約束の50発と、常識を超えた「おかわり」
試合が終わってすぐ、風花は痛む腹を押さえ、カナに支えながら、ふらつく足で空手部の部室へと向かった。
部室には、いつものマットと、2人でいつも使っている5KGのメディシンボールが置かれていた。これを落として腹にぶつけるのは、2人が毎日のように行っていることだ。だがその衝撃を、負けを拒んで立ち続けた代償を負った腹に受けるのは、いつものトレーニングとは桁違いの激痛だ。それを賭けるからこそ、2人の試合はいつも本気の闘いになる。風花は何も言わずにマットに仰向けになり、ゆっくりと試合でダメージを負った腹を露わにする。
「……始めて、いいよ」
その言葉に、カナは無言で頷いた。
1発目。
ズンッ。
5キロの鉄球が風花の腹に落ちる。試合のダメージが癒えない状態の腹は、悲鳴をあげるように凹む。
「……っく……一発」
風花は自分でカウントをつける。目を閉じることなく、しっかりとカナを見据えながら。
2発目、3発目、4発目――
そのたびに風花の息が乱れ、腹が赤く染まっていく。けれど、声は一切上げない。拳を握りしめ、全身で耐える。
30発を越えたあたりで、風花の呼吸が浅くなり、額から汗が滲み出た。だが、彼女はただ一言。
「カナ……あと20。……ちゃんと全部、お願い」
カナはしばらく迷ったように鉄球を握りしめたが、やがて口を開いた。
「……分かった。最後までやるよ。約束だからね」
そして、再び落とされる鉄球。風花の腹が軋むたびに、2人だけの静かな空間に、重い音が響いた。
そして――
「……50。おしまい」
風花は目を閉じて、しばらくそのまま寝転がっていたが、ゆっくりと目を開けて、苦笑するように言った。
「さあ……おかわり。何発にする?」
カナは風花の傍らにしゃがみ込み、黙ってその痛々しい腹を見下ろした。
「そうだね――まずは5発。様子見」
風花は笑った。苦しそうに、けれど、誇らしげに。
「優しいじゃん。……まだいけるよ」
本当の勝負は、ここからかもしれない。2人の「腹を鍛える戦い」は、まだ終わらない。
「……カナ、それだけじゃ……足りないよ」
「え?」
「私は……さっきの試合で、倒れた。あんたの蹴りに、腹が、負けたんだ。だから5発程度じゃ、何も変わらない」
風花は、ボロボロになった腹に手を添えながら、苦しげな息を吐いた。
「今の私に必要なのは、“練習量”だよ。もっと強くならなきゃいけない。……私、カナより、ずっと腹が弱かったから、負けたんだ」
その目は、すでに泣きそうなくらいに真っ赤だった。それでも、決して逃げていなかった。むしろ、どこまでも真っ直ぐだった。
カナは、その目を見て悟った。
(この子は……本気で、限界の先を目指してる)
一瞬だけ、カナの心に迷いがよぎった。けれどそれを打ち消すように、息を吐いて立ち上がる。
「……分かった。なら、私が鬼になってあげる」
風花の横に立ち、5KGのメディシンボールを持ち上げる。視線は鋭く、腕は容赦なく――。
「次は10連続、いくよ。構えて」
「……うん。来て、カナ」
ズンッ――
「1」
ズンッ――
「2」
冷たい鉄球が、汗に濡れた肌に深く沈む。風花の顔はすでに歪んでいたが、声を上げることなく耐える。
10発が終わる。
「次、15」
カナの声に、風花が頷く。
「全部、受け切る」
次の15発。腹が、熱く膨れ、呼吸のたびに痛みを主張する。
「次、20」
「――いける!」
カナは、風花がもうやめると言うその瞬間まで、手を緩めることはなかった。
30発、40発ーー途中で嘔吐しそうになりながらも、風花は腹をさらし続けた。
「……すごいよ、風花。もう充分だって思えるくらい、やったよ」
「違う……まだ、ダメ……!」
その目は血走っていた。限界はとっくに超えている。けれど、風花は口元を引き結び、こう言った。
「100発。『おかわり』……100発。やらせて、カナ……! この腹を、もっと強くするの……!」
静寂が落ちた。
カナは、苦笑したように小さく息を吐くと、無言で鉄球を構え直す。
そして――
ズンッ。
「91」
ズンッ。
「92」
ズンッ。
「93ーー」
すでにカウントの声さえ震え、風花の腹は紫に変色していた。
最後の「100」が落ちたとき、風花はうめき声を漏らしながらも、その目線に宿る信念が消えることはなかった。
全身が汗と涙と息で震えながら、風花は小さく笑った。
「これで……ようやく、少しだけ……追いつけたかな」
カナは、そっとその肩にタオルをかけ、囁くように言った。
「ううん、風花。もう――とっくに、私より強いよ」