希は、意を決したように封筒を開いた。中の便箋は一枚だけ。文字は少なく、淡々としている。


「読むね」


誰も止めなかった。


「――『名前を呼ばれなくなったとき、その人はまだここにいますか』」


真帆が息を詰める。


「なにそれ……」


柚希は続けた。


「『あなたが選ばなかった可能性は、今も続いている』」


神谷が眉を寄せる。


「選ばなかった可能性?」


「『その境目は、気づかないほど近い』」


読み終えた瞬間、風が止んだ。屋上にあったはずのざわめきが、すっと消える。


「……ねえ」


真帆が小さく言った。


「悠真ってさ、本当に最初から一緒だった?」


柚希は顔を上げた。


「なに、それ」


「だって、思い出そうとすると、変なの。いた気はする。でも、最初に話したきっかけとか、はっきりしない」


神谷も、ゆっくり頷いた。


「俺もだ。存在は覚えてる。でも、記憶が繋がらない」


朝比奈は苦笑いを浮かべる。


「……まるで、途中から混ざったみたいだな」


柚希は胸の奥が冷たくなるのを感じた。


「そんなわけ、ない」


そう言い切りたかったのに、声が弱い。


そのとき、屋上の扉が開いた。


反射的に、全員が振り向く。


「悠真……?」


柚希は名前を呼んだ。


けれど、そこに立っていたのは、見知らぬ生徒だった。目が合うと、相手は一瞬戸惑ったような顔をし、何も言わずに引き返していく。


「今の、誰?」


真帆の声が震える。


「知らない」


神谷が即答した。


朝比奈は視線を落とし、低く言う。


「……呼ばれなかったな」


「え?」


「名前。今の生徒、俺たちの名前、誰も呼ばなかった」


その指摘に、柚希ははっとした。


確かに、すれ違っただけなのに、まるでこちらが「見えなかった」みたいだった。


柚希は、もう一度便箋を見た。文字は変わらない。でも、その意味だけが、はっきりと胸に落ちてくる。


――ここは、同じ世界なのか。


それとも、手紙を読んだ瞬間から、別の分岐に足を踏み入れてしまったのか。


「ねえ」


柚希は、ゆっくりと口を開いた。


「もし、悠真が……違う方に行ってたら、どうする?」


誰もすぐに答えなかった。


朝比奈が、静かに言う。


「探すしかないだろ」


「夢でも?」


「現実でも」


その言葉が、やけに重く響いた。


柚希は空を見上げた。いつものはずの空が、少しだけ遠い。


確かなのは一つだけだった。


この宛名だけの手紙を読んだことで、自分たちはもう、同じ場所には立っていない。


悠真という存在が曖昧になった分だけ、世界の輪郭もまた、静かにずれ始めていた。


そしてそのずれは、これから先、取り返しのつかない形で広がっていく――


柚希は、まだ言葉にできない不安を抱えたまま、その予感だけを確かに感じていた。


翌朝、柚希は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。眠った感覚はあるのに、夢を見た記憶がない。ただ、胸の奥に引っかかるものだけが残っていた。昨日の屋上、宛名だけの手紙、そして悠真の名前が現実から薄れていくような違和感。そのどれもが、目覚めた瞬間に「夢だった」と片付けられるほど軽くなかった。


制服に着替えながら、スマホを手に取る。何度確認しても、やはり悠真の名前は見つからない。


「……ほんとに、いないの?」


独り言が部屋に落ちる。返事は当然ない。


登校途中、いつもなら何気なく思い出していた会話や表情が、途中で途切れる。思い出そうとすると、霧がかかったみたいにぼやけてしまう。それが一番、怖かった。


教室に入ると、真帆がすぐに気づいて声をかけてきた。


「柚希、おはよ。……顔、あんま寝てない?」


「うん、ちょっと」


席に座ると、神谷が後ろから身を乗り出す。


「昨日の続きだけどさ、やっぱ変だよな」


「なにが?」


「悠真。俺、朝からずっと考えてたんだけど」


神谷は頭をかきながら言った。


「存在は覚えてる。でも、具体的なことが出てこない。声とか、笑い方とか」


真帆も小さく頷く。


「私も。同じクラスだった気はするのに、席の位置、思い出せない」


柚希は机の上に視線を落とした。


「……私だけじゃないんだ」


「むしろ、柚希が一番ちゃんと覚えてた側だろ」


神谷の言葉に、胸が少しだけ痛んだ。


そのとき、朝比奈が教室に入ってきた。いつも通りの顔、いつも通りの歩き方。それなのに、柚希はなぜかほっとする。


朝比奈は柚希の机の横に立ち、低い声で言った。


「今朝、何か変なことあった?」


「……変なことだらけ」


柚希がそう答えると、朝比奈は苦笑した。


「だよな。俺もだ」


「朝比奈も?」


「夢か現実か分かんない感じ。目が覚めても、切り替わらない」


真帆が身を乗り出す。


「ねえ、昨日の手紙、持ってる?」


柚希は頷いて、鞄から封筒を取り出した。


「これ」


「……本当に、名前しか書いてないんだね」


神谷が覗き込みながら言う。


「差出人不明ってレベルじゃないな」


朝比奈は封筒には触れず、少し距離を取ったまま言った。


「それ、今も内容変わってない?」


「変わってないと思う」


そう言いながら便箋を開いた瞬間、柚希は一瞬だけ言葉に詰まった。


「……あれ?」


「どうした?」


「昨日より、文章が増えてる」


三人の視線が一斉に集まる。


「増えるって、どういうこと?」


真帆が不安そうに聞く。


「ほら、ここ」


柚希は指で下の方を示した。


「『選ばなかった世界は、選ばれなかったわけじゃない』って、昨日なかった」


神谷が顔をしかめる。


「後出しで増える手紙とか、怖すぎるんだけど」


朝比奈は静かに言った。


「……読んだことで、進んでるってことかもな」


「なにが?」


「境目」


その一言に、教室のざわめきが遠のいた気がした。


柚希は便箋を握りしめる。


「じゃあ、これからも……」


「増える可能性はあるな」


朝比奈は、あくまで自然な口調で続けた。


「たぶん、俺たちが気づくたびに」


チャイムが鳴り、担任が入ってくる。話はそこで途切れたけれど、誰もノートを開く気になれなかった。


柚希の胸には、はっきりした予感があった。

この手紙は、ただのメッセージじゃない。

悠真の存在が薄れていくのと引き換えに、何か別の「道」が、静かに開かれ始めている。


そして、その道の先に何があるのか――まだ誰も知らないまま、時間だけが進んでいった。


昼休みになっても、教室の空気はどこか落ち着かなかった。ざわめきの中にいるはずなのに、柚希には周囲の音が一段遠く感じられていた。机の中にしまったあの封筒が、存在を主張するみたいに重く感じる。


「柚希、食堂行く?」


真帆がトレーを持ちながら声をかけてきた。


「あ……うん」


返事をしつつ立ち上がったものの、足が一瞬遅れる。その様子を神谷が見逃さなかった。


「無理に来なくてもいいぞ?」


「大丈夫。じっとしてる方が、考えすぎちゃうし」


四人で廊下を歩く。何気ない光景のはずなのに、柚希の視界はどこか歪んでいた。窓の外の空がやけに近く感じたり、すれ違う生徒の顔が一瞬知らない誰かに見えたりする。


「なあ」


神谷が前を向いたまま言った。


「もしさ、俺たちが今いる場所が、昨日までと微妙に違うとしたらどうする?」


真帆が苦笑する。


「いきなり何その話。SF?」


「いや、そうじゃなくて……」


神谷は言葉を探すみたいに少し間を置いた。


「説明できないけど、ズレてる感じしない?」


柚希は小さく頷いた。


「する。時間がちゃんと流れてないみたい」


朝比奈が横から口を挟む。


「それ、俺も思った。黒板の文字とか、先生の声とか、ちゃんと見えてるのに、頭の奥で『違う』って言われてる感じ」


「だよな?」


神谷が振り返る。


「で、その原因があの手紙だとしたら?」


食堂の入口で足が止まる。昼の喧騒が一気に押し寄せた。


柚希は小さく息を吸ってから言った。


「読むたびに、現実が少しずつ変わってる気がする」


真帆が不安そうに眉を寄せる。


「でも、読まなかったらどうなるの?」


「それも分かんない」


朝比奈はトレーを取らず、壁際に寄った。


「選択を迫られてるんだと思う。読むか、読まないか。でもどっちにしても、元には戻れない」


その言い方が、妙に現実味を帯びていた。


席に着いても、誰もすぐには箸をつけなかった。柚希は鞄から封筒を取り出し、机の上にそっと置く。


「ねえ……」


声が少し震える。


「悠真のこと、思い出そうとするとさ」


「うん」


「顔は浮かぶ。でも、名前を呼ぼうとすると、途中で引っかかるの」


真帆が唇を噛む。


「私、今朝『悠真』って声に出したら、なんか間違ってる気がして」


神谷は低く息を吐いた。


「存在だけ残して、細部が消えてく感じか」


朝比奈はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「たぶん、ここはもう完全な現実じゃない」


柚希ははっとして彼を見る。


「断言するんだ」


「感覚だけどな。でも……」


朝比奈は封筒を見つめる。


「これを読んだ時点で、境目は越えてる」


その言葉に、柚希の胸がきゅっと締めつけられた。


「じゃあ、戻る方法は?」


「分からない」


「悠真は?」


朝比奈は少しだけ視線を逸らした。


「……いるかもしれないし、いないかもしれない」


真帆が思わず声を荒げる。


「そんなの、曖昧すぎるよ!」


「だから厄介なんだ」


朝比奈は穏やかに言った。


「はっきりしないから、切り捨てられない」


沈黙が落ちる。食堂の喧騒が、遠くの世界の音みたいに聞こえた。


柚希は封筒を開き、もう一度便箋を見た。確かに、朝より文字が増えている。


「……また、増えてる」


「え?」


神谷が身を乗り出す。


「『気づいた者から、次の場所へ』って」


真帆が小さく呟く。


「次の場所……」


柚希は紙を握りしめた。


この手紙は、ただ知らせているだけじゃない。進む方向を示している。そして、その先に悠真がいるのかどうか、それすら確証はない。


それでも――。


「私、読み続ける」


柚希ははっきり言った。


三人が同時に彼女を見る。


「怖いけど、知らないままはもっと怖い」


神谷は苦笑し、真帆は不安そうに頷いた。


朝比奈は短く息を吐いてから言った。


「じゃあ、最後まで付き合う」


その言葉が、なぜかとても重く、そして頼もしく聞こえた。


昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。

柚希は封筒を鞄に戻しながら思った。

もう後戻りはできない。現実と夢の境界は、確実に揺らぎ始めている。


放課後の校舎は、昼間とは別の顔をしていた。窓から差し込む光は弱まり、廊下に落ちる影がやけに長い。そのせいか、柚希は一歩歩くごとに、現実から少しずつ遠ざかっていく感覚を覚えていた。昇降口へ向かう生徒の流れに逆らうように、柚希たちは階段を上る。


「ほんとに行くんだな」


神谷が背中越しに言った。


「図書室だよね。手紙に書いてあった“静かな場所”って」


柚希が答えると、真帆が少し緊張した声で続ける。


「でもさ、放課後の図書室って、なんか…出そうじゃない?」


「お化けならまだいいよ」


朝比奈が軽く笑う。


「正体が分からないものの方が厄介だ」


その言い方に、柚希は思わず足を止めた。


「朝比奈、それって…」


「悪い」


彼はすぐに言葉を和らげた。


「脅すつもりはなかった。ただ、覚悟は必要だと思って」


図書室の扉は、少し軋む音を立てて開いた。中には、司書の姿はなく、机に伏せて寝ている生徒が数人いるだけだった。静寂の中に、紙の匂いと埃っぽさが混じる。


四人は奥の閲覧席に腰を下ろす。柚希は鞄から封筒を取り出したが、すぐには開かなかった。さっきまで当たり前だった校舎の感触が、ここでは妙に薄い。


「ねえ…」


真帆が小さく言う。


「もし、これ以上進んだら、戻れなくなるって分かったらどうする?」


柚希は少し考えてから答えた。


「それでも行くと思う。悠真のこと、ここで止めたら、ほんとに消えちゃいそうで」


神谷が机に肘をつく。


「存在が曖昧になるって、こういうことかもな。覚えてるのに、確信が持てない」


朝比奈は黙って周囲を見渡していたが、ふと低い声で言った。


「ここ、音が変だと思わないか?」


「音?」


「時計の針とか、ページをめくる音とか。一定じゃない」


柚希は耳を澄ませた。確かに、規則正しいはずの秒針の音が、ところどころ抜け落ちて聞こえる。


「時間が、飛んでる…?」


「完全じゃない世界の兆候かもな」


朝比奈の言葉に、神谷が眉をひそめる。


「やっぱり、ここは現実と別の層に近づいてる」


柚希は意を決して封筒を開いた。中の便箋には、さっきまでなかった文章がはっきりと浮かび上がっている。


「『思い出せ。名前より先に、約束を』」


真帆が息を呑む。


「約束…?」


その瞬間、柚希の胸の奥に、微かな痛みが走った。夕焼けの帰り道、誰かと並んで歩いた感触。笑いながら、何かを誓った記憶。でも肝心な部分だけが、霧に包まれている。


「……あった」


柚希は思わず呟いた。


「悠真と、約束した」


三人の視線が集まる。


「何を?」


「分からない。でも、すごく大事だった」


朝比奈は静かに頷いた。


「それが鍵だな。存在を繋ぎ止めてるのは、記憶よりも感情だ」


神谷が小さく笑う。


「ますます後戻りできなくなったな」


柚希は便箋を胸に抱いた。

ここまで来て、もう疑う余地はない。この手紙は、悠真へ辿り着くための道標だ。そしてその道は、確実に現実の輪郭を削りながら続いている。


便箋に書かれていた文字は、拍子抜けするほど短かった。言葉の数だけ見れば、誰かの走り書きにも見える。でも、その一文を目にした瞬間、柚希は胸の奥を軽く叩かれたような感覚を覚えた。


『思い出せ。名前より先に、約束を』


「……これだけ?」


真帆が思わず声に出す。


「ずいぶん、ぶっきらぼうだね」


柚希は何も言わず、紙から目を離さなかった。意味を考えようとしているわけではない。ただ、頭より先に、体のどこかが反応してしまった感覚が残っている。


「名前より先、って」


神谷がぽつりと口にする。


「どういう状況なんだろうな」


朝比奈は少し首を傾げた。


「普通は、名前を知ってから約束するよな。順番が逆っていうのは……」


「でも」


柚希は、思ったままを口にした。


「小さい頃って、名前より先に一緒にいたりしない?」


三人が一斉に柚希を見る。


「ほら、遊び始めてから、あとで名前を知るとか。気づいたら毎日一緒で、いつの間にか約束みたいなものができてるとか」


真帆がゆっくり頷いた。


「……あるかも。子どもの頃なら」


その瞬間、柚希の脳裏に、はっきりしない情景が浮かんだ。並んで歩いている影。夕方の風。誰かの声。どれも形は曖昧なのに、そこにいた感情だけは確かだった。


「約束、か」


柚希は小さく呟いた。


「何を約束したんだろう」


「覚えてない?」


神谷が聞く。


「ううん」


正直に首を振る。


「内容は全然。でも……大事だったってことだけは、分かる」


朝比奈が少し真面目な顔になった。


「それって、約束の中身より、“約束した事実”の方が残ってるってことだな」


「うん。そんな感じ」


柚希は便箋を握り直した。紙は薄いのに、不思議と重みがある。


「ねえ」


真帆が声を落とす。


「悠真ってさ……」


その名前が出た瞬間、柚希の胸がきゅっと縮んだ。


「最近、ちょっと変じゃない?」


「変?」


「話題に出るたび、なんていうか……輪郭がぼやけるっていうか」


神谷も同意するように言う。


「確かに。存在してたって感覚はあるのに、今どこで何してるか、説明しようとすると詰まる」


柚希は唇を噛んだ。


「私だけじゃなかったんだ……」


朝比奈は便箋を見つめながら言った。


「この一文、悠真に関係してる可能性は高いな」


「どうして?」


真帆が聞く。


「“思い出せ”って、誰かに向けた言葉だろ。しかも、忘れかけてる相手に」


柚希は深く息を吸った。


「……私に、向けられてる気がする」


誰も否定しなかった。


教室の外から聞こえる音が、どこか遠く感じられる。時間だけが、ゆっくりずれていくような感覚。


「約束を思い出せば……」


柚希は言葉を選びながら続ける。


「悠真のことも、はっきりするのかな」


神谷が肩をすくめた。


「分からない。でも、少なくとも何かが動く」


朝比奈は穏やかな口調で言う。


「思い出さないままにするよりは、な」


柚希は便箋を折り、そっと胸ポケットにしまった。


「……行こう」


それは決意というほど大げさなものじゃなかった。ただ、立ち止まらないための一言だった。


この一文が何を指しているのか、まだ誰にも分からない。ただ、悠真という名前の向こう側に、忘れてはいけない何かがある。その感覚だけが、静かに、でも確かに残っていた。


放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。廊下を歩くと、足音がやけに大きく響く。柚希はその音を聞きながら、無意識のうちに胸ポケットに触れていた。中に入っている便箋の感触を確かめるように、指先で軽く押さえる。紙一枚のはずなのに、そこにあると分かるだけで、気持ちが少し落ち着くのが不思議だった。


「……ねえ」


隣を歩く真帆が、歩調を緩めながら声をかけてくる。


「さっきの手紙のこと、もう一回ちゃんと考えたいんだけど」


「うん」


柚希は短く答えた。考えたい、というより、考えずにはいられない、という方が近い。頭のどこかで、あの一文がずっと引っかかっている。


神谷は少し後ろを歩きながら、二人の様子を見ていた。


「図書室、開いてる時間だよな」


「まだ大丈夫なはず」


真帆が即答する。


「静かな場所の方が、落ち着くし」


三人は自然と進路を変え、階段を上った。夕方の光が窓から差し込み、手すりに長い影を落としている。その影を目で追いながら、柚希はぼんやりと考えていた。名前より先に、約束。言葉自体は単純なのに、意味を掴もうとすると、どこかで手が滑る。


図書室の扉を開けると、ひんやりとした空気と、紙の匂いが鼻をくすぐった。中には数人の生徒がいるだけで、話し声もほとんど聞こえない。三人は奥の席に腰を下ろした。


柚希はしばらく迷ってから、胸ポケットから便箋を取り出す。机の上に置いた瞬間、真帆が身を乗り出した。


「……やっぱり、短いね」


「短いからこそ、余計に気になる」


神谷がそう言って、視線を便箋に落とす。


「はっきり書いてない分、読む側に考えさせる」


柚希は紙に視線を落としたまま、ゆっくり口を開いた。


「これを見たとき、意味を考える前に……懐かしいって思ったんだ」


「懐かしい?」


真帆が首を傾げる。


「うん。でも、何が懐かしいのかは分からない」


自分で言っていて、少し可笑しくなる。説明できない感覚ほど、言葉にしづらいものはない。


神谷は椅子にもたれながら言った。


「感情だけ先に来るってこと、あるよな。理由は後からついてくる」


そのとき、静かな足音が近づいてきて、朝比奈が姿を現した。


「待たせた?」


「ううん、ちょうど今」


真帆が手を振る。


朝比奈は三人の前に置かれた便箋を見ると、すぐに事情を察したようだった。


「それ、まだ考えてたんだ」


「考えずにいられなくて」


柚希は正直に答える。


朝比奈は椅子を引いて腰を下ろし、一度だけ便箋に目を通した。


「……焦らせる書き方だな」


「やっぱり?」


「でも、嫌な感じはしない。思い出せって言い切ってるところが」


その言葉に、柚希の胸が少しだけざわついた。思い出せ、と言われているのに、肝心の中身が見えない。その状態が、不安でもあり、同時にどこか懐かしくもある。


「約束、か」


柚希は小さく呟いた。


「私、ちゃんと思い出せるのかな」


真帆は少し考えてから、肩をすくめた。


「思い出せなかったら、それはそれで何かあるんじゃない?」


神谷も頷く。


「忘れる理由も、無意味じゃないだろ」


朝比奈は穏やかな口調で言った。


「大事なのは、向き合おうとしてることだと思う」


柚希は三人の顔を順に見て、ゆっくり息を吐いた。まだ何も分からない。それでも、一人で抱え込む必要はないと、今はそう思えた。


便箋をそっと折りたたし、胸ポケットに戻す。その動作が、ひとつの区切りのように感じられた。


答えはまだ遠い。でも、足を止める理由も、もうなかった。


図書室を出ると、外はすっかり夕方の色に染まっていた。窓越しに見えた空よりも、実際に外へ出たときの方が、時間が進んでいることを強く感じる。柚希は校舎の出口で一度立ち止まり、無意識のうちに空を見上げた。雲はゆっくり流れていて、特別なことなんて何も起きていないはずなのに、自分だけが少し取り残されているような感覚があった。


「帰る?」


真帆が隣で声をかける。


「うん」


そう答えながらも、柚希の視線はまだ遠くにあった。胸ポケットの中で、折りたたんだ便箋が微かに擦れる。その音が、やけに大きく聞こえた。


校門へ向かう途中、神谷がふと思い出したように言った。


「そういえば、あれから悠真と連絡、取ってる?」


一瞬、足が止まりかける。柚希は気づかれないように、ほんの少しだけ歩調を緩めた。


「……取ってない」


声は自然に出たつもりだったが、自分の耳には少し遠く聞こえた。


「忙しいだけじゃないの?」


真帆がフォローするように言う。


「前から、急に音信不通になることもあったし」


「そうだね」


柚希は頷いた。でも、納得しているわけじゃない。ただ、否定する材料もなかった。


朝比奈はしばらく黙って歩いていたが、校門が見えてきたところで口を開いた。


「連絡が取れないって、それ自体は珍しくない。でも」


「でも?」


柚希が視線を向ける。


「覚えてるはずのことが、思い出せなくなるのは、少し違和感がある」


その言葉に、柚希は思わず苦笑した。


「はっきり言うね」


「曖昧にすると、余計に考えるだろ」


朝比奈の口調は穏やかだったが、目は真剣だった。


「柚希、自分でも感じてるんじゃないか? 悠真に関する記憶が、少しずつズレてきてるって」


柚希はすぐに答えられなかった。否定したい気持ちはある。でも、便箋を読んだときの胸のざわつきや、名前を思い浮かべたときの引っかかりは、確かに存在している。


「……うん」


しばらくして、正直に言った。


「前みたいに、自然に思い出せない。思い出そうとすると、逆に遠くなる」


真帆は少し驚いたような顔をした。


「それ、前から?」


「分からない。気づいたのが、今日なだけかもしれない」


校門を出ると、街の音が一気に耳に入ってきた。車の走る音、人の話し声、信号の電子音。現実は何も変わっていないのに、柚希の中では、確かに何かが揺れている。


「じゃあさ」


神谷が軽い調子で言った。


「その約束ってやつ、思い出せたら、全部戻ると思う?」


柚希は少し考えてから首を振った。


「分からない。でも……思い出さないまま進むのは、嫌」


「だよな」


神谷はあっさりと笑った。


朝比奈は歩きながら、空を一度見上げた。


「約束ってさ、守るためにあるだけじゃなくて、繋ぎ止めるためにあることもある」


「繋ぎ止める?」


真帆が聞き返す。


「人とか、時間とか、気持ちとか」


その言葉が、柚希の胸に静かに落ちた。繋ぎ止める。もしそうなら、この便箋は、自分が何かを手放しそうになっている合図なのかもしれない。


「ねえ」


柚希は歩きながら、ぽつりと言った。


「もし、思い出したら……何かが変わってしまっても、みんなは……」


言い切れずに言葉が途切れる。


真帆は即座に言った。


「当たり前でしょ。変わっても、変わらなくても」


神谷も頷く。


「今さら離れる理由ないし」


朝比奈は少しだけ微笑んだ。


「一人で抱えなくていい」


その言葉に、柚希は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。


別れ道に差しかかり、それぞれの帰り道へ向かう準備をする。柚希は三人に手を振りながら、最後にもう一度だけ胸ポケットに触れた。


便箋は、そこにある。答えはまだない。それでも、確実に次の何かへと繋がっている気がした。


家へ向かう道を歩きながら、柚希はふと思った。もし約束を思い出したとき、自分は何を選ぶのだろうか。そのとき、悠真はどこにいるのか。考えれば考えるほど、先が見えなくなる。でも、不思議と怖さよりも、確かめたい気持ちの方が勝っていた。


足元に落ちた影が、街灯の光で長く伸びる。その影を踏みながら、柚希は歩き続けた。まだ戻れない場所があることを、はっきりと感じながら。


家に着くと、玄関の明かりがすでについていた。柚希は靴を脱ぎながら、いつもより静かな家の中に少しだけ違和感を覚える。テレビの音もしないし、台所から聞こえてくるはずの生活音もない。


「ただいま」


返事はなかった。


リビングに入ると、テーブルの上にマグカップが二つ置かれているのが目に入った。どちらも半分ほど残っていて、冷めきっている。誰かが少し前までここにいたはずなのに、その気配だけが抜け落ちているような感じがした。


「……お母さん?」


もう一度呼んでみるが、やはり返事はない。仕事の電話でも入って外に出たのだろうか。そう自分に言い聞かせながら、柚希はカバンをソファの横に置いた。


座ろうとした瞬間、胸ポケットに入れていた便箋の感触が気になって、思わず指を差し入れる。折り目のついた紙は、朝から何度も触っているはずなのに、触れるたびに初めてのような感覚を呼び起こす。


「……読むしか、ないよね」


独り言が自然に漏れた。


テーブルに座り、ゆっくりと便箋を広げる。そこに書かれている文字は、相変わらず少ない。簡潔で、感情を押しつけてくるような言葉は一切ない。それなのに、目で追うだけで胸の奥がざわつく。


「思い出せ。名前より先に、約束を」


声に出して読んだ瞬間、空気が少しだけ変わった気がした。もちろん、実際に何かが起きたわけじゃない。でも、リビングの静けさが、さっきよりも深くなったように感じる。


スマホが震えた。


画面を見ると、真帆からのメッセージだった。


『帰った?』


『今家。そっちは?』


『もうすぐ着く。今日さ、やっぱりあの手紙、気になる』


柚希は少し迷ってから、正直に打ち込んだ。


『今、読んでる』


すぐに既読がつき、数秒後に返信が来る。


『一人で?』


『うん』


『……無理そうなら、通話しよ』


その言葉に、柚希は小さく息を吐いた。心配されているのが分かって、ありがたい反面、言葉にしづらい不安がある。


『大丈夫。たぶん』


送信してから、便箋にもう一度視線を落とす。「約束」という言葉を頭の中で反芻してみるが、具体的な場面は浮かんでこない。代わりに、夕焼けの色や、誰かの背中、名前を呼びかける前の一瞬の間、そんな断片ばかりが脈絡なく浮かんでは消える。


「悠真……」


名前を口にした瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。でも、顔ははっきりと思い出せない。声も、笑い方も、すぐに霧の向こうへ引っ込んでしまう。


「こんなの、変だよね」


誰に言うでもなく呟く。


そのとき、玄関の方で鍵の音がした。柚希はびくっと肩を揺らし、思わず便箋を伏せる。


「ただいまー」


母の声だった。


「おかえり」


柚希は立ち上がりながら答える。


「ごめんね、急に呼び出されちゃって。夕飯、すぐ作るから」


「うん、大丈夫」


母はエプロンをつけながら、ちらっとテーブルに目を向けた。


「何読んでたの?」


「……友だちからの手紙」


嘘ではない。けれど、真実とも言い切れなかった。


母はそれ以上深く聞いてこなかった。そのことに、少しだけ救われた気がする。


部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。スマホを見ると、今度は神谷からメッセージが入っていた。


『今日の続き、考えてた』


『何を?』


『約束の話』


柚希は画面を見つめながら、少しだけ笑った。


『みんな、考えること同じだね』


『一人で考えるには、重いからな』


その言葉に、胸の奥が静かに温かくなる。


『ねえ』と柚希は打ち込む。『もしさ、これを読んだことで、何かが変わるとしたら……』


少し迷って、続きを送った。


『それでも、知りたいと思うのって、変かな』


しばらくして返ってきた神谷の返事は、短かった。


『普通だと思う』


スマホを伏せ、天井を見上げる。白いはずの天井が、どこか遠く感じる。目を閉じると、現実と夢の境目が曖昧になっていくような感覚があった。


まだ何も始まっていないはずなのに、もう引き返せない場所に立っている気がする。柚希は胸元で便箋を握りしめながら、ぼんやりと思った。この先で何を思い出すのか、それが自分をどこへ連れていくのか、その答えはもう、こちらを待っているのかもしれない。


夜が更けるにつれて、家の中の音はひとつずつ消えていった。台所の明かりが落ち、母が自室に入った気配がして、時計の秒針の音だけがやけに大きく聞こえる。柚希はベッドに横になりながら、天井を見つめ続けていたが、眠気は一向に訪れなかった。


スマホを手に取ると、真帆から新しいメッセージが届いている。


『着いたよ。今から電話できる?』


少し迷ったあと、柚希は通話ボタンを押した。


「もしもし」


『おつかれ。声、元気ないね』


「そんなことないよ。ただ……ちょっと考え事してただけ」


『手紙?』


「うん」


短い沈黙が流れる。その間に、柚希は布団の端を無意識に指でつまんでいた。


『ねえ、柚希さ』と真帆が言う。『あれ、誰から来たと思う?』


「分からない。でも、知ってる人……な気はする」


『悠真、だと思ってる?』


その名前が出た瞬間、胸がひくりと跳ねた。


「……思ってるっていうか、そうじゃなかったら困る、のかもしれない」


『困る?』


「だって、あの言葉……約束とか、思い出せとか。あれを、全然知らない誰かが書いたって思う方が、怖いよ」


真帆は少しだけ笑った。


『相変わらずだね。怖いくせに、ちゃんと向き合おうとするところ』


「褒めてる?」


『半分ね』


そのやりとりに、少しだけ肩の力が抜ける。


「真帆はさ、悠真のこと、どこまで覚えてる?」


『どこまで、か……』真帆は少し考えるように間を置いた。『正直、顔はもうぼんやりしてる。でも、柚希の隣にいたってことだけは、妙にはっきり覚えてる』


「隣に……」


『うん。いつも三人でいたのに、視線を向けると、必ず柚希の近くにいた気がする』


その言葉は、柚希の中にある曖昧な感覚と、静かに重なった。


「ねえ、もしさ」


『なに?』


「もし、この手紙がきっかけで、私たちが何か大事なことを思い出すとしたら……それって、今のままじゃいられなくなるってことだよね」


『そうかもね』


真帆の声は落ち着いていた。


『でもさ、それでも進むんでしょ?柚希』


その問いかけに、柚希はすぐに答えられなかった。代わりに、便箋の言葉を頭の中でなぞる。「名前より先に、約束を」。それは選択を迫る言葉のようにも思えた。


「……うん。たぶん」


『じゃあさ』と真帆は少し明るい声を出す。『一人で抱え込まないこと。それだけ約束して』


「約束……か」


『そう。名前より先にね』


思わず、柚希は小さく笑った。


「ずるい言い方」


『今はそれでいいでしょ』


電話を切ったあと、部屋はまた静けさに包まれた。柚希はスマホを枕元に置き、目を閉じる。すると、さっきまで断片的だった記憶が、ゆっくりと形を取り始める。


夕方の校舎、並んで歩く影、言いかけてやめた言葉。そのすべてが、現実なのか夢なのか、境目を失ったまま流れ込んでくる。


「……約束って、なんだったんだろ」


誰に聞かせるでもない呟きは、闇に吸い込まれていった。それでも胸の奥では、確かに何かが動いている。このまま目を閉じてしまえば、もう戻れない場所に踏み込むことになるかもしれない。そんな予感を抱きながらも、柚希は抗うことなく、ゆっくりと意識を手放していった。


朝、目を覚ました瞬間、柚希は自分がどこまで夢を見ていたのか分からなくなった。カーテン越しの光はいつもと同じなのに、胸の奥だけが微妙にずれている感覚が残っている。枕元に置いたスマホを手に取ると、真帆からの新着はなく、昨夜の通話履歴だけが静かに表示されていた。それを見て、少なくとも電話までは現実だったと分かり、少しだけ息をつく。


キッチンに下りると、母が朝食の準備をしていた。「おはよう」と声をかけると、いつも通りの返事が返ってくる。その当たり前が、なぜか今朝はありがたかった。


「今日、学校どうするの?」と母が聞く。


「行くよ。休む理由もないし」


そう答えながらも、心の中では別の理由が浮かんでいた。行かないという選択肢が、最初から存在していないような感覚。あの手紙が届いてから、日常から一歩引き返すことはできなくなっている。


家を出て、駅までの道を歩く。見慣れた景色なのに、視界の端で何かを探している自分に気づく。誰かが隣を歩いていたはずだという、根拠のない確信。その正体を考えようとすると、頭がじんわりと痛んだ。


学校に着くと、教室はいつも通りのざわめきに包まれていた。自分の席に座ると、すぐ隣から声が飛んでくる。


「おはよ、柚希。顔、ちょっと寝不足?」


真帆だった。


「そんなに分かりやすい?」


「分かる分かる。昨日、遅くまで考え込んでたでしょ」


図星で、苦笑する。


「ねえ、真帆」


「なに?」


「もしさ、私が思い出したくないことを思い出しそうになってたら……止めてくれる?」


真帆は一瞬だけ驚いたような顔をして、それから小さく首を振った。


「止めない。だって、柚希がそれを聞いたってことは、必要なことなんでしょ」


その答えは優しくもあり、突き放すようでもあった。


チャイムが鳴り、教室が静まる。担任が入ってきて、連絡事項を淡々と告げていく。その途中で、「転校生の神谷くんと朝比奈くんは、今日もこのクラスで」と言った。その名前を聞いた瞬間、柚希の指先がわずかに震える。


神谷は相変わらず教室の端で、周囲と一定の距離を保つように座っている。朝比奈はというと、窓際の席で外を見ながら、どこか落ち着かない様子だった。二人とも、すでにここにいるはずなのに、どこか「途中から入り込んできた」存在のように見えてしまう。


授業中、ノートを取ろうとしても、文字が頭に入ってこない。代わりに浮かんでくるのは、昨夜の言葉と、見覚えのない風景。並んで歩く影、名前を呼ぶ声、そして、はっきりとは思い出せない約束。


「柚希、ここ分かる?」


真帆に小声で聞かれて、はっとする。


「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」


「無理しないでね」


その一言が、胸に静かに染みた。


昼休みが近づくにつれて、柚希の中の違和感は強くなっていく。今この時間の先に、何かが待っている気がしてならない。手紙に書かれていた言葉が、現実を押し広げようとしているような感覚。その境界線に、もう片足を踏み入れていることだけは、はっきりと分かっていた。


昼休みのチャイムが鳴ると同時に、教室は一気に空気を緩めた。椅子を引く音や笑い声が重なり合い、さっきまでの緊張感が嘘のように溶けていく。その中で柚希だけは、立ち上がるタイミングを失ったまま、机に残されたノートを見つめていた。文字は整っているのに、そこに書いた記憶が薄く、まるで誰かのノートを借りているような感覚がある。


「柚希、昼どうする?」


真帆が弁当袋を手にしながら振り返る。


「……一緒に行く。ちょっと外の空気吸いたいし」


「珍しいね。いつも教室派なのに」


そう言いながらも、真帆は特に理由を追及しなかった。その距離感が、今はありがたい。


廊下に出ると、神谷がちょうど自販機の前に立っていた。視線が合い、ほんの一瞬、互いに言葉を探す間が生まれる。


「……こんにちは」


柚希が先に声をかけると、神谷は少しだけ肩の力を抜いたように頷いた。


「こんにちは。体調、大丈夫?」


「うん、ちょっと寝不足なだけ」


そのやり取りを横で聞いていた真帆が、軽く首をかしげる。


「二人、もうそんなに話す仲だったっけ?」


「まあ……少しだけ」


曖昧に答えたのは、説明できるほど自分でも整理がついていなかったからだ。神谷はそれ以上踏み込まず、飲み物を手にして静かにその場を離れた。その背中を見送りながら、柚希の胸に小さなざらつきが残る。近づいているはずなのに、どこか遠ざかっていくような、不思議な距離。


中庭のベンチに座り、弁当を広げる。風が木の葉を揺らし、その音が妙に現実感を強めていた。


「ねえ、柚希」


真帆が箸を止めて言う。


「最近さ、悠真の話、しなくなったよね」


その名前を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


「……してない?」


「うん。前は、何かあるとすぐ名前出てきてたのに」


柚希は言葉を探し、結局、正直に答えることにした。


「話そうとすると、うまく思い出せなくて。思い出せないっていうか……思い出していいのか分からない感じ」


真帆は驚いたように目を見開いたあと、すぐに柔らかく笑った。


「なにそれ。柚希らしくない」


「自分でもそう思う」


笑い合いながらも、心の奥では別の感情が静かに膨らんでいた。忘れているわけじゃない。ただ、輪郭がぼやけている。確かにそこにいたはずの存在が、霧の向こうに立っているような感覚。


午後の授業が始まり、教室に戻る途中、廊下の角で朝比奈とすれ違った。


「あ、柚希」


呼び止められて足を止める。


「昨日の話なんだけどさ」


「……手紙のこと?」


「うん。あれ、たぶん一人で抱えるものじゃない」


朝比奈の口調は柔らかく、押しつけがましさがなかった。それが逆に、核心に触れてくる。


「分かってる。でも、誰に話していいのか分からない」


「じゃあさ、分かるまで一緒に考えよう。それでいいと思う」


その言葉に、柚希は小さく息を吐いた。


「ありがとう」


教室に戻ると、席に着いた瞬間、急に視界が揺れた。黒板の文字が遠のき、代わりに浮かび上がるのは、知らない場所と、確かに知っている声。


――柚希。


名前を呼ばれた気がして、思わず振り返る。けれど、そこには誰もいない。


「……今の、何」


小さく呟いた声は、自分の耳にしか届かなかった。それでも、はっきりと感じる。何かが、少しずつ重なり始めている。現実と、夢と、そしてまだ名前のつかない世界が。


放課後が近づくにつれ、その境界はますます曖昧になっていった。柚希は机に置いたカバンに、無意識に手を伸ばす。中に入っているあの封筒が、今も静かに存在を主張しているのを感じながら、この先で何が待っているのかを考えずにはいられなかった。


放課後の校舎は、昼間とはまるで別の顔をしていた。部活に向かう生徒の足音と、下校する生徒の笑い声が交差し、どこか落ち着かないざわめきが廊下に残っている。その中を歩きながら、柚希は自分の足取りが妙に遅くなっていることに気づいていた。急ぐ理由はないはずなのに、早く外に出てしまうのが惜しいような、何かを置き忘れてしまいそうな感覚があった。


「柚希、今日どうする?」


後ろから真帆が声をかけてくる。振り返ると、いつも通りの明るい表情だった。


「ん……ちょっと寄り道してから帰ろうかな」


「また?最近多いね」


「そうかも。でも、なんか……このまま帰る気分じゃなくて」


自分で言いながら、理由を言葉にできないもどかしさを覚える。真帆は少し考えるような顔をしてから、軽く肩をすくめた。


「じゃあ、私は先に行くね。あんまり無理しないでよ」


「うん、ありがとう」


昇降口で別れ、靴を履き替えたあとも、柚希はすぐに校門へ向かわなかった。視線の先には、誰もいないはずの中庭が広がっている。昼間に座ったベンチが、夕方の影の中に沈んでいた。


「……ここ、だよね」


思わず声に出していた。何が「ここ」なのか、自分でも分からない。ただ、足が自然とそちらへ向かっていた。


ベンチに腰を下ろすと、風が少し冷たく感じられる。制服の袖を引き寄せながら、柚希はカバンを膝に置いた。その中にある封筒の感触が、意識せずとも伝わってくる。


「見ないって決めたのに」


小さく呟き、ため息をつく。けれど次の瞬間、誰かの足音が砂利を踏む音がした。


「柚希?」


聞き慣れた声に顔を上げると、神谷が立っていた。部活帰りなのか、ジャージ姿で、少し驚いたような表情をしている。


「神谷……どうしたの?」


「たまたま。まだ帰ってなかったんだ」


「うん、ちょっと考え事」


そう答えると、神谷は一瞬迷うような間を置いてから、向かいのベンチに腰を下ろした。


「最近、顔色よくないよ」


「そんなことない……と思う」


「思う、って言い方がもう怪しい」


苦笑混じりの言葉に、柚希も小さく笑った。こうして話していると、必要以上に踏み込んでこない距離感が、妙に心地いい。


「ねえ、神谷」


「なに?」


「……もし、昔のことを急に思い出せなくなったら、どうする?」


唐突な問いに、神谷は少しだけ目を伏せた。


「忘れたなら、それなりに理由があるんじゃないかな。でも……」


「でも?」


「思い出せないのと、思い出さないのは違うと思う」


その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。


「柚希は、どっち?」


すぐには答えられなかった。自分でも分からない。だからこそ、ここに座っている。


「……分からない。でも、思い出したほうがいい気がしてる」


神谷はそれ以上何も言わず、ただ静かに頷いた。その沈黙が、否定でも肯定でもなく、柚希の中で揺れていた感情をそのまま受け止めてくれた気がした。


空が少しずつ茜色に染まり始める。その色を見つめながら、柚希は確信に近い予感を抱いていた。今日、このまま帰ったとしても、きっと同じ場所に戻ってくる。忘れかけた何かが、もう手の届くところまで来ている気がしてならなかった。


夕焼けが中庭全体を包み込む頃、柚希はベンチから立ち上がった。空気が少しひんやりしてきて、時間が確実に進んでいることを肌で感じる。それでも、その場を離れる決心がなかなかつかなかった。神谷もまた、何か言いかけては飲み込むような表情で、しばらく沈黙を保っている。


「そろそろ帰らないと、暗くなるね」


柚希がそう言うと、神谷は小さく笑った。


「そうだね。でも、もう少しだけいい?」


「うん」


特に理由はなかった。ただ、この時間が途切れてしまうのが惜しかった。


神谷は空を見上げてから、ゆっくりと口を開いた。


「俺さ、転校してきてから、ずっと考えてたことがあるんだ」


「なに?」


「ここに来る前のこと。正直、全部覚えてるわけじゃない。でも、忘れてるはずなのに、時々、妙に懐かしい気持ちになる場所があってさ」


柚希は思わず神谷の方を見た。その言葉が、自分の感覚と重なったからだ。


「それって……ここみたいな?」


「うん。理由は説明できないけど」


一瞬の沈黙のあと、神谷は視線を逸らしながら続けた。


「誰かに置いていかれた気がするんだ。でも、その“誰か”の顔が浮かばない」


その言い方は淡々としていたが、どこか痛みを含んでいた。柚希は胸の奥が締めつけられるのを感じる。


「神谷も、同じなんだね」


「同じ?」


「大切だったはずの人のこと、思い出そうとすると、霧がかかる感じ」


言葉にした瞬間、柚希は自分の中で何かが揺れた。“大切だったはずの人”という表現が、自然と口をついて出たことに、少し驚く。


神谷はゆっくり頷いた。


「うん。だから、君が最近元気ない理由、なんとなく分かる気がする」


その優しい理解が、柚希の緊張をほどいた。


「……ありがとう」


「礼を言われることじゃないよ。ただの推測だし」


二人はベンチを離れ、校門の方へ歩き始めた。並んで歩く距離は、近すぎず遠すぎず、不思議と落ち着く。


「ねえ、柚希」


「なに?」


「もし、その忘れてる人のこと、思い出したら……どうしたい?」


足を止めて、柚希は少し考えた。


「ちゃんと、話したい。伝えたいことがある気がするから」


それは嘘ではなかった。何を、誰に伝えたいのかは分からない。でも、胸の奥に残る温度だけは確かだ。


神谷は軽く息を吐いて、微笑んだ。


「そっか。それなら、きっと思い出せるよ」


「どうして、そう思うの?」


「そういう気持ちって、簡単には消えないから」


校門を出ると、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。別れ際、神谷は少しだけ振り返る。


「無理に思い出さなくていい。でも……一人で抱え込まないで」


「うん」


神谷が去ったあと、柚希はしばらくその場に立ち尽くしていた。胸の中には、不安と同時に、かすかな期待が芽生えている。忘れているはずの誰かが、どこかで待っている気がしてならなかった。それが現実なのか、ただの願望なのかは分からない。それでも、この感覚だけは手放してはいけない気がして、柚希はゆっくりと歩き出した。


翌朝、柚希は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。窓の外はまだ薄暗く、カーテン越しの光が部屋に淡く広がっている。昨夜はちゃんと眠ったはずなのに、頭の奥に靄がかかったような感覚が残っていた。夢を見ていた気がするのに、内容は思い出せない。ただ、胸のあたりに引っかかるものだけが、はっきりと残っている。


「……また、だ」


独り言のように呟いて、ベッドから起き上がる。洗面所で顔を洗っても、その違和感は消えなかった。鏡に映る自分の顔が、どこか遠く感じる。現実の中に立っているはずなのに、半歩だけ別の場所に足を踏み入れているような、そんな感覚だった。


朝食を済ませ、家を出る。通学路はいつもと同じなのに、風景が少しだけ違って見えた。知っているはずの角を曲がるたびに、「ここ、前にも通ったっけ」と妙な既視感が胸をよぎる。


「気のせい、だよね」


自分に言い聞かせるように呟いたところで、後ろから足音が近づいた。


「おはよう、柚希」


真帆の声に振り返ると、いつも通りの笑顔があった。


「おはよう」


「なんか眠そう。昨日遅くまで起きてた?」


「ううん、そうでもないんだけど……」


言葉を濁すと、真帆は特に追及せずに歩調を合わせてくる。


「最近、考え事多いよね」


「分かる?」


「分かるよ。顔に書いてある」


そう言って笑われると、少しだけ気が楽になる。誰かと並んで歩くことで、現実に引き戻される感じがした。


校門をくぐると、昇降口の前に神谷の姿があった。こちらに気づき、軽く手を挙げる。


「おはよう」


「おはよう」


「昨日、大丈夫だった?」


その一言に、昨日の中庭での会話が自然とよみがえる。


「うん。ありがとう」


短く答えると、神谷はそれ以上踏み込まなかった。その距離感が、今日も変わらず保たれている。


教室に入ると、いつも通りの朝のざわめきが広がっていた。席に着いた瞬間、柚希は机の上に見慣れない紙切れが置かれているのに気づく。


「……なに、これ」


小さなメモのような紙だった。誰かの走り書きのように、少し歪んだ文字が並んでいる。


――忘れないで。


それだけの言葉だった。


心臓が一瞬、強く脈打つ。誰が置いたのか分からない。でも、その文字を見た瞬間、胸の奥がざわついた。


「柚希、どうしたの?」


真帆が覗き込んでくる。


「……これ、さっきから置いてあった?」


「え?見てないけど」


「そっか」


メモをそっと畳み、ノートの下に隠す。理由は分からない。ただ、誰にも見せたくなかった。


授業が始まっても、その一言が頭から離れなかった。忘れないで。何を? 誰を? 答えはどこにもないのに、問いだけが積み重なっていく。


窓の外を見ると、空は澄んでいて、いつもと変わらない朝のはずだった。それなのに、柚希は確かに感じていた。この日が、これまでと同じ一日では終わらないことを。


午前中の授業が終わり、教室に昼休み特有のざわめきが戻ってくる中でも、柚希の頭は冴えなかった。チャイムが鳴った瞬間、周囲の音が一段遠くなったように感じる。机の奥にしまったままの紙切れが、まるで重さを持った存在のように意識を引き戻してきた。


「ねえ、柚希」


真帆が弁当を抱えながら声をかける。


「今日のお昼、どうする?」


「……少し、外に出たい」


自分でも意外なほど、即答だった。


「いいよ。考え事?」


「たぶん」


真帆はそれ以上聞かず、自然に隣に並んでくれた。その距離感に、柚希は少しだけ救われる。


廊下に出ると、前方に神谷と朝比奈の姿があった。二人は何か話していたようで、こちらに気づくと会話を切り上げる。


「昼、これから?」


神谷が問いかける。


「うん。中庭に行こうかって」


柚希がそう言うと、朝比奈が一瞬だけ視線を泳がせたあと、頷いた。


「俺も、ちょうど外に出たかったところ」


中庭は昼の光に満ちていた。ベンチに腰を下ろすと、風が葉を揺らし、時間だけが穏やかに流れているように見える。それでも、四人の間にはどこか落ち着かない空気が漂っていた。


「……ねえ」


最初に口を開いたのは、神谷だった。


「変な紙、見なかった?」


柚希の心臓が、わずかに跳ねた。


「……どんな?」


「小さいメモ。机の上に置いてあった」


真帆が眉をひそめる。


「それ、偶然じゃないよね」


柚希はしばらく迷ったあと、カバンから例の紙を取り出した。折り目を伸ばし、そっと広げる。


「これ?」


神谷が身を乗り出し、朝比奈も視線を落とす。


「……同じだな」


朝比奈の声は低く、確信に近い響きを帯びていた。


「俺のも、これと似た感じだった」


「内容は?」


真帆が尋ねる。


「短い言葉だけ。意味ははっきりしないけど……」


柚希は紙に書かれた文字を見つめながら言った。


「読んだ瞬間、胸がざわっとした」


その感覚は、言葉にすると頼りなかったが、三人とも否定しなかった。


「誰かが、わざと私たちに届けてるんだよね」


柚希の言葉に、誰もすぐには返事をしない。風が吹き、紙の端がわずかに揺れた。


「いたずらにしては、気持ち悪いな」


真帆が小さく呟く。


「うん。でも、悪意とも違う気がする」


神谷の言葉に、柚希は頷いた。怖さよりも先に、引き寄せられるような感覚がある。それが何なのかは分からない。ただ、目を背けてはいけない気がしていた。


昼の光の中で、四人はしばらく黙ったままベンチに座っていた。それぞれが手元の紙切れを思い浮かべながら、同じ疑問を胸に抱えている。この先、何が繋がり、何が明らかになるのか。その答えはまだ見えないまま、静かに時間だけが進んでいった。


午後の授業が始まってからも、柚希の意識は何度も現実から引き離された。先生の声は聞こえているし、ノートも取っている。それなのに、さっき中庭で交わした会話が、頭の中で何度も再生されていた。誰かが置いたメモ。偶然とは思えない一致。そして、はっきりしないのに確かに残る違和感。


「柚希、ここ分かる?」


真帆が小声で声をかけてきて、はっと我に返る。


「え? あ、ごめん。もう一回言って」


「ほら、ここの式」


「……ああ、ここね」


説明しながらも、心のどこかが上の空だった。自分でも分かるほど、集中できていない。それでも、真帆は何も言わずに聞いてくれる。その優しさが、逆に胸に刺さった。


放課後が近づくにつれて、教室の空気が少しずつ緩んでいく。チャイムが鳴ると、生徒たちは一斉に動き出した。柚希はカバンを手に取りながら、無意識に周囲を見渡す。神谷と朝比奈の姿が、少し離れたところに見えた。


「ねえ、柚希」


朝比奈が近づいてきて、声を落とす。


「さっきのメモのことだけど」


「うん」


「放課後、少し話せる?」


その言い方は穏やかだったが、どこか真剣さを含んでいた。


「分かった」


真帆がそれを聞いて、軽く首をかしげる。


「私も一緒でいい?」


「もちろん」


校舎を出ると、空はすでに夕方の色に近づいていた。四人で歩くその距離が、昨日までとは少し違って感じられる。偶然集まったはずなのに、今はそれぞれが同じ方向を向いているような、不思議な感覚があった。


「ここでいいかな」


朝比奈が立ち止まったのは、校舎裏の人通りの少ない場所だった。


「大げさに聞こえるかもしれないけどさ」


そう前置きしてから、彼は続ける。


「俺、あのメモを見たとき、昔のことを思い出しかけた」


「昔?」


柚希が聞き返すと、朝比奈は少し困ったように笑った。


「はっきりした記憶じゃない。ただ、誰かと約束した気がして」


その言葉に、柚希の胸が静かに反応した。約束。その響きが、どこか懐かしい。


「どんな約束かは?」


神谷が尋ねる。


「分からない。でも……破っちゃいけないものだった気がする」


真帆が不安そうに言う。


「それって、私たちと関係あるのかな」


「あるかもしれないし、ないかもしれない」


朝比奈はそう言いながらも、視線を柚希に向けた。


「でも、柚希が持ってたメモを見たとき、妙にしっくりきた」


「……私も」


柚希は正直に答えた。


「怖いはずなのに、どこか懐かしくて。知らないはずなのに、知ってる気がする」


言葉にした瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。その感覚は、これまで何度も味わってきたものだった。悠真の名前を思い出そうとしたときと、同じ。


「ねえ」


真帆が小さく声を出す。


「もし、このまま放っておいたらどうなるんだろう」


誰もすぐには答えられなかった。ただ、全員が同じことを思っていた。放っておけない。理由は分からないけれど、これを見過ごしたら、取り返しのつかない何かを失ってしまう気がしてならない。


夕暮れの風が、校舎の影を長く伸ばしていく中で、柚希は強く感じていた。拾った一枚の紙切れが、確実に日常の輪郭を揺らし始めていることを。そして、その揺れの先に何が待っているのか、自分でも知らないまま、足を踏み出そうとしていることを。


四人はしばらくその場に立ったまま、誰も口を開かなかった。沈黙が気まずいというより、言葉にしてしまうのが惜しい、そんな空気だった。夕方の冷え始めた風が制服の袖を揺らし、現実に引き戻す。


「とりあえずさ」


最初に声を出したのは神谷だった。


「そのメモ、もう一回ちゃんと見せてくれない?」


柚希はうなずき、カバンから折りたたんだ紙を取り出した。何度も開いたせいで、折り目はくっきりと残っている。神谷はそれを受け取り、真帆と朝比奈も覗き込んだ。


「文字、やっぱり変だよね」


真帆が言う。


「丁寧なのに、癖がないっていうか……誰の字か分からない」


「意図的にそうしてる感じもする」


朝比奈は腕を組みながら、メモを見つめていた。


「誰かに読ませる前提で、それ以上の情報を消してる」


「消してる?」


柚希が聞くと、朝比奈は軽く肩をすくめた。


「名前も場所も時間もない。ただ、読む側に引っかかる言葉だけ残してる」


神谷がふっと息を吐く。


「まるで、分かる人にだけ分かればいい、みたいだな」


その一言が、柚希の胸に静かに落ちた。分かる人にだけ。自分は、その中に含まれているのだろうか。そう考えた瞬間、答えは自然と浮かんできた。


「……多分、そう」


三人の視線が一斉に集まる。


「根拠はないんだけど」


柚希は言葉を選びながら続けた。


「この紙、初めて見た気がしなかった。懐かしいってほどはっきりしないけど、知らないものを見た感じじゃなかった」


真帆が小さく息を吸う。


「私も、完全に他人事って感じはしない」


「だよな」


神谷も同意するようにうなずいた。


「だったらさ」


朝比奈が、少しだけ声を低くした。


「一人で抱えるの、やめよう。これ」


そう言って、メモを柚希に返す。


「何か起きるにしても、四人で向き合った方がいい」


柚希はその言葉に、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。怖さが消えたわけじゃない。でも、独りじゃないと思えたことが大きかった。


「ありがとう」


自然とそう口にしていた。


「じゃあ、どうする?」


真帆が尋ねる。


「正直、今すぐ答えが出る気はしないけど」


神谷が空を見上げる。


「今日は一旦帰って、頭整理しよう。無理に結論出すと、変な方向行きそうだし」


朝比奈もそれに同意した。


「何か思い出したり、気づいたことがあったら、すぐ共有しよう」


「うん」


柚希はメモを大切そうに畳み、ポケットにしまった。その動作ひとつで、これがただの紙切れじゃないことを改めて実感する。


帰り道、真帆と並んで歩きながら、柚希は何度もポケットの上からメモの感触を確かめた。そこにあるだけで、世界の見え方が少し変わってしまった気がする。


「ねえ、柚希」


真帆が前を向いたまま言った。


「もしさ、これが本当に何かの始まりだったら……」


「うん」


「ちゃんと最後まで行こう。途中で目をそらさないで」


柚希は少しだけ考えてから、はっきりとうなずいた。


「うん。逃げない」


夕焼けに染まる帰り道は、いつもと同じはずなのに、どこか輪郭が揺らいで見えた。その揺らぎの中で、柚希は確信していた。この手紙を拾った瞬間から、何かが静かに動き始めている。そして、その先には、もう後戻りできない選択が待っていることを。


夜になっても、柚希の頭は冴えたままだった。布団に入って目を閉じても、昼間のやり取りや、ポケットにしまったあの紙の感触が何度も浮かんでくる。スマホの画面を確認すると、真帆のグループチャットにはまだ新しい通知はない。神谷も朝比奈も、今はそれぞれ考えているのだろう。そう思うと、ひとりで抱えている感覚は薄れたが、不安まで消えるわけではなかった。


「……寝られない」


小さく呟いて、柚希は起き上がる。机の引き出しからメモを取り出し、スタンドライトの下に広げた。何度も見ているはずなのに、読むたびに受け取る印象が微妙に変わる。強く訴えてくるようでもあり、ただ静かに待っているようでもある。


「思い出せ、か……」


声に出すと、言葉が少しだけ現実味を帯びた。名前より先に、約束を。誰と、どんな約束をしたのか。それが分からないのに、胸の奥だけがざわつく。


そのとき、スマホが震えた。画面に表示された名前は朝比奈だった。


『起きてる?』


短いメッセージに、柚希は少し驚きつつもすぐ返した。


『うん。そっちは?』


『同じ。さっきからあの紙のこと考えてる』


既読がつくのが早い。朝比奈も、眠れずにいるのだろう。


『昼に言いそびれたんだけどさ』


少し間があって、次のメッセージが届く。


『あの言葉、俺は「思い出せ」っていう命令じゃない気がしてる』


柚希は画面を見つめたまま、指を止めた。


『どういうこと?』


『責めてる感じがしないんだよ。忘れたことを怒ってるんじゃなくて、思い出せる可能性があるって前提で書かれてる』


その文を読みながら、柚希は紙に目を落とした。確かに、冷たい命令文というより、どこか信じて待っているような響きがある。


『約束って言葉もさ』


朝比奈から続けて届く。


『破ったとか、守れなかったとか、そういうニュアンスがない。ただ、先に思い出してほしいってだけ』


柚希はゆっくりと息を吐いた。


『……私も、そうかもって思ってた』


そう打つと、少しだけ心が落ち着いた。


『もし、その約束を思い出したら』


朝比奈の次の一文で、柚希の指が止まる。


『何かが変わる気がするんだ。今の状況とか、俺たちの立ち位置とか』


立ち位置、という言葉が引っかかった。確かに、四人の関係は安定しているようで、どこか定まらない部分を抱えている。


『それ、怖くない?』


柚希は正直に聞いた。


『怖いよ』


返事はすぐだった。


『でも、避け続ける方がもっと怖い』


画面越しでも、朝比奈らしい答えだと思った。無理に感情を煽るでもなく、淡々としているのに、核心を突いてくる。


『明日、学校で話そう』


朝比奈はそう締めくくった。


『うん。神谷と真帆にも共有しよう』


スマホを置き、柚希はもう一度メモを見た。文字は相変わらず動かないのに、そこから伸びる糸の先に、確かに誰かの気配がある気がした。名前を呼べないその存在が、こちらを見ている。そんな感覚が、現実なのか、それとも思い込みなのか、自分でも判断がつかない。


それでも、目をそらすつもりはなかった。約束の正体が何であれ、それを思い出すことが、自分にとって避けて通れない道だと、今ははっきり分かっていた。


夕方の校舎は、人の気配が抜け落ちたあと特有の静けさに包まれていた。窓の外では空の色がゆっくりと変わり、廊下に伸びる影が少しずつ長くなっていく。柚希、真帆、神谷、朝比奈の四人は、誰が言い出すでもなく、同じ場所に集まっていた。昼間に交わした言葉だけでは足りず、それぞれがまだ何かを抱えたまま帰る気になれなかった。


「……結局さ」


最初に口を開いたのは真帆だった。机に腰掛け、足をぶらぶらさせながら、視線だけを宙に向けている。


「この手紙、送り主も目的も分からないままなんだよね。でも、放っとけない感じだけは、全員一緒でしょ」


「うん」


柚希は小さく頷いた。宛名だけの封筒は、今も鞄の中にある。中身を読んだ瞬間から、日常の輪郭がわずかに歪み始めた感覚が、まだ消えていなかった。


「悠真って名前もさ」


真帆が続ける。


「はっきり思い出せないのに、出てこないってわけでもない。不思議だよね」


神谷は腕を組み、少し考えてから言った。


「存在してた、って感覚だけが残ってる感じだな。写真みたいに、ピントが合ってない」


「それでも」


朝比奈が静かに言葉を挟む。


「その感覚を否定する理由もない。夢だって切り捨てるには、共通点が多すぎる」


柚希は三人の顔を順番に見た。誰も笑っていないし、かといって怯えているわけでもない。ただ、同じ方向を見ようとしている目をしている。


「ねえ」


柚希は意を決して口を開いた。


「もし、この先で……もっと分からないことが増えたら、どうする?」


少しの沈黙のあと、真帆が即答した。


「一緒に考えるに決まってるでしょ。今さら一人で悩めとか言われても無理だし」


「だな」


神谷も頷く。


「もう巻き込まれてるっていうか、足突っ込んでる感じだし」


朝比奈は一瞬だけ視線を落とし、それから柚希を見た。


「柚希が進むなら、俺も行く。途中で立ち止まる選択肢もあるけど、今はそれを選びたくない」


その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。怖さが消えたわけではない。それでも、ひとりではないという事実が、確かに支えになっている。


「ありがとう」


柚希はそう言って、鞄から封筒を取り出した。角は少し擦れているが、宛名の文字ははっきり残っている。


「これが、どこに繋がってるのか分からないけど……たぶん、もう戻れないところまで来てる気がする」


「戻らなくていいんじゃない?」


真帆は軽く笑った。


「元の場所が安全だったとも限らないし」


その一言に、全員が苦笑した。確かに、何も知らなかった頃に戻ることが、正解とは限らない。


チャイムが鳴り、校舎の消灯時間が近いことを告げる。四人はそれぞれ荷物を持ち、教室を出た。廊下を並んで歩きながら、誰も大きな声では話さなかったが、沈黙は重くなかった。


昇降口で別れる前、柚希は一度だけ振り返った。


「明日も、話そう」


「当たり前」


真帆が手を振る。


「逃げる気ないから」


神谷も朝比奈も、それぞれ小さく頷いた。


外に出ると、夜の空気がひんやりと頬に触れた。柚希は封筒の感触を確かめるように、鞄の上から軽く押さえる。現実と夢の境目は、もうはっきりとは分からない。それでも、この一通の手紙が、確実に何かを動かしていることだけは疑いようがなかった。


柚希は前を向いて歩き出す。まだ知らない答えが待っているとしても、それを確かめる準備は、もうできていた。

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