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第4章 『拾われた記憶の欠片』

神谷と朝比奈の存在によって、柚希の中で止まっていた時間は、ゆっくりと動き始めた。

消えた親友は、完全に失われたわけではない――その感覚だけが、胸の奥に確かに残っている。


そんなある日、何気なく歩いていた道端で、柚希は一枚の写真を拾う。

それは偶然にしては出来すぎているほど、彼女の心を強く揺さぶるものだった。写っているのは、見覚えのある風景と、はっきりとは分からない誰かの姿。けれど、その輪郭の曖昧さこそが、柚希の記憶を刺激する。


「似ている」

そう思った瞬間、胸の奥で何かが疼く。


写真に刻まれていたのは、確かに過去の一瞬だった。だが同時に、それは現在と地続きの何かでもある。忘れたはずの記憶、思い出さないようにしていた感情が、拾い上げられた欠片のように、少しずつ形を持ち始める。


神谷は、写真を見て言葉を失い、朝比奈は、どこか言い淀む。

それぞれが抱えてきた沈黙が、写真という「物証」を前に、わずかに軋み始める。


柚希はまだ知らない。

この一枚が、何を指し示しているのかを。

それが過去への手がかりなのか、それとも――まだ終わっていない現在への入口なのかを。


拾われたのは、ただの写真ではない。

それは、忘れられたはずの時間と、確かに生きていた誰かの証だった。


そして柚希は気づき始める。

消えたと思っていたものほど、静かに、深く、息を潜めて残っているのだということに。

夜風は思っていたよりも冷たく、頬に触れた瞬間、柚希はようやく自分が泣いていたことを思い出した。校門を離れてしばらく歩いたはずなのに、足取りは重く、頭の中だけが先に進もうとしている。神谷と朝比奈の姿は、もう背後にはない。それでも、二人の声や気配が、まだ耳の奥に残っていた。


「……大丈夫」


誰にともなくそう呟いたが、言葉は地面に落ちる前に消えた。

大丈夫であるはずがない。分かっている。それでも、歩かなければならなかった。立ち止まれば、また感情に飲み込まれてしまうから。


夕暮れと夜の境目はすでに過ぎ、街灯が等間隔に道を照らしている。いつも通る帰り道なのに、今日は少しだけ輪郭が違って見えた。世界が変わったわけじゃない。ただ、柚希の中で、見え方が変わってしまっただけだ。


悠真は消えた。

けれど、完全にいなくなったわけじゃない。


その事実が、胸の奥で何度も反芻される。朝比奈の声。神谷の沈黙。そして、あの名前を聞いた瞬間に確信してしまったこと。悠真は、何も終わらせていなかった。ただ、先に進んだだけだった。


「……ほんと、勝手」


そう言いながら、口元はわずかに緩んでいた。怒りにも似た感情の奥に、どうしようもない安堵が混じっている。生きている。どこかで、今も続いている。その想像が、胸を締めつけながらも、同時に支えになっていた。


足元で、かすかな音がした。


乾いた紙が擦れるような、頼りない音だった。柚希は反射的に立ち止まり、視線を落とす。街灯の光に照らされたアスファルトの上に、何かが落ちていた。風に煽られたのか、端がわずかに浮いている。


紙切れ――ではない。


しゃがみ込んで拾い上げたそれは、一枚の写真だった。

角が少し折れ、表面には細かな傷がついている。落ちてから、それなりの時間が経っているようだった。


「……なんで、こんなところに」


独り言のように呟きながら、柚希は写真を裏返し、もう一度表に戻す。特別な構図ではない。観光地でも、記念写真でもない。ただ、どこにでもありそうな風景が写っている。


けれど。


視線が、自然と写真の中央に引き寄せられた。

そこに写っている人物の顔は、はっきりとは分からない。逆光のせいか、少しピンボケしている。それでも、立ち姿や肩の線、何気ない仕草に、柚希の胸は強く反応した。


「……似てる」


思わず、声が漏れた。

誰に似ているのか、すぐには言葉にできない。ただ、心の奥がざわつき、記憶の底を掻き回されるような感覚がある。


悠真の面影が、そこにあった。


顔立ちではない。服装でもない。ただ、その場に立つ“在り方”が、あまりにも重なっていた。何かを見つめながら、少し距離を取るような、あの独特の立ち方。近くにいるのに、どこか遠い視線。


胸の奥が、きゅっと縮む。


「……嘘」


そう言いながら、目を逸らせなかった。

偶然だ。そう言い聞かせようとしても、指先が写真を強く握ってしまう。紙の感触が、妙に現実的だった。


拾っただけだ。

ただの、落とし物だ。


それでも、柚希は分かっていた。

この一枚は、ただの偶然では終わらない。


夜風が吹き、写真の端が震える。その小さな動きに、胸の奥で何かが静かに動き出した。止まっていたと思っていた時間が、また一歩、進んだ感覚だった。


柚希は立ち上がり、写真を胸元に引き寄せる。

まだ、確かめなければならないことがある。

まだ、知らなければならないことがある。


消えたはずの親友は、思っていたよりも近くにいるのかもしれない。

その予感だけが、今ははっきりと胸に残っていた。


写真を胸元に押さえたまま、柚希は歩き出した。

ほんの数分前までと同じ帰り道のはずなのに、景色がどこか遠く感じられる。街灯の光も、アスファルトの色も、確かに変わっていない。それなのに、世界が薄い膜を一枚隔てた向こう側にあるようだった。


拾わなければよかった。

そう思わなかったわけではない。


けれど、見つけてしまった瞬間、もう無理だった。

視界の端に引っかかったあの写真は、ただの落とし物ではなかった。理由は分からない。ただ、身体のどこかが先に反応してしまったのだ。


街灯の下で立ち止まり、柚希はもう一度写真を取り出す。

光にかざすと、輪郭が少しだけはっきりする。古びた駅舎。使われなくなったベンチ。人の気配がほとんどない、静まり返った場所。


そして、写っている人物。

こちらを向いていない背中。


顔が見えないからこそ、余計に胸がざわつく。

知らないはずなのに、知っている気がする。そんな感覚が、喉の奥に引っかかったまま離れない。


「……違うよね」


声に出しても、言葉は地面に落ちていくだけだった。

違う、と言い切るには、心があまりにも落ち着かなさすぎた。


あの失踪の日から、ずっと胸の奥に沈んでいたものがある。

考えないようにしてきた疑問。

口に出せなかった不安。

信じたい気持ちと、信じるのが怖い気持ち。


それらが、この一枚の写真によって、静かに揺り起こされてしまった。


指先で写真の端をなぞる。紙のざらつきが、現実の重さを伝えてくる。これは想像ではない。夢でもない。確かに誰かが撮り、確かに誰かが落としたものだ。


そして、その「誰か」が、もし――

そこまで考えて、柚希は一度、思考を止めた。


答えに近づくのが、怖かった。


写真を鞄にしまう。乱暴にならないよう、そっと。

まるで壊れやすいものを扱うように。


今は、確信がなくてもいい。

名前を呼べなくてもいい。


ただ、この胸に生まれてしまった違和感を、なかったことにはできない。見て見ぬふりをすれば、きっと後悔する。それだけは、はっきりしていた。


再び歩き出す。

足取りは少し重い。それでも、止まることはできなかった。


夜の街は何事もなかったように続いている。

それが、少しだけ残酷に思えた。


世界は変わらない。

けれど、自分の中では、確実に何かが動き始めている。


拾ってしまったこの一枚が、何を連れてくるのかは分からない。

ただ一つ分かるのは――もう、元の場所には戻れないということだけだった。


柚希は深く息を吸い込み、そのまま前を向く。

静かに、しかし確かに、過去へと繋がる扉が軋む音を立て始めていた。


朝の校舎は、いつもより少しだけ静かに感じられた。

柚希は昇降口で靴を履き替えながら、その理由をうまく言葉にできずにいた。ただ、胸の奥に残っているざらついた感触が、昨日からまだ消えていない。それは不安とも違い、恐怖とも違う。ただ、何かを見落としている気がする、そんな曖昧な違和感だった。


廊下を歩く足音が、やけに大きく響く。窓から差し込む朝の光は柔らかいのに、その中を進む自分の影だけが、少しだけ濃く見えた。


教室の扉を開けると、すでに数人が席についていた。

真帆はいつもの場所で、机に肘をつきながらスマートフォンをいじっている。柚希の姿に気づくと、ぱっと顔を上げ、少し安心したように笑った。


「おはよ。今日は…早いね」


「うん。なんか、目が覚めちゃって」


それだけの会話なのに、声に出した瞬間、自分が無意識に張りつめていたことに気づく。柚希は自分の席に荷物を置き、椅子に腰を下ろした。


前の方の席では、神谷がすでに教科書を開いている。背筋を伸ばし、静かにページをめくる仕草は、相変わらず周囲から一歩引いた場所にあるように見えた。誰とも言葉を交わしていないのに、そこにいないようには感じられない。不思議な存在感だった。


その斜め前、窓際の席に、朝比奈の姿がある。

窓の外をぼんやりと眺めていて、カーテン越しの光がその横顔を淡く縁取っていた。柚希は一瞬、声をかけようとして、やめた。理由は分からない。ただ、今はそっとしておいたほうがいい気がした。


チャイムが鳴る前の、わずかな時間。

教室の中には、話し声と沈黙が入り混じっている。けれど柚希の耳には、そのどちらも遠く感じられた。頭の中では、昨夜から繰り返し同じ映像がよぎっている。断片的で、はっきりしないのに、確かに「誰か」の気配だけが残っている。


――あれは、夢だったんだろうか。


そう思おうとするたびに、胸の奥が微かに痛んだ。夢にしては、生々しすぎる。現実だとするには、掴めるものが少なすぎる。


「柚希」


不意に名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。

真帆が、少し声を落としてこちらを見ていた。


「昨日さ……大丈夫だった?」


その問いに、すぐには答えられなかった。

大丈夫、という言葉の意味が分からなかったからだ。何がどう大丈夫で、何がそうじゃないのか、自分でも整理できていない。


「……うん。たぶん」


曖昧な返事に、真帆はそれ以上踏み込まなかった。ただ、心配そうな視線だけが、しばらく柚希に向けられていた。


教室の前方で、神谷がふと顔を上げる。

一瞬だけ、柚希と視線が重なった。驚くほど短い、その一瞬。それなのに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


神谷は何も言わず、すぐに視線を教科書へ戻した。

けれど、その横顔を見ていると、柚希はなぜか強く思ってしまう。――この人も、何かを知っているのではないか、と。


確信はない。ただの思い込みかもしれない。

それでも、その考えは、振り払おうとするほど深く沈んでいった。


チャイムが鳴り、担任が教室に入ってくる。

日常が、何事もなかったかのように動き出す。けれど柚希の中では、確実に何かがずれていた。音も、光も、言葉も、ほんのわずかに噛み合っていない。


机の中に手を伸ばしたとき、指先が紙の感触に触れた。

覚えのないそれを引き出してみると、小さく折りたたまれた紙切れが出てくる。


――いつ、入れた?


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

柚希は周囲を見回す。誰もこちらを気にしていない。真帆は前を向き、神谷も朝比奈も、それぞれの場所で静かに座っている。


ゆっくりと、紙を開く。

そこには、短い一文だけが書かれていた。


「思い出せなくても、無くなったわけじゃない」


それを読んだ瞬間、胸の奥に溜まっていた違和感が、はっきりと形を持った。

これは偶然じゃない。誰かが、意図的に、柚希に向けて置いた言葉だ。


視線を上げると、朝比奈がこちらを見ていた。

ほんの一瞬、目が合う。そして、何も言わずに、視線を逸らす。


その仕草が、妙に胸に残った。

教室の空気は変わらないのに、柚希の世界だけが、静かに軋み始めていた。


昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴るまで、柚希はずっと机に向かったまま動けずにいた。鞄の中に入れたはずの写真の存在が、まるで胸ポケットに入れているかのように重く感じられ、意識をそちらに引き戻してくる。紙一枚に過ぎないはずなのに、そこに映っていた風景と、写り込んでいた輪郭の曖昧な人物は、柚希の思考を何度も遮った。


「柚希、行かないの?」


真帆が立ち上がりながら声をかける。

その声に、柚希は一瞬だけ遅れて顔を上げた。


「あ……うん、今行く」


自分の声が少し硬いことに気づき、慌てて喉を鳴らす。真帆は深く追及することもなく、ただ一度だけ柚希の顔を見てから教室の外へ出ていった。その距離感がありがたくもあり、同時に胸の奥に小さな棘を残す。


教室には、まだ数人が残っていた。

前の方の席では神谷が静かにノートを閉じている。相変わらず無駄な動きがなく、周囲のざわめきから半歩引いた位置にいるように見えた。柚希は視線を逸らそうとして、ふと神谷と目が合う。


「……何か、拾った?」


低く、短い声だった。

問いかけというより、確認に近い。


「え?」


「さっき、落としてたみたいだから」


神谷はそれだけ言って、机の横を指で軽く叩いた。柚希は一瞬、心臓が跳ねるのを感じたが、すぐに首を振る。


「ううん。大丈夫」


神谷はそれ以上何も言わなかった。ただ一度、柚希の表情をじっと見てから、視線を外す。その沈黙が、妙に重く残った。


廊下に出ると、窓際に朝比奈恒一が立っていた。腕を組み、校庭の方を眺めている。その横顔は無表情に近いが、完全に無関心というわけでもなさそうだった。柚希が近づくと、朝比奈は気配に気づいたように視線を向ける。


「さっき、授業中」


それだけ言って、言葉を切る。

柚希は足を止めた。


「……集中してなかっただろ」


責める調子ではない。ただ、事実をそのまま口にしたような声だった。


「ちょっと、考え事してただけ」


「そうか」


朝比奈はそれ以上踏み込まない。ただ、視線だけは外さず、柚希の反応を待っているようにも見える。その沈黙に耐えきれず、柚希は続けた。


「大したことじゃないから」


「ならいい」


短い返答だったが、そこで終わらなかった。朝比奈は一度だけ視線を逸らし、低く続ける。


「……無理してるなら、後で言え」


それだけ言って、踵を返す。

背中越しに投げられた言葉は、不器用で、けれど確かに気遣いを含んでいた。


午後の授業中、柚希は何度も鞄の中を意識してしまった。写真の存在は、頭の片隅に沈めても沈めきれず、授業の内容と交互に浮かび上がってくる。あの写り込んだ人物の輪郭は、はっきりと顔を思い出せるほどではない。それでも、見覚えがあると感じてしまったこと自体が、柚希を落ち着かなくさせていた。


放課後、校舎を出る頃には、空が少しずつ色を変え始めていた。昇降口で靴を履き替えながら、柚希は鞄の口を無意識に押さえる。そこにあるものが、これからの日常を少しずつ変えていく、そんな予感だけが胸に残っていた。


校門の外で、神谷と朝比奈が並んで歩いているのが見えた。二人は特別親しげでもなく、かといって距離があるわけでもない。ただ同じ方向へ向かっているだけなのに、その後ろ姿がやけに印象に残る。


柚希は足を止め、しばらくその背中を見つめていた。

写真の中の曖昧な面影と、今目の前にある現実が、ゆっくりと重なり始めている気がしてならなかった。


何かを思い出そうとしているのか、それとも忘れていた何かに、思い出されようとしているのか。答えはまだ見えない。ただ一つ確かなのは、拾ってしまったその一枚が、もう元の場所には戻らないということだった。


夕方の風が、校門を出たところでふっと頬に当たった。昼間より少し冷たくて、柚希は思わず肩をすくめる。いつも通る帰り道なのに、今日は足取りが妙に遅い。急ぐ理由がないわけじゃない。ただ、鞄の中に入っているものの存在が、無意識に歩幅を狂わせていた。


「……なんで、拾っちゃったんだろ」


誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。

答えなんて出るはずもないのに、言葉にしないと落ち着かなかった。


少し前を歩く真帆の背中が見える。楽しそうにスマホを見ながら歩いていて、時々くすっと笑っているのが分かる。ああいう何気ない日常の中に、自分もちゃんといるはずなのに、今日は一歩だけ外れている気がした。


「……別に、変なことじゃないよね」


写真を拾っただけ。

それだけのことのはずだ。


角を曲がったところで、ふと足が止まる。夕焼けに染まった道路を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。写真の中に写っていた風景と、ほんの少しだけ似ている気がしたからだ。


「気のせい、気のせい……」


そう言い聞かせながらも、心臓の音はなかなか落ち着かない。似ているだけで、同じ場所なわけじゃない。分かっているのに、頭のどこかが納得してくれなかった。


家に着くと、靴を脱いでそのまま自分の部屋に向かう。鞄を床に置いて、少しだけ深呼吸をしてからファスナーを開けた。指先が、例の写真に触れる。


「……見るだけ、だから」


誰に言い訳しているのか、自分でも分からないまま、机の上に写真を置く。

改めて見ると、やっぱりはっきりしない。街角の風景と、少し離れた位置に立つ二人。顔はよく見えないのに、立ち方とか、距離感とか、どうしても引っかかるものがある。


「……誰なの」


声に出すと、余計に現実味が増した。

分からない。はずなのに、分からないままでいられない気がする。


思い出そうとすると、頭の奥がじんと痛む。忘れていたというより、触れちゃいけない場所に指を伸ばしかけている、そんな感覚だった。


そのとき、スマホが震えた。

真帆からのメッセージだ。


「さっき、ちょっと元気なかったよね。大丈夫?」


画面を見つめながら、柚希はしばらく考える。

正直に言うほどでもないし、誤魔化すほど嘘もつきたくなかった。


「うん。ちょっと考え事してただけ」


送信すると、すぐに既読がついた。

それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。


写真をそっと引き出しにしまい、椅子に腰を下ろす。天井を見上げると、いつもと同じ白い天井なのに、今日はやけに遠く感じた。


神谷の視線。

朝比奈の短い言葉。

そして、この写真。


「……繋がってる、のかな」


そう思った瞬間、胸の奥がざわつく。

繋がっていてほしい気持ちと、繋がっていてほしくない気持ちが、同時に押し寄せてくる。


窓の外では、空がゆっくりと暗くなっていく。

柚希は目を閉じた。


まだ何も分からない。

でも、拾ってしまった記憶の欠片は、もう無かったことにはできない。そんな確信だけが、静かに、でも確かに胸の中に残っていた。


夜になっても、柚希の頭はなかなか休んでくれなかった。ベッドに横になって目を閉じても、さっき引き出しにしまった写真のことばかりが浮かんでくる。見なければよかった、と思う一方で、見なかったらもっと落ち着かなかった気もして、結局どちらを選んでも同じだったのかもしれないとため息をついた。


「……ほんと、何やってるんだろ」


天井に向かって小さく呟く。

返事が返ってくるわけでもないのに、声にしないと気持ちが散らばったままになりそうだった。


布団の中で寝返りを打つ。スマホの画面がふと目に入り、時刻を確認すると、思っていたより時間が経っていた。明日も普通に学校がある。それだけのことなのに、今はそれがやけに遠い予定のように感じられる。


「……考えすぎ、だよね」


そう言い聞かせながらも、胸の奥は納得していない。写真の中のあの曖昧な輪郭は、はっきりと思い出せないのに、確かに知っている気がする。その感覚が、一番厄介だった。


翌朝、目覚ましの音で目を覚ますと、頭が少し重かった。寝不足だと自覚しながらも、起き上がって支度をする。鏡に映った自分の顔は、いつもと変わらないはずなのに、どこか落ち着きがないように見えた。


「大丈夫、大丈夫」


洗面台で顔を洗いながら、もう一度自分に言い聞かせる。

昨日のことは、まだ何も始まっていない。ただの違和感だ。そう思わないと、足が前に出なくなりそうだった。


学校へ向かう途中、駅のホームで神谷の姿を見つける。少し離れた場所に立って、イヤホンもせずに電車を待っていた。柚希は一瞬迷ってから、近づく。


「おはよう」


声をかけると、神谷は少し驚いたように顔を上げ、それから短く頷いた。


「おはよう」


それだけのやり取りなのに、胸の奥が少しだけ軽くなる。

沈黙が続き、電車が来るまでの時間が妙に長く感じられた。


「……昨日さ」


柚希が言いかけると、神谷は視線を向ける。


「うん?」


「なんでもない。やっぱいい」


言いかけてやめた言葉が、宙に残る。神谷は追及せず、ただ一度だけ柚希の表情を見てから、静かに言った。


「無理に話さなくていい」


その言葉は淡々としていたけれど、不思議と突き放されている感じはしなかった。

電車が到着し、人の波に押されながら二人は乗り込む。


教室に着くと、真帆が手を振ってきた。


「柚希、おはよ。今日ちょっと眠そうじゃない?」


「バレた?」


「分かりやすいんだって」


笑いながら言われて、柚希もつられて小さく笑う。その一瞬だけ、昨日のざわつきが遠のいた。


席に着くと、前の方に朝比奈の背中が見えた。相変わらず姿勢がよく、周囲を気にする様子もない。けれど、ふとした瞬間にこちらを見た気がして、柚希は視線を逸らした。


授業が始まり、ノートを取ろうとするが、ペン先が止まる。

まただ、と自分で分かる。写真のことが、頭の隅から離れない。


「……後で、ちゃんと考えよう」


今は授業に集中しないと。

そう思いながらも、心のどこかで分かっていた。もう、放っておける段階は過ぎている。


昼休み、教室を出ようとしたとき、朝比奈が声をかけてきた。


「柚希」


呼び止められて振り返る。


「昨日のこと」


短くそう言って、朝比奈は言葉を選ぶように一瞬間を置いた。


「気になるなら、一人で抱え込むな」


それだけ言って、視線を外す。

柚希は少し驚きながらも、頷いた。


「……うん」


返事は短かったが、その一言で、胸の中に溜まっていたものが少しだけほどけた気がした。


写真はまだ引き出しの中にある。

答えも、名前も、理由も分からない。


それでも、柚希ははっきりと感じていた。

あの一枚は、ただの偶然じゃない。

静かに、確実に、自分のこれからを揺らし始めている――そんな予感だけが、消えずに残っていた。


昼休みのチャイムが鳴ると同時に、教室の空気が一斉にほどけた。椅子を引く音、弁当箱の蓋が開く音、誰かの笑い声が重なり合い、さっきまでの授業の名残は一気に押し流されていく。柚希はその喧騒の中で、静かに鞄を手に取り、席を立った。特別な目的があったわけではない。ただ、今はこの場所から少しだけ距離を置きたかった。息を整える場所が欲しかった、と言った方が近いかもしれない。教室の扉に手を伸ばした、その瞬間だった。


「柚希」


呼び止められ、振り返る。声の主は朝比奈だった。机に肘をつき、こちらを見ている。表情はいつもと大きく変わらないのに、視線だけが妙に真っ直ぐで、逃げ場を与えない。


「昼、もう予定ある?」


唐突だが、強引さはない。柚希は一瞬だけ考え、「特にないけど」と答えた。


「じゃあさ、一緒に食べない? 静かなとこがいいなと思って」


「……静かなとこ?」


「屋上とか。人、少ないだろ」


言い方は自然で、誘いというより提案に近かった。断ってもいい、と最初から含ませている声音だったから、逆に断る理由が見つからなかった。柚希は小さく頷き、「うん、いいよ」と返す。朝比奈はそれ以上何も言わず、立ち上がって廊下へ向かった。並んで歩き始めると、教室のざわめきは背後に遠ざかり、廊下の白い光と足音だけが二人を包む。


階段を上りながらも、しばらく会話はなかった。沈黙は気まずいものではなく、むしろ無理に言葉を探さなくていい時間だった。だが、踊り場を過ぎたあたりで、朝比奈がぽつりと口を開いた。


「さっきの話なんだけどさ」


「……さっき?」


「無理してないって言ってたろ」


柚希は足を止めはしなかったが、心のどこかがきゅっと縮むのを感じた。「別に、嘘じゃないよ」と返すと、朝比奈は「うん」と短く頷く。


「嘘じゃないのは分かる。ただ、無理してるって自分で気づいてない時のほうが、しんどくなることもあるだろ」


その言い方は淡々としていたが、突き放すような冷たさはなかった。経験から来る実感を、そのまま差し出しているような口調だった。柚希は視線を落とし、階段の段差を一つずつ確かめるように踏みしめる。


「……私、そんなに余裕なさそう?」


「正直に言うと、あるようには見えない」


即答だったが、きつさはない。「元気そうに振る舞うのは上手いと思う。でも、それで全部平気って顔ではない」と続けられ、胸の奥に沈めていたものが、わずかに揺れた。反論したい気持ちはあったが、言葉にはならなかった。


「別にさ、全部話せとか、弱音吐けとか、そういう意味じゃないから」


朝比奈は少し間を置き、「ただ、昼くらいは誰かと一緒にいてもいいだろって思っただけ」と付け加える。その言葉は、押しつけがましくもなく、距離を詰めすぎることもなかった。だからこそ、柚希の中にすっと染み込んできた。


屋上へ続く最後の階段に差し込む光が、二人の足元を明るく照らす。柚希は小さく息を吐き、「……ありがとう」と呟いた。朝比奈は「どういたしまして、ってほどでもないけどな」と肩をすくめる。その声は穏やかで、どこか照れを隠しているようにも聞こえた。


何かが解決したわけではない。失ったものが戻ったわけでも、胸の違和感が消えたわけでもない。それでも、隣に誰かがいるという事実だけで、昼の時間は少しだけ形を変えていく。柚希はその変化を言葉にしないまま受け止め、屋上の扉へと伸びる朝比奈の背中を見つめていた。


屋上の扉を押し開けると、少し乾いた風が二人を迎えた。昼の光は思っていたよりも柔らかく、コンクリートの床に落ちる影も角が取れている。校舎の上というだけで、世界が少し遠くなる気がした。朝比奈は端のフェンス際まで歩き、腰を下ろすと、柚希に目配せをした。


「ここ、意外と落ち着くんだよ」


「うん……静かだね」


柚希も少し離れた位置に座り、鞄から弁当を取り出す。蓋を開ける音がやけに大きく聞こえた。普段なら誰かと昼を食べること自体、特別なことではないはずなのに、今日はその一つ一つの動作に意識が向いてしまう。朝比奈も弁当を広げながら、視線だけを遠くに投げた。


「さっきさ」


箸を止めたまま、朝比奈が言う。


「無理してないって言葉、別に間違いじゃないと思うんだ」


「……うん」


「ただ、無理してないように見せるのが、癖になってる感じはする」


言い方は穏やかだった。決めつけでも、断言でもない。ただの観察の延長のようで、それがかえって心に触れる。柚希は少し考えてから、弁当の白いご飯を見つめたまま答えた。


「……私ね、誰かに心配されるのが、あんまり得意じゃない」


「それは分かる」


「え?」


「俺もそうだから」


朝比奈は苦笑いに近い表情を浮かべる。「心配されると、ちゃんとしなきゃって思うだろ。元気だって証明しなきゃいけないみたいで」と言われ、柚希は小さく息を飲んだ。まるで、自分の内側をそのまま言葉にされたようだった。


「……そう。だから、余計に何も言えなくなる」


「だろ」


短い返事だったが、そこに否定はなかった。朝比奈は弁当の端を箸でつつきながら、「でもさ」と続ける。


「全部一人で抱えるのが正解ってわけでもないと思うんだ」


「正解かどうか、なんて……」


「分かってる。簡単じゃないよな」


その声には、無理に励まそうとする響きはなかった。ただ、同じ場所で立ち止まったことがある人間の実感があった。柚希はフェンスの向こうに広がる街を眺めながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「最近……時々、自分がどこに立ってるのか分からなくなる時があるの」


朝比奈は何も言わず、続きを待った。急かさない沈黙だった。


「ちゃんと前に進んでるつもりなのに、気づくと同じところをぐるぐる回ってる気がして……それが、ちょっと怖い」


声が震えないように意識しながら言い切ると、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ外に出た気がした。朝比奈はゆっくりと息を吐き、「それ」と短く言う。


「多分、立ち止まってるんじゃなくて、確かめてるだけだと思う」


「確かめる?」


「進んでいいかどうか、足元を見てる感じ。慎重なだけだ」


その言葉は、慰めというより再定義に近かった。否定も肯定もせず、意味を少しずらしてくれる。その感覚が、柚希には心地よかった。


「……朝比奈って、時々変なこと言うよね」


「時々は余計だろ」


「でも、嫌じゃない」


そう言うと、朝比奈は少し驚いたように目を瞬かせ、それから照れ隠しのように視線を逸らした。「それならよかった」と呟く声は、いつもより柔らかかった。


風が吹き抜け、フェンスが小さく鳴る。遠くでチャイムの予告音が鳴り始め、昼休みの終わりが近いことを知らせていた。柚希は弁当を片付けながら、心の中でそっと思う。すべてを話したわけではないし、答えが出たわけでもない。それでも、この時間が確かに意味を持っていることだけは分かった。


立ち上がると、朝比奈が振り返って言った。


「また、こういう昼でもいい?」


柚希は少しだけ迷ってから、はっきりと頷いた。


「うん。……ありがとう」


その言葉に、朝比奈は大げさな反応は見せなかった。ただ、「どういたしまして」と自然に返し、扉へと歩き出す。その背中を見送りながら、柚希は気づく。胸の奥にあった重さが、完全ではないにせよ、確かに軽くなっていることに。


屋上を後にする二人の足取りは、来たときよりも少しだけ揃っていた。


午後の授業は、内容が頭に入ってこないまま時間だけが過ぎていった。黒板に書かれる文字を目で追ってはいるのに、意味としては掴めていない。チャイムが鳴るたびに、柚希は小さく肩を揺らし、現実に引き戻される。その繰り返しだった。


昼休みの屋上での会話が、頭の奥にまだ残っている。朝比奈の言葉一つ一つが、特別に深い意味を持っていたわけではないはずなのに、なぜか反芻してしまう。「確かめてるだけだと思う」という一言が、何度も胸の中で形を変えながら転がっていた。


授業が終わり、教室がざわつき始める。椅子を引く音、鞄を閉じる音、誰かの笑い声。いつもならその中に自然と溶け込めるはずなのに、今日は少しだけ距離があるように感じた。


「柚希」


名前を呼ばれて振り向くと、真帆が立っていた。机に片肘をつき、いつもの調子でこちらを見ている。


「今日、放課後どうする?」


「え……今日は、特に決めてないけど」


「じゃあさ、一緒に帰ろ。最近、あんまり話してないし」


その言い方に責める色はなく、ただ当然の確認のようだった。柚希は少し迷ってから頷く。


「うん、いいよ」


「よかった」


真帆は満足そうに笑い、周囲を見回してから声を落とした。


「ねえ、悠真のこと、何か聞いてる?」


一瞬、言葉が詰まる。完全に予想していなかったわけではない。それでも、こうして直接名前を出されると、心臓がわずかに強く打った。


「……ううん。特には」


「そっか」


真帆はそれ以上深く追及しなかった。ただ、「そうだよね」と小さく付け足す。その声音に、納得と諦めが混ざっているように聞こえた。


「みんな、普通にしてるけどさ」


真帆は椅子に腰掛け直し、前を向いたまま続ける。


「何もなかったみたいに、っていうのが、正しいのか分からなくなる時ある」


「……うん」


柚希はそれしか言えなかった。正解を持っていないことは、真帆も分かっている。だからこれは問いというより、吐き出しに近かった。


「柚希は、どう?」


「どう、って……」


「平気?」


平気、という言葉は便利だ。多くを含みながら、何も具体的には示さない。柚希は一瞬考え、それから正直に答える。


「平気じゃない。でも……壊れてもいない」


真帆は少し驚いたように目を丸くし、それから静かに笑った。


「その言い方、柚希っぽい」


「そうかな」


「うん。無理してないのに、無理してるみたいな感じ」


それを言われて、柚希は苦笑した。昼休みに聞いた言葉と、どこか重なる。自分はそんなに分かりやすいのだろうかと思う一方で、長く一緒にいる相手だからこそ見えるものもあるのだろう、とも感じた。


そのとき、教室の後ろから椅子が引かれる音がして、視線を向けると神谷が立ち上がっていた。特別こちらを見るわけでもなく、淡々と荷物をまとめている。その姿は相変わらず、どこか教室の空気と完全には重なっていない。


「神谷ってさ」


真帆が小さく言う。


「たまに、全部分かってるみたいな顔するよね」


「……そうかな」


「するする。何も言わないのに」


柚希は神谷の背中を見つめながら、否定も肯定もしなかった。確かに彼は、多くを語らない。けれどその沈黙が、ただの無関心ではないことも、なんとなく分かっていた。


放課後が近づくにつれ、教室の空気は少しずつ軽くなる。けれど柚希の胸の奥では、いくつもの感情が静かに重なったままだった。真帆の言葉、朝比奈の声、神谷の視線。そして、いないはずなのに、確かに存在を感じてしまう悠真の影。


それらを抱えたまま、今日という一日が、ゆっくりと終わりに向かっていく。その途中に立っていることを、柚希ははっきりと自覚していた。


校舎を出ると、空はすでに夕方の色に傾き始めていた。昼間の熱をまだ含んだ風が、アスファルトの上を低く流れている。真帆と並んで歩きながら、柚希は無意識のうちに少しだけ歩幅を緩めていた。いつもなら、帰り道はもっと軽やかだったはずなのに、今日は足の裏に微妙な重さが残っている。


「ねえ」


真帆が前を向いたまま声をかけてくる。


「最近さ、柚希、ちょっと遠い」


「……遠い?」


「うん。近くにいるのに、どこか別の場所にいる感じ」


言い方は冗談めいていたが、真帆の声は真剣だった。柚希はすぐに言葉を返せず、しばらく沈黙が続く。踏切の警報音が遠くで鳴り、その間を埋めるように自転車が何台か通り過ぎていった。


「自分でも、そう思う」


ようやく口を開いたとき、声は思ったより落ち着いていた。


「ぼーっとしてるだけかもしれないけど……なんて言えばいいのか、分からなくて」


「分からないままって、しんどくない?」


「しんどいよ。でも、はっきりさせるのも怖い」


真帆は小さく息を吐き、「そっか」とだけ言った。それ以上踏み込まない距離感が、ありがたくもあり、少しだけ寂しくもあった。


角を曲がったところで、前方に人影が見える。見慣れた背中に、柚希は思わず足を止めた。


「……朝比奈」


気づいた朝比奈が振り返り、二人を見て少し驚いたように目を瞬かせる。


「あ、奇遇だな」


「今帰り?」


真帆が自然に声をかけると、朝比奈は頷いた。


「部活の用事が早く終わってさ。二人は?」


「一緒に帰るとこ」


「そうなんだ」


三人で並んで歩き出すと、空気が少しだけ変わった。重くなるわけでも、軽くなるわけでもない。ただ、視界が少し広がったような感覚があった。


「昼は、ありがとう」


柚希が小さく言うと、朝比奈は一瞬だけ足を緩めてから、「気にしなくていいって」と返す。


「むしろ、話してくれて助かった」


「私、あんまり話せてなかったと思うけど」


「それでもだよ。黙って一緒にいるのも、結構大事だろ」


その言葉に、真帆がちらりと柚希を見る。


「なにそれ、いいこと言うじゃん」


「たまたま思っただけ」


朝比奈は少し照れたように視線を逸らした。柚希はその横顔を見ながら、昼間の屋上で感じたものが、まだ消えていないことに気づく。誰かに理解されることよりも、理解しようとしてくれる姿勢そのものが、こんなにも心を軽くするのだと。


しばらく歩いたところで、真帆が立ち止まる。


「じゃあ、私こっちだから」


「うん、また明日」


手を振って別れると、道には柚希と朝比奈だけが残った。夕焼けの色が、二人の影を長く伸ばしている。


「……一人になるの、平気?」


唐突だが、朝比奈の声は柔らかかった。


「平気、だと思う」


「そっか」


それ以上、追及はない。ただ一緒に歩く時間が、少しだけ続く。


「柚希」


呼ばれて顔を上げると、朝比奈は前を向いたまま言った。


「答えが出なくてもさ、立ち止まってもいいと思う」


「うん」


「でも、一人で抱え込む必要はない」


その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。涙が出るほどではない。ただ、確かに何かが緩んだ感覚があった。


別れ道に差しかかり、二人は足を止める。


「じゃあ、また明日」


「うん。また」


背を向けて歩き出しながら、柚希は一度だけ振り返った。朝比奈はすでに前を向いていて、その背中は夕暮れの中に溶けかけている。


一人になった帰り道で、柚希は空を見上げた。星はまだ見えない。それでも、今日一日の中で交わした言葉や視線が、確かに胸の中に積み重なっている。失われたものの影はまだ消えない。それでも、誰かと歩くことで、前に進めるかもしれない。そう思えたこと自体が、今日という日の小さな救いだった。


その夜、柚希はいつもより早く布団に入った。身体が疲れているというより、頭の中が静かになる場所を求めていたのかもしれない。電気を消し、天井を見つめながら、今日一日の出来事を順に思い返す。真帆と交わした何気ない会話、朝比奈の穏やかな声、神谷の言葉少なな背中。どれもが小さな断片のはずなのに、胸の奥では一つの塊になって沈んでいた。


目を閉じても、すぐには眠れなかった。秒針の音がやけに大きく感じられ、布団の中で何度か寝返りを打つ。しばらくして、意識がゆっくりと沈んでいく感覚が訪れた。考え事と現実の境目が曖昧になり、音も重さも薄れていく。


気づくと、柚希は見覚えのある場所に立っていた。夕方の河川敷だ。風は穏やかで、草の匂いが微かに混じっている。空は薄い橙色に染まり、時間が止まっているようだった。


「……やっぱり、ここか」


自分の声が聞こえたのかどうか、はっきりしない。ただ、その場所に理由もなく懐かしさを覚えていた。


「遅い」


背後から声がして、柚希は振り返る。そこに立っていたのは、悠真だった。制服姿のまま、少しだけ困ったような笑いを浮かべている。現実で最後に見た姿よりも、ずっと穏やかで、近くに感じられた。


「……悠真」


名前を呼ぶと、胸がきゅっと締めつけられる。夢だと分かっているはずなのに、確かにそこに“いる”と感じてしまう。


「また、同じ顔してる」


「どんな顔?」


「言いたいこと、いっぱいあるのに我慢してる顔」


柚希は言葉に詰まり、視線を逸らした。


「だって……急にいなくなって」


「うん」


悠真は否定も弁解もしなかった。ただ、ゆっくりと柚希の隣に立ち、同じ方向を見つめる。


「俺さ」


その声は静かで、風の音に溶け込むようだった。


「ずっと言わなきゃいけないことがあった」


心臓が一つ、大きく跳ねる。


「今さら?」


「今だから、だよ」


悠真は少しだけ間を置き、言葉を選ぶように続ける。


「柚希には、知らないままでいてほしかった。でも、それじゃ……」


「それじゃ、何?」


問い返す声が震える。悠真は一度だけ、強く息を吸った。


「俺がいなくなった理由」


その瞬間、周囲の景色がわずかに揺らいだ。風の音が遠のき、世界が悠真の声だけを中心に回り始める。


「それは——」


言いかけたところで、悠真は言葉を切る。


「……いや、まだ全部は言えない」


「なんで」


「今、全部話したら、柚希が立てなくなる」


その言い方は、心配するようでもあり、覚悟を促すようでもあった。


「でも、覚えておいてほしい言葉がある」


悠真は柚希の方を見て、はっきりと告げる。


「“選ばなかったんじゃない。守るために、離れただけだ”」


その言葉が胸に落ちた瞬間、強い衝撃が走る。意味を掴む前に、感情だけが先に反応した。


「どういう……意味?」


問いかけても、悠真はもう答えない。ただ、少しだけ笑って言った。


「それが分かったとき、柚希は多分、全部繋がる」


「繋がるって……何が」


「俺と、あいつと、それから——」


悠真の声が遠くなる。名前の部分だけが、うまく聞き取れない。耳元で何かが遮られるような感覚がして、景色が滲み始めた。


「待って、まだ……!」


手を伸ばしても、悠真の姿は少しずつ薄れていく。


「無理しなくていい」


最後に聞こえた声は、ひどく優しかった。


「でも、目を逸らさないで」


その言葉と同時に、視界が暗転する。


柚希は、はっと息を吸って目を覚ました。心臓が早鐘を打ち、手のひらにはうっすらと汗が滲んでいる。部屋は暗く、現実の静けさが戻ってきていた。


「……悠真」


小さく呟くと、胸の奥にまだ、あの言葉が残っている。


――選ばなかったんじゃない。守るために、離れただけだ。


意味は分からない。それでも、それがただの夢ではないことだけは、なぜかはっきりと分かっていた。


目を覚ましたあともしばらく、柚希は布団の中で動けずにいた。部屋の暗さは変わらないのに、意識だけがやけに冴えている。胸の奥に残った感覚が、夢だったと片づけるには生々しすぎた。悠真の声、視線、そしてあの言葉。思い返すたびに、心臓の鼓動がわずかに早くなる。


「守るために、離れただけ……」


声に出してみると、言葉の重みがはっきりと伝わってきた。選ばなかったわけじゃない。その言い切りが、これまで抱いてきた不安や後悔を、少しだけ別の角度から照らしている気がした。


枕元の時計を見ると、まだ夜が明けるには早い時間だった。再び眠ろうとして目を閉じても、頭の中では夢の続きを探してしまう。結局、柚希は静かに起き上がり、カーテンを少しだけ開けた。街灯の光が淡く差し込み、部屋の輪郭を浮かび上がらせる。


そのまま朝を迎え、身支度を整えて家を出る頃には、夢の鮮明さは少し薄れていた。それでも、あの言葉だけは消えずに残っている。登校の道すがら、無意識のうちに周囲を見渡してしまうのは、悠真の姿を探しているからだと、自分でも分かっていた。


教室に入ると、いつも通りの光景が広がっていた。席に着くと、すぐに真帆が振り返る。


「おはよ。今日、顔色どうしたの?」


「え、そんなにひどい?」


「ひどいっていうか……寝不足?」


図星だったが、正直に頷くのは少し気が引けた。


「ちょっと、考え事してただけ」


「また?」


真帆は半ば呆れたように笑い、それでもそれ以上は追及しなかった。「無理すんなよ」と軽く付け足す。その一言が、今朝の柚希にはありがたかった。


少し遅れて、神谷が教室に入ってくる。いつもと同じように無言で席に向かい、鞄を置く。その様子を見ながら、柚希はふと夢の中の悠真の言葉を思い出した。“あいつ”という、名前の出てこなかった存在。胸の奥が、わずかにざわつく。


授業が始まり、黒板に視線を向けてはいるものの、頭の中は別の場所にあった。もし、悠真が言っていた“真実”が本当にあるのだとしたら、それは自分が知らないままでいた何かだ。そして、それを知ることで、今まで見えていた景色が変わってしまうかもしれない。


昼休み、席を立とうとしたところで、朝比奈が声をかけてきた。


「柚希、ちょっといい?」


「うん」


二人で廊下に出ると、朝比奈は少し考えるような間を置いてから言った。


「昨日のあと、大丈夫だった?」


「……何が?」


「夜、変な夢とか見てないかって」


思わず足が止まる。


「どうして、そんなこと聞くの?」


「なんとなく。顔が、昨日より考え込んでる」


核心を突かれた気がして、柚希は一瞬迷った末、正直に答えた。


「夢、見た」


「誰の?」


「悠真」


朝比奈はそれ以上驚かなかった。ただ、小さく頷く。


「やっぱり」


「やっぱり、って?」


「無理に忘れようとすると、逆に出てくるんだよな」


それは慰めとも、経験談とも取れる言い方だった。


「……悠真がさ」


柚希は言葉を探しながら続ける。


「理由があるって言った。守るために、離れただけだって」


朝比奈は少し目を伏せ、しばらく考え込む。


「それ、夢でも、気になるだろ」


「うん」


「だったら、無視しないほうがいいと思う」


「調べろってこと?」


「確かめる、でいい」


朝比奈は視線を上げ、真っ直ぐに言った。


「知らないままでいるほうが、きつい時もあるから」


その言葉に、柚希は静かに頷いた。夢は夢のままかもしれない。それでも、心に残った違和感は、もう放っておけなかった。


教室に戻る途中、柚希は深く息を吸った。悠真が残した言葉は、まだ輪郭を持たない。それでも、確かに何かを指し示している。これから先、その意味に触れることになるのだと、漠然と感じていた。


そしてその予感は、決して穏やかなものではない。それでも、目を逸らさずに進むしかないと、柚希は自分に言い聞かせていた。


朝比奈と別れて教室に戻ったあとも、柚希の胸の中は落ち着かなかった。授業の音は耳に届いているのに、内容はほとんど頭に残らない。悠真の言葉が、何度も形を変えて浮かんでは沈んでいく。“守るために、離れただけ”。その一文が、今まで自分が信じてきた前提を静かに揺さぶっていた。


休み時間になると、真帆が椅子ごと近づいてくる。


「ねえ、さっき朝比奈と何話してたの?」


「ちょっと……夢の話」


「夢?」


真帆は眉をひそめた。


「最近、夢にまで出てくるって、結構きてない?」


「そうかもしれない」


柚希は苦笑しながら頷く。


「でも、ただ懐かしいだけじゃなくて……理由がある気がして」


「理由?」


「悠真が、理由があるって言った」


その瞬間、真帆の表情がわずかに変わった。驚きというより、慎重になるような目だった。


「それ、本当に言ったの?」


「夢の中だけど」


「……そっか」


真帆は少し考えてから、声を落とす。


「柚希さ、期待しすぎないほうがいいと思う」


「分かってる」


即答だった。


「分かってるけど、何も知らないままなのも嫌で」


真帆はため息をつき、「相変わらずだね」と言った。


「納得できないと、進めないタイプ」


「否定はしない」


「うん。でも、私はその性格、嫌いじゃないよ」


そう言って笑う。その笑顔に、柚希は少しだけ救われた。


そのとき、後ろの席から椅子の軋む音がして、神谷がこちらを見ていた。いつもの無表情に近い顔だが、目だけが何かを測るように動いている。


「夢の話?」


突然の一言に、柚希は少し驚いた。


「聞こえてた?」


「全部じゃない」


神谷は淡々と続ける。


「でも、理由があるって話は」


「……何か、知ってるの?」


問いかけると、神谷は少しだけ首を傾げた。


「知ってる、というより……引っかかってることはある」


「引っかかってる?」


「悠真がいなくなった前後で、いくつか不自然な点がある」


真帆が思わず身を乗り出す。


「ちょっと待って。それ、今さら言う?」


「今さらだから、だと思う」


神谷の視線は、真っ直ぐ柚希に向けられていた。


「時間が経ったからこそ、見えることもある」


教室のざわめきが、急に遠く感じられた。


「例えば?」


柚希が促すと、神谷は少し言葉を選ぶように間を置いた。


「連絡が完全に途切れたタイミングと、周囲の動きが一致してない」


「周囲って?」


「学校だけじゃない。家族も含めて」


その言い方は慎重だったが、含んでいる意味は重い。柚希は息を飲み、真帆は無言で二人を見比べる。


「それ、どういうこと?」


真帆が聞くと、神谷は首を横に振った。


「まだ確信はない。ただ、違和感がある」


「違和感だけで、ここまで言うの?」


「違和感が、一番長く残る」


神谷はそう言って、視線を落とした。


チャイムが鳴り、会話はそこで途切れる。だが、柚希の中では何かが確実に動き始めていた。夢で聞いた言葉が、現実の違和感と静かに重なっていく。悠真が残したものは、思い出だけではない。まだ、触れていない“事実”がある。その輪郭が、少しずつ浮かび上がり始めていた。


放課後の廊下は、昼間よりも音が少なかった。部活へ向かう生徒の足音と、窓の外から聞こえる運動部の声が、どこか現実感を薄めている。柚希は靴箱の前で立ち止まり、ぼんやりと考え事をしていた。


「まだ帰らないの?」


背後から声がして振り返ると、朝比奈がいた。鞄を肩にかけ、いつもの少し力の抜けた表情をしている。


「うん、ちょっと考え事」


「顔見りゃ分かるよ。ずっと難しい顔してる」


「そんなに?」


「してるしてる。授業中も」


柚希は苦笑して靴を履き替えた。


「ねえ、さっきの話だけどさ」


「夢の?」


「うん」


朝比奈は並んで歩きながら、特別なことでもないような調子で続ける。


「正直さ、夢だからって全部無視するのも違うと思うんだよね」


「朝比奈がそんなこと言うんだ」


「意外?」


「うん、もっと現実的なこと言うかと思った」


「俺だって現実は見るよ。でもさ、引っかかるもんは引っかかるだろ」


昇降口を抜け、校門の方へ向かう。夕方の空はまだ明るく、風も穏やかだった。


「悠真のこと、柚希はどう思ってる?」


不意に投げられた問いに、柚希はすぐ答えられなかった。


「……分からない」


少しして、そう口にする。


「好きだったとか、今でも忘れられないとか、そういうのはある。でも、それだけじゃなくて……置いていかれたままって感じ」


「置いていかれた、か」


朝比奈は頷く。


「それ、結構きついやつだな」


「うん」


「でもさ」


朝比奈は足を止め、柚希を見る。


「もし本当に、悠真が何かを守ろうとしてたなら、柚希だけが置いていかれたわけじゃないと思う」


「どういう意味?」


「一人で抱え込んで、誰にも説明しなかったってこと」


その言葉は、思った以上に静かに胸に落ちた。


「……それ、ずるいよね」


柚希がぽつりと言う。


「ずるい。でも、ありがちな選択でもある」


「分かったふりしないでよ」


「してないって。ただ、想像はできる」


朝比奈は少し照れたように頭をかいた。


「俺もさ、全部話すの苦手だから」


「朝比奈が?」


「意外だろ」


「うん」


「だから、柚希が気になってる理由も、無理に否定したくない」


再び歩き出す。校門の前で、朝比奈は立ち止まった。


「すぐ答えが出なくてもいいと思うよ」


「でも、進まなきゃって思う」


「進むって、忘れることだけじゃないだろ」


その言葉に、柚希ははっとする。


「知ろうとするのも、進むってこと」


朝比奈はそう言って、軽く笑った。


「まあ、あんまり一人で抱え込むなよ。神谷も真帆もいるし、俺もいる」


「……ありがとう」


「どういたしまして」


朝比奈は手を軽く振って、先に歩き出した。夕焼けに溶けていく背中を見送りながら、柚希は胸の奥で小さく息を整えた。


夢で聞いた言葉は、まだ答えにはなっていない。でも、現実の中でそれを受け止めてくれる人がいる。その事実が、少しだけ足元を確かにしてくれた気がした。


翌日の朝、教室の空気はいつもと同じようで、どこか違っていた。柚希自身の感覚が変わってしまったせいなのか、それとも本当に何かがずれ始めているのか、はっきりとは分からない。ただ、昨日の放課後の会話が頭から離れず、授業が始まってもノートの文字がなかなか進まなかった。


「柚希、さっきから手止まってない?」


隣の席の真帆が小声で言う。


「え、あ……うん。ちょっとね」


「また考え事?」


「まあ、そんなとこ」


真帆はそれ以上深く突っ込まず、「そっか」とだけ返して前を向いた。その距離感が、今はありがたかった。


休み時間になり、教室がざわつき始めると、神谷が後ろの席から身を乗り出してきた。


「なあ、柚希」


「なに?」


「昨日さ、帰り一緒じゃなかったよな」


「うん。朝比奈と少し話してた」


「あー、やっぱり」


神谷は妙に納得した顔をする。


「最近、あいつと話すこと多いな」


「そう見える?」


「見える」


神谷ははっきり言ってから、少し言いにくそうに続けた。


「悪い意味じゃないぞ。ただ……何か掴もうとしてる感じがする」


柚希は一瞬、返事に迷った。


「掴もうとしてる、か」


「うん。俺の勘だけどな」


勘、という言葉に引っかかる。柚希自身も、同じような感覚を抱いていた。はっきりした証拠も理由もないのに、点と点がどこかで繋がりそうな、そんな予感だけがある。


昼休み、柚希は鞄の中を探って、あの写真がまだ入っていることを確かめた。何度見ても、写っている人物の輪郭は曖昧なのに、視線だけが妙にこちらを捉えて離さない。


「……なんなんだろ」


思わず声に出る。


「何が?」


向かいの席から真帆が顔を上げた。


「ううん、独り言」


「最近独り言多くない?」


「そうかも」


柚希は苦笑した。


「ねえ、柚希」


今度は別の声だった。朝比奈が立っている。


「昼、ちょっといい?」


「今?」


「うん、すぐ終わる」


真帆が目で「行ってきなよ」と合図をする。柚希は立ち上がり、朝比奈と一緒に廊下へ出た。


「何?」


「これさ」


朝比奈はポケットからスマホを取り出し、画面を見せる。


「昨日言ってた写真、少し調べてみた」


「調べたって……どうやって?」


「完全に確証あるわけじゃないけど」


そう前置きしてから、朝比奈は続ける。


「似た構図の写真を、昔の学校関係の記録で見たことがある」


「学校?」


「うん。この辺りの、な」


その一言で、柚希の胸が少し強く鳴った。


「それって……偶然?」


「どうだろうな。でもさ」


朝比奈は画面を消し、柚希を見る。


「偶然にしちゃ、重なりすぎじゃない?」


言い切らないその口調が、逆に現実味を帯びていた。柚希は返す言葉を探しながら、自分がどこへ向かおうとしているのかを考えていた。知りたい。でも、知った先で何が待っているのかは分からない。


「もしさ」


柚希が静かに言う。


「この先で、聞きたくないことが出てきたら……どうする?」


朝比奈は少し考えてから答えた。


「それでも、止まれないと思う」


「どうして?」


「ここまで来たら、知らないままの方が怖い」


その言葉に、柚希は何も言えなくなった。自分も同じことを感じているからだ。


教室へ戻る途中、廊下の窓から見える校庭は、いつもと変わらない風景だった。けれど柚希には、その向こう側に、まだ名前のついていない何かが待っているように思えてならなかった。


この先、何が明らかになるのか。

そして、それは自分に何を突きつけてくるのか。

答えはまだ見えない。ただ、引き返せない場所に足を踏み入れたことだけは、はっきりと分かっていた。


放課後、校舎の中は昼間のざわめきが嘘だったかのように静まり返っていた。廊下を歩く自分の足音がやけに響いて、柚希は無意識のうちに歩調を落とした。昇降口へ向かう途中、窓際に立つ神谷の姿が目に入る。


「まだ帰らないの?」


声をかけると、神谷は振り返って肩をすくめた。


「今から帰るとこ。柚希こそ、遅いな」


「ちょっと用事があって」


「朝比奈?」


「……なんで分かるの」


「なんとなく」


神谷はそれ以上追及せず、並んで歩き出した。沈黙が続いたあと、ぽつりと神谷が口を開く。


「最近さ」


「うん?」


「前より、考え込む顔するようになった」


「そう?」


「うん。前はもっと、無理やりでも笑ってた」


その言葉に、柚希は足を止めた。


「それって、いい意味?」


「悪い意味じゃない。ただ……」


神谷は言葉を探すように視線を逸らす。


「何かを思い出しそうな人の顔、って感じ」


思い出しそうな人。その表現が胸に引っかかる。


「私、何か忘れてると思う?」


「分かんない。でも」


神谷は柚希を見た。


「忘れてるって気づいた時点で、もう戻り始めてるんじゃないか」


玄関に着き、神谷は先に靴を履いた。


「無理するなよ」


「心配してくれてる?」


「まあな。友達だし」


軽く言って、神谷は先に外へ出ていった。その背中を見送りながら、柚希は自分がどれだけ支えられているかを改めて思い知る。


その後、約束していた場所で朝比奈と合流した。校門から少し離れたベンチに腰を下ろすと、夕方の風が制服の袖を揺らす。


「さっきの続きだけどさ」


朝比奈が切り出す。


「正直に言うと、俺も全部分かってるわけじゃない」


「うん」


「ただ、写真の件もそうだし、君の話も聞いてて思ったんだ」


朝比奈はベンチの地面を見つめる。


「誰かが意図的に、記憶の断片を残してる気がする」


「意図的に?」


「落としたっていうより、置かれた、って感じ」


柚希は写真を取り出し、改めて眺めた。


「じゃあ、これも……」


「可能性はある」


しばらく沈黙が流れる。


「ねえ、朝比奈」


「なに?」


「もし、この先で悠真に繋がることが出てきたら……」


声が少し震える。


「私は、ちゃんと向き合えるかな」


朝比奈は即答しなかった。その代わり、ゆっくりと言った。


「一人じゃないだろ」


「……」


「俺もいるし、神谷も、真帆もいる」


その言葉に、柚希は少しだけ肩の力が抜けた。


「ありがとう」


「礼言われるようなことじゃない」


空が茜色に染まり始める。帰り道、写真を鞄にしまいながら、柚希は感じていた。これは偶然の連なりではない。誰かの過去と、自分の今が、確実に交差し始めている。


まだ全貌は見えない。けれど、足元に落ちている小さな欠片は、確かに一つずつ形を成し始めていた。

この先に待つものが痛みであっても、真実である限り、目を逸らすことはできない。そう、心の奥で静かに覚悟が固まりつつあった。


翌日の放課後、柚希は一人で商店街を歩いていた。用事があったわけじゃない。ただ、家にまっすぐ帰る気になれなかった。それくらい、胸の奥がざわついていた。


鞄の中には、あの写真の切れ端がある。昨夜も何度か取り出して眺めたが、見れば見るほど、分からない部分が増えていく感覚があった。写っている風景、写っている人物、そのどれもが「見たことがあるはずなのに、決定的に思い出せない」。


「……ほんと、なんなんだろ」


小さく呟いたそのときだった。


足元に、何かが落ちているのが目に入った。紙切れだ。何気なく拾い上げた瞬間、柚希の心臓が一拍、強く跳ねた。


写真だった。


しかも、それは昨日拾った切れ端と、色味も質感も、明らかに同じだった。


「うそ……」


思わず声が漏れる。指先がわずかに震えるのを感じながら、柚希は二つの写真を重ねた。形はぴったり合わないが、端の破れ方や、背景の連なりが一致している。


一枚の写真が、確実に形を取り戻そうとしていた。


そこに写っていたのは、ブランコと、夕暮れの公園。そして、並んで立つ二人の子ども。その片方の顔は、切れ端ではまだはっきり見えない。それでも、もう一人の輪郭には、見覚えがあった。


「……悠真」


名前を口にした瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


柚希はその場に立ち尽くし、頭の中で必死に記憶を探った。ブランコ、公園、夕焼け。何度も見たはずの景色。何度も聞いたはずの声。


なのに、肝心なところだけが、靄に包まれている。


「柚希?」


背後から聞こえた声に、肩が跳ねた。振り返ると、真帆が立っていた。


「こんなところでどうしたの?」


「真帆……」


柚希は写真を見せた。真帆は一瞬目を丸くし、すぐに真剣な表情になる。


「これ、昨日言ってたやつ?」


「うん。で、これが……たぶん、同じ写真の続き」


「拾ったの?」


「偶然」


そう言いながら、柚希自身、その言葉を信じきれずにいた。


「偶然にしては、出来すぎてない?」


真帆の言葉に、柚希は小さくうなずく。


「ねえ、この男の子……」


真帆が写真を指差す。


「悠真、だよね」


「……やっぱり、そう見えるよね」


二人は顔を見合わせた。否定する理由はなかった。むしろ、否定したいのは心のほうだった。


「柚希」


真帆が少し声を落とす。


「これ、誰かに見せた?」


「朝比奈には。神谷は、まだ」


「じゃあさ」


真帆は一拍置いてから言った。


「悠真本人には?」


その一言で、柚希の呼吸が止まった。


「……それは」


考えたことはあった。でも、考えるたびに怖くなって、避けてきた。


もし、悠真が覚えていたら。

もし、悠真が覚えていなかったら。


どちらでも、今の関係が変わってしまう気がした。


「でもさ」


真帆は柔らかく続ける。


「距離を縮めたいなら、避け続けるのも違う気がする」


その言葉は、柚希の胸に静かに沈んだ。


その夜、部屋で写真を机に広げながら、柚希はじっと見つめ続けた。切れ端同士を合わせるたび、足りない部分がはっきりと浮かび上がる。それは、記憶と同じだった。


欠けているからこそ、全体を知りたくなる。


「……悠真」


名前を呼ぶと、不思議と、胸の奥が少しだけ温かくなった。


あの写真の続きを見つけた先に、何が待っているのかは分からない。でも確かなのは、悠真との距離が、知らないうちに、もう一歩近づいてしまったということだった。


そしてその一歩が、これから先、戻れない場所へと繋がっている予感だけが、静かに、しかし確実に、柚希の中で膨らみ始めていた。


翌朝、柚希は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。昨夜は何度も写真を見返し、そのたびに胸の奥がざわついて、眠りは浅かった。カーテン越しの光が部屋に差し込み、いつもの朝と変わらないはずなのに、世界が少しだけ違って見える。


机の上には、二枚の写真の切れ端が並んでいる。完全には繋がらないその隙間が、まるで自分の記憶そのものみたいで、柚希は無意識に指でなぞった。


「……今日、どうしよう」


誰に言うでもなく呟く。悠真に見せるべきか、それとも、もう少しだけ時間を置くべきか。答えは出ないまま、制服に袖を通した。


学校へ向かう途中、何度か悠真の姿を探してしまう自分に気づく。そのたびに胸がきゅっと縮むのに、見つけられないと、それはそれで落ち着かない。


教室に入ると、真帆がすぐに気づいて手を振った。


「おはよ、柚希。顔、ちょっと疲れてない?」


「……そんなことないよ」


そう言いながら、声に自信がなかったのは自分でも分かった。


「写真、まだ持ってる?」


「うん」


「そっか」


真帆はそれ以上追及しなかった。ただ、柚希の机の端に視線を落とし、静かに言った。


「今日、何か動きそうな気がする」


その言葉に、柚希は小さく息をのんだ。自分も同じことを感じていたからだ。


昼休み、柚希は屋上へ向かう階段を上っていた。理由は特にない。ただ、教室にいるのが落ち着かなかった。扉を開けると、冷たい風が頬をなでる。


そこに、先客がいた。


悠真だった。


フェンスにもたれ、空を見上げている。その横顔は、いつもより少し遠く感じられた。


「あ……」


声をかけるか迷っていると、悠真が気づいて振り返る。


「柚希。どうした?」


「いや……ちょっと」


言葉を探している間に、悠真が近づいてきた。


「顔、真剣だな。何かあった?」


その問いかけに、柚希の心臓が強く鳴る。鞄の中の写真の重みを、はっきりと感じた。


「悠真に……見せたいものがあって」


悠真は一瞬、驚いたように目を瞬かせたが、すぐに頷いた。


「いいよ」


屋上のベンチに並んで座り、柚希は写真を取り出した。二枚を重ねると、悠真の視線がそこに吸い寄せられる。


「これ……」


悠真の声が、ほんの少しだけ低くなる。


「昨日、拾った切れ端と、今日見つけたの。たぶん、同じ写真」


悠真は何も言わず、じっと見つめていた。しばらくして、ぽつりと呟く。


「……覚えてないはずなのに」


「え?」


柚希が顔を上げると、悠真は眉を寄せていた。


「頭の奥が、変な感じする。見たことないはずなのに、懐かしい」


その言葉に、柚希の喉が詰まる。


「悠真、これ……」


言いかけたとき、屋上の扉が軋んで開いた。


「やっぱり、ここにいた」


朝比奈だった。二人の間に置かれた写真を見るなり、足を止める。


「……それ、揃い始めたんだ」


「知ってたの?」


柚希が思わず聞くと、朝比奈は肩をすくめた。


「全部じゃない。でも、気にはなってた」


悠真は写真から目を離さず、低く言った。


「朝比奈。これ、俺が関係してるんだよな」


否定も肯定もせず、朝比奈は少し間を置いた。


「関係してない、とは言えない」


その曖昧な答えが、逆に現実味を帯びて胸に落ちてくる。


「なあ、柚希」


悠真が写真を見たまま言った。


「これ、全部集めたら……何か思い出すのかな」


その問いに、柚希はすぐ答えられなかった。けれど、逃げる気はなかった。


「分からない。でも……」


一度、言葉を切る。


「私は、知りたい」


悠真はゆっくりと頷いた。


「俺もだ」


その瞬間、二人の間に流れていた距離が、確かに縮んだのを柚希は感じた。


足りない写真、欠けた記憶、言葉にできない感情。それらが少しずつ形を持ち始めている。


そして、その先に待っているものが、決して穏やかなだけではないと、誰もが分かっていた。それでも、もう立ち止まることはできない。


屋上を吹き抜ける風が、写真の端をかすかに揺らした。その隙間を埋める何かが、すぐそこまで近づいている――そんな予感だけを残して、時間は静かに、しかし確実に、先へと進み続けていた。


放課後の校舎は、昼間のざわめきが嘘みたいに静かだった。窓の外では、薄く色づいた空がゆっくりと沈み始めている。柚希は廊下を歩きながら、鞄の中に入れたままの写真の切れ端の存在を、ずっと意識していた。触れていないのに、そこにあると分かる。そんな感覚だった。


「柚希、ちょっといい?」


背後から声をかけてきたのは真帆だった。振り返ると、いつもより少しだけ真剣な顔をしている。


「うん、どうしたの?」


「朝比奈と神谷、もう先に行ったよ。たぶん、あの場所」


その言葉に、柚希は小さく息を吸った。


「……そっか」


「大丈夫?」


「大丈夫、だと思う」


自分に言い聞かせるようにそう答えると、真帆はそれ以上何も言わず、軽く背中を押した。


「行ってきな」


校舎裏の古い階段を下りると、夕方の空気がひんやりと頬に触れた。あの場所――使われなくなった旧体育倉庫の前には、すでに三人の姿があった。悠真、神谷、そして朝比奈。


「遅れてごめん」


柚希の声に、悠真がすぐ振り向いた。


「いや、今来たとこ」


その声は落ち着いていたけれど、視線はどこか落ち着いていなかった。朝比奈は倉庫の壁にもたれながら、軽く手を振る。


「ちょうどいいよ。話、始めようと思ってた」


「話って……」


柚希が聞き返すと、神谷が一歩前に出た。相変わらず表情は読みづらいが、今日は視線を逸らさなかった。


「その写真のこと」


柚希は黙って鞄から切れ端を取り出した。夕暮れの光の中で見る写真は、昼間よりもずっと生々しく感じられる。


「これ、やっぱり悠真が写ってるんだよね」


悠真はしばらく写真を見つめてから、低く答えた。


「……たぶん。でも、全部は思い出せない」


「それでいい」


朝比奈が静かに言った。


「思い出せないこと自体が、もう手がかりだから」


「手がかり?」


柚希が眉をひそめると、朝比奈は少し困ったように笑った。


「全部説明すると長くなる。でも、一つだけ言えるのは、その写真は“終わった過去”じゃないってこと」


その言葉が、胸の奥に引っかかる。


「じゃあ、まだ続いてるってこと?」


真帆の声が、倉庫の静けさに響いた。いつの間にか、彼女も後ろに立っていた。


「続いてるし、これから動く」


朝比奈ははっきりと言った。


「悠真を中心に」


一瞬、空気が張りつめる。悠真は驚いたように目を見開いたが、すぐに視線を落とした。


「……俺、何かしたのか?」


その問いは弱々しかった。でも、逃げる響きはなかった。


柚希は思わず一歩近づいた。


「悠真が何かしたかどうかは、今は分からない。でも」


言葉を選びながら、続ける。


「私は、悠真と一緒に知りたい」


悠真は顔を上げ、柚希を見た。その目には、不安と同時に、かすかな安堵が混じっていた。


「……ありがとう」


短い言葉だったけれど、柚希には十分だった。


神谷が腕を組んだまま、ぽつりと呟く。


「ここまで来たら、引き返せないな」


「最初から、そのつもりでしょ」


真帆が言うと、神谷は小さく笑った。


倉庫の影が長く伸び、足元を覆い始める。時間が、もう猶予を与えてくれないような感覚があった。


朝比奈は最後に、写真にもう一度目を落とした。


「これ、まだ欠けてる。残りは……近いうちに動くはずだ」


「どうして分かるの?」


柚希が聞くと、彼は少しだけ言葉を濁した。


「経験、かな」


その曖昧な答えが、逆に現実味を帯びる。


誰もが、同じことを感じていた。これが区切りであり、同時に始まりでもあるということを。


柚希は写真を胸にしまい、夕暮れの空を見上げた。失われた記憶の欠片は、もう偶然ではなくなっている。確実に、何かを指し示していた。


それが希望なのか、それとも別の何かなのか――まだ分からない。ただ一つ、確かなのは、この先に進まなければ答えは見えないということだった。


静かな倉庫の前で交わされた沈黙は、やがて誰の中にも残り続ける重さを持ち始めていた。ここが、大きな分岐点であることを、全員が無言のまま理解していた。


倉庫を離れたあと、五人はしばらく無言で歩いていた。夕暮れはいつの間にか夜の気配を帯び、校舎の灯りが一つずつ点き始めている。誰かが何かを言い出せば、きっと流れが変わってしまう。そんな気がして、柚希は言葉を飲み込んだ。


校門の前で、真帆が立ち止まる。


「今日は、ここまでにしよっか」


「うん……」


柚希が頷くと、悠真も静かに同意した。


「頭、ちょっと整理したい」


神谷は腕時計を見てから、軽く息を吐く。


「無理にまとめなくていい。分からないままでも、進めることはある」


その言葉に、柚希は少し救われた気がした。


朝比奈は最後まで黙っていたが、別れ際に柚希を呼び止めた。


「柚希」


「なに?」


「その写真、今日のうちにもう一度だけ見ておいた方がいい」


「……どうして?」


彼は少し考えてから、曖昧に笑った。


「直感。悪くないから」


それ以上は何も言わず、朝比奈は夜の校舎に溶けるように去っていった。


家に帰ると、柚希は制服も着替えないまま机に向かった。電気を点けると、昼間とは違う影が部屋の隅にできる。鞄から写真を取り出し、そっと机に置いた。


切れ端を並べ直す。角度を変え、距離を詰める。何度も繰り返しているはずなのに、今夜は違って見えた。


「……あれ?」


柚希は息を止めた。


写真の背景、今まで気にも留めていなかった場所に、小さな看板の文字が写り込んでいる。ぼやけていて全部は読めないが、見覚えのある形だった。


「これ……」


胸の奥が、静かにざわつく。悠真と行ったことがある場所。はっきりとは思い出せないけれど、確かに、二人で立っていた感覚だけが残っている。


柚希はスマートフォンを手に取り、悠真の名前を表示させたまま、しばらく迷った。


「……やっぱり、明日にしよう」


そう呟いて、画面を伏せる。


今すぐ伝えてしまえば、何かが動く。けれど、それが正しい順番なのか分からなかった。朝比奈の言葉が、頭の中で繰り返される。


――直感。悪くない。


布団に入っても、眠気はなかなか訪れなかった。目を閉じると、写真の断片と、悠真の表情が何度も浮かぶ。忘れているはずの過去が、すぐ背後まで迫ってきているような感覚だった。


「悠真……」


小さく名前を呼ぶと、胸の奥がじんと痛んだ。


知らないままでいられた時間は、もう終わりなのかもしれない。拾われた記憶の欠片は、誰かの意思でそこに落ちていた可能性すらある。そう考えると、背中に冷たいものが走った。


けれど同時に、柚希ははっきりと感じていた。怖さよりも強い、確かな予感を。


これから先、答えに近づくほど、悠真の存在はより大きくなる。そして、自分自身も、もう後戻りできない場所へ踏み込んでいくのだろう。


机の上で、写真の切れ端が静かに光を反射していた。それはただの紙切れではなく、次に起こる出来事への合図のように見えた。


柚希はその光を見つめながら、まだ知らない未来を思い描く。何が明らかになり、誰が傷つき、誰が救われるのか――答えは、もう遠くない。


静かな夜の中で、物語は確実に次の段階へと歩み出していた。ここから先は、誰にも用意されていない道だということだけが、はっきりと分かっていた。

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