第3章 『消えた親友』
星を見上げながら交わした言葉は、確かに柚希の中に温度を残していた。
離れていても、想いは届く――そう信じられるだけの時間が、あの夜にはあった。
けれど、日常へ戻った世界は、どこか微妙に歪んでいた。
いつもそこにあったはずの存在が、理由も告げず、気配ごと消えている。
説明のつかない静けさが、柚希の胸に小さな棘のように刺さり続けていた。
連絡がつかない。
行き先も、言葉も、何ひとつ残されていない。
それでも、ただの偶然として受け流すには、違和感はあまりにも鮮明だった。
柚希は気づき始める。
自分が信じていた「繋がり」が、本当に守られているのかどうか。
あの夜に抱いた確信が、試されようとしていることに。
確かめなければならない。
失われた理由も、沈黙の意味も、そして自分自身の想いも。
胸に残る違和感に背中を押されるように、柚希は一歩を踏み出す。
それは、まだ名前のつかない不安と向き合うための、静かな始まりだった。
朝の光は、昨日までと同じように、何のためらいもなく柚希の部屋へ入り込んできた。
カーテンの隙間から伸びる淡い帯状の光は、机の上に置かれた教科書の角を照らし、床に落ちた影をゆっくりと動かしながら、時間が確かに前へ進んでいることを示している。
世界は、何も変わっていない――少なくとも、そう装っているように見えた。
けれど柚希の身体だけが、その穏やかな主張を受け入れられずにいた。
目を覚ました瞬間から、胸の奥に薄く張りついた違和感が、眠りの名残と一緒に消えてくれなかったからだ。
夢を見ていたわけでもない。
何か特別な音を聞いたわけでもない。
それでも、理由の分からないざらつきが、確かにそこにあった。
枕元に置いてあるスマートフォンへ、ほとんど無意識のまま手を伸ばす。
画面を点ける前から、胸の内側では期待と不安が入り混じり、どちらにも転びきれないまま、静かに揺れていた。
画面が光る。
通知は、ない。
昨夜のやり取りが、そのままの形で残っている。
送った言葉も、返ってきた短い返事も、そこで時間が止まったかのように、何ひとつ更新されていなかった。
柚希はしばらく、その画面を見つめ続けた。
指先を動かせば、もう一度メッセージを送ることもできる。
電話をかけることだって、できないわけじゃない。
それなのに、何もできずにいる自分がいた。
悠真は、朝が弱い。
それは、幼いころから変わらない事実だった。
目覚ましを止めた記憶がなく、起きたらもう時間ぎりぎりで、慌てて家を飛び出してくる――そんな姿を、柚希は何度も見てきた。
だから、連絡がないだけで、ここまで胸がざわつく必要なんて、本当はないはずだった。
「……まだ、寝ているだけ、だよね?」
声に出した瞬間、その言葉が誰かに向けられたものではなく、自分自身を必死に落ち着かせるためのものだということが、はっきりと分かってしまった。
言い切れない。
断定できない。
その曖昧さが、胸の奥をひやりと冷やす。
昨夜の記憶が、何度も頭の中に浮かび上がる。
星の名前も分からないまま、ただ並んで夜空を見上げていた時間。
沈黙さえも共有しているような、不思議な感覚。
そして、別れ際に、ほんの一瞬だけ間を置いてから、悠真が口にした言葉。
――また、話そう。
それは、いつもの「じゃあね」や「また明日」とは、明らかに違って聞こえた。
軽さも、冗談めいた響きもなく、何かを確かめるような慎重さが含まれていたからだ。
だからこそ、今こうして連絡が途切れていることを、ただの偶然だと片づけることができなかった。
制服に着替えながら、柚希は何度もスマートフォンに視線を送った。
画面が光るたび、心臓がわずかに跳ねる。
けれどそこに現れるのは、天気予報やニュースの通知ばかりで、悠真の名前は一向に表示されない。
「……大丈夫」
小さく呟いてみる。
けれど、その言葉は胸の奥に届く前に、頼りなくほどけていった。
玄関を出ると、朝の空気が思ったよりも冷たく、頬を撫でた。
通学路は、いつもと同じ景色が続いている。
同じ時間帯、同じ道、同じように歩く人たち。
それなのに、ひとつだけ、決定的に違うものがあった。
自然と視線が前へ向かう。
いつもなら、少し先に見えるはずの背中。
立ち止まって待ってみる。
角を曲がって現れるかもしれないと、無意識に期待してしまう自分がいる。
けれど、どれだけ待っても、その姿は見えなかった。
学校に着いたとき、胸の奥の違和感は、もはや無視できない重さを持っていた。
教室に足を踏み入れると、いつものざわめきが耳に流れ込んでくる。
笑い声、机を引く音、朝の喧騒。
その中で、柚希の視線は迷うことなく、ひとつの席へ向かった。
悠真の席は、空いている。
一瞬、呼吸が浅くなる。
遅刻することはあっても、何の連絡もなく姿を見せないことは、ほとんどなかった。
その事実が、胸の奥で静かに形を持ち始める。
「……あれ?」
声に出してから、自分が動揺していることを自覚する。
まだ、何も決まったわけじゃない。
そう言い聞かせようとするほど、違和感はくっきりと輪郭を帯びていった。
「柚希、おはよう」
後ろから声をかけてきたのは真帆だった。
いつも通りの、何気ない表情。
それが逆に、胸を締めつける。
「おはよう……ねえ、悠真、来てない?」
できるだけ普通に聞いたつもりだった。
けれど、その問いには、抑えきれない不安が滲んでいた。
真帆は少し考えるように首を傾げ、それから静かに首を横に振る。
「うん。見てない。連絡も来てないよ」
その言葉が、胸の奥に沈んでいく。
軽くもなく、重すぎることもない、ただの事実として。
そのとき、教室の扉が開いた。
担任に続いて入ってきた、見慣れない男子生徒。
転校生だと紹介されたその少年――神谷は、必要以上に視線を動かすこともなく、静かに空いている席へと向かった。
その席が、悠真の斜め後ろであることに、柚希は理由もなく胸をざわつかせた。
神谷がふと視線を上げ、ほんの一瞬だけ柚希の方を見る。
感情の読めない、静かな目。
その視線が離れたあと、柚希ははっきりと感じていた。
この朝は、ただの始まりではない。
失われたものと、新たに現れたものが、まだ名前のつかない一本の線で、ゆっくりと結びつき始めている――そんな予感を。
放課後の校舎は、昼間とはまるで別の顔をしていた。
人の気配が薄れ、廊下に残るのは遠くで鳴る部活の掛け声と、窓の外を通り抜ける風の音だけ。柚希は昇降口の前で立ち止まり、靴箱を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
悠真の靴は、まだそこにあった。
揃えられたつま先。少し擦れた踵。
昨日まで、確かに彼がここにいた証拠。
「……変だよ」
思わず、声に出ていた。
欠席なら、せめて連絡があるはずだった。
無断で休むような人じゃない。
それを一番よく知っているのは、自分のはずなのに。
靴箱に手を伸ばしかけて、柚希は止まった。
触れてしまえば、何かが壊れてしまいそうな気がしたからだ。
校門を出ると、夕方の空が広がっていた。
オレンジ色に染まる雲の下、いつもなら並んで歩く帰り道。
今日は一人だった。
足を進めるたび、頭の中に過去の声が浮かんでは消える。
何気ない会話。
笑い合った時間。
「また明日」と交わした、あまりにも当たり前だった言葉。
――本当に、ただ休んでいるだけ?
そう問いかけても、答えは返ってこない。
スマートフォンを取り出して、何度も画面を確認する。
通知はない。
未読のままのメッセージもない。
胸の奥に、冷たいものが溜まっていく。
家に帰っても、落ち着かなかった。
夕飯の味が分からない。
テレビの音がやけに遠い。
時計の針の進みだけが、無情に現実を刻んでいく。
夜になっても、連絡はなかった。
布団に入って目を閉じても、眠りは浅く、何度も目が覚める。
そのたびに、窓の外の暗闇を見つめながら、柚希は同じことを考えていた。
――明日には、きっと来る。
――そうじゃなきゃ、おかしい。
自分に言い聞かせるように、何度も心の中で繰り返す。
けれど、不安は言葉では追い払えなかった。
翌朝、家を出る直前、ふと立ち止まる。
昨日と同じ靴。
同じ道。
なのに、胸のざわめきだけが違っていた。
学校に着いても、状況は変わらなかった。
悠真の席は空いたまま。
担任は淡々と授業を進め、生徒たちは次第にその不在を話題にしなくなっていく。
――世界は、こんなにも簡単に続いてしまう。
その事実が、柚希を静かに傷つけた。
昼休み、窓際の席で一人考え込んでいると、前の席から椅子を引く音がした。
神谷だった。
「……悠真、来てないんだな」
低く抑えた声。
それは独り言のようでいて、確かに柚希に向けられていた。
「……うん」
短く答えると、神谷は少しだけ間を置いてから続けた。
「昨日の放課後、見たんだ」
心臓が、跳ねた。
「校門の外で。……一人で、誰かと話してた」
その言葉は、静かだった。
けれど、柚希の中では大きな音を立てて崩れ落ちていく。
「……誰と?」
問いかけた声が、わずかに震えていたのを、柚希自身が一番よく分かっていた。
神谷は首を横に振った。
「分からない。顔は見えなかった。ただ……」
そこで言葉を切り、彼は一瞬だけ視線を伏せる。
「普通じゃなかった」
その一言で、十分だった。
柚希の中で、これまで必死に抑え込んできた違和感が、はっきりと形を持ち始める。
ただの欠席じゃない。
ただの偶然でもない。
何かが起きている。
それでもまだ、この時の柚希は知らなかった。
この「何か」が、二人の日常を根こそぎ奪うものだということを。
ただ、胸に残ったのは、拭いきれない不安と、確信に近い予感だけだった。
――悠真は、戻ってこないかもしれない。
その考えが、初めてはっきりと浮かんだ夜。
柚希は、眠れないまま、暗い天井を見つめ続けていた。
朝の空気は、昨日までと何も変わらないはずだった。
同じ通学路、同じ時間帯、同じように行き交う人影。けれど柚希の足取りだけが、微妙に重く、地面に吸い付くように進まなかった。
昨日、神谷から聞いた言葉が、頭の奥で何度も反響している。
「普通じゃなかった」
それだけのはずなのに、その一言は妙に具体性を帯びていて、想像を勝手に膨らませてしまう。誰と、どんな顔で、どんな声で話していたのか。考え始めると、止まらなかった。
教室に入ると、いつものざわめきが耳に流れ込んでくる。
朝のホームルーム前の、取り留めのない会話。
宿題の愚痴、部活の話、テレビの話題。
そのどれもが、柚希にはひどく遠い世界の出来事のように感じられた。
悠真の席は、今日も空いている。
椅子が机の下にきちんと収まったまま、まるで最初から誰も座る予定などなかったかのように。
「……ねえ」
隣の席から、小さな声がした。
振り向くと、真帆がこちらを見ていた。
心配そうに眉を寄せ、その奥に、聞きたいことと聞くのが怖い気持ちの両方を抱えているのが、はっきりと分かる表情だった。
「悠真、今日も……?」
柚希は、首を横に振ることしかできなかった。
それだけで、真帆は何も言わなくなる。
沈黙が、二人の間に重く落ちる。
「連絡、つかないの?」
その問いは、責めるようでも、詮索するようでもなく、ただ事実を確かめるためだけのものだった。
それでも柚希の胸は、きゅっと締めつけられる。
「……うん」
短く答えた声が、自分でも驚くほど乾いていた。
真帆はそれ以上踏み込まず、そっと前を向く。
その優しさが、かえって痛かった。
授業が始まっても、内容は頭に入ってこない。
黒板に書かれる文字を目で追っているはずなのに、視線は何度も空席へと戻ってしまう。
もし今、ドアが開いて悠真が入ってきたら。
そんなことを考えてしまう自分が、どこか情けなくもあった。
休み時間になると、教室の空気が少し変わった。
小声で交わされる視線、ひそひそとした囁き。
「どうしたんだろうね」
「体調不良じゃない?」
そんな声が、意図せず耳に届く。
――違う。
柚希は、はっきりそう思っていた。
理由は説明できない。
けれど、これは単なる欠席じゃない。
自分の中に芽生えた確信が、日に日に重さを増していく。
昼休み、屋上へ向かう階段の踊り場で、また神谷と鉢合わせた。
彼は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに視線を逸らす。
「……昨日の話」
柚希の方から声をかけると、神谷は足を止めた。
周囲に人がいないことを確かめるように一度だけ振り返り、それから低く言う。
「俺、余計なこと言ったかもな」
「違う」
即座に返した自分の声に、柚希自身が少し驚いた。
迷いよりも先に、言葉が出たからだ。
「……教えてくれて、よかった」
そう言った瞬間、胸の奥で何かが決まる感覚があった。
もう、知らないふりはできない。
気づいてしまった以上、目を逸らすことの方が、ずっと残酷だ。
神谷は、少しだけ困ったように笑った。
「だったら……気をつけろよ」
その言葉の意味を、柚希はまだ正確には理解していなかった。
ただ、その声に含まれた真剣さだけは、はっきりと伝わってきた。
昼休みが終わりに近づく頃、柚希は一人、校舎の端にある掲示板の前に立っていた。
何か手がかりがあるわけでもない。
ただ、じっと紙の一枚一枚を眺めながら、頭の中で整理しようとしていた。
最後に悠真と会ったのは、あの夜。
星を見上げ、言葉を交わし、確かに繋がっていると信じられた時間。
あの直後に、彼の世界に何が起きたのか。
考えれば考えるほど、胸の奥がざわつく。
――探さなきゃ。
その思いが、ゆっくりと、しかし確実に形を持ち始めていた。
それはまだ決意と呼ぶには弱く、衝動に近いものだったが、確実に柚希を前へと押していた。
この時点では、柚希はまだ知らない。
この一歩が、もう元の場所には戻れない選択だったことを。
ただ、悠真がいない現実を受け入れるより、動くことを選んだだけだった。
胸に残る違和感は、もはや無視できないほど大きくなっていた。
放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一斉にほどけた。
椅子を引く音、鞄を閉じる音、笑い声。
けれど柚希は、自分だけがその流れに乗り遅れているような感覚を覚え、しばらく席を立てずにいた。
悠真の机は、相変わらず静かだった。
誰かが通りすがりに触れたのか、椅子の位置がほんの少しずれている。
それだけのことなのに、胸の奥がざわつく。
「柚希」
声をかけられて振り向くと、真帆が立っていた。
帰り支度を済ませた様子なのに、どこか落ち着かない表情で、言葉を選んでいるのが分かる。
「……一緒に帰る?」
いつもなら、何も考えずに頷いていた。
けれど今日は、少しだけ間が空いた。
「ごめん。今日は……ちょっと、寄りたいところがあって」
嘘ではなかった。
ただ、その「寄りたいところ」が、まだ具体的な形を持っていないだけで。
真帆は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「そっか。じゃあ……また明日」
その声は優しく、同時に、どこか不安を隠しているようにも聞こえた。
柚希は「うん」と答えながら、その不安が自分の中にもあることを、はっきり自覚していた。
校舎を出ると、夕方の空が広がっていた。
昼間よりも少し低い太陽が、校庭を斜めに照らしている。
その光の中で、ふと、ある光景が脳裏をよぎった。
――昨日の放課後、悠真は誰かと話していた。
神谷の言葉が、再び蘇る。
普通じゃなかった。
その「普通じゃない」の中身を、確かめずにはいられなかった。
柚希は、校門の外へ足を向けた。
神谷が見たという場所。
通学路から少し外れた、人気の少ない道。
何かが見つかるとは思っていない。
それでも、足が勝手に動いていた。
舗装のひび割れ、電柱に貼られた古い張り紙、風に揺れる草。
昨日と何一つ変わらない風景のはずなのに、今日はやけに細部が目につく。
まるで、何かを探すために目が研ぎ澄まされているみたいだった。
立ち止まり、周囲を見渡す。
ここで、悠真は立っていたのだろうか。
誰かと、どんな距離で。
想像しようとした瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
知らない誰かと向き合う悠真の姿を、思い描くこと自体が怖かった。
「……何やってるんだろ」
自嘲気味に呟きながらも、引き返す気にはなれなかった。
それどころか、この場所に来たことで、不安がよりはっきりと輪郭を持ち始めている。
家に帰ると、夕暮れの色が窓から差し込んでいた。
いつもなら、今日あった出来事を思い返しながら過ごす時間。
けれど今は、頭の中がひとつのことで埋め尽くされている。
連絡は、やはり来ていなかった。
スマートフォンを伏せ、深く息を吸う。
胸の奥で、小さな覚悟のようなものが芽生えているのを感じた。
――待ってるだけじゃ、何も変わらない。
それは、誰かに言われた言葉でも、はっきりした決意でもない。
ただ、自然に辿り着いた感情だった。
夜になり、部屋の明かりを落とす。
布団に横になっても、目はなかなか閉じられなかった。
暗闇の中で、柚希は天井を見つめながら、ゆっくりと考える。
悠真が黙っていなくなる理由。
誰にも言わず、何も残さずに姿を消す理由。
もしそれが、誰かを巻き込まないためだったとしたら。
もしそれが、自分を遠ざけるためだったとしたら。
胸の奥が、じわりと痛む。
「……ひとりで抱えなくていいのに」
声に出した瞬間、その言葉は自分自身にも向けられているようだった。
明日、もう一度。
学校で、神谷に話を聞こう。
真帆にも、ちゃんと伝えよう。
そうやって、少しずつでも手がかりを繋いでいくしかない。
眠りに落ちる直前、柚希は思った。
この違和感は、偶然じゃない。
そして、自分はもう、見なかったことにはできない場所まで来てしまったのだと。
悠真が消えた理由を知るために。
そして、自分自身の想いから逃げないために。
静かな夜の中で、柚希の心は、確かに次の一歩を選び始めていた。
放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一斉にほどけた。
椅子を引く音、鞄を閉じる音、笑い声。
けれど柚希は、自分だけがその流れに乗り遅れているような感覚を覚え、しばらく席を立てずにいた。
悠真の机は、相変わらず静かだった。
誰かが通りすがりに触れたのか、椅子の位置がほんの少しずれている。
それだけのことなのに、胸の奥がざわつく。
「柚希」
声をかけられて振り向くと、真帆が立っていた。
帰り支度を済ませた様子なのに、どこか落ち着かない表情で、言葉を選んでいるのが分かる。
「……一緒に帰る?」
いつもなら、何も考えずに頷いていた。
けれど今日は、少しだけ間が空いた。
「ごめん。今日は……ちょっと、寄りたいところがあって」
嘘ではなかった。
ただ、その「寄りたいところ」が、まだ具体的な形を持っていないだけで。
真帆は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「そっか。じゃあ……また明日」
その声は優しく、同時に、どこか不安を隠しているようにも聞こえた。
柚希は「うん」と答えながら、その不安が自分の中にもあることを、はっきり自覚していた。
校舎を出ると、夕方の空が広がっていた。
昼間よりも少し低い太陽が、校庭を斜めに照らしている。
その光の中で、ふと、ある光景が脳裏をよぎった。
――昨日の放課後、悠真は誰かと話していた。
神谷の言葉が、再び蘇る。
普通じゃなかった。
その「普通じゃない」の中身を、確かめずにはいられなかった。
柚希は、校門の外へ足を向けた。
神谷が見たという場所。
通学路から少し外れた、人気の少ない道。
何かが見つかるとは思っていない。
それでも、足が勝手に動いていた。
舗装のひび割れ、電柱に貼られた古い張り紙、風に揺れる草。
昨日と何一つ変わらない風景のはずなのに、今日はやけに細部が目につく。
まるで、何かを探すために目が研ぎ澄まされているみたいだった。
立ち止まり、周囲を見渡す。
ここで、悠真は立っていたのだろうか。
誰かと、どんな距離で。
想像しようとした瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
知らない誰かと向き合う悠真の姿を、思い描くこと自体が怖かった。
「……何やってるんだろ」
自嘲気味に呟きながらも、引き返す気にはなれなかった。
それどころか、この場所に来たことで、不安がよりはっきりと輪郭を持ち始めている。
家に帰ると、夕暮れの色が窓から差し込んでいた。
いつもなら、今日あった出来事を思い返しながら過ごす時間。
けれど今は、頭の中がひとつのことで埋め尽くされている。
連絡は、やはり来ていなかった。
スマートフォンを伏せ、深く息を吸う。
胸の奥で、小さな覚悟のようなものが芽生えているのを感じた。
――待ってるだけじゃ、何も変わらない。
それは、誰かに言われた言葉でも、はっきりした決意でもない。
ただ、自然に辿り着いた感情だった。
夜になり、部屋の明かりを落とす。
布団に横になっても、目はなかなか閉じられなかった。
暗闇の中で、柚希は天井を見つめながら、ゆっくりと考える。
悠真が黙っていなくなる理由。
誰にも言わず、何も残さずに姿を消す理由。
もしそれが、誰かを巻き込まないためだったとしたら。
もしそれが、自分を遠ざけるためだったとしたら。
胸の奥が、じわりと痛む。
「……ひとりで抱えなくていいのに」
声に出した瞬間、その言葉は自分自身にも向けられているようだった。
明日、もう一度。
学校で、神谷に話を聞こう。
真帆にも、ちゃんと伝えよう。
そうやって、少しずつでも手がかりを繋いでいくしかない。
眠りに落ちる直前、柚希は思った。
この違和感は、偶然じゃない。
そして、自分はもう、見なかったことにはできない場所まで来てしまったのだと。
悠真が消えた理由を知るために。
そして、自分自身の想いから逃げないために。
静かな夜の中で、柚希の心は、確かに次の一歩を選び始めていた。
朝の光は、驚くほど澄んでいた。
昨日まで胸を塞いでいた不安や違和感など、最初から存在しなかったかのように、世界は淡々といつもの顔をしている。
そのことが、柚希にはひどく残酷に思えた。
誰かがいなくなったとしても、空は青く、道は続き、時間は止まらない。
置き去りにされるのは、いつも気づいてしまった側だけなのだと、そんな考えが胸の奥に沈んでいく。
家を出て歩きながら、何度も無意識にスマートフォンへ視線を落とす。
分かっている。通知は来ていない。
名前の表示されない画面を確認する行為に意味がないことも、それでもやめられない自分がいることも、全部分かっている。
それでも指は勝手に動いてしまう。もし、今この瞬間に何かが届いていたら——そんな淡い期待を、完全には捨てきれずに。
学校が近づくにつれて、胸の奥にあった覚悟が少しずつ重さを増していった。
今日はもう、奇跡を待つつもりはなかった。
来ていなかったらどうするか、来ていなかった場合に自分は何をするのか、昨夜のうちに何度も考え、そのたびに答えは同じところに辿り着いている。
逃げない。目を逸らさない。ただ、それだけを心の中で繰り返していた。
教室の扉を開けると、いつもと変わらないざわめきが耳に流れ込んでくる。
その音の中に、悠真の声はない。
席を確認するまでもなく分かってしまうのが、もう怖かった。
視線を上げると、やはり彼の机は空いたままで、椅子もきちんと収まったまま、まるで最初から誰も座る予定などなかったかのような顔をしている。
その光景を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに、しかし確実に折れる感覚があった。
「……そうだよね」
誰に向けるでもなく、心の中で呟く。期待していなかったと言えば嘘になる。
けれど、来ないことを前提に動き始めていた自分がいたことも事実で、そのことに気づいた瞬間、少しだけ自分が怖くなった。
慣れてしまうのではないか。この不在に、この沈黙に、いつか慣れてしまうのではないかと。
朝のホームルームが始まっても、担任は悠真の名前に触れなかった。
欠席理由の説明もない。ただ淡々と進む時間の中で、柚希だけが取り残されているような感覚が強まっていく。
周囲のクラスメイトたちも、最初こそ気にしていた様子だったが、次第に話題は別のものへ移り変わり、空席は風景の一部になり始めていた。
——世界は、こんなにも簡単に続いてしまう。
その事実が、胸に重くのしかかる。
休み時間になると、柚希は迷うことなく席を立った。
向かったのは、神谷のところだった。昨日までなら、理由もなく話しかけることなどなかった相手。
それでも今は、彼が持っているかもしれない断片的な情報が、唯一現実に繋がる糸のように思えた。
「……神谷」
声をかけると、彼は窓の外から視線を戻し、柚希の顔を見た瞬間、ほんのわずかに表情を変えた。
その変化は小さく、見逃してしまいそうなほどだったが、柚希にははっきりと分かった。
彼もまた、何かを察している。
「やっぱり、来てないか」
神谷の低い声には、確認よりも確信に近い響きがあった。
柚希は頷くだけで答える。その仕草だけで、もう十分だった。
「昨日の話……もう少し詳しく聞かせてほしい」
はっきりとそう言った自分の声が、思っていたよりも落ち着いていて、逆に戸惑う。
もっと震えると思っていた。もっと感情が先走ると思っていた。
けれど実際には、静かで、逃げ道を作らない響きだった。
神谷は一度だけ周囲を見渡し、誰も近くにいないことを確かめてから、声を落とした。
「校門を出て右。少し歩いたところだ。時間は、俺が帰る直前だった」と、必要最低限の情報だけを、慎重に選ぶように口にする。
その一つ一つの言葉が、柚希の中で昨日の風景と重なっていく。
「相手は……誰だったの?」
問いかけながら、柚希は自分が何を恐れているのか、はっきりと自覚していた。
知らない誰か。自分の知らない世界。そこに悠真が立っているという事実。
神谷は、少しだけ言葉を探すように視線を落とした後、「はっきりは分からない。でも、同級生とか、そういう感じじゃなかった」と答えた。
その曖昧さが、かえって現実味を帯びて胸に刺さる。
「嫌そうだった?」
その問いは、無意識に口をついて出ていた。もし、嫌がっていたなら。
無理やり連れていかれたのなら。そうであってほしいと、どこかで願っている自分がいることが、たまらなく苦しかった。
神谷はゆっくりと首を横に振る。
「違う。……覚悟、決めてる顔だった」
その一言で、胸の奥がきつく締めつけられる。覚悟。
つまり、悠真は自分の意思で、その場に立っていたということ。
その選択の中に、自分が含まれていなかった可能性を、突きつけられた気がした。
「ありがとう」
それ以上、柚希は聞かなかった。聞けば聞くほど、自分が知りたくなかった現実に近づいてしまう気がしたからだ。
それでも、もう引き返せないところまで来てしまったことは、はっきり分かっていた。
席へ戻る途中、真帆と目が合う。
何かを察したような表情で、言葉をかけようとして、結局何も言わずに微かに頷くだけ。
その沈黙が、今の柚希にはありがたかった。
昼休みが近づくにつれ、柚希の中でひとつの考えが、もはや否定できない形を持ち始めていた。
悠真は、学校の外で、何かに巻き込まれたのではない。
自分から踏み込んだのだ。だからこそ、何も残さなかった。
——なら、探すしかない。
それは衝動ではなく、静かな選択だった。
悠真がいない理由を知らないまま、日常に戻ることだけは、どうしてもできなかった。
窓から差し込む光を見つめながら、柚希ははっきりと自覚する。
自分はもう、ただ待つ側ではない。
この不在の意味を、自分の足で確かめに行く側に、足を踏み入れてしまったのだと。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴っても、柚希の胸のざわめきは少しも収まらなかった。
むしろ時間が進むほどに、不安は形を持ち、輪郭を強めていく。
悠真がいないという事実が、ただの出来事ではなく、自分の世界そのものを揺るがす“現実”として、はっきりと存在感を主張し始めていた。
授業中、ノートを取るふりをしながら、意識はずっと別のところにあった。
昨日の夕方、校門の外で見た風景。
何もなかったはずの道。
けれど今思えば、あの場所は“何かが起きたあと”の顔をしていたのかもしれない。
そう考えると、胸の奥がひやりと冷える。
放課後のチャイムが鳴った瞬間、柚希はほとんど反射的に鞄を手に取っていた。
誰かと帰る約束もない。引き止める声もない。
真帆と目が合ったが、柚希は小さく首を振るだけで、その場を離れた。
その仕草ひとつで、もう自分が何をしようとしているのか、真帆には伝わってしまったかもしれないと思いながら。
校門を出ると、昨日と同じように夕方の光が道を染めていた。
だが今日は、ただ眩しいだけではなく、やけに現実味を帯びて見える。
神谷が話していた場所へ向かう足取りは、昨日よりも迷いがなかった。
来るべき場所だと、どこかで分かっていたからだ。
人通りの少ない道に差しかかると、周囲の音が一段落ちる。
遠くの車の音、風に揺れる木の葉の擦れる音。耳が研ぎ澄まされ、心臓の鼓動がやけに大きく感じられた。
ここで、悠真は立ち止まり、誰かと向き合っていた。そう思うだけで、胸が詰まる。
柚希は足を止め、辺りを見渡した。特別な痕跡があるわけではない。
落とし物も、張り紙も、怪しい影もない。
ただ、いつも通りの道が、いつも通りそこにある。
それなのに、確かにここは“境界”のように感じられた。日常と、そうでないものを分ける場所。
「……何も、ないよね」
そう呟きながらも、内心では分かっていた。目に見える形で残るものなんて、最初から期待していない。
ただ、ここに立つことで、悠真がこの場所にいたという事実を、身体で感じたかっただけなのだ。
そのとき、背後から足音がした。
振り返ると、神谷が少し距離を取って立っていた。
「やっぱり、来たか」
責めるような声音ではなかった。むしろ、覚悟を確認するような響きだった。
柚希は驚きよりも、納得に近い感情を抱いていた。
ここに来るのが自分だけではないことを、どこかで予感していたからだ。
「……一人で来るつもりだった?」
神谷の問いに、柚希は少しだけ視線を逸らす。
「正直に言うと……分からなかった。でも、来なきゃいけない気がした」
その言葉は、言い訳でも決意表明でもなかった。ただ、今の自分の状態を正確に表したものだった。
神谷は小さく息を吐き、辺りを見回す。
「俺も、ここに来た時……嫌な感じがした」
「嫌な感じ?」
「ああ。説明できないけど……あいつ、何かを覚悟してた。普通の別れ方じゃなかった」
その言葉が、柚希の胸に重く落ちる。
覚悟。
それは、簡単に口にしていい言葉じゃない。
「ねえ……」
柚希は、迷いながらも口を開いた。
「もし、悠真が自分からいなくなったんだとしたら……私は、どうすればいいの?」
問いかけた瞬間、自分がどれほど追い詰められているのかを、はっきりと自覚する。
答えを求めているのではない。ただ、誰かにこの不安を共有してほしかった。
神谷は、すぐには答えなかった。少し考え込むように視線を落とし、それからゆっくりと言う。
「……探すしかないんじゃないか」
その言葉は、乱暴でも、無責任でもなかった。ただ、現実的だった。
「理由を知らないまま納得できないなら。
納得できないなら、動くしかない」
その一言で、胸の奥にあった迷いが、静かにほどけていくのを感じた。
誰かに背中を押されたわけではない。
もともと、自分の中で答えは出ていたのだ。ただ、それを認める勇気がなかっただけで。
「……うん」
小さく頷くと、風が吹き抜けた。
その風が、やけに冷たく感じられたのは、きっと気のせいじゃない。
家へ戻る道すがら、柚希は考え続けていた。
もし、悠真が意図的に姿を消したのだとしたら。
もし、それが自分を守るためだったとしたら。
それでも、探さずにはいられない。
理由を知ることが、傷つくことだとしても。
部屋に戻り、鞄を置き、静かに椅子に座る。
スマートフォンを手に取ると、相変わらず画面は静まり返っている。
「……ねえ、悠真」
声に出した瞬間、喉の奥が詰まった。
返事がないと分かっていても、呼ばずにはいられなかった。
この沈黙は、ただの空白じゃない。
誰かが意図して作った、意味のある沈黙だ。
そのことを、柚希はもう否定できなくなっていた。
窓の外で、空がゆっくりと夜へ沈んでいく。
その暗さの中で、柚希ははっきりと悟る。
——もう、元の場所には戻れない。
けれど同時に、逃げないと決めた自分が、ほんの少しだけ誇らしくもあった。
悠真が消えた理由を知るために。
そして、自分自身の想いを確かめるために。
この夜を境に、柚希は確かに変わり始めていた。
朝の空気は、前の日までと何ひとつ変わらないはずだった。
カーテン越しに差し込む光も、目覚ましの電子音も、制服に袖を通す動作も、すべてが“いつも通り”のはずなのに、柚希の中では何かが決定的にずれていた。
世界の輪郭が、ほんのわずかに傾いている。
その違和感を、起きた瞬間からずっと抱えたまま、彼女は一日を始めていた。
玄関を出たとき、無意識に隣を見てしまう自分に気づき、柚希は小さく息を飲んだ。
そこに、もう並んで歩く存在はいない。
靴音が二つ重なることも、くだらない会話が朝の眠気を追い払うことも、当たり前だったはずの光景が、今はただの記憶として胸に沈んでいる。
登校途中の道は、やけに長く感じられた。
信号待ちの時間も、横断歩道を渡る数秒も、すべてが引き伸ばされたように思える。
周囲の生徒たちの笑い声が遠く、別の世界の出来事のように聞こえた。
教室に入ると、さらにその感覚は強まった。
悠真の席は、相変わらず空いたままだった。
誰かが座るわけでもなく、荷物が置かれるわけでもなく、まるで“そこだけ時間が止まっている”かのように、空席は空席のまま存在している。
その静かな主張が、柚希の胸をじわじわと締めつけた。
「……おはよ」
後ろから声をかけられ、振り返ると真帆が立っていた。
普段と変わらない調子を装っているのが、逆に分かってしまう。
柚希は無理に笑おうとして、途中で諦めた。
「ねえ……今日も、連絡ない?」
その問いは、答えが分かっているからこそ重たい。柚希は首を横に振るしかなかった。
「そう……だよね」
真帆はそれ以上何も言わなかった。ただ、空席に一瞬だけ視線を向け、そのまま自分の席へ戻っていく。
その背中が、やけに遠く見えた。
ホームルームが始まり、担任が淡々と連絡事項を読み上げる。
その中に、悠真の名前は出てこない。欠席理由の説明も、特別な配慮もない。
ただの「不在」として処理されていることが、柚希には耐え難かった。
——いなくなったんじゃない。
——“消えた”んだ。
そう思えば思うほど、胸の奥がざらついていく。
授業が進むにつれて、違和感は教室全体に染み出しているように感じられた。
誰かが悠真の席をちらりと見て、すぐに視線を逸らす。
その仕草が何度も繰り返される。
話題に出してはいけないものとして、無言の了解が出来上がっているかのようだった。
昼休み、柚希は一人で屋上へ向かった。ここなら、余計な視線も、気遣いの言葉もいらない。
金網越しに見える空は高く、昨日よりも少しだけ曇っているように見えた。
ベンチに腰を下ろし、スマートフォンを取り出す。
何度目か分からないメッセージ画面。
送信されないままの文章が、そこには残っている。
「どこにいるの?」
「心配してる」
「戻ってきて」
どれも途中で消してしまった言葉だ。
どんな言葉を選んでも、届かない気がして、指が止まってしまう。
そのとき、屋上の扉が軋む音を立てた。
振り返ると、神谷が立っていた。
「……やっぱり、ここにいた」
決めつけるような言い方ではなかった。ただ、自然に導かれた結果のような声だった。
「神谷……」
彼は柚希の隣ではなく、少し離れた場所に立ち、同じ空を見上げる。
「朝から、教室の空気が変だな。
あいつがいないだけで、こんなに静かになるとは思わなかった」
その言葉に、柚希は思わず頷いた。
「ねえ……」
彼女は、少し間を置いてから続けた。
「このまま、何も分からないまま時間が過ぎたら……
みんな、普通に戻っちゃうのかな」
神谷は、すぐには答えなかった。
風が吹き、金網がかすかに鳴る。
「戻るやつもいるだろうな。
でも……戻れないやつも、いる」
その視線が、柚希に向けられる。
逃げ場のない、まっすぐな目だった。
その瞬間、柚希ははっきりと理解した。
自分はもう、“戻れない側”に立っている。
日常は進む。
時間は止まらない。
けれど、悠真が消えた理由を知らない限り、
この違和感は、決して薄れない。
屋上の空気の中で、柚希の胸に静かに芽生えたものがあった。
それは焦りでも恐怖でもない。
——覚悟。
探すことは、傷つくことかもしれない。
それでも、知らないまま生きるよりはいい。
そう思えた自分に、柚希はまだ気づいていなかった。
だが確かに、彼女はもう一歩踏み出していた。
屋上から戻る廊下は、やけに静かだった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったはずなのに、生徒たちの足音や話し声は、まるで水の底から聞こえてくるみたいに遠い。
柚希は自分の歩幅が、無意識のうちにゆっくりになっていることに気づいていなかった。
教室の扉を開けた瞬間、視界の端に映る空席が、また胸を締めつける。
そこに目を向けないようにしても、存在感だけは消えてくれない。
悠真が使っていた机と椅子は、誰にも触れられないまま、昨日と同じ位置にある。
そのことが、かえって不自然だった。
席に着いても、授業の内容はほとんど頭に入らなかった。
黒板に書かれる文字を追いながら、柚希の思考は何度も別の場所へ逸れていく。
悠真が最後に見せた表情、あの言葉の続きを、何度も何度も思い返してしまう。
——あのとき、ちゃんと聞いていれば。
——ちゃんと引き止めていれば。
後悔は、遅れてやってくる。
そして、その重さは時間が経つほど増していく。
放課後のチャイムが鳴る頃には、胸の奥に溜まったものが、はっきりとした形を取り始めていた。
帰り支度をするクラスメイトたちの中で、柚希はしばらく席を立てずにいた。
「柚希」
真帆の声が、そっと名前を呼ぶ。
「一緒に帰る?」
その問いかけは優しかったけれど、どこか恐る恐るでもあった。柚希は一瞬迷ってから、首を振った。
「ごめん。今日は、ちょっと……」
「そっか」
真帆はそれ以上理由を聞かなかった。
ただ、少しだけ困ったように笑ってから、教室を出ていく。
その背中を見送りながら、柚希は胸がちくりと痛むのを感じた。
誰かと一緒にいれば、考えずに済むこともある。
でも今は、一人で向き合わなければならない気がした。
教室に残ったのは、柚希と、空席だけだった。
ゆっくりと立ち上がり、悠真の机の前に立つ。
無断で触れることに、ほんの少しだけ罪悪感を覚えながらも、彼女は机の引き出しに手を伸ばした。
中には、教科書とノート、使いかけのペンケース。
どれも、あまりに普通だ。
——何も残していない。
——本当に、突然だった。
そう思いかけたとき、ノートの下に、折り畳まれた紙が挟まっているのに気づいた。
心臓が、一拍遅れて強く打つ。
恐る恐るそれを取り出し、広げる。
走り書きの文字。
悠真の字だった。
短い文章だった。
誰かに宛てたようで、でも宛名はない。
「少し、距離を置く。
理由は聞かないでほしい」
それだけだった。
言葉の少なさが、かえって重い。
柚希は紙を握りしめ、しばらく動けなかった。
——距離を置く?
——じゃあ、これは逃げたってこと?
答えは、どこにも書いていない。
教室を出ると、夕方の光が校舎をオレンジ色に染めていた。
影が長く伸び、時間が一日の終わりに近づいていることを静かに告げている。
校門を出たところで、柚希は足を止めた。
いつもの帰り道とは逆方向へ、視線が向く。
悠真の家。
そこに行けば、何か分かるかもしれない。
でも、何も分からないまま終わるかもしれない。
それでも——
「……行くだけ、行ってみよう」
声に出したその言葉は、自分を奮い立たせるためのものだった。
歩き出すと、足取りは意外なほどしっかりしていた。
怖くないわけじゃない。けれど、立ち止まり続ける方が、もっと怖かった。
夕暮れの道を進みながら、柚希は思う。
これは、探すための一歩だ。
失ったものを取り戻すための、最初の行動だ。
たとえ真実が、優しくなくても。
たとえ答えが、望んだものじゃなくても。
悠真が消えた理由を知らないままでは、前に進めない。
その思いが、胸の奥で確かに根を張っていた。
——そしてこの日を境に、
柚希の日常は、静かに、だが確実に変わり始めていく。
それを、彼女自身はまだ知らない。
悠真の家は、柚希の記憶の中とほとんど変わっていなかった。
玄関前の小さな植木鉢も、門柱に貼られた少し色褪せた表札も、放課後に何度も訪れた頃のままだったはずなのに、そこに立った瞬間、懐かしさよりも先に胸の奥がざわついた。
インターホンに手を伸ばすまでに、思った以上の時間がかかった。
押してしまえば、何かが決定的に動いてしまう気がして、指先が躊躇う。
——まだ、寝ているだけ、だよね?
昼間、教室で自分に言い聞かせた言葉が、また浮かぶ。
けれどこの場所に来てしまった以上、その言葉はもう、心を守る盾にはなってくれなかった。
意を決して押したインターホンは、乾いた音を立てた。
数秒。
十秒。
返事はない。
もう一度押そうとした、そのときだった。
「……あれ?」
玄関の鍵が、内側から回る音がした。
扉が少しだけ開き、見慣れた顔が覗く。
悠真の母親だった。
「あ……柚希ちゃん」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
ここでは、まだ自分は“いつもの存在”なんだと、思い知らされるから。
「こんにちは……」
声が震えないように気をつけたつもりだったが、どこまでうまくいったかは分からない。
「悠真……いますか?」
口に出してから、その問いがどれほど無防備だったかに気づく。
けれど、取り消すことはできなかった。
悠真の母親は、ほんの一瞬だけ視線を伏せ、それから小さく首を横に振った。
「今日は、帰ってきてないの」
その一言が、胸の奥に落ちていく。
静かに、でも確実に。
「……今日“も”、ですか」
無意識に漏れた言葉に、自分で驚く。
“今日も”という言い方は、つまり——。
「ええ」
短く返ってきた答えが、現実をはっきりと形にする。
柚希はそれ以上、何も言えなくなった。
何を聞けばいいのか分からない。
聞いてはいけないことが、あまりにも多い気がした。
「学校は……」
「行ってないみたい」
会話はぎこちなく、途切れがちだった。
沈黙が落ちるたびに、胸の中で何かが軋む音がする。
「何か、聞いてない?」
その問いは、すがるようだった。
柚希は首を振るしかなかった。
「……何も」
それは嘘ではない。
けれど、悠真が残したあの紙の存在を、今ここで口に出す勇気はなかった。
玄関先での短いやり取りのあと、柚希は頭を下げてその場を後にした。
背中に向けられる視線が、しばらく消えなかった気がする。
帰り道、空はすっかり夕暮れに染まっていた。
オレンジと紫が混じる曖昧な色は、今の自分の心そのものみたいだった。
——本当に、いない。
その事実が、ようやく言葉として心に降りてくる。
スマートフォンを取り出し、何度目か分からないメッセージ画面を開く。
送信済みの短い文章。
既読も、返信も、ない。
画面を閉じた瞬間、ふと視線の先に人影が見えた。
学校帰りの道の分かれ道。
そこに立っていたのは、神谷だった。
「……柚希?」
名前を呼ばれ、足が止まる。
こんなところで会うとは思っていなかった。
「どうしたの。顔、すごく疲れてる」
心配そうなその声に、なぜか胸の奥が揺れた。
無関係のはずの人に見抜かれるほど、自分は分かりやすくなってしまったのかもしれない。
「ちょっと……用事があって」
それ以上は、言えなかった。
神谷は一瞬だけ迷うような表情を見せてから、言った。
「無理に聞かない。でも……一人じゃ、きつそうだ」
その言葉は、優しすぎて、かえって痛かった。
柚希は小さく息を吸い、そして吐いた。
今すぐ泣いてしまいそうな自分を、必死で押さえながら。
「……ありがとう」
それだけ言うのが、精一杯だった。
神谷は何も言わず、少し距離を保ったまま、同じ方向へ歩き出す。
並んでいるようで、どこか噛み合わない歩幅。
その沈黙の中で、柚希は思っていた。
——これは、始まりだ。
——失った理由を探す、長い時間の。
そして同時に、
——もう、元の場所には戻れない。
そんな予感が、胸の奥で静かに広がっていた。
神谷と別れたあと、柚希は一人で家まで歩いた。
夕暮れはいつの間にか夜に変わり、街灯の白い光が、舗道にまだらな影を落としている。
昼間なら何気なく通り過ぎていた道が、今夜はやけに長く感じられた。
家の鍵を開け、玄関に足を踏み入れた瞬間、張りつめていたものがふっと緩む。
それと同時に、胸の奥に溜め込んでいた不安が、重たい塊になって押し寄せてきた。
靴を脱ぎ、リビングの明かりを点ける。
誰もいない部屋は、静かすぎて落ち着かなかった。
「ただいま……」
声に出してみても、返事はない。
分かっていたはずなのに、その沈黙が思った以上に胸に刺さる。
ソファに腰を下ろし、膝の上で手を組む。
指先が、微かに震えているのが分かった。
——悠真は、どこにいるんだろう。
考えないようにしても、思考はそこへ戻ってしまう。
携帯電話を手に取り、もう一度、メッセージ画面を開く。
画面に映るのは、短い文章と、時間だけ。
送信してから、どれくらい経ったのか。
既読がつかない理由を、頭の中でいくつも並べてみる。
——電源が切れているだけ。
——忙しくて見ていないだけ。
——それとも……。
そこから先は、考えないようにした。
考えてしまえば、戻れなくなる気がしたから。
夕食の時間になっても、ほとんど食欲はなかった。
箸を動かしながら、味を感じていない自分に気づき、そっとため息をつく。
部屋に戻ると、机の上に置いたままのノートが目に入った。
学校で使っている、何の変哲もないノート。
けれど、ページをめくる指が止まったのは、無意識だった。
余白に書かれた、走り書きの文字。
——「星、見に行こう」
悠真の字だった。
それを見つけた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
何でもない一言のはずなのに、その文字が、今はひどく遠いものに感じられた。
「……約束、だったのに」
小さく呟いた声は、部屋に吸い込まれて消えていく。
ベッドに横になっても、なかなか眠れなかった。
目を閉じると、悠真の顔が浮かぶ。
笑っていたときの表情も、真剣だったときの横顔も、あまりに鮮明で。
——本当に、何も言わずに消えるような人じゃない。
そう思いたかった。
信じたかった。
それなのに、今日見た悠真の家の玄関、母親の表情、短い返事の数々が、現実として重くのしかかってくる。
布団の中で身を丸め、柚希は小さく息を吐いた。
泣いてしまえば楽になるのかもしれない。
でも、涙は簡単には出てこなかった。
代わりに浮かんできたのは、神谷の声だった。
——「一人じゃ、きつそうだ」
あの言葉を思い出した瞬間、胸の奥がわずかに温かくなる。
同時に、戸惑いも生まれる。
神谷は、悠真の代わりじゃない。
それは分かっている。
分かっているのに、誰かがそばにいるという感覚に、救われそうになっている自分がいた。
——そんなふうに思う資格、あるのかな。
自分でも分からないまま、時間だけが過ぎていく。
翌朝、目を覚ますと、枕が少しだけ湿っていた。
泣いた記憶はない。
でも、眠っている間に、心が追いつかなかったのかもしれない。
制服に袖を通し、鏡の前に立つ。
そこに映る自分は、いつもと同じようで、どこか違って見えた。
「……大丈夫」
誰に向けた言葉でもなく、そう呟く。
大丈夫だと、思いたかった。
家を出ると、朝の空気は冷たく澄んでいた。
歩きながら、無意識にスマートフォンを確認する。
通知は、ない。
学校の校門が見えたとき、胸の奥に小さな痛みが走る。
ここに来れば、また空席を見なければならない。
それでも、足は止まらなかった。
——逃げない。
その思いだけが、今の自分を支えていた。
教室に入ると、すでに数人のクラスメイトが来ていた。
真帆と目が合い、彼女は一瞬だけ表情を曇らせてから、近づいてくる。
「……昨日、大丈夫だった?」
その問いかけに、柚希は小さく笑った。
「うん。まだ、分からないけど」
それは正直な答えだった。
何も分からない。
けれど、分かろうとすることだけは、やめない。
席に着くと、またあの空席が視界に入る。
でも今日は、昨日よりも、ほんの少しだけ直視できた。
——探そう。
理由も、真実も、すべて。
その決意は、まだ言葉にならないほど小さかったけれど、確かに胸の中で息づいていた。
そしてこの日から、
柚希は“待つ側”ではなく、
“動く側”へと、静かに踏み出していくことになる。
朝のホームルームが始まっても、柚希の意識はなかなか教室に戻ってこなかった。担任の声が黒板の文字と一緒に遠くへ流れていき、窓の外を通り過ぎる雲ばかりがやけに鮮明に見える。
悠真の席は、今日も空いている。
それを「もう一度確認する」ように視線を向けてしまう自分に、柚希は小さく息を吐いた。
——探す、と決めたはずなのに。
決意はあった。
でも、何から始めればいいのかは分からなかった。
休み時間、周囲のざわめきの中で、柚希は思い切って声をかけてみることにした。悠真と比較的よく話していたクラスメイト。放課後に一緒に帰る姿を、何度か見たことのある男子。
「ねえ……悠真のことで、何か聞いてない?」
相手は一瞬だけ言葉に詰まり、困ったように視線を泳がせた。
「いや……急に来なくなったよな。俺も知らない」
「そう……」
それ以上、踏み込むことはできなかった。
問いかけるたびに、胸の奥で何かが擦り切れていく感覚があった。
昼休み。
真帆が購買のパンを持って戻ってきて、柚希の机の前に腰を下ろす。
「ねえ、柚希」
「ん?」
「……あんまり一人で抱え込まないで」
その言葉に、柚希は思わず手を止めた。
優しさだと分かっているからこそ、返事に迷う。
「抱え込んでるつもりは、ないよ」
そう言いながら、自分でもその言葉がどこまで本当なのか分からなかった。
真帆は少しだけ眉を下げて、続ける。
「悠真、きっと何か理由があるんだと思う。でも……」
言葉を探すように、一拍置いてから。
「柚希が全部背負う必要はない」
その言葉は、胸に静かに染み込んだ。
けれど同時に、拒むような感情も生まれる。
——背負いたいわけじゃない。
——ただ、放っておけないだけ。
それをどう説明すればいいのか、分からなかった。
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、背後から声をかけられた。
「柚希」
振り返ると、神谷が立っていた。
相変わらず少し距離を測るような立ち方で、けれど目線は真っ直ぐこちらを向いている。
「……昨日のこと、気になって」
一瞬、何を指しているのか分からなかったが、すぐに思い当たる。
「悠真のこと?」
神谷は小さく頷いた。
「無理に聞くつもりはない。でも……俺、転校してきてから、少し変だと思ってた」
「変?」
「悠真。ここ最近、放課後になると、よく一人でどこかに行ってた」
その言葉に、心臓が一拍遅れて跳ねた。
「どこに?」
「分からない。ただ……駅とは逆方向だった」
たったそれだけの情報なのに、胸の奥がざわつく。
今まで見えなかった輪郭が、ほんの少しだけ浮かび上がった気がした。
「ありがとう」
そう言うと、神谷は照れたように視線を逸らした。
「役に立つかは分からないけど」
「……ううん」
柚希は首を振る。
「十分」
誰かが、自分と同じ場所を見てくれている。
その事実が、思っていた以上に支えになった。
帰り道、夕暮れの空を見上げながら、柚希は歩いた。
昨日よりも、少しだけ視界が広い。
——悠真は、一人でどこへ向かっていたんだろう。
問いは増えるばかりだったが、不思議と怖さは減っていた。
代わりに、胸の奥で静かに燃えるものがある。
家に着き、部屋に入ると、机の上に置いたノートが目に入る。
ページをめくり、あの走り書きの文字を、もう一度なぞる。
「星、見に行こう」
約束だった。
そして、まだ終わっていない約束でもある。
窓を開けると、夜の空気が流れ込んできた。
見上げた先に、ひとつ、またひとつと星が浮かび上がる。
——同じ空を、見ているだろうか。
そう思った瞬間、胸が締めつけられる。
それでも、目を逸らさなかった。
待つだけでは、何も変わらない。
でも、動いたからといって、すぐに答えが出るわけでもない。
それでも。
「……見つけるから」
声に出したその言葉は、夜に溶けていった。
この夜、柚希は初めてはっきりと理解する。
これは“失った人を待つ物語”ではない。
“消えた理由を探しに行く物語”なのだと。
そして、その道の先に何が待っているのかを、
まだ誰も知らない。
夜は、思っていた以上に長かった。
布団に入っても、柚希はなかなか眠れず、天井のわずかな染みをぼんやりと見つめていた。目を閉じれば、昼間の会話や、悠真のいない教室の光景が、順番もなく浮かんでは消えていく。
——駅とは逆方向。
神谷の言葉が、何度も頭の中で反響する。
それはただの情報のはずなのに、妙に現実味を帯びていた。
悠真が、誰にも言わず、毎日のように向かっていた場所。
そこにはきっと、理由がある。
けれど同時に、そこに踏み込んでしまえば、もう戻れない気もしていた。
今まで信じてきた関係や、当たり前だった日常が、形を変えてしまうかもしれないという不安が、胸の奥で静かに息をしている。
寝返りを打ち、枕に顔を埋める。
涙が出るわけでもない。
ただ、胸が重くて、呼吸が浅くなる。
——どうして、何も言ってくれなかったの。
問いかけは、宛先のないまま宙に浮かぶ。
答えは返ってこない。
それでも、柚希は気づいていた。
本当は、怒りよりも、寂しさよりも——怖かったのだ。
悠真の知らない一面を知ってしまうことが。
自分が、彼の世界の中心ではなかったと知ることが。
朝になり、カーテン越しの光が部屋を薄く照らす。
目覚ましが鳴る前に、柚希は目を覚ましていた。
鏡に映る自分は、少しだけ疲れて見えた。
けれど、その目の奥には、昨日までになかったものが宿っている。
——行こう。
心の中で、そう決める。
今日、全部を解決できるわけじゃない。
でも、何もしないまま時間だけが過ぎていくのは、もう耐えられなかった。
学校へ向かう途中、いつもより早い時間の電車に乗る。
窓の外を流れる景色が、どこか他人事のように見えた。
教室に着くと、まだ人は少なかった。
悠真の席は、相変わらず空いている。
その前を通り過ぎるとき、ほんの一瞬だけ立ち止まってしまう。
机の角に残る、小さな傷。
何気なく使っていた場所に、こんなにも痕跡が残っていることが、今はやけに切なかった。
「……行ってくるね」
誰にも聞こえない声で、そう呟く。
それは、悠真に向けた言葉でもあり、自分自身への合図でもあった。
昼休み。
柚希は真帆に「用事があるから」とだけ告げ、校舎を出た。
詳しい説明はしなかった。
言葉にしてしまえば、きっと引き止められる気がしたから。
校門を抜け、昨日神谷が言っていた“逆方向”へと足を向ける。
通い慣れた道から外れるにつれ、周囲の景色は少しずつ変わっていった。
住宅街。
小さな公園。
人通りの少ない坂道。
どれも特別な場所じゃない。
それなのに、胸の鼓動は早まっていく。
——本当に、ここで合ってるのかな。
不安が顔を出すたび、足が止まりそうになる。
それでも、引き返さなかった。
少し離れたところで、見覚えのある背中が目に入る。
「……神谷?」
声をかけると、彼は驚いたように振り返った。
「柚希……?」
こんなところで会うとは思っていなかったらしい。
でも、その表情に、嫌そうな色はなかった。
「もしかして……」
神谷は、柚希の進もうとしている方向を見て、言葉を濁す。
「……同じ場所?」
柚希は、少しだけ迷ってから頷いた。
「多分」
それ以上、説明はいらなかった。
二人は並んで歩き始める。
会話は少なかった。
けれど、その沈黙は、昨日よりもずっと重みがあった。
——一人じゃない。
その事実が、心を少しだけ支えてくれる。
坂の先に見えてきたのは、古い駅舎だった。
普段使われることの少ない、ローカル線の小さな駅。
柚希は、無意識のうちに息を止めていた。
——ここ……?
悠真が、ここへ来ていた理由。
それが、この先にある。
期待と恐怖が、同時に胸を締めつける。
「……行こう」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
神谷は何も言わず、ただ隣に立つ。
駅舎の中へ足を踏み入れた瞬間、
柚希は強く思った。
——もう、戻れない。
それでも、後悔はなかった。
なぜなら、この一歩は、
悠真を想う気持ちそのものだったから。
駅舎の中は、外から想像していた以上に静まり返っていた。
改札は無人で、古い時刻表が壁に貼られたまま色褪せている。どこかで風が吹き抜けるたび、天井の蛍光灯が微かに鳴り、その音だけがやけに大きく耳に残った。
柚希は、一歩踏み出すごとに、自分の足音がこの場所に馴染んでいないことを感じていた。
ここは、悠真の日常の延長線上にある場所なのだろうか。
それとも、彼が誰にも見せなかった、別の世界の入口なのか。
「……静かだね」
神谷が小さく呟く。
その声でさえ、空気を揺らすのをためらっているようだった。
「うん……」
柚希は短く返事をしながら、視線を巡らせる。
ベンチは古く、木目が剥がれている。
自動販売機は稼働しているが、選択肢は少なく、どこか時代に取り残されたような印象を受けた。
——悠真は、ここで何をしていたんだろう。
考えようとするたび、胸の奥に冷たいものが広がる。
もし、この場所に“理由”があるのなら、それはきっと、簡単に受け止められるものではない。
ホームに出ると、線路が夕方の光を反射していた。
列車が来る気配はなく、遠くで鳥の鳴き声が聞こえるだけだ。
柚希は、無意識のうちに線路沿いを見つめていた。
どこかへ続いているはずなのに、今は途切れて見えるその先を。
「ねえ、柚希」
神谷の声が、少し低くなる。
「ここ……前に、来たことある?」
首を振る。
「ない。初めて」
「そっか」
神谷はそれ以上何も言わなかったが、その視線は、ある一点に留まっていた。
柚希も、その先を見る。
ホームの端。
人目につきにくい場所に、小さな掲示板が立っている。
近づいてみると、そこには手書きのメモがいくつも貼られていた。地域の連絡事項、イベントの案内、落とし物の情報。
その中に、一枚だけ、明らかに違う紙があった。
折り目のついた白い紙。
文字は、どこか見覚えのある書き方だった。
心臓が、強く打つ。
「……これ」
声が、自然と低くなる。
紙に書かれていたのは、短い言葉。
「夕方、ここで」
日付は、数日前のものだった。
柚希は、しばらくその文字から目を離せなかった。
悠真の字だ。
間違いない。
「やっぱり……」
神谷が、息を詰めるように言う。
「来てたんだな」
言葉にした瞬間、現実が輪郭を持つ。
悠真は確かにここにいた。
誰かと、何かを待っていた。
「誰と……?」
柚希の呟きは、答えを求めるというより、恐れを隠すためのものだった。
そのとき、不意に背後から足音が聞こえた。
振り返ると、作業服を着た中年の男性が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「……君たち」
声をかけられ、二人は同時に身構える。
「この掲示板、気になる?」
男性はそう言って、紙の一枚を指さした。
「最近、同じくらいの年の子が、よく見てたよ」
柚希の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「それ……その子、どんな人でしたか」
問いかける声が、思ったよりも震えていた。
男性は少し考えるように顎に手を当て、答える。
「真面目そうな子だったな。ここで、誰かを待ってるみたいだった」
——待ってる。
その言葉が、胸の奥に深く沈む。
「一人でしたか?」
神谷が続けて聞く。
「いや……時々、誰かと話してた気もする」
その“誰か”が、誰なのか。
聞くのが、怖かった。
柚希は、指先が冷たくなっているのを感じながら、必死で表情を保っていた。
——悠真は、ここで誰と繋がっていたの?
知らなかった。
何も、知らなかった。
それが、こんなにも苦しいなんて、思っていなかった。
男性が去ったあと、二人はしばらく黙って立ち尽くしていた。
風が吹き抜け、掲示板の紙がかすかに揺れる。
柚希は、その揺れを見つめながら、はっきりと感じていた。
——これは、探せば探すほど、
——自分の知らない悠真に近づいていく。
それでも、目を逸らすことはできなかった。
なぜなら、この胸の痛みは、
悠真を想っている証でもあったから。
そしてこの場所は、
ただの“手がかり”では終わらない。
そんな予感が、
夕暮れの空気の中で、確かに形を持ち始めていた。
夕暮れの色は、思っていたよりも早く駅を包み込んだ。
オレンジと紫が混じり合う空の下で、ホームはさらに静けさを増し、まるでこの場所そのものが何かを隠そうとしているかのようだった。
柚希は、掲示板から離れたあとも、何度も振り返ってしまう。
あの紙切れ一枚が、こんなにも心を引き裂く存在になるとは思っていなかった。
「……帰ろうか」
神谷が、慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「今日は、これ以上は……」
「うん」
返事はしたものの、足はすぐには動かなかった。
帰る、という言葉が、まるで悠真から遠ざかる行為のように感じられてしまう。
——でも、もうここにはいない。
分かっている。
悠真は、今この場所にはいない。
それでも、彼の気配だけが、まだここに残っている気がしてならなかった。
二人はゆっくりと駅を出る。
振り返るたびに、あのホームが少しずつ闇に溶けていく。
歩きながら、柚希は何度も考えていた。
——悠真は、誰を待っていたのか。
——どうして、私じゃなかったのか。
考えてはいけないと思えば思うほど、心の奥でその疑問が膨らんでいく。
「……神谷」
声を出すまでに、少し時間がかかった。
「もしさ……」
言葉を探す間、足音だけが続く。
「もし、悠真が……私に言えないこと、持ってたとしたら」
神谷は、すぐには答えなかった。
少し間を置いてから、静かに言う。
「……それでも、お前のせいじゃない」
その一言が、胸に刺さる。
「でも」
柚希は立ち止まり、神谷を見る。
「親友、だったんだよ。何でも話すって……そう、思ってた」
声が震えそうになるのを、必死で堪えた。
「なのに、知らなかった」
知らなかったこと。
それ自体が、裏切りのように感じられてしまう。
神谷は、目を逸らさずに柚希を見返す。
「人ってさ……」
言葉を選びながら、続ける。
「一番近い相手ほど、言えないこともある」
その言葉は、慰めでありながら、残酷でもあった。
近いからこそ、隠す。
大切だからこそ、言わない。
——じゃあ私は、悠真にとって、どんな存在だったの?
喉まで出かかった問いを、柚希は飲み込む。
答えを聞くのが、怖かった。
再び歩き出すと、街灯がぽつりぽつりと灯り始めていた。
影が長く伸び、二人の距離を強調する。
そのとき、神谷がふと足を止めた。
「……柚希」
声の調子が、少し変わっている。
「さっきの人、言ってただろ。悠真が……誰かと話してたって」
柚希の胸が、またざわつく。
「うん」
「俺さ」
神谷は一瞬、言葉を切る。
「最近、転校してきたときから、ずっと気になってたことがある」
——転校。
その言葉に、心が反応する。
「悠真が、放課後……たまに、誰かと連絡取ってるみたいだった」
柚希は、息を止めた。
「誰と?」
問いは、思った以上に鋭くなってしまった。
神谷は、視線を前に向けたまま答える。
「分からない。でも……」
少し間を置いて、続ける。
「少なくとも、俺たちの知らない誰かだ」
その言葉が、決定打のように胸を打った。
知らない誰か。
悠真の世界に入り込んでいた、柚希の知らない存在。
「……そっか」
そう答えるしかなかった。
否定も、怒りも、まだ形にならない。
ただ、心の奥に、静かで重たい感情が沈殿していく。
それは、嫉妬に似ていて、
同時に、自己嫌悪にも似ていた。
——私は、ちゃんと悠真を見てたつもりだった。
でも、それは、
“見えている部分”だけを見て、満足していただけなのかもしれない。
帰り道の途中、交差点で信号待ちをする。
赤い光が、やけに眩しい。
ふと、柚希は気づく。
神谷が、何かを言いかけて、黙ったままなことに。
「……なに?」
神谷は、少しだけ表情を曇らせる。
「いや……」
言い淀んだあと、はっきりと言った。
「この先、知りたくないことも、出てくると思う」
その言葉は、忠告だった。
同時に、覚悟を問うものでもある。
柚希は、赤信号の向こう側を見つめる。
そこには、まだ見えない未来が広がっている。
「それでも」
小さく、けれど確かな声で言う。
「……行く」
神谷は、何も言わずに頷いた。
信号が青に変わり、二人は歩き出す。
その一歩は、これまでとは違う重さを持っていた。
——もう、ただの“捜索”じゃない。
悠真の不在が、
柚希自身の心の奥を暴き始めている。
誰を信じ、
何を知り、
どこまで踏み込むのか。
その答えは、まだ霧の中だ。
けれど、確かなことが一つだけある。
柚希はもう、
引き返せないところまで来てしまった。
夕闇の中、二人の影が並んで伸びていく。
重なりそうで、重ならないその影は、これから先に待つ選択の難しさを、静かに物語っていた。
朝の空気は、ひどく静かだった。
昨日まで当たり前にあったはずの音が、ひとつずつ抜け落ちているような、そんな違和感だけが街全体に薄く広がっている。
柚希は、校門をくぐる直前で、ほんの一瞬だけ立ち止まった。
胸の奥で、理由の分からない息苦しさが脈打っている。
――今日は、何も起きませんように。
そう願ったはずなのに、足は自然と前へ進んでいた。
止まったところで、悠真が戻ってくるわけじゃない。
分かっている。分かっているのに、心だけが追いつかない。
教室に入ると、いつもより空気が張りつめていた。
ひそひそと交わされる声は、意図せず柚希の耳に届く。
「まだ連絡ないんだって」
「本当に来てないらしいよ」
「家の人も……」
柚希は、何も聞こえないふりをして席についた。
机に置いた鞄の音が、やけに大きく響く。
悠真の席は、今日も空いたままだった。
その空白を直視するたびに、胸の奥が静かに、確実に削られていく。
まるで、少しずつ酸素を抜かれているみたいだった。
真帆が、そっと近づいてくる。
「……大丈夫?」
その一言に、喉の奥が詰まる。
大丈夫かどうかなんて、分からない。
けれど、首を振るほどの余裕もなかった。
「うん……たぶん」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
感情を表に出したら、崩れてしまいそうだったから。
一時間目が始まる直前、担任が教室に入ってくる。
その後ろに、見慣れない姿があった。
「今日は、転校生を紹介する」
ざわめきが走る。
柚希の胸が、微かに揺れた。
――また、誰かが来る。
それ自体は、珍しいことじゃない。
けれど、今のこのタイミングだけは、どうしても意味を持ってしまう。
転校生は、少し緊張した面持ちで前に立った。
背は高くも低くもなく、印象に残りにくいはずなのに、なぜか視線が離れない。
名前を名乗る。
淡々とした自己紹介。
その声を聞いた瞬間、柚希の胸の奥で、何かが小さく鳴った。
――知らない声。
当たり前のことなのに、その事実が、ひどく重くのしかかる。
悠真のいない教室に、また一つ、柚希の知らない存在が増えていく。
転校生は、担任に促されて空いている席へ向かう。
悠真の席ではなかった。
けれど、通り過ぎるとき、一瞬だけ、その机に視線を落としたように見えた。
ほんの一瞬。
気のせいと言われれば、それまでの仕草。
それなのに、胸の奥がざわついた。
授業が始まっても、集中できなかった。
黒板の文字は視界に入るのに、意味として頭に残らない。
――悠真は、この教室で、どんな顔をしていたんだろう。
柚希は、今さらそんなことを考えていた。
毎日一緒にいたはずなのに、思い出そうとすると、ぼんやりとしか浮かばない。
休み時間。
教室のあちこちで、転校生を囲む輪ができていた。
質問が飛び交い、笑い声が上がる。
柚希は、その光景を少し離れたところから眺めていた。
胸に広がるのは、嫉妬でも警戒でもない。
――置いていかれる。
そんな感覚だった。
悠真がいなくなって、
そこに、柚希の知らない誰かが、少しずつ居場所を作っていく。
それは自然なことなのに、どうしても心が追いつかない。
真帆が隣に来て、囁く。
「……なんか、不思議だね」
「うん」
それ以上、言葉はいらなかった。
二人とも、同じことを感じていた。
放課後。
校舎を出る頃には、空が淡い色に染まり始めていた。
柚希は、いつもの道を歩きながら、ふと足を止める。
悠真と並んで帰った道。
何気ない話をしながら、遠回りした夕暮れ。
「……どこにいるの」
声は、風に溶けて消える。
悠真の世界には、
柚希の知らない誰かが、きっといた。
それは、転校生かもしれない。
それとも、名前も顔も分からない、もっと遠い誰かかもしれない。
ただ一つ確かなのは、
柚希が思っていたよりも、悠真はずっと多くのものを抱えて生きていた、ということだった。
その事実が、胸を締めつける。
同時に、胸の奥に、祈りのような想いが芽生える。
――どうか、ひとりじゃありませんように。
たとえ、柚希の知らない場所でも。
たとえ、もう届かなくても。
悠真の時間が、誰かの優しさに触れていますように。
夕暮れの空を見上げながら、
柚希は、そっと目を閉じた。
その願いが届くかどうかなんて、分からない。
それでも、願わずにはいられなかった。
失われたものを追いかけるより、
まだ繋がっていると信じたいもののために。
――そして、
その「知らない誰か」は、確実に、物語の中へ足を踏み入れてきていた。
放課後の校舎は、昼間よりもずっと静かだった。
部活に向かう生徒の足音が遠くで響く以外、廊下には人の気配がほとんどない。
窓から差し込む夕方の光が、床に長い影を落としていた。
柚希は、自分でも理由が分からないまま、教室に残っていた。
帰ろうと思えば帰れた。
けれど、身体が言うことを聞かなかった。
悠真の机の前に立つ。
何度目かも分からない、その場所。
机の上は、相変わらず何もない。
置き去りにされた教科書も、忘れられたノートもない。
最初から、何もなかったかのように整っている。
「……ほんとに、いなくなったみたい」
言葉にした瞬間、胸の奥で鈍い痛みが走った。
“みたい”じゃない。
現実なのだと、心が静かに否定する。
そのとき、教室の入り口で、かすかな足音がした。
振り向くと、そこに立っていたのは、今日転校してきたばかりの生徒だった。
昼間よりも少しだけ、緊張が抜けたような表情。
「あ……」
彼は、柚希と目が合うと、一瞬だけ戸惑ったように視線を逸らした。
それでも、逃げるように立ち去ることはしなかった。
「まだ、残ってたんだ」
声は低く、落ち着いていた。
それが、なぜか胸に引っかかる。
「……うん」
柚希は、短く答える。
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
沈黙が、二人の間に落ちる。
気まずさというより、触れてはいけないものを前にしているような、そんな空気。
転校生は、教室の中を見回したあと、ぽつりと口を開いた。
「……ここ、静かだね」
「……いつもは、もっと賑やか」
そう答えながら、柚希は思う。
“いつも”の中には、悠真がいた。
転校生は、何か言いかけて、言葉を飲み込んだようだった。
その仕草が、柚希の心をざわつかせる。
「……空いてる席、多い?」
その問いに、柚希は一瞬、息を詰める。
「……一つだけ」
そう答えた声が、少しだけ震えたのを、自分でも感じた。
転校生の視線が、自然と悠真の席へ向かう。
そして、ほんのわずか、眉が寄った。
「あ……」
その小さな声に、柚希の心臓が跳ねる。
「……知ってる?」
問いは、思ったよりも静かに口からこぼれた。
詰問でも、疑いでもない。
ただ、縋るような問い。
転校生は、すぐには答えなかった。
しばらく考えるように視線を落とし、それからゆっくり首を振る。
「……いや」
その一言に、胸が少しだけ緩む。
けれど、同時に、なぜか寂しさが込み上げた。
「ただ……」
続く言葉に、柚希は思わず息を止める。
「この席、なんとなく……誰かがいた気がして」
それは、あまりにも曖昧な言い方だった。
根拠も、確証もない。
それなのに。
柚希の胸は、強く締めつけられた。
「……そう」
それしか、返せなかった。
もし、ここで何かを聞いてしまったら、
もし、悠真の“知らなかった部分”に触れてしまったら、
もう後戻りできない気がした。
転校生は、それ以上何も言わなかった。
代わりに、静かに頭を下げる。
「じゃあ……俺、先に帰る」
「うん」
教室を出ていく背中を見送りながら、柚希は動けずにいた。
ほんの数分の会話。
それだけなのに、胸の奥がひどく疲れている。
――知らない誰か。
それは、敵でも、裏切りでもない。
ただ、柚希の知らない場所で、悠真が生きていた証。
それを思うと、苦しくて、でも、どこか救われる気もした。
悠真は、誰にも気づかれず、消えてしまったわけじゃない。
少なくとも、誰かの記憶の端には、確かに存在していた。
帰り道。
空は、すっかり夜の色に変わりつつあった。
街灯の下を歩きながら、柚希は何度も立ち止まる。
悠真と歩いたこの道も、今は一人。
「……ねえ」
呼びかけても、返事はない。
それでも、柚希は歩き続けた。
止まってしまったら、
この時間ごと、置き去りにされてしまいそうだったから。
家に着き、玄関の灯りをつける。
静かな部屋。
鞄を置き、窓際に立って、夜空を見上げる。
星は、今日はあまり見えなかった。
「……どこにいるの」
声は、やはり届かない。
それでも、柚希は知ってしまった。
悠真の世界には、
柚希の知らない誰かが、確かに存在していたことを。
それは、失われた絆を断ち切るものではなく、
むしろ、悠真がどれほど多くの想いを抱えていたかを、
静かに教えてくる存在だった。
胸の奥に、涙が溜まる。
流れてしまえば楽なのに、それでも、まだ流れない。
柚希は、そっと目を閉じた。
――信じたい。
悠真が、今もどこかで、生きていることを。
そして、
自分の知らない誰かが、
彼のそばにいてくれた時間があったことを。
それだけで、
今日を乗り越える理由には、十分だった。
夜の静けさの中で、
柚希は、まだ名前のない想いを胸に抱えたまま、
長い夜へと足を踏み入れていった。
朝、目を覚ました瞬間に、柚希は理解してしまった。
今日は「何も変わらない日」なのだと。
眠りが浅かったわけでも、悪夢を見たわけでもない。
ただ、目を開けた瞬間に胸の奥へ沈んできた重さが、昨日と同じ形をしていた。それだけで十分だった。
悠真がいないという事実は、もはや衝撃ではなく、鈍く広がる痛みとして体の奥に定着し始めていた。
カーテン越しの光は穏やかで、朝としては申し分なかった。
それがかえって、残酷に思える。
世界は何も失っていない顔をして、今日も同じ速度で回っている。
布団から起き上がり、制服に着替える。
その動作のひとつひとつが、昨日も一昨日もやったはずのものなのに、どこか他人の身体を動かしているような感覚があった。
鏡に映る自分は、驚くほど普通の顔をしている。
泣いていない。
叫んでもいない。
ただ、少しだけ目の奥が暗い。
「……ちゃんと、学校行けるんだ」
ぽつりと零れた言葉に、誰も答えない。
それでも柚希は、鞄を持ち、家を出た。
通学路は、これまでと何ひとつ変わらない。
同じ角を曲がり、同じ横断歩道を渡り、同じ距離を歩く。
違うのは、隣にいるはずの存在だけだった。
悠真は、いない。
その事実を、頭で理解しないようにしても、身体の方が先に反応してしまう。
歩幅を合わせようとして、無意識に速度を落とす癖。
横を向きかけて、誰もいない空間に気づく瞬間。
それらが一つ一つ、遅効性の痛みとして積み重なっていく。
校門が見えたとき、柚希は一瞬だけ足を止めた。
胸の奥で、何かが小さく拒否する。
入りたくないわけじゃない。
ただ、入ってしまえば、また空席を見なければならない。
それでも、立ち止まっていられるほど、世界は優しくなかった。
教室に入ると、視線が一瞬だけ集まり、すぐに逸れた。
あからさまな同情も、無遠慮な詮索もない。
それが、かえってつらい。
悠真がいないことは、もう「特別な出来事」ではなくなりつつあった。
席に着き、柚希は自然と隣を見る。
今日も、誰もいない。
椅子は机に寄せられたまま、まるで「まだ使われる予定がある」と言わんばかりに、きちんと整えられている。
その光景を見た瞬間、胸の奥で、かすかな安堵が生まれてしまった。
――まだ、ここに居場所が残ってる。
そんなふうに思ってしまった自分が、少し怖かった。
人は、失われたものを悼む一方で、空白が埋まらないことに救われてしまう。
その矛盾を、柚希は初めて知った。
授業が始まっても、内容はほとんど頭に入らなかった。
教師の声は聞こえているのに、意味として結ばれない。
ノートを取る手は動いているのに、文字は上滑りしていく。
ふと、引き出しに手を伸ばし、何かを探すふりをする。
本当は、探しているものなんてない。
ただ、顔を伏せていないと、感情が零れそうだった。
休み時間。
教室のざわめきの中で、柚希はひとり、自分だけ音の外側にいるような感覚に包まれていた。
笑い声も、話題も、遠くで鳴っているだけで、触れることができない。
そのとき、視界の端に神谷の姿が入った。
彼は一瞬だけこちらを見て、ためらうように立ち止まる。
「……柚希」
呼ばれて、顔を上げる。
神谷の手には、小さなものが握られていた。
「これ……昨日、駅の近くで拾った」
差し出されたそれを見た瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
悠真が使っていたキーホルダー。
柚希が、昔、何気なく選んだもの。
「……どうして、これが……」
声が、思うように出なかった。
「落ちてた場所がさ……」
神谷は、少し言いづらそうに言葉を選ぶ。
「昨日、話した転校生が言ってた辺りと、近かった」
その一言で、胸の奥に溜まっていたものが、静かに溢れ出しそうになる。
点と点が、まだ繋がらないまま、確かに同じ場所に集まり始めている。
知らない誰か。
柚希の知らなかった時間。
そして、今も戻らない悠真。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
キーホルダーを握る指に、力が入る。
金属は冷たいはずなのに、不思議と温度を持っているように感じられた。
それは、悠真が確かにここにいた証であり、
同時に、もうここにはいないという現実でもあった。
昼休み、柚希はひとり屋上へ向かった。
風が強く、制服の裾が揺れる。
見下ろす校庭では、いつも通りの昼が流れている。
「……ねえ」
誰もいない空に、声を投げる。
「……私、ちゃんと待ってるよ」
それは約束でも、誓いでもない。
ただ、今の自分を保つために必要な言葉だった。
待つことが、もう希望ではないことくらい、分かっている。
それでも、待たずにいられない。
信じることでしか、立っていられない。
柚希は、キーホルダーを胸元で握りしめながら、ゆっくりと目を閉じた。
涙は、まだ落ちない。
けれど、胸の奥では確実に、何かが限界に近づいていた。
屋上を後にして教室へ戻るまでの短い時間、柚希はほとんど何も考えていなかった。正確に言えば、考えようとするたびに、思考が同じ場所へ引き戻されてしまうのを感じていた。悠真がいないという事実、その空白を埋めるように少しずつ積み上がっていく「知らなかったこと」、そして自分が気づけなかったという後悔。そのどれもが、別々の形をしているようで、結局は同じ重さで胸の奥に沈んでいる。
午後の授業は、淡々と進んだ。教師の声は一定で、黒板に書かれる文字も整然としている。柚希はノートを取りながら、内容を理解しているふりをした。実際には、文字を写すことでしか自分を保てなかった。もし手を止めてしまえば、頭の中に溜まっているものが一気に溢れ出してしまいそうだった。
隣の席は、相変わらず空いている。その事実が、時間が経つにつれて少しずつ意味を変えていくのを、柚希は感じていた。最初は衝撃だった。次に不安になり、そして今は、説明のつかない焦りに近い感情へと変わりつつある。誰も座らないその席は、悠真の居場所を守っているようにも見えるが、同時に、いつか誰かが当然のように腰を下ろす未来を暗示しているようにも思えた。
放課後、教室には再び静けさが戻った。部活へ向かう生徒たちが去り、窓の外では夕方の光が校舎の影を長く伸ばしている。柚希は帰る支度をしながら、何度も悠真の席に視線を向けた。意識して見ないようにしても、どうしても目が向いてしまう。それは、そこに何かがあるからではなく、何もないことを確認してしまうからだった。
教室を出ようとしたとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。顔を上げると、神谷と、数歩遅れて新しく転校してきた生徒の姿が見えた。二人は何かを話していたようだったが、柚希の姿に気づくと、会話が途切れる。
「……柚希」
神谷が声をかける。その表情には、いつもより少しだけ硬さがあった。
「今、帰り?」
「うん」
それだけのやり取りなのに、転校生は一瞬、視線を落とした。まるで、ここにいること自体が場違いだと感じているかのような態度だった。その様子が、柚希の胸に小さな引っかかりを残す。
「……あのさ」
神谷が言葉を選ぶように間を置いたあと、続ける。
「こいつ、道、あんまり分かってなくて。駅まで一緒に行くけど……柚希も同じ方向だよな」
断る理由はなかった。けれど、頷いた瞬間、胸の奥で何かがざわついた。三人で並んで歩く構図が、これまでの日常とあまりにも違っていたからだ。
校舎を出て、夕暮れの中を歩く。風は冷たく、空気には少しずつ夜の気配が混じり始めている。転校生は、少し前を歩きながら、時折、周囲を確認するように視線を動かしていた。
「……この辺、静かですね」
ぽつりと漏れたその言葉に、柚希は思わず足を止めそうになる。悠真がよく言っていた言葉だった。何気ない感想のはずなのに、耳にした瞬間、胸の奥が強く締めつけられる。
「……そうだね」
声が揺れないよう、意識して答える。神谷が横で、何も言わずに歩調を合わせてくれているのが分かった。
駅が近づくにつれ、転校生は少しずつ口数が増えていった。前の学校の話、通学路のこと、慣れない街への戸惑い。どれも取り留めのない内容だったが、柚希は、その一つ一つに妙な既視感を覚えていた。まるで、悠真がここにいない代わりに、別の誰かが同じ空気を吸っているような感覚。
「……あの」
駅前に差し掛かったところで、転校生が足を止める。
「今日、教室で……空いてる席、ありましたよね」
その一言で、空気が変わった。神谷が一瞬、言葉を失う。柚希は、胸の奥で何かが音を立てて崩れるのを感じた。
「……うん」
短く答える。続きを促すことも、止めることもできなかった。
「前の学校でも……似たことがあって」
転校生は、遠くを見るような目をしていた。
「急に来なくなったやつがいて。最初は、みんな待ってたんです。でも、だんだん……」
その先を、彼は言わなかった。それでも十分だった。柚希は、続きを想像してしまう。待つ人が減り、話題に出る回数が減り、やがて「いなかった人」になるまでの時間。
「……そう」
それ以上、言葉が出てこなかった。自分が今、まさにその途中に立っていることを、否定できなかったからだ。
別れ際、転校生は小さく頭を下げた。「今日は、ありがとうございました」。その礼儀正しい態度が、かえって胸に刺さる。彼は悪くない。誰も悪くない。ただ、悠真だけがいない。
帰り道を一人で歩きながら、柚希は空を見上げた。夕焼けはもう消え、空は深い青に変わりつつある。昼と夜の境目のこの時間が、今の自分に重なって見えた。まだ終わっていないのに、確実に何かが終わりへ向かっている。
家に着き、部屋に入る。鞄を置き、机の前に座った瞬間、ようやく身体から力が抜けた。ポケットからキーホルダーを取り出し、掌に乗せる。小さくて、ありふれた形。それなのに、胸の奥にあるものすべてを引き寄せてしまう。
「……ねえ、悠真」
声に出した瞬間、喉が詰まった。返事がないことを分かっていても、呼ばずにはいられなかった。
「私さ……ちゃんと見てたつもりだったんだよ」
独り言は、静かな部屋に溶けていく。誰に聞かせるわけでもない。けれど、言葉にしなければ、自分が壊れてしまいそうだった。
「一緒にいれば、分かってるって思ってた。でも……知らないこと、こんなにあったんだね」
キーホルダーを握る指に、力が入る。涙が、ようやく視界を滲ませた。
待つことは、もう希望じゃないかもしれない。それでも、信じることだけは、まだ手放せなかった。悠真がどこかで生きていること。誰かの記憶の中で、確かに存在していること。そのどちらかが嘘になってしまったら、これまでの時間まで否定されてしまう気がしたからだ。
柚希は、ゆっくりと息を吐いた。泣き崩れることはなかった。ただ、胸の奥に溜まっていたものが、静かに形を変えていくのを感じていた。痛みは消えない。それでも、この痛みを抱えたまま、前へ進むしかないのだと、ようやく理解し始めていた。
窓の外では、夜が完全に街を覆っていた。
その闇の中に、悠真がいるかどうかは分からない。
それでも柚希は、目を閉じて願った。
まだ終わらせない。
この時間も、この想いも、ここで失わせない。
そう心の中で繰り返しながら、柚希は机に額を預けた。
涙は静かに流れ、音もなく、確かにそこにあった。
翌朝、目を覚ました瞬間、柚希は一瞬だけ、昨日までの出来事が夢だったのではないかと錯覚した。天井の模様も、カーテン越しに差し込む光も、いつもと何ひとつ変わらない。身体もちゃんと動くし、頭もはっきりしている。それなのに、胸の奥に残る重たい感触だけが、はっきりと現実を主張していた。
悠真はいない。
その事実は、眠っている間に薄れるどころか、朝になることでよりくっきりと形を持って現れた。時間が進めば戻る、そんな都合のいいものではないのだと、否応なく突きつけられる。歯を磨きながら、顔を洗いながら、制服に袖を通しながら、柚希は何度もその現実を噛みしめた。
通学路を歩く足取りは、昨日よりも重い。道端の景色は同じなのに、見えるものが変わってしまった気がした。いつもなら他愛ない話をしていた場所、何度も並んで歩いた角、その一つ一つが、今は無言で柚希を見つめ返してくる。
学校に着くと、昇降口のざわめきが耳に入る。誰かが笑い、誰かが走り、誰かが昨日の続きを生きている。その中に、自分も混じっているはずなのに、ほんの少しだけ、世界からずれている感覚があった。
教室の扉を開けた瞬間、柚希の視線は無意識のうちに、あの席へ向かっていた。やはり、誰もいない。机の上は整えられ、椅子もきちんとしまわれている。その完璧な空白が、かえって胸を締めつけた。
「……今日も、か」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
席に着き、鞄を置く。周囲のクラスメイトたちは、もう悠真の席を特別視していないようにも見えた。
話題に出す者もいなければ、気まずそうに視線を逸らす者も少ない。
それが自然な流れなのだと、頭では分かっている。それでも心は、追いつかなかった。
授業が始まり、チャイムが鳴る。教師が出席を取るとき、悠真の名前は呼ばれなかった。
その一瞬に、柚希は思わず息を止める。まるで、名前を呼ばれなかったことで、存在まで消えてしまったような錯覚に襲われた。
休み時間、神谷が近づいてくる。
「……大丈夫か」
その問いかけは、とても静かだった。気遣いでも、同情でもない。
ただ、そばにいるという意思だけが伝わってくる。
「うん」
柚希はそう答えたが、自分の声がどこか遠くで響いているように感じた。
本当に大丈夫かどうか、自分でも分からなかったからだ。
窓の外を見ると、校庭では誰かがボールを蹴っている。
昨日と同じ風景。それなのに、昨日とは違う重さで胸に落ちてくる。
悠真がいなくても、世界は何事もなかったように回り続けている。
その事実が、残酷で、そしてどうしようもなく現実だった。
柚希はふと気づく。自分は、まだ何も知らないのだと。
悠真がどこへ行ったのか、なぜ姿を消したのか、何を抱えていたのか。
その答えはひとつも手に入っていない。それでも時間だけは進み、周囲は少しずつ「次」へ向かっていく。
このまま、何も分からないまま、忘れられていくのだろうか。
そんな考えが胸をよぎり、柚希は思わず机の下で手を握りしめた。忘れたくない。置いていきたくない。
ただ一緒にいた時間が確かにあったことを、誰かの記憶の中だけで終わらせたくなかった。
それは願いであり、同時に決意の芽でもあった。
まだ、何も終わっていない。
そう言い聞かせるように、柚希は前を向いた。
たとえ答えがすぐに見つからなくても、たとえ誰にも理解されなくても、悠真が「消えた」理由を、このまま曖昧にしてしまうことだけはできなかった。
胸に残る違和感は、もう無視できないほど大きくなっている。
その違和感こそが、今の柚希を動かしていた。
失われたものを取り戻すためではない。
ただ、真実に触れるために。
教室の喧騒の中で、柚希は静かに息を吸い込んだ。
涙はまだ流さない。
心は確かに、次の一歩を選び始めていた。
神谷の姿は、夕暮れの校門の前ですぐに見つけられた。人影がまばらになった時間帯でも、彼の立ち姿には妙な落ち着きがあって、視線を向ければ自然とそこに吸い寄せられる。けれど柚希の注意は、彼ひとりに向いていたわけではなかった。
神谷の少し後ろ。数歩分の距離を置いて、もう一人、見慣れない生徒が歩いてきていた。
制服は同じはずなのに、なぜか輪郭が浮いて見える。歩調も、周囲に合わせているようで、どこか慎重だ。初めての場所に足を踏み入れた人間特有の、探るような視線。その姿を見た瞬間、柚希の胸の奥で、理由の分からないざわめきが起きた。
「……誰?」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
神谷は立ち止まり、振り返る。その表情はいつもと変わらないが、目だけが、はっきりと覚悟を帯びていた。
「今日、話してた件だ」
それだけだった。説明はなく、けれどそれで十分だった。
数歩遅れていた生徒が、ゆっくりと顔を上げる。
街灯の光が、遅れてその表情を照らした。切れ長の目。少し疲れたような、それでも何かを手放していない目。視線が合った瞬間、柚希の胸が、きゅっと締めつけられた。
初めて見る顔のはずなのに、心が拒まなかった。
それどころか、妙な懐かしさが、胸の奥に広がっていく。
「……やっぱり、ここだった」
彼の声は低く、抑えられていた。誰かに確認するようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもある。その響きが、柚希の中で何かを揺らした。
神谷が、静かに口を開く。
「紹介する」
一拍の間。その沈黙の中で、柚希の中に散らばっていた記憶が、静かに集まり始める。悠真の残した文字。意味を持たなかった沈黙。繋がらなかった時間。そのすべてが、この場に向かっていた。
「転校生だ」
神谷は、はっきりと言った。
「朝比奈 恒一」
名前が告げられた瞬間、胸の奥で何かが、音を立ててほどけた。
理由の分からなかった違和感が、ようやく形を持つ。
朝比奈は一歩前に出て、柚希の前に立つ。視線を逸らさず、まっすぐに。
「……俺、悠真に頼まれてた」
その名前を聞いただけで、喉が詰まる。けれど、逃げたくはなかった。
「もし、自分がいなくなったら、君に伝えてほしいことがあるって」
胸の奥に、遅れて痛みが広がる。
優しさが、時間差で刃になる。
「……どうして、そんなこと」
声は震えたが、言葉は止まらなかった。
朝比奈は、少しだけ目を伏せてから答えた。
「言えなかったんだと思う。言ったら、戻れなくなるから」
その一言で、すべてが腑に落ちた。
悠真は、何も捨てていなかった。ただ、先に行っただけだった。
涙が、静かに溢れた。声を上げることもなく、ただ頬を伝って落ちていく。
「……ほんと、ずるい」
柚希は笑おうとして、失敗した。
「そんな優しさ、残された方が困るのに……」
朝比奈は何も言わなかった。ただ、深く頷いた。その沈黙が、嘘ではないことを物語っている。
神谷は少し離れた場所で、二人を見守っていた。踏み込まず、けれど背を向けることもなく、そこに立っている。その存在が、今は確かだった。
夜が、ゆっくりと街を包み始める。空にはまだ星は少ない。それでも、柚希は思った。
消えたと思っていたものは、確かに残っている。
名前を持ち、想いを持ち、こうして今も繋がっている。
柚希は、朝比奈を見て言った。
「……教えて。悠真が残したものを」
朝比奈は、静かに頷いた。
「全部、話す」
その言葉を聞いた瞬間、柚希は確信した。
ここから先は、もう一人では歩かない。
夜風が、三人の間を通り抜けていった。
その冷たささえ、今は現実だった。




