第2章 『願いの星を見上げて』
曖昧な夜を越え、柚希は“夢とも現実とも言い切れない時間”の余韻を胸に抱いたまま、新しい日を迎える。
夕暮れの校庭で悠真が言いかけた言葉。
その続きを聞くことはできなかったのに、なぜか心は不安よりも“温かい何か”に包まれていた。
しかし、安堵は長く続かない。
翌日、学校で悠真の姿を見つけた柚希は、どこかぎこちない彼の表情に、小さな違和感を覚える。
前より少し、距離がある。
話しかけるタイミングが掴めない。
言葉を交わすたびに、昨日の“告白未遂”がふたりの間に淡い影を落とす。
柚希の胸に、ふと、幼い日の記憶が蘇る。
——小さかった頃、ふたりは星に誓った。
「迷ったら、夜空を見上げればいい」
「同じ星を見てるなら、俺たちは離れない」
その願いは、子どものおまじないみたいに見えて、
実はずっと、ふたりを支える“秘密の合図”だった。
だが今、柚希はようやく気づく。
悠真は何かを隠そうとしている。
彼の横顔には、星空とは反対に落ちていく影がある。
“昨日の言葉の続き”を聞く勇気が出ないまま、
星を見る会の日が近づいていく。
当日、丘の上で見上げた星空。
遠くで輝く光の粒が、柚希と悠真の胸にある答えを、ゆっくりと照らし出していく。
手を伸ばせば届きそうで、でも決して掴めない距離。
それでも、ふたりの心は確かに星を介して繋がっていた。
——たとえ離れても。
——想いはまだ消えていない。
その夜、柚希は決意する。
曖昧な夢の続きではなく、
本当の悠真の言葉を、ちゃんと聞くために。
――世界が一度だけ、息を潜めたようだった。
「俺……ずっと、おまえのことが——」
そこまでだったはずの言葉。
柚希の心臓は、まだその余韻だけを抱きしめていた。
現実か夢か分からないあの瞬間の温度だけが、時間の外側に取り残されている。
……なのに、朝は来る。
どんな気持ちで夜を越えたとしても、太陽は容赦なくカーテンの隙間から差し込んでくる。
柚希は布団の中で、ゆっくりと目を開けた。
胸の奥で、まだ昨夜の“曖昧な光景”が溶けきらずに漂っている。
(あれ……夢? 現実? どっち……)
枕元のスマホを取る。
通知はいつも通り。
悠真からのメッセージも“いつも通り”で、そこに“告白の続きを書くような一言”なんて、影も形もなかった。
胸が、きゅっと縮む。
(やっぱり……夢だったのかな……)
でも、その“夢”はあまりに鮮明すぎた。
声の震えも、目の奥の揺らぎも、夕暮れの匂いまで。
全部、記憶の中にそのまま残っている。
思い出そうとすると、不思議と涙が滲むような温かさと切なさが胸を突いた。
「……行こ」
小さくつぶやき、柚希はゆっくりと制服に袖を通した。
階段を降り、靴を履く。
家の前の空気は、春の匂いを含んでいた。
歩き出した瞬間、胸がまた少し痛んだ。
――あの続きが聞きたい。
でも、聞くのがこわい。
そんな矛盾した想いを抱えたまま、角を曲がる。
いつもなら、そこに悠真が――
いた。
制服のポケットに片手を突っ込み、柱にもたれながら。
いつも通りの顔で。
なのに、いつも通りじゃないようにも見える顔で。
柚希の心臓が、跳ねた。
「……おはよ」
悠真の声は、自然すぎて、逆に不自然だった。
昨夜の言葉を、本当に言った人とは思えないほど。
柚希も、ぎこちなく返す。
「……おはよ」
二人の間に、春の風が吹き抜けた。
けれどその風の中には、昨日まではなかった“わずかな距離の違和感”が混ざっていた。
それでも並んで歩き出すと、静かな時間が染み込むように流れ始める。
(聞けばいい……聞けばいいのに……)
喉の奥に引っかかったままの言葉。
胸の奥では、何度も何度も叫んでいるのに、唇が全然追いつかない。
そんな沈黙を見透かしたように、悠真がふと口を開く。
「昨日さ……」
柚希の心臓が一気に跳ね上がる。
――続き?
――言ってくれる?
期待で胸が膨らみかけたその瞬間。
「真帆、今日遅れてくるって」
「…………あ、うん」
胸の奥がしぼむ。
その勢いで、足元のアスファルトが遠く見えた。
(なにやってんの、私……勝手に期待して……勝手に落ち込んで……)
顔を上げられなくなって、視界がぼやける。
悠真は何も気づいていない。
普段通り、歩幅も呼吸も変わらない。
けれど柚希の胸の内側は、昨夜からずっと、何かが軋んだままだった。
学校の門をくぐると、ざわめきが二人を包む。
教室からは、いつも通りの声が響いていた。
「おはよー!」
明るい声で真帆が手を振りながら近づいてくる。
相変わらず太陽みたいな存在だ。
「柚希、今日なんか元気なくない?」
「え、そんなことない……よ?」
微妙に声が震え、真帆が眉を寄せる。
悠真も横目でちらりと見る。
ただ、その視線は昨日の夕暮れのそれとは違う。
あの時は、何かを決意したような、そんな強さがあった。
けれど今は、何も言わなかったことを誤魔化すような、わずかな迷いが混ざっている。
(なんで、言わなかったんだろ……)
聞けばいいのに。
聞けない。
そんな自分にも腹が立つ。
弁当の時間。
真帆はいつも通りだけれど、悠真は妙に静かだった。
「……柚希」
下を向いていた柚希は、思わず箸を止めた。
「ん……?」
「今日、帰り……一緒に帰ろう」
声のトーンが少し低い。
慎重に言葉を選んでいるような、そんな響き。
胸の奥がまた跳ねた。
(なんで……そんな顔するの……)
一緒に帰るのはいつも通りなのに。
今日は“特別な意味”を帯びて胸に沈んでいく。
「う、うん……」
返事は震えた。
真帆がそれに気づいたのか、二人をじっと見る。
「なにその空気。なんかあった?」
「別に!」
「なにも!」
柚希と悠真、同時に叫んでしまい、真帆はぽかんとしたあと吹き出した。
「いやいや、怪しすぎるでしょ!!」
冗談まじりのツッコミ。
その軽さに救われるように、柚希は笑ってみたけど、胸の奥のざわつきは消えなかった。
放課後。
真帆が別用で先に帰り、校門の前に残ったのは柚希と悠真だけ。
風が、夕日に照らされて揺れていた。
柚希が何となく空を見上げると、薄く星が滲み始めていた。
(願いの星……)
幼い頃、悠真と並んで見上げた空。
二人だけの小さな願い。
あの夜の記憶が、胸の奥でふわりと蘇る。
その瞬間、悠真が言った。
「……昨日の話、さ。続きを言いたかったんだ」
柚希は息を飲んだ。
風の音すら消えて、世界がまた息を潜めた感じがした。
「でも、おまえ……泣きそうな顔してたから。
なんか……言えなくなった」
柚希は、自分の靴先を見つめたまま、ぎゅっと拳を握る。
(……違うよ。泣きそうだったのは……期待してたから)
でも言えない。
言おうとすると、胸が痛くて息が苦しくて、声が出なくなる。
悠真が、そっと柚希の横顔を見る。
「柚希」
名前を呼ばれただけで、胸が熱くなる。
世界の温度がじわりと上がる。
夕日の光が二人の輪郭を金色に染める。
遠くで誰かが笑っている声がするのに、ここだけ別の色をしている。
「昨日の……言葉の続き、だけどさ」
その一言で、柚希の世界は完全に止まった。
(言う……? 本当に……?)
昨日の曖昧な告白の続き。
夢か現実か分からなくなっていたものが、今、はっきり形を持とうとしている。
風が止む。
夕日が沈む。
時間がゆっくり満ちていく。
そして——
「俺、おまえのこと……」
その瞬間、校舎のスピーカーから謎の音が爆音で鳴った。
『ピーーーーーッ!! 本日の校内点検は——』
「……はぁ!? 今!? マジかよ!!」
悠真が両手を広げて嘆く。
柚希は口元を押さえ、笑いを堪えながら、胸がずきずきするほどドキドキしていた。
結局、言葉はまた途中で途切れた。
けれど不思議と、悲しくはなかった。
むしろ——
(なんか……この曖昧さ、嫌じゃないかも)
夢みたいで、現実みたいで。
二つが溶け合ったまま、先に進みそうで進まないような。
その曖昧さが、逆に心地良く感じた。
「……続き、また言う。絶対」
悠真は照れくさそうに頭をかいた。
その姿があまりにも悠真らしくて、胸のつかえが少しだけ溶けた気がした。
二人の影が長く伸びて、重なる。
まだ遠い未来のことも、まだ名前のつけられない感情も、その影の中に溶けてしまうようだった。
風が吹く。
星がひとつ、にじむ。
柚希はそっと息を吸う。
(この曖昧なままの夜を、もう少しだけ……歩いていたい)
そう思った。
夕暮れのざわめきがそのまま夜へと溶けていく時間帯。
校舎に灯りがひとつ、またひとつ増え、グラウンドには風の筋だけが細く走っていた。
スピーカーの爆音で見事に寸断された告白未遂。
柚希は胸の鼓動を落ち着かせようと、深く呼吸を整えた。
悠真は少し離れた場所で、両手を腰に当てて深いため息をつく。
「……タイミング悪すぎだろ……ほんとさ」
ぶつぶつ文句を言っているけど、その声には柔らかい照れが混ざっていて、見ているだけで頬が緩む。
柚希は呼ばれる前に、小さくつぶやいた。
「……大丈夫だよ。ちゃんと聞こえてたし」
「……聞こえてた?」
「うん。途切れちゃったけど……気持ちは、ちゃんと」
言い終えてから、柚希は自分の手のひらがじんわり熱を帯びていることに気づいた。
言葉にするのは、こんなにも胸がくすぐったい。
悠真は驚いた顔で振り返り、すぐにほんのり赤くなった。
「……そっか。ならよかった」
風がふっと吹き抜けて、二人の間の空気を優しく揺らした。
沈黙が落ちても、さっきまでとは違う。
どこか安心感のある、静かで深い沈黙だった。
やがて、悠真がぽつりと言った。
「帰るか」
「……うん」
二人並んで歩き出す。
道路はオレンジ色の街灯が灯り、そこに長く影が伸びていく。
今日の影は、なぜかいつもより近く、寄り添っているように見えた。
歩きながら、柚希は胸のざわめきが少しずつ落ち着いていくのを感じた。
でも、その代わりに別の感情が静かに浮かび始める。
――この曖昧な距離は、いったいどこまで続いていくんだろう。
その疑問は、不安というより、少し甘い。
答えがわからないからこそ、心が揺れる。
「なあ、柚希」
「ん?」
「……今日さ。家帰っても、いろいろ考えちゃいそうだわ」
悠真が不意に、素直すぎる弱音をこぼした。
ふだん強がりな彼が、こんな言い方をするなんて珍しい。
柚希の胸がじんとした。
「私も……だよ。ねぇ、悠真」
「なに」
「その……私のこと、どう思ってるの?」
聞いた瞬間、足が止まった。
自分で言いながら、体に電流が走るような恥ずかしさが押し寄せる。
悠真の影も止まり、振り返る。
だけど彼の表情は、すぐには見えなかった。
街灯の光が背中側にあるせいで、顔が影になっている。
だからこそ、声だけがまっすぐ届いた。
「そんなの……ずっと前から決まってんだろ」
「……え?」
「おまえのこと、大事に決まってるじゃん」
その言葉は“告白”ではない。
でも、それ以上に心臓を掴むほどの温度があった。
子どものころ、泣きながら背中を押してくれた時も。
転んだ時に一番最初に手を伸ばしてくれた時も。
夜、怖い夢を見て眠れなかった日に、隣でずっと話してくれた時も。
全部、その言葉に繋がっていた。
柚希は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
「……悠真って、ずるいよ」
「ずるくねぇよ」
「ずるいよ……ちゃんと言ってくれないんだもん、昨日の続き」
「いや、だから言おうとしたらスピーカーが——」
「それはそうだけど!!」
思わず声が大きくなって、悠真が笑った。
その笑顔は、今まで見てきた中でいちばん“言えなかった気持ち”がにじんでいた。
「なあ、柚希」
「……なに」
「明日、ちゃんと話す。今度こそ、途中で邪魔されねえように」
胸が跳ねた。
でもすぐに、それを静めるように深呼吸する。
“明日”なんて、遠くも近くもない時間。
きっと一瞬で来てしまう。
それがこわいようで、でも楽しみでもある。
「……うん。ちゃんと聞く」
その返事の瞬間、心の奥が静かに鳴った。
昼間に感じていたざわつきが、少しだけ形を変えて落ち着いていく。
夜風は冷たいのに、胸の内側だけがじんわり温かい。
家の角を曲がるところで、二人は自然と足を止めた。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
それだけの言葉なのに、今日ほど“明日”が特別に感じたことはなかった。
悠真が離れていく背中を見ながら、柚希は胸の奥でそっと呟く。
(……聞くのがこわい。でも、聞きたい。どっちの気持ちも本物なんだ)
夜空を見上げると、星がひとつだけ光っていた。
願いを叶える星だと、幼い頃二人で信じていた星。
その光を見つめるだけで、胸の奥にある曖昧な感情が、少しずつ名前を持ちたがっている気がした。
でもまだ、名前はつけない。
つけてしまったら戻れなくなるから。
曖昧なままで、少し痛くて、でも優しい今のまま、もう少しだけ。
(……明日、ちゃんと聞くから)
星の光は揺れずにそこにあった。
まるで二人の未来を静かに照らしているように。
こうして、一日の終わりがゆっくりと幕を閉じる。
夢のようで、現実のようで。
どちらかひとつには決められない、そんな夜だった。
放課後の廊下には、曖昧な夕陽が差し込んでいた。朱色でもなく金色でもなく、そのどちらでもない中途半端な光。柚希は、その光に照らされた自分の影をぼんやり踏みながら歩いていた。
心臓はまだ、あの日の夜の鼓動を正しく思い出せないままだった。
耳の奥で響いた悠真の声。
言いかけて、途切れた告白のような言葉。
夢なのか現実なのか、どちらにも傾ききらない曖昧さ。
――本当に、あれは“言おうとしていた”のだろうか。
気のせいだと思い込もうとしても、胸の奥のどこかが「違う」と言ってくる。
靴箱についた瞬間、柚希は少しだけ背伸びして周囲を探した。
悠真が、いつものように先に背負って立っている気がして。
けれど、今日も彼はいない。
真帆が言っていたように、部活か、委員会か、あるいは――。
「……はぁ」
大した意味もなく息が漏れた。
そこに柔らかい声が重なる。
「柚希ちゃん?」
真帆だった。
手にはトートバッグ、肩からは水色のストラップが揺れている。
「帰る? 一緒に行こ」
「うん、行く」
そう返した瞬間、ほんのわずかに胸の力が抜けた。
真帆と歩く下校路は、悠真と歩く時とは違うけれど、それでも穏やかで、安心できる空気がある。
階段を降り、校門を出る。風に乗って、どこかの家の夕飯の匂いが流れてきた。温かい、戻ってきたくなるような匂い。
けれど、柚希の心は別のことばかりを考えてしまう。
「ゆっちゃん、また考えてる顔してる」
「え、そんなに?」
「うん。……悠真のこと、でしょ?」
足が止まりかけた。
しかし、真帆は責めるような口調ではなく、ごく自然にそう言った。
「別に悪いことじゃないよ。あの二人って、やっぱ特別だもん」
「……特別?」
「うん。見てればなんとなく分かるよ。お互い、お互いのことだけ特別扱いしてる感じ」
図星だった。
否定できるわけがない。
でも、同時に胸の奥が少しだけ痛む。
「真帆は、どう思う? ……もし、もしだよ? 悠真が私のこと、そういう感じで思ってたら」
「“もし”なんだ?」
「え……?」
真帆は笑って首をかしげた。
「ゆっちゃんの“もし”って、たぶん“ほぼ確信”の意味よね?」
「ち、違っ……!」
否定しながら、顔が熱くなっていく。
真帆はクスクス笑いながら続けた。
「でもさ、仮にそうだったとして……ゆっちゃんは、どうしたいの?」
――どうしたい?
その問いに、心臓がぎゅっと縮まる。
考えているようで、考えていなかった場所に光を当てられた。
「分かんない」
やっとの思いで絞り出した言葉。
「怖いっていうか……踏み出したら戻れない気がして」
「うん。分かるよ」
真帆は真っ直ぐな声音で言った。
「でもね、戻れないのって悪いことじゃないよ。前に進むってことでもあるしさ」
その言葉は、夕暮れの中で静かに胸に染み込んだ。
歩き出すと、影が長く伸びる。
ふたりの影は、重なったり離れたりしながら前に伸びる。
「あ、そうだ。明日さ――」
真帆が言いかけた瞬間。
「柚希!」
空気を切る声が響いた。
反射的に振り返る。
校門のところに、息を弾ませた悠真がいた。
夕陽が背中にあり、輪郭だけが赤く縁どられていた。
その姿を見ただけで、胸の奥がじん、と熱を持った。
「話……したい。ちょっと、いい?」
その表情は、普段の悠真じゃなかった。
何かを決意したような、迷いを振り切ったようなまっすぐさ。
真帆は小さく微笑むと、柚希の背中をやさしく押した。
「行っておいで」
「……うん」
歩き出した瞬間、足が震えていることに気づく。
夕陽が柚希の影を長く伸ばし、その先に悠真の影が重なろうとしていた。
胸の奥で、またあの鼓動が蘇る。
――夢か現実か分からない夜。
あそこで途切れた言葉の続きを、
いま、ようやく聞けるのだろうか。
夕暮れの校門を少し離れたところで、柚希と悠真は向かい合った。
部活帰りの生徒たちが横を通り過ぎていくたびに、二人の間の空気だけが切り取られたように静かになる。
柚希は、悠真の顔をまっすぐ見られなかった。
視線を落とせば、彼の靴先が微かに揺れているのが分かる。
悠真もまた、何かを言い出せずにいるようだった。
――この沈黙は、長い。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「……昨日さ」
先に声を出したのは、悠真だった。
低く、慎重な声。
「ちゃんと、言えなかったから」
胸が、ぎゅっと縮む。
柚希は唇を噛み、ゆっくりと頷いた。
「うん」
それだけで、悠真の喉が小さく鳴ったのが分かった。
「柚希、覚えてる? 小学校のとき」
唐突な問いだった。
けれど、その名前を口にされた瞬間、胸の奥に柔らかな痛みが広がる。
「……どのこと?」
「夜の校庭でさ。星、見上げた日」
その言葉に、時間が巻き戻される。
夏の終わり。
校舎の裏、誰もいない校庭。
二人で並んで寝転がり、数えきれないほどの星を見上げた夜。
「願い事、言ったよな」
悠真の声は、どこか懐かしさを帯びていた。
「二人とも、同じこと願ったんだって」
柚希は、息を飲んだ。
「……覚えてる」
あのとき、声に出しては言わなかった。
けれど、なぜか分かった。
彼と自分は、同じ願いを抱いていると。
――ずっと一緒にいられますように。
その言葉は、幼い祈りでありながら、今も胸の奥に残り続けている。
「俺さ」
悠真が一歩、近づく。
柚希の視界に、彼の制服の襟元が入る。
「ずっと、変わってないんだ」
声が、震えていた。
それを隠そうともせず、悠真は続ける。
「離れても、時間が経っても……柚希だけは、特別で」
胸の鼓動が、耳の奥で大きくなる。
世界の音が遠ざかり、彼の声だけがはっきりと残る。
「昨日の夜さ……言いかけたこと、あっただろ」
柚希は、ゆっくり顔を上げた。
夕陽に照らされた悠真の表情は、真剣そのものだった。
「……うん」
「続き、ちゃんと言わせてほしい」
風が吹き、二人の間を通り抜ける。
木の葉が揺れ、どこかで自転車のベルが鳴った。
それでも、この瞬間だけは、確かに“二人だけ”だった。
「俺――」
悠真が息を吸う。
その瞬間、柚希の胸に、あの夜の感覚が重なった。
夢なのか現実なのか分からなくなるほどの、曖昧で、でも確かな温度。
――聞く準備は、もうできている。
そう思ったはずなのに。
「……ごめん」
悠真は、最後まで言わなかった。
その代わり、苦しそうに笑った。
「今じゃない気がしてさ」
「……え?」
拍子抜けしたような、胸が落ちる感覚。
けれど同時に、なぜか安心もしている自分がいた。
「ちゃんとしたいんだ。中途半端に言って、傷つけたくない」
悠真は、まっすぐ柚希を見つめた。
「だから……少し、待ってほしい」
夕暮れの空に、最初の星が浮かび始めていた。
薄く、けれど確かにそこにある光。
柚希は、その星を一瞬見上げてから、悠真に視線を戻した。
「……うん」
それだけで、十分だった。
二人の距離は、縮まらなかった。
けれど、離れもしなかった。
見えない糸のようなものが、確かに二人を繋いでいる。
それを、互いに感じ取っている。
「帰ろうか」
「うん」
並んで歩き出す。
影が重なり、また少し離れる。
柚希は、胸の奥で静かに思った。
――離れても、同じ星を見上げていれば。
きっと、また辿り着ける。
あの日、願った場所へ。
翌日からの数日は、特別な出来事があったわけではなかった。
それでも柚希にとっては、ひとつひとつの瞬間が、これまでとは違う重さを帯びていた。
朝の教室。
窓際の席に差し込む光が、机の端を白く照らしている。
柚希はノートを開いたまま、ペンを持つ手を止めていた。
視線の先には、悠真の背中。
同じクラスで、席もそれほど離れていない。
それなのに、昨日の放課後以降、彼との距離は目に見えない形で変わってしまった気がしていた。
――今じゃない気がする。
あの言葉が、何度も胸の中で反響する。
拒まれたわけではない。
けれど、受け止めてもらえたとも言い切れない。
曖昧なまま預けられた時間。
「柚希、これプリント」
真帆の声に、はっと我に返る。
「あ、ありがとう」
プリントを受け取りながら、柚希は小さく息を吐いた。
真帆は一瞬だけ柚希の顔を見て、すぐに分かったように視線を逸らす。
「……昨日、話した?」
「うん」
「そっか」
それ以上は聞いてこなかった。
その距離感が、今はありがたい。
授業が始まり、黒板の文字を追いながらも、柚希の意識は何度も悠真の方へ引き寄せられる。
彼はいつも通りノートを取り、時々黒板を見上げている。
何も変わっていないように見える。
――本当に、何も変わっていないのかな。
昼休み。
柚希と真帆は並んで購買へ向かった。
廊下は騒がしく、笑い声や足音が混じり合っている。
「ゆっちゃんさ」
真帆が、パンの袋を手に取りながら言った。
「無理して普通にしなくていいからね」
「……普通に、してるつもりはないけど」
「顔に出てる」
即答だった。
柚希は苦笑する。
「悠真くん、昨日のこと気にしてると思うよ」
「……そうかな」
「うん。だって、さっきから何回もゆっちゃんの方見てた」
胸が、きゅっと音を立てた。
「でも、声かけてこないでしょ?」
「……うん」
「それが答えなんだと思う」
真帆の言葉は、冷静だった。
だからこそ、胸に刺さる。
教室に戻ると、悠真はすでに席に着いていた。
柚希が通り過ぎる瞬間、ほんの一瞬だけ視線が合う。
悠真は、何か言いたげに口を開きかけて、結局何も言わなかった。
その沈黙が、昨日よりも重い。
放課後。
柚希は鞄を持ったまま、席を立つタイミングを失っていた。
悠真が先に立つ気配を感じて、心臓が跳ねる。
――声、かけてくれるかな。
期待は、静かに裏切られた。
悠真は友人に呼ばれ、そのまま教室を出ていった。
背中が遠ざかっていく。
「……そっか」
独り言のように呟いた声は、誰にも届かなかった。
帰り道。
空はまだ明るく、星は見えない。
昨日見上げた光は、昼の空の下では思い出すしかなかった。
――同じ星を見上げていれば、繋がれる。
その言葉を信じたいのに、今は距離だけがはっきりしている。
柚希は歩きながら、胸の奥で小さく問いかけた。
この時間は、
近づくための“間”なのか。
それとも、離れていくための“始まり”なのか。
答えは、まだ見えなかった。
数日が過ぎた。
時間は均等に流れているはずなのに、柚希にとっては、やけに長く感じられた。
朝のチャイム、授業の合間、昼休み、放課後――
どれもが、悠真の存在を意識させるための装置のように思えた。
それなのに、言葉は交わらない。
以前なら、目が合えばそれだけで通じていたはずの空気は、今はどこか硬い。
視線を向ければ逸らされ、声をかけようとすれば、タイミングを失う。
――待ってほしい。
そう言われたのは、確かに自分だ。
けれど、待つということが、こんなにも心を削るものだとは思っていなかった。
「柚希」
昼休みの終わり、真帆が静かに声をかけてきた。
教室の隅、人気の少ない場所。
「今日の放課後、少し時間ある?」
「……あるけど」
「じゃあ、一緒に帰ろ。話したいことある」
その言い方に、柚希は何も聞き返さなかった。
真帆の表情は、どこか迷いを含んでいた。
放課後。
校門を出たところで、二人は歩調を合わせた。
「ね、ゆっちゃん」
真帆は前を見たまま言った。
「悠真くんのこと、どう思ってる?」
真正面からの問い。
逃げ場はなかった。
「……好きだよ」
言葉にした瞬間、胸の奥がじんと熱を持つ。
否定できるわけがない。
「ずっと一緒にいたから、当たり前みたいになってたけど……でも」
そこで言葉が詰まる。
「でも、好き」
真帆は小さく息を吐いた。
「だよね」
そして、少しだけ間を置いて続ける。
「実はさ……悠真くんから、相談されたんだ」
心臓が跳ねた。
「相談?」
「うん。柚希のこと」
足が止まりかけたが、真帆は歩き続ける。
柚希も遅れないようについていく。
「ちゃんと向き合いたいって言ってた。でも、自分が中途半端なまま踏み込むのが怖いって」
それは、あの日聞いた言葉と重なっていた。
「だから、距離を取ってるつもりなんだと思う」
「……距離」
その言葉が、胸に落ちる。
「でもね」
真帆は立ち止まり、柚希の方を見た。
「それで一番苦しくなってるの、たぶん柚希だよ」
視線が重なる。
真帆の目は、真剣だった。
「待つって、優しいことに見えるけど……一人で抱える時間が長くなるだけのこともある」
柚希は、すぐに返事ができなかった。
待つと決めたのは、自分だ。
でも、それが正しいかどうかは分からない。
その夜。
柚希は部屋のカーテンを開け、窓の外を見上げた。
空は澄んでいて、星がいくつも瞬いている。
あの夜と同じように。
――同じ星を見上げていれば、繋がれる。
そう信じたかった。
けれど今は、同じ空の下にいながら、声すら届かない。
スマートフォンが、机の上で小さく震えた。
画面に表示された名前に、息が止まる。
悠真
指先が震えながら、通知を開く。
短い文だった。
『少しだけ、話せる?』
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
同時に、怖さも込み上げる。
この一言で、また近づけるのか。
それとも、さらに離れてしまうのか。
柚希は、深く息を吸ってから、ゆっくりと文字を打った。
『うん。話そう』
送信。
窓の外で、星がひとつ、強く瞬いた気がした。
それが希望なのか、
それとも、次のすれ違いの予兆なのか――
まだ、柚希には分からなかった。
夜の公園は、昼とはまるで別の場所のようだった。
昼間は子どもたちの笑い声が反響し、遊具が絶えず揺れているこの場所も、今はただ静かに息を潜めている。街灯の明かりが円を描くように地面を照らし、その外側は闇に溶けていた。
柚希は、その円の中に足を踏み入れた瞬間、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえることに気づいた。
ベンチに座っている悠真の背中は、どこか小さく見えた。
いつもなら、背中を見ただけで安心できたはずなのに、今は違う。声をかけるまでの数歩が、ひどく長く感じられた。
「……悠真」
名前を呼ぶと、彼は少し遅れて振り向いた。
街灯の光を受けたその表情は、硬い。昼間の学校では見せない、迷いと緊張が混ざった顔だった。
「来てくれて、ありがとう」
形式ばった言葉。
それだけで、柚希の胸が微かに痛んだ。
「うん」
柚希は短く答え、ベンチの端に腰を下ろす。
二人の間には、拳ひとつ分ほどの距離。
昔なら、無意識に詰めていた距離だった。
沈黙が落ちる。
風が木々を揺らし、葉擦れの音が耳に残る。遠くを走る車の音が、ここが現実であることを教えてくる。
――夢じゃない。
それだけは、はっきりしていた。
「……急に呼び出して、ごめん」
悠真が口を開いた。
声は低く、慎重だった。
「ちゃんと、話した方がいいと思って」
柚希は黙って頷いた。
自分から言葉を挟む勇気は、まだなかった。
「この前……待ってほしいって言っただろ」
「……うん」
「でも、あれからずっと考えてた」
悠真は膝の上で手を組み、視線を落としたまま続ける。
「俺、自分の気持ちばっかり見てたんじゃないかって」
その言葉に、柚希の胸がかすかに揺れる。
「柚希が、どう感じるかとか……ちゃんと考えてなかった」
公園の静けさが、言葉の重みを増幅させる。
「……私ね」
柚希は、ゆっくり息を吸った。
「待つって言ったのは、自分だから」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
「でも……正直、何も分からなくなる瞬間がある」
言葉を選びながら、続ける。
「昨日は平気でも、次の日になると急に怖くなったりして」
指先が、スカートの布をぎゅっと掴む。
「何を待ってるんだろう、とか。どこに向かってるんだろう、とか」
言い終えたあと、胸の奥がじんと熱くなった。
ずっと言えなかったことだった。
悠真は、しばらく黙っていた。
その沈黙が、答えの代わりのように重くのしかかる。
「……ごめん」
やがて、彼はそう言った。
「そんなふうに思わせるつもりじゃなかった」
「分かってる」
柚希は即座に返した。
本当に、分かっていた。
「悠真が、適当に言ってるわけじゃないってことも」
だからこそ、余計に苦しい。
「でも……」
言葉が、喉で一度止まる。
「大事にされてるって分かってても、寂しくなることはある」
街灯の下で、二人の影が地面に落ちる。
並んでいるのに、微妙に重ならない。
悠真は、その影を見つめていた。
「俺は……」
口を開きかけて、閉じる。
何度かそれを繰り返し、ようやく続けた。
「失いたくないんだ」
その一言は、真っ直ぐだった。
「柚希との関係を」
胸が、強く締めつけられる。
失いたくない。
その気持ちは、同じだった。
けれど――。
柚希は、夜空を見上げた。
雲の隙間に、数個の星が見える。
幼い頃、あの星たちに何度も願いを託した。
疑うことなく、信じていた。
同じ星を見上げていれば、同じ場所に辿り着けると。
今は、その星が少し遠く感じられた。
この会話は、前に進むためのものなのか。
それとも、違いを確かめるためのものなのか。
柚希には、まだ判断できなかった。
夜は、思っていたよりも静かだった。
街灯の光に照らされた公園は、まるで世界から切り離された場所のようで、遠くを走る車の音さえ、どこか他人事のように聞こえる。柚希と悠真の間に流れる沈黙は、その静けさに溶け込むどころか、むしろ浮き彫りになっていた。
失いたくない。
その言葉が、柚希の胸の奥で何度も反響する。
優しくて、誠実で、嘘じゃないと分かるからこそ、簡単に受け取れなかった。
「……失いたくないって」
柚希は、視線を地面に落としたまま、静かに口を開いた。
「それは、どういう意味?」
問いは責めるような響きを持たないように、慎重に選んだつもりだった。それでも、言葉にした瞬間、胸の奥が小さく震える。
悠真は、すぐに答えなかった。
指先が落ち着かない様子で絡まり、何度かほどかれては、また結ばれる。
「……正直、分からない」
ようやく出た声は、少し掠れていた。
「柚希のことが大事なのは、本当だよ」
それは、疑う余地のない言葉だった。
「でも、その“大事”が、どういう形なのか……」
そこで言葉が途切れる。
続きがあることだけは、はっきりと分かった。
「踏み込んで、もし失敗したらって考えると……」
悠真は顔を上げ、夜空を見た。
星は、前よりも雲に隠れて、ところどころしか見えない。
「今までみたいに笑えなくなるのが、怖い」
その言葉を聞いた瞬間、柚希の胸に、理解と痛みが同時に広がった。
怖い。
それは、同じだった。
「ねぇ、悠真」
柚希は、ゆっくりと彼の方を向いた。
「私たちって、そんなに簡単に壊れる関係なのかな」
問いは、どこか祈りに近かった。
「言葉にしただけで、全部なくなっちゃうくらい」
悠真は、はっとしたように柚希を見る。
すぐに否定の言葉が出てこないところが、答えの一部のように思えた。
「私は……」
柚希は、胸に手を当てる。
「失うのは怖いよ」
声が、少しだけ揺れた。
「でも、何も決まらないまま、同じ場所に立ち続ける方が……もっと苦しい」
風が吹き、木の葉が擦れる音がする。
その音が、二人の間にある時間を刻んでいるようだった。
「待つって言ったのは、私」
柚希は続けた。
「でも、それは立ち止まるためじゃない」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「一緒に進めるって、信じたから」
悠真の肩が、わずかに震えた。
沈黙。
長く、逃げ場のない沈黙。
「……俺は」
悠真が、ようやく口を開いた。
「まだ、そこまでの覚悟ができてない」
はっきりとした言葉だった。
曖昧さを削ぎ落とした分、胸に刺さる。
「一緒に進むって言葉を、ちゃんと背負える自信がない」
柚希は、息を吸い、ゆっくり吐いた。
涙は出なかった。ただ、胸の奥が重く沈んでいく。
理解はできる。
でも、納得はできない。
その差が、今はどうしようもなく大きかった。
柚希は立ち上がり、数歩、ベンチから離れた。
夜風が、直接頬に触れる。
「今日は……もう帰るね」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
「柚希……」
悠真が名前を呼ぶ。
その声には、迷いと後悔が混じっていた。
柚希は、少しだけ振り返る。
「嫌いになったわけじゃないよ」
それだけは、伝えたかった。
「ただ、このままじゃ、私……自分の気持ちを大事にできなくなる」
街灯の光の中で、悠真の表情が歪むのが見えた。
「少し、考えたい」
それは拒絶ではない。
でも、今すぐの答えでもない。
背を向けて歩き出す。
一歩一歩が、やけに重い。
背後で、悠真が何か言いかけた気配がした。
けれど、最後まで言葉になることはなかった。
空を見上げると、星はほとんど雲に隠れてしまっていた。
それでも、完全に消えたわけじゃない。
――願いの星。
見えなくなっても、そこにあると信じたい。
この夜が、終わりではなく、
何かが変わるための途中なのだと――
柚希は、胸の奥でそっと願いながら、家路についた。
朝は、容赦なくやってくる。
目覚ましの音に起こされて、カーテン越しの光を見た瞬間、柚希は一度だけ目を閉じた。眠りが浅かったせいか、頭の奥が重い。夢を見ていた気もするし、見ていなかった気もする。ただ、胸の奥に残っている感覚だけが、はっきりと現実だった。
――あの夜は、ちゃんと現実だった。
公園の街灯。
風の音。
悠真の、迷いを含んだ声。
起き上がり、制服に袖を通しながら、柚希は深く息を吐いた。
泣いてはいない。
取り乱してもいない。
けれど、心が静かに擦り減っている感覚だけは、否定できなかった。
学校へ向かう道は、いつもと同じはずなのに、少し遠く感じた。
角を曲がるタイミング、横断歩道の信号、並木道の影。
そのどれにも、悠真の姿がないことを、頭が先に理解してしまう。
――今日は、来ない。
それが当たり前になりつつあることが、少し怖かった。
教室に入ると、ざわめきが耳に届く。
誰かの笑い声、机を引く音、朝の雑談。
その中に溶け込めないわけじゃないのに、柚希は自分が一枚ガラス越しにそこを見ているような気がした。
席に着くと、無意識に前の方を見る。
悠真の背中は、今日もそこにあった。
ちゃんと、いる。
それなのに、話すことはない。
目が合いそうになるたび、視線を逸らす。
避けているわけじゃない。
ただ、どう向き合えばいいのかが、まだ分からなかった。
「おはよ」
隣の席から、真帆の声がする。
「おはよう」
声は、思ったより普通に出た。
それが少しだけ救いだった。
授業が始まると、黒板の文字をノートに写す。
ペンは動いているのに、内容は頭に入らない。
先生の声が遠く、時間だけが淡々と進んでいく。
――考える時間が欲しい。
あの夜、そう言ったのは自分だ。
だから、この静けさは、自分が選んだものでもある。
それでも。
昼休み。
弁当のふたを開けながら、柚希はふと手を止めた。
以前なら、悠真が何気なくこちらを見て、目が合って、くだらない話をする。
それが当たり前だった。
今は、その“当たり前”が、どこにもない。
「……柚希」
真帆が、箸を持つ手を止めて言った。
「無理してない?」
「してない……と思う」
即答できなかったことが、答えだったかもしれない。
真帆は、それ以上深くは聞いてこなかった。
ただ、いつもより少しだけ、そばにいる時間を長くしてくれる。
放課後。
校舎を出ると、空は淡い色に染まり始めていた。
「今日は、どうする?」
真帆が聞く。
「……まっすぐ帰る」
「そっか」
それだけ言って、真帆は頷いた。
「また連絡するね」
その言葉が、ありがたかった。
一人で歩く帰り道。
夕暮れの空を見上げても、星はまだ見えない。
スマートフォンは、制服のポケットに入ったまま。
通知は来ていない。
分かっている。
今は、お互いに“言葉を探している時間”なのだと。
でも、探している間に、すれ違ってしまうこともある。
それが、怖かった。
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。
カーテンの隙間から見える空は、もう夜の色に近づいていた。
――同じ星を、見上げているだろうか。
ふと、そんなことを考えてしまう自分に、柚希は小さく苦笑する。
信じたい。
でも、信じるだけでは足りないことも、もう知ってしまった。
それでも、この時間が無駄だとは思いたくなかった。
待つという選択が、
ただの我慢ではなく、
ちゃんと“意味のある時間”になることを――
柚希は、静かに願っていた。
その日の夜は、やけに静かだった。
テレビをつけても、音が頭に入ってこない。
画面の向こうで誰かが笑っていても、その声は遠く、現実感がなかった。柚希はリモコンを置き、部屋の明かりを少し落とした。
ベッドに腰掛け、スマートフォンを手に取る。
画面をつけては消し、消してはまたつける。
――連絡は、来ていない。
分かっている。
約束したわけじゃないし、責める理由もない。
それでも、心のどこかで、
「今日は来るかもしれない」
そんな期待を、完全には手放せずにいた。
柚希は、スマートフォンを伏せ、天井を見上げた。
思い出すのは、ほんの少し前までのこと。
言葉を選ばなくても通じていた時間。
隣にいるのが当たり前で、未来を疑ったことなんてなかった日々。
――あの頃の私は、何を信じてたんだろう。
同じ星を見上げていれば、同じ場所に行ける。
そんな、幼い約束。
今でも、それを完全に否定できない自分がいる。
翌日。
学校へ向かう途中、柚希は足を止めた。
道の向こう、見慣れた背中が歩いている。
悠真だった。
一瞬、声をかけそうになる。
でも、タイミングを失った。
悠真は振り返らない。
まるで、こちらの存在に気づいていないかのように、そのまま校門へと消えていった。
胸の奥が、きゅっと縮む。
避けられているわけじゃない。
きっと、そうじゃない。
でも、「距離」が、確かにそこにあった。
教室では、悠真はいつも通りの顔をしていた。
友達と話し、笑い、授業を受ける。
柚希だけが、少し違う世界にいるようだった。
「ねぇ、柚希」
昼休み、真帆が小声で言った。
「今日の悠真くん、ちょっと様子変じゃない?」
「……分かんない」
本当は、分かっていた。
でも、それを口にしたら、何かが崩れてしまいそうで。
放課後。
帰り支度をしていると、真帆が柚希の袖を軽く引いた。
「一緒に帰ろ」
「うん」
二人で歩く校舎の廊下は、夕方の光に満ちていた。
窓から差し込むオレンジ色が、床に長い影を落とす。
「ね」
真帆は、少し言いづらそうに切り出した。
「悠真くんさ、最近ずっと一人で考え込んでる」
柚希は、足を止めずに聞いた。
「話しかけても、上の空で」
それは、想像できた。
だからこそ、胸が苦しくなる。
「たぶんね」
真帆は続ける。
「柚希のこと、簡単に手放せないんだと思う」
その言葉に、柚希の胸が揺れた。
「でも、抱えきれなくなってる」
それは、優しい言い方だった。
家に帰ったあと、柚希は窓を開けた。
夜の空気が、ゆっくりと部屋に流れ込む。
空には、星がいくつか見えていた。
昨日よりも、少しだけ多い。
その瞬間、スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前に、心臓が跳ねる。
悠真
一瞬、指が止まる。
期待と怖さが、同時に押し寄せる。
それでも、画面を開いた。
『今、大丈夫?』
短い一文。
でも、それだけで胸が熱くなる。
柚希は、しばらく画面を見つめてから、ゆっくり打ち返した。
『うん』
すぐに返信は来なかった。
数十秒。
それが、妙に長く感じられる。
やがて、次の通知。
『ちゃんと、話さなきゃって思って』
その言葉を読んだ瞬間、
柚希は、深く息を吸った。
怖い。
でも、逃げたくなかった。
『私も』
そう送信すると、胸の奥が、少しだけ軽くなった。
夜空には、星が静かに瞬いている。
全部は見えなくても、確かに、そこにある。
この時間が、
終わりへ向かうためのものなのか、
それとも、何かが始まる前触れなのか――
まだ分からない。
それでも、
“同じ星を見上げている”という感覚だけは、
柚希の中で、消えずに残っていた。
夜明け前の空は、まだ色を持たない。
柚希は、カーテン越しの薄暗さの中で目を覚ました。
目覚ましが鳴る前だった。眠りが浅いまま、意識だけが先に浮かび上がってきた。
――ちゃんと、話さなきゃ。
昨夜届いた悠真のメッセージが、胸の奥で小さく脈打っている。
画面越しの短い言葉。
それだけなのに、心の奥を掴まれたような感覚が残っていた。
ベッドから起き上がり、制服に着替える。
鏡に映った自分の顔は、少しだけ大人びて見えた。
それが良いことなのか、分からない。
学校へ向かう道。
朝の空気は冷たく、頬に触れるたびに現実を思い出させる。
悠真とは、会う約束をしたわけじゃない。
それでも、今日何かが起きる気がしていた。
教室に入ると、いつもと同じ朝のざわめきが広がっていた。
机に鞄を置き、席に着く。
前の席に、悠真の背中がある。
昨日までと違うのは、
“見ないようにしていない自分”がいることだった。
視線を向ける。
悠真は、少しだけ肩に力が入ったような姿勢で、ノートを開いていた。
――緊張してる。
それだけで、胸が少し痛んだ。
「おはよ」
隣から、真帆の声。
「おはよう」
柚希は小さく笑った。
「……今日さ」
真帆は、周囲に聞こえないように声を落とす。
「悠真くん、放課後、時間あるって言ってた」
心臓が、確かに一度跳ねた。
「そうなんだ」
「うん。たぶん……話すんじゃないかな」
それ以上、真帆は何も言わなかった。
その沈黙が、優しかった。
授業中、柚希は何度も深呼吸を繰り返していた。
板書を写しながら、意識の半分は別の場所にある。
――もし、答えを出されなかったら。
――もし、また「待って」と言われたら。
考えるたび、胸がきゅっと縮む。
それでも。
今日は、逃げたくなかった。
昼休み。
屋上へ続く階段の踊り場で、柚希は一人、空を見上げた。
青く澄んだ空。
夜の星とは違うけれど、どこか同じ広さを感じる。
幼い頃、悠真と並んで空を見ていた記憶が、ふと蘇った。
意味も分からず、
「同じ星にお願いしよう」
そう言って笑い合った日。
願いの内容なんて覚えていない。
ただ、“一緒にいたい”という感覚だけが、今も胸に残っている。
放課後。
校舎の外に出ると、空は少しだけ色を変え始めていた。
悠真は、校門の近くで立っていた。
柚希に気づくと、軽く手を挙げる。
それだけで、胸の奥がじんと熱くなる。
「……来てくれて、ありがとう」
「うん」
二人並んで歩き出す。
行き先は、あの公園とは違う、小さな川沿いの道だった。
水面に、夕暮れの光が揺れている。
しばらく、言葉はなかった。
沈黙は重いけれど、逃げ場のないものではない。
「俺さ」
悠真が、先に口を開いた。
「ずっと、考えてた」
柚希は、何も言わずに聞く。
「どうして、こんなに怖いのか」
足取りが、少しだけ遅くなる。
「柚希を失うのが怖いのは、もちろんなんだけど……」
悠真は、川の方を見た。
「それ以上に、変わってしまう自分が怖かった」
その言葉に、柚希の胸が揺れた。
「今までみたいに、自然に笑えなくなったらどうしよう、とか」
声は低く、正直だった。
「もし、俺が柚希を傷つけたらって思うと……」
そこで言葉が途切れる。
柚希は、そっと足を止めた。
「悠真」
名前を呼ぶ。
「私ね」
声は、震えていなかった。
「傷つくのが怖くないわけじゃない」
でも、と続ける。
「何も起きないまま、離れていく方が……私は、もっと怖い」
悠真が、ゆっくりとこちらを見る。
「変わるのは、怖いよ」
柚希は、空を見上げた。
「でも、変わらないままでいられないことも、ある」
風が吹き、川の水面が揺れた。
その揺れが、二人の間の感情と重なって見える。
この先に、どんな答えが待っているのかは分からない。
でも――。
柚希は、はっきりと思っていた。
今日、この時間を、
“なかったこと”にはしたくない、と。
川沿いの道は、夕暮れの色をゆっくりと吸い込んでいた。
水面は鈍く光り、遠くを走る車の音が、現実と時間の流れをかろうじて知らせている。
柚希と悠真は、並んで歩きながら、どちらからともなく足を止めた。
会話は途切れていたが、沈黙が苦しいわけではなかった。
むしろ、言葉にできなかった想いが、まだ二人の間に残っているのが分かっていた。
悠真は、川を見つめたまま、何度か口を開きかけては閉じる。
その横顔は、幼い頃から見慣れているはずなのに、今は少しだけ違って見えた。
柚希は、胸の奥で静かに息を整える。
逃げたい気持ちは、もうなかった。
怖さはある。でも、それ以上に――ここで何も言わずに終わらせたくなかった。
「……俺さ」
悠真の声は低く、風に溶けるように落ちた。
「ずっと、強くなりたいって思ってた」
柚希は、黙って聞く。
それが今の自分にできる、唯一の誠実さだった。
「柚希の前では、ちゃんとしてたいし、守れる存在でいたかった」
悠真は、苦笑するように息を吐いた。
「でも、現実は全然追いつかなくてさ」
川の流れる音が、言葉の隙間を埋める。
「迷ってばっかりで、決断できなくて……肝心なことほど、喉で止まった」
指先が、わずかに震えているのが見えた。
「何も言わないまま時間が過ぎるたびに、“このままでいい”って、自分に言い聞かせてた」
柚希の胸が、じんわりと痛んだ。
「でも、本当は分かってた」
悠真は、視線を落としたまま続ける。
「何も言わないってことが、一番残酷だって」
その言葉は、責めるよりも先に、柚希の胸に静かに沈んだ。
「気づいたら……」
悠真が、ようやく顔を上げる。
「柚希が、すごく遠くに行きそうで」
その目には、隠しきれない不安が浮かんでいた。
柚希は、一歩だけ前に出た。
「遠くなんて、行ってない」
声は、思ったよりもはっきりしていた。
「私は、ここにいる」
悠真の瞳が、わずかに揺れる。
「ずっと、同じ場所にいた」
柚希は、足元の影を見つめながら続けた。
「悠真が何も言わなくなるたびに、“私がいなくても平気なんだ”って思おうとした」
風が髪を揺らす。
「そう思わないと、自分が壊れそうだったから」
視界の端が、少しだけ滲んだ。
「でもね」
柚希は、言葉を選ぶように間を置く。
「一番怖かったのは、“何も起きないまま終わる”ことだった」
沈黙が落ちる。
それは重く、けれど逃げ場のない沈黙だった。
「好きとか、そういう言葉じゃなくてもよかった」
柚希は、静かに言った。
「ただ、ちゃんと向き合ってほしかった」
悠真は、深く息を吸い、ゆっくりと頭を下げた。
「……ごめん」
短い言葉。
けれど、その重さに嘘はなかった。
「俺、間違えてた」
拳を握りしめる。
「何も言わないことが、優しさだと思ってた」
川の音が、少しだけ強く聞こえた。
「でも、それはただの自己保身だった」
悠真は、顔を上げる。
「柚希を信じる勇気が、なかった」
その言葉に、柚希の胸の奥で何かがほどけた。
涙が、一粒、頬を伝う。
拭わなかった。今は、隠す必要がなかった。
「……悠真」
名前を呼ぶ声が、少しだけ震える。
「私も、完璧じゃない」
視界が滲む。
「強いふりして、分かった顔して……本当はずっと、待ってただけ」
悠真は、何も言わずにその涙を見ていた。
やがて、ゆっくりと一歩近づく。
触れない距離。けれど、確かに近い。
「今すぐ、答えを出せるほど強くない」
悠真の声は、正直だった。
「でも、逃げないってことだけは、決めた」
その言葉は、約束のように胸に残った。
空はすっかり夜の色に染まり、まだ星は見えない。
それでも、そこにあると分かる。
柚希は、空を見上げた。
幼い頃、二人で同じ星に手を伸ばした記憶が、静かによみがえる。
「……それでいい」
柚希は、小さく笑った。
「答えが遅くても、迷ってても」
悠真を見る。
「同じ空を見てるなら」
悠真は、ゆっくりと頷いた。
二人は、並んで歩き出す。
来た道を、少しだけ戻るように。
距離は、まだ完全には埋まらない。
それでも――さっきより、確実に近い。
川の音が、二人の歩調に寄り添う。
柚希は思った。
この時間が答えそのものでなくてもいい。
ただ、向き合ったという事実が、胸に残れば。
夜空のどこかで、まだ見えない星が、静かに瞬いている。
それだけで、今日は十分だった。
朝の空気は、昨夜よりも少しだけ冷えていた。
柚希は布団の中で目を開け、天井を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
夢を見ていたのか、それとも記憶をなぞっていただけなのか、自分でも分からない。
川沿いの道。
夜の匂い。
悠真の声。
それらが、まだ身体の奥に残っている。
――ちゃんと、現実だった。
そう思おうとするたびに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
でも同時に、不安も顔を出す。
言葉にしきれなかったこと。
答えを出さなかったこと。
それらが、今日という日を少しだけ重くしていた。
ベッドから起き上がり、制服に袖を通す。
鏡に映った自分は、昨日と何も変わらないはずなのに、どこか落ち着かない表情をしていた。
学校へ向かう道。
いつもの風景。
いつもの角を曲がり、いつもの信号で立ち止まる。
それでも、心の中だけが、少しだけ違う場所にある。
校門をくぐると、聞き慣れた声や笑い声が、朝の空気に混ざっていた。
日常は、何事もなかったように流れている。
――私たちだけが、昨日の続きを抱えたまま。
教室に入ると、真帆がすぐにこちらに気づいた。
「おはよ、柚希」
「おはよう」
短いやり取り。
でも、真帆は一瞬、柚希の顔をじっと見た。
「……なんか、疲れてない?」
その一言に、胸が跳ねる。
「そうかな」
柚希は、笑ってごまかした。
「寝不足?」
「ちょっとね」
それ以上は、何も言わなかった。
言えなかった、の方が正しい。
席に着くと、前の席に悠真の背中があった。
昨日よりも、少しだけ近く感じる。
でも、声をかける勇気はまだ出ない。
悠真も、振り返らない。
それが、妙に安心でもあり、寂しくもあった。
授業が始まる。
黒板に書かれる文字を追いながら、柚希の意識は何度も遠くへ逸れた。
悠真は、今、何を考えているんだろう。
昨日のことを、どう受け止めているんだろう。
――逃げない。
そう言っていた声が、耳の奥に残っている。
それだけで、今日はなんとか前を向ける気がした。
休み時間。
真帆が、机に肘をついて顔を近づけてくる。
「ねえ」
「なに?」
「昨日さ……悠真くんと、話した?」
心臓が、確かに音を立てた。
「……うん、少し」
真帆は、すぐに深くは聞いてこなかった。
その代わり、ふっと小さく笑う。
「そっか」
それだけ。
でも、その一言には、分かっている人特有の優しさがあった。
「柚希さ」
真帆は、声を落とす。
「無理して答え出さなくていいと思うよ」
柚希は、驚いて真帆を見る。
「答えって……」
「そういうの」
真帆は、肩をすくめた。
「長い時間一緒にいた人ほど、簡単に割り切れないでしょ」
その言葉に、胸の奥が少し緩んだ。
「迷うのって、悪いことじゃないと思う」
真帆は、そう言って席を立つ。
「ちゃんと大事にしてるって証拠だから」
その背中を見送りながら、柚希は深く息を吐いた。
――大事にしてる。
その言葉が、心に残る。
昼休み。
柚希は、一人で中庭へ向かった。
ベンチに座り、空を見上げる。
昼の空には星は見えない。
それでも、どこかで確かに輝いているはずだと、今なら思える。
悠真の言葉。
自分の言葉。
どちらも、まだ未完成だ。
でも、未完成のままでも、進んでいいのかもしれない。
そんなことを考えていると、遠くでチャイムが鳴った。
午後が始まる。
そして――
まだ言葉にしていない続きを、抱えたままの時間も。
午後の授業が終わるころ、空は少しずつ色を変え始めていた。
柚希は、教室の窓から差し込む斜めの光をぼんやりと眺めながら、シャーペンを転がしていた。
先生の声は聞こえているはずなのに、頭の中にはほとんど残っていない。
昨日の夜から続く感覚が、まだ胸の奥にある。
消えそうで、消えない。
触れれば壊れてしまいそうな、曖昧な温度。
チャイムが鳴り、クラスにざわめきが戻る。
机を叩く音、椅子を引く音、誰かの笑い声。
その中で、悠真はいつも通りの動きをしていた。
大きくも小さくもない、普段と変わらない姿。
――変わらない、のかな。
柚希は、そう思ってから、自分の考えを打ち消した。
変わったかどうかなんて、外から見て分かるものじゃない。
放課後。
柚希は、すぐに帰る気になれず、机に残ったまま鞄の中を整理するふりをした。
教室の人数が、少しずつ減っていく。
真帆が、肩越しに声をかけてくる。
「柚希、今日どうする?」
「……少し、残ってから帰る」
「そっか」
真帆は、それ以上聞かなかった。
ただ一度、意味ありげに柚希を見てから、軽く手を振る。
「じゃ、また明日ね」
「うん」
教室には、数人だけが残った。
その中に、悠真もいる。
視線を合わせる勇気は、まだ出なかった。
でも、存在だけは、はっきりと感じている。
柚希は、ゆっくりと席を立ち、廊下に出た。
特別な理由はない。ただ、ここにいると息が詰まりそうだった。
昇降口へ向かう途中、窓の外を見る。
校庭は、夕方の影に包まれている。
――話したほうがいいのかな。
――それとも、今日はやめておくべき?
答えは出ない。
昇降口で靴を履き替え、外に出たところで、足音が近づくのを感じた。
「……柚希」
聞き慣れた声。
振り返ると、悠真が立っていた。
息を少しだけ切らしている。
「帰る?」
「うん」
それだけの会話。
でも、その短さが、かえって胸に刺さる。
二人は並んで歩き出す。
昨日と同じ道ではない。
でも、似たような沈黙が続く。
夕方の空は、まだ明るさを残している。
星は、もちろん見えない。
「……昨日さ」
悠真が、歩きながら言った。
柚希の心臓が、一拍遅れて音を立てる。
「ありがとう」
唐突な言葉だった。
「話してくれて」
悠真は、前を向いたままだった。
「正直、すごく怖かったけど」
一度、言葉を切る。
「ちゃんと向き合わなきゃって、思えた」
柚希は、何も言わずに聞いていた。
その言葉を、逃さないように。
「……だから」
悠真は、ほんの少しだけ歩く速度を落とした。
「もう少し、時間をくれないか」
その声は、震えてはいなかった。
でも、強くもなかった。
「答えを出すための時間じゃなくて」
悠真は、言葉を選ぶ。
「ちゃんと考えるための時間」
柚希は、足を止めた。
悠真も、それに気づいて立ち止まる。
沈黙。
でも、昨日よりも柔らかい。
「……うん」
柚希は、ゆっくりと頷いた。
「私も、すぐに答えを出せるわけじゃない」
そう言ってから、少しだけ微笑む。
「でも、待つのは……嫌じゃない」
悠真の表情が、ほんの一瞬、緩んだ。
「ありがとう」
その言葉は、昨日よりも軽く、でも確かだった。
二人は、再び歩き出す。
さっきより、少しだけ距離が近い。
別れ道に差しかかり、足が止まる。
「じゃ……また」
「うん。また明日」
それだけ。
それなのに、胸の奥に、温かいものが残った。
悠真の背中を見送りながら、柚希は空を見上げる。
今日も、星は見えない。
でも、見えないからこそ、信じられる気がした。
――同じ空の下にいる。
それだけで、今日は十分だった。
柚希は、静かに息を吸い込み、家へと歩き出した。
まだ答えはない。
でも、確かに続いている。
物語は、静かに、前へ進んでいた。
朝の空気は、前の日より少しだけ冷えていた。
柚希は制服の袖を引きながら、駅までの道を歩いていた。
空は澄んでいて、雲の輪郭がやけにくっきりしている。
こういう日は、何もかもがはっきり見えてしまう気がして、少し苦手だった。
昨日のやり取りが、まだ頭の中に残っている。
悠真の言葉、間の取り方、視線を逸らした瞬間。
待ってほしい。
ちゃんと考える時間がほしい。
それは逃げじゃない。
そう思える一方で、どこかに小さな棘のような違和感があった。
――時間って、どれくらい?
その疑問を、柚希は自分の中で押し込める。
聞いてしまえば、何かが変わってしまいそうだったから。
ホームに着くと、ちょうど電車が入ってくるところだった。
人の流れに押されるように乗り込み、吊り革を掴む。
窓に映る自分の顔は、少しだけ疲れて見えた。
学校に着くと、いつもより校舎が騒がしかった。
廊下のあちこちで声が弾んでいる。
「ねえ、知ってる?」
教室に入るなり、真帆が寄ってくる。
「何が?」
「転校生来るんだって。今日から」
「へえ……」
正直、あまり興味は湧かなかった。
でも、真帆は楽しそうだ。
「男子らしいよ。しかも同じクラス」
「そうなんだ」
柚希は、自分の席に鞄を置きながら相槌を打つ。
そのとき、教室のドアが開いた。
担任の先生が入ってきて、その後ろに見慣れない男子生徒が立っている。
教室が、一瞬で静かになる。
「じゃあ、紹介するぞ」
先生の声に合わせて、男子が一歩前に出た。
背は、悠真より少し高い。
整った顔立ちで、どこか余裕のある表情。
「今日からこのクラスになる、神谷です。よろしく」
ざわ、と小さなざわめきが起こる。
柚希は、なんとなく悠真のほうを見た。
悠真は、転校生を一瞥したあと、すぐに視線を逸らしていた。
その仕草が、妙に引っかかる。
席は、柚希の斜め後ろだった。
近すぎず、遠すぎない距離。
授業が始まっても、柚希はどこか落ち着かなかった。
背後から、時折感じる気配。
視線なのか、ただの気配なのかは分からない。
休み時間になると、さっそくクラスメイトが神谷の周りに集まった。
質問攻めにされている様子を、柚希はぼんやり眺める。
悠真は、机に肘をつき、窓の外を見ていた。
「悠真」
声をかけると、少し遅れて振り向く。
「ん?」
「転校生、どう思う?」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。
「……別に」
短い返事。
「そう」
それ以上、会話は続かなかった。
昼休み。
柚希と真帆は、いつものように並んで弁当を食べていた。
「ねえ、柚希」
「なに?」
「最近、悠真と雰囲気違くない?」
箸が止まる。
「……そう?」
「うん。なんかさ、近いけど遠いって感じ」
真帆の言葉は、的確すぎて胸に刺さった。
「気のせいじゃない?」
柚希は、そう言って笑おうとしたが、うまくできなかった。
「ま、柚希がそう言うならいいけど」
真帆は、それ以上踏み込まなかった。
午後の授業。
神谷は、意外と静かだった。
目立つこともなく、ただ淡々とノートを取っている。
でも、何度か柚希と目が合った。
そのたびに、軽く会釈される。
悪い人ではなさそうだ。
そう思う自分と、なぜか落ち着かない自分がいた。
放課後。
柚希は、悠真と一緒に帰るタイミングを待っていた。
でも、悠真はなかなか席を立たない。
神谷が、悠真の机の前に立っているのが見えた。
「なあ、部活何やってる?」
何気ない声。
「……特に」
「そっか。俺、まだ決めてなくてさ」
二人の会話は、別に親しげというほどでもない。
でも、そこに柚希が入る隙はなかった。
気づけば、真帆はもう帰っていた。
柚希は、鞄を持ったまま立ち尽くす。
――声をかける?
――それとも、今日はやめる?
迷っているうちに、悠真と神谷は教室を出ていった。
取り残された教室で、柚希は一人、深く息を吐いた。
胸の奥に、小さな影が伸びる。
それは不安というほど大きくはない。
でも、確実に存在していた。
窓の外を見ると、空はまだ明るい。
見えない星を、今日も探してしまう自分に気づいて、柚希は小さく笑った。
――大丈夫。
そう言い聞かせながら、教室を後にする。
けれど、その言葉は、どこか宙に浮いたままだった。
家に帰ると、部屋の中はひどく静かだった。
柚希は鞄を床に置き、ベッドに腰を下ろす。
カーテン越しの光が、部屋の奥まで伸びている。
何もしていないのに、疲労だけが身体に残っていた。
悠真と一緒に帰れなかったことが、こんなにも引っかかるとは思っていなかった。
これまで何度も、タイミングが合わない日はあったはずなのに。
スマホを手に取る。
画面には、悠真とのやり取りが並んでいる。
最後のメッセージは、昨日の夜。
『また話そう』
その短い一文が、やけに重く感じられた。
――いつ?
その問いを打ち込もうとして、柚希は指を止めた。
考える時間がほしいと言ったのは、悠真だ。
それを急かすようなことは、したくなかった。
けれど、待つという行為が、こんなにも不安を育てるものだとは知らなかった。
窓を開けると、少し冷たい風が流れ込んでくる。
遠くで、子どもたちの声が聞こえた。
あの頃は、何も考えずに笑っていた。
星に願えば、全部叶うと本気で信じていた。
夜になり、空が深い色に変わっていく。
夕食を終えても、柚希は落ち着かなかった。
テレビの音も、家族の会話も、どこか遠い。
部屋に戻り、ベッドに横になる。
天井を見つめながら、ゆっくりと呼吸を整えた。
――考えすぎ。
そう言い聞かせる。
悠真は悠真なりに、何かと向き合っているだけだ。
そのはずなのに、昼間の光景が何度も蘇る。
神谷と話す悠真の背中。
振り向かなかった視線。
教室を出ていく足取り。
柚希は、胸の上に手を置いた。
心臓の音は、いつもより少し早い。
そのとき、スマホが震えた。
画面を見ると、知らない名前。
『神谷です。急にごめん』
一瞬、時間が止まったような感覚に襲われる。
どうして。
いつ、連絡先を?
混乱しながらも、既読をつけずに画面を見つめる。
『今日、クラスで話せなかったから』
『柚希さんだよね』
名前を呼ばれたことに、理由のない緊張が走る。
数秒、迷ってから返信した。
『そうだけど、どうしたの?』
すぐに返事が来る。
『悠真から聞いた』
『幼馴染なんだって』
胸が、ひくりと揺れた。
『そうだよ』
『長いんだね』
『大事な存在なんだろうなって思った』
その言葉は、優しさにも、探りにも聞こえた。
柚希は、スマホを握りしめる。
『うん』
それ以上、何と返せばいいのか分からなかった。
『変な意味じゃないよ』
『ただ、ちょっと気になって』
その「気になる」が、何を指しているのかは書かれていない。
『今日はありがとう』
『また学校で』
メッセージは、そこで終わった。
スマホを伏せると、胸の奥がざわついた。
嫌な感じではない。
でも、安心とも違う。
まるで、水面に小石を投げられたみたいに、波紋だけが広がっていく。
その夜、柚希は夢を見た。
夜の公園。
ブランコが、きい、と鳴る。
隣には悠真がいるはずなのに、顔が見えない。
声をかけようとすると、遠くで誰かが名前を呼ぶ。
振り向くと、星空だけが広がっていた。
目が覚めたとき、胸が締め付けられていた。
朝。
鏡の中の自分は、少しだけ眠そうだった。
学校へ向かう途中、悠真の姿を探してしまう。
でも、見つからない。
教室に入ると、神谷が先に来ていた。
「おはよう」
自然な声。
「……おはよう」
返しながら、視線を逸らす。
悠真は、遅れて入ってきた。
柚希と目が合いそうになって、すぐに逸らされる。
その一瞬が、昨日よりも痛かった。
授業中、柚希は何度もペンを落とした。
集中しようとするほど、心が別の場所へ行ってしまう。
昼休み。
悠真は、神谷と並んで食堂へ向かっていた。
その背中を見送りながら、柚希は動けずにいた。
――声をかければいい。
分かっている。
でも、なぜか足が前に出なかった。
真帆が、そっと隣に来る。
「……無理しなくていいよ」
それだけ言って、肩に触れて去っていった。
放課後、柚希は一人で帰った。
夕焼けが、空を赤く染めている。
足取りは重いのに、時間だけが早く過ぎていく。
立ち止まり、空を見上げる。
星は、まだ見えない。
でも確かに、そこにあると知っている。
――同じ星を見ていれば、繋がっていられる。
そんな言葉を、昔は信じていた。
今は、その距離が、少しだけ遠く感じられる。
柚希は歩き出す。
何かが変わり始めていることに、もう気づいていた。
それでも、まだ終わりだとは思わなかった。
ただ、静かに。
確実に。
二人の世界に、別の影が差し込み始めているだけだと。
そう信じながら、夕暮れの中へ溶けていった。
朝の空気は、昨日までと何一つ変わらないはずだった。
駅へ向かう道も、信号の待ち時間も、足元を通り過ぎる風の温度さえも、いつも通りのはずなのに、柚希の胸の奥だけが、うまく現実に追いつけずにいた。
まるで少しだけ置いていかれた感覚が、心臓の裏側に薄く貼りついているようだった。
昨夜、ほとんど眠れなかったことを、理由にはしたくなかった。
眠れなかったのは事実だが、それ以上に、目を閉じるたびに浮かんできた悠真の横顔が、静かに、しかし確実に、柚希の意識を覚醒させ続けていたからだ。
言葉を交わさなかった一日の終わりが、こんなにも重さを持つものだとは、これまで思ったこともなかった。
駅のホームに立ちながら、柚希は無意識のうちに、悠真の姿を探していた。
改札を抜けてくる人の流れの中に、あの歩き方が混じっていないか、少し前屈みになる癖のある肩のラインが見えないか、そんなことを考えている自分に気づき、遅れて苦笑する。
――探している時点で、もう平常心ではないのだ。
結局、悠真は現れなかった。
電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見つめる。
眠そうな目元よりも、どこか不安を隠しきれていない表情のほうが、やけに目についた。
言葉にしてしまえば簡単なのに、それができないまま、時間だけが先へ進んでいく。
幼い頃から何度も一緒に過ごしてきたはずなのに、こんな距離の取り方を、二人はまだ知らなかった。
学校に着くと、教室はすでにざわついていた。
机を引く音、笑い声、誰かの名前を呼ぶ声。
そのすべてが、日常の一部として流れている。
柚希はその中に身を置きながら、昨日とは違う位置に自分が立っているような感覚を拭えずにいた。
悠真は、すでに席に座っていた。
一瞬、視線が交差しそうになり、ほんのわずかな間だけ、彼のまつげが揺れるのが見えた。
けれど、悠真は何も言わず、すぐにノートへ視線を落とした。
その動作があまりにも自然で、まるで最初からそうするつもりだったかのように見えてしまい、柚希の胸の奥が、きしりと小さな音を立てた。
声をかけるべきなのか、かけないほうがいいのか。
そんな選択肢が頭をよぎること自体、これまでの二人にはなかったはずだった。
呼吸を合わせるように隣を歩き、言葉がなくても通じると、どこかで信じていた。
その前提が、静かに崩れ始めている。
真帆が席に近づいてきて、何気ない調子で話しかけてくる。
柚希はそれに応じながらも、会話の半分も頭に入っていなかった。
返事をし、笑顔を作り、いつも通りを装うことはできる。
それでも、心の奥ではずっと、悠真の沈黙が反響していた。
授業が始まり、黒板に文字が書き連ねられていく。
チョークの音が規則正しく響くたび、時間は確実に前へ進んでいくのに、柚希の感情だけが、昨夜と今朝の間を行き来していた。
考えすぎだと分かっている。
けれど、考えないという選択肢が、もう選べなくなっていた。
休み時間、悠真は席を立ち、神谷と短く言葉を交わしてから教室を出ていった。
その背中を、柚希は追わなかった。
追えなかった、というほうが正しい。
昨日から続く違和感が、足元を縛るように、動くことをためらわせていた。
置いていかれた、という感覚とは少し違う。
置いていかれるなら、まだ分かりやすい。
これはもっと曖昧で、輪郭のない距離だった。
すぐ隣にいるのに、手を伸ばす理由を見失ってしまったような、そんな感覚。
昼の光が、窓から差し込む。校庭の向こうでは、誰かが笑っている。
その音が、やけに遠く聞こえた。
――同じ星を見上げていれば、繋がっていられる。
そんな言葉を信じていた自分が、少しだけ幼く思えた。
けれど同時に、その考えを完全に手放すことも、まだできずにいた。
柚希は、机の上でそっと指を組む。
何も起きていないふりをするには、心はもう、あまりにも正直だった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴っても、柚希の中では、時間の区切りがうまく機能していなかった。
立ち上がり、教室に戻り、席に着くまでの一連の動作は体が勝手に覚えているのに、心だけが少し遅れてついてくる。
そのずれが、今日という一日を、必要以上に長く感じさせていた。
午後の授業が始まると、悠真は以前よりもさらに静かになったように見えた。
ノートを取る姿勢も、黒板を見る角度も、何も変わっていないはずなのに、そこに漂う気配だけが、微妙に違っている。
柚希はその変化を、見ないふりをすることができなかった。
長い時間を一緒に過ごしてきたからこそ、些細な違和感ほど、強く胸に引っかかる。
もし、ここで声をかけたら、何かが変わるのだろうか。
そんな考えが浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。
けれど、声を出す勇気よりも先に、壊してしまうかもしれないという恐れが、柚希の喉を固く閉ざしていた。
今まで当たり前だった関係が、実はとても繊細な均衡の上に成り立っていたのだと、今になって気づかされる。
放課後が近づくにつれて、教室の空気は少しずつ緩んでいった。
椅子を引く音、誰かが立ち上がる気配、今日の予定を話す声。
いつもなら、自然と悠真の隣に並んで帰る流れになるはずだった。
だが今日は、その「いつも」が、どこにも見当たらなかった。
悠真は、チャイムが鳴ると同時に立ち上がり、柚希のほうを見ないまま、教室の出口へ向かった。
その背中は急いでいるわけでもなく、誰かを待っているようでもなかった。
ただ、決められた進路を淡々と歩いているように見えた。
柚希は一瞬、席を立つタイミングを逃したまま、その背中を見送った。
呼び止める言葉は、いくつも頭に浮かんだのに、どれも口に出すには重すぎた。
「一緒に帰ろう」という、たったそれだけの言葉が、今日はやけに遠い。
真帆が横に来て、心配そうに柚希の顔を覗き込む。
柚希は小さく首を振り、何でもないふりをして鞄を持った。
何かを説明するほど、自分の気持ちが整理できていないことを、誰よりも自分が分かっていた。
校舎を出ると、夕方の空は淡い色に染まり始めていた。
昼とは違う、少し柔らかな光が、影を長く引き伸ばす。
その景色の中に、悠真の姿はもうなかった。先に帰ったのだろう、と頭では理解できても、胸の奥に残る空白は、なかなか埋まらない。
歩きながら、柚希は幼い頃の記憶を思い出していた。
並んで歩くときは、いつも歩幅を合わせてくれていたこと。
何も言わなくても、同じ方向を見ていたこと。
そのすべてが、今は少し遠い出来事のように感じられる。
――変わってしまったのは、いつからだろう。
それとも、変わったのではなく、見えていなかっただけなのだろうか。
足を止め、空を見上げる。夕暮れの向こうには、まだ星は見えない。
それでも、そこにあると分かっているから、目を凝らしてしまう。
信じるという行為は、時に、見えないものを見ようとすることなのかもしれない。
帰宅してからも、柚希の心は落ち着かなかった。
部屋の中にいても、窓の外に意識が引き寄せられる。
時計の針が進む音が、やけに大きく感じられた。
スマホを手に取る。
悠真からの通知は、何もない。
こちらから送ればいい。分かっている。けれど、何を送ればいいのかが分からなかった。
「どうしたの」と聞くのは簡単だ。でも、その答えを聞く覚悟が、まだ整っていなかった。
夜になり、空が深い色に変わっていく。
ようやく一つ、星が瞬いた。
柚希は、その光を見つめながら、胸の奥でそっと願う。
同じ星を、悠真もどこかで見ていてほしいと。
距離が生まれ始めていることを、否定することはできない。
それでも、完全に離れてしまったわけではないと、まだ信じていた。
信じることでしか、今は立っていられなかった。
その夜、柚希は、星の位置を確かめるように何度も窓の外を見た。
それが希望なのか、ただの未練なのか、自分でも分からないまま。
けれど確かなのは、この静かな時間が、二人にとって一つの分岐点になりつつあるということだった。
まだ言葉にはならない。
まだ、形も見えない。
それでも、何かが、確実に動き始めている。
柚希は、その気配を胸に抱いたまま、長い夜の中へと沈んでいった。
その日は、朝から空が低かった。
雲が重なり合っているわけでも、雨の気配があるわけでもない。
ただ、光がどこか遠く、地上に届くまでに少し時間がかかっているような、そんな空だった。
柚希はその色を見上げながら、理由の分からない不安を胸の奥に抱えたまま、学校へ向かった。
足取りは、自然と遅くなる。
急いでいるわけでもないのに、時間だけが先へ進んでいく感覚が、昨日よりもはっきりと意識に残っていた。
悠真と交わさなかった言葉が、眠っている間にも消えずに、胸の中で形を変えながら、静かに重なり続けていた。
教室に入ると、いつもと同じ風景が広がっている。
机の配置も、窓から差し込む光の角度も、黒板に書かれた日付も、すべて変わっていない。
それなのに、柚希には、その場に自分だけが遅れて到着したような感覚があった。
悠真は、まだ来ていなかった。
それだけで、心臓がわずかに強く脈打つ。
安心とも、不安ともつかない感情が、同時に胸に広がる。
会いたいと思う気持ちと、会ってしまったら何かが決定的に変わってしまうかもしれないという恐れが、互いに引き合って、離れない。
席に着いてからも、柚希は何度も時計を見た。
秒針の動きが、いつもよりはっきりと目に入る。
時間は、誰に対しても平等なはずなのに、今はなぜか、自分だけが置き去りにされているように感じられた。
チャイムが鳴る直前、悠真が教室に入ってきた。
その瞬間、柚希の視界は一度、彼の姿で満たされた。
少しだけ乱れた髪、眠そうな目元、いつもと変わらない制服姿。
見慣れているはずなのに、昨日までとは違う距離を、無意識に測ってしまう自分がいた。
悠真は、柚希のほうを見なかった。
それが、偶然なのか、意図的なのか、柚希には分からなかった。
ただ、その視線が交わらなかったという事実だけが、胸の奥に小さな痛みとして残る。
何も言われていないのに、拒まれたような気がしてしまうほど、心は弱くなっていた。
授業が始まり、教室は静まり返る。
ノートを取る音、ページをめくる音、教師の声。
それらが、規則正しく重なっていく中で、柚希の意識だけが、悠真の存在を中心に回り続けていた。
隣にいるのに、遠い。
その感覚が、言葉にできないまま、胸に積もっていく。
昼休み、柚希は一人で屋上へ向かった。特別な理由があったわけではない。
ただ、誰の視線も気にせずに、空を見たかった。
重い扉を押し開けると、少し冷たい風が頬を撫でる。
空は、相変わらず低いままだった。
フェンス越しに街を見下ろしながら、柚希は深く息を吸う。
ここに来ると、幼い頃の記憶が、自然と浮かんでくる。
星に願いをかけた夜、意味もなく笑い合った帰り道、何でも話せると思っていた時間。
――あの頃の自分は、何を信じていたのだろう。
悠真が、ずっと隣にいること。
何も言わなくても、気持ちは伝わるということ。
そのどちらも、今は少しだけ、揺らいでいる。
フェンスに手を置いたとき、指先がわずかに震えた。
気づかないふりをしてきた感情が、ここにきて、ようやく輪郭を持ち始めている。
怖かったのは、悠真が変わってしまうことではない。
変わっていく彼を、ちゃんと受け止められないかもしれない自分自身だった。
もし、今ここで悠真が現れたら、何を言うだろう。
問いかけるのか。
それとも、何も言わずに笑うのか。
答えは出ないまま、風だけが吹き抜けていく。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。泣くほどではない。
でも、確実に、何かが溢れそうになっている。
言葉にならない想いが、形を求めて、静かに揺れていた。
柚希は、目を閉じた。
同じ星を見上げていれば、繋がっていられる。
そう信じた日々が、決して間違いではなかったと、今でも思いたかった。
願いは、消えていない。
ただ、叶え方が分からなくなっただけだ。
チャイムの音が、遠くで鳴る。
柚希は、ゆっくりと目を開けた。
この時間が、終わりに近づいていることを、どこかで理解しながら。
屋上から戻ったあとも、柚希の胸の奥には、ひとつの感覚だけが残り続けていた。
何かを失いかけているという確信にも似た予感と、それでもまだ間に合うのではないかという、かすかな期待。
その二つが絡まり合い、ほどけないまま、心臓の近くで静かに脈打っている。
放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一斉に動き出す。
椅子を引く音、笑い声、今日の予定を話す声。
その中で、悠真は立ち上がらず、席に座ったまま、窓の外を見ていた。
夕方の光が、彼の横顔を淡く縁取っている。
柚希は、なぜかその光景から目を離せなかった。
今まで何度も見てきたはずの横顔なのに、今日に限っては、ひどく遠く感じられた。
呼びかければ振り向くと分かっている。
それでも、その一歩が踏み出せない。
踏み出してしまったら、戻れなくなる気がしていた。
教室の人数が、少しずつ減っていく。
真帆が柚希の前を通り過ぎるとき、何か言いたげに口を開きかけ、結局何も言わずに出ていった。
その背中を見送りながら、柚希は、自分が今、誰にも頼れない場所に立っていることを悟る。
最後に残ったのは、二人だけだった。
夕焼けが窓から差し込み、机の影を長く引き伸ばす。
その影が、どこかで交わることなく、並んで床に落ちているのが目に入った。
沈黙は、長く続いた。
その沈黙を破ったのは、悠真だった。
「……柚希」
名前を呼ばれただけで、胸の奥が強く反応する。
呼吸が、一拍遅れる。柚希は、ゆっくりと悠真のほうを向いた。
悠真は、柚希を見ていなかった。
それでも、確かに話しかけていた。
「ちゃんと、話さなきゃって思ってた」
その声は、低く、静かで、どこか迷いを含んでいた。
柚希は、何も言わずに頷く。今は、言葉を挟むべきではないと、本能的に分かっていた。
「最近……俺、自分が何考えてるのか、分からなくて」
悠真は、指先をぎゅっと握りしめていた。視線は相変わらず、窓の外に向けられたままだ。
「変わりたいって思ってるのか、変わるのが怖いのか……どっちなのかも、はっきりしない」
その言葉を聞いた瞬間、柚希の胸に、ひとつの理解が落ちてきた。
悠真は、誰かを遠ざけたかったわけじゃない。ただ、自分自身から逃げていただけなのだ。
「でもさ」
悠真は、そこで一度、言葉を切った。
教室に、風が入り込む。カーテンが揺れ、夕焼けの色が、少しだけ濃くなる。
「その中に、柚希を巻き込みたくなかった」
その一言が、胸に突き刺さった。
守ろうとした言葉が、こんなにも痛いものになるなんて、柚希は知らなかった。
優しさは、時に、距離を生む。その現実を、今、はっきりと突きつけられている。
「俺が黙ってたのは……離れたいからじゃない」
ようやく、悠真が柚希のほうを見る。
その目は、迷いと後悔と、抑えきれない感情が入り混じった、見慣れない色をしていた。
「でも、近づくのも、怖かった」
その瞬間、柚希の視界が滲んだ。
泣こうとしたわけじゃない。ただ、感情が、身体の許容量を超えただけだった。
ずっと感じていた違和感が、ようやく一つの形になる。
離れていたのは、気持ちじゃない。恐れだった。
柚希は、ゆっくりと息を吸った。
「……私ね」
声が、少しだけ震えた。それでも、止めなかった。
「悠真が何も言わなくなったとき、一番怖かったのは……嫌われたことじゃなかった」
悠真の視線が、わずかに揺れる。
「一緒に、同じ方向を見てたはずなのに……私だけ、その場に取り残された気がした」
言葉にしてしまえば、胸の奥が焼けるように痛んだ。けれど、言わなければ、この距離は埋まらない。
「同じ星を見てるって、信じてたから」
沈黙が落ちる。
その静けさの中で、悠真は、ゆっくりと立ち上がった。
柚希の前まで歩き、少し迷うように立ち止まる。
「……ごめん」
その一言に、すべてが込められていた。
柚希は、首を振った。
謝ってほしかったわけじゃない。
ただ、気持ちを、置き去りにしないでほしかった。
窓の外では、最初の星が、かすかに瞬いていた。
柚希は、それを見て、ふっと微笑んだ。
「まだ、消えてないよ」
何が、とは言わなかった。
それでも、悠真には伝わったようだった。
二人は、並んで窓の外を見る。
影は、さっきよりも、少しだけ近づいていた。
すべてが解決したわけじゃない。
未来の形も、まだ分からない。
それでも、この瞬間だけは、確かに、同じ星を見ていた。
願いは、叶ったのではない。
ただ、手放されずに、ここに残った。
そのことが、涙が出るほど、救いだった。
夕暮れと夜の境目で、二人は言葉を交わさず、ただ静かに立っていた。
失いかけたものの重さを、ようやく、同じ場所で感じながら。
そして、その星を胸に刻むようにして、柚希は目を閉じた。
――まだ、ここからだ。
そう、確かに思えた。




