Act3 イヌイ・タカハシ
視点かわります。
──現実世界で生きますか?
──それとも仮想世界で生きますか?
文明先進国の大半では、十五歳になると誰もが等しく選択をせまられる。
生まれながらに遺伝子異常による患いを抱える者や、十五歳に満たなくとも、事故などで肉体を損傷した者は、仮想世界に移住する権利が与えられた。
そのシステムをつくりあげた最大の功労者は、日本の〈イヌイ・タカハシ〉という男だった。
脳科学者であり医者でもある彼のことを、世間は「英雄」あるいは「救世主」などと称えた。
イヌイ・タカハシの仮想世界移住計画が施行されると、それまで慢性的にかかえていた食糧問題や環境汚染の緩和、自殺者、犯罪までもが目に見えて減っていったのである。絶えずあった国家間の争いも激減し、格差はあるが、人々は平和な治世を謳歌する。
——誰もが幸福を享受できる時代。
仮想世界では、肉体的なことが理由で夢を諦めるようなことはしなくていい。
自由に恋愛もできるし、性を変えることも、子供を産むことも、世界一周どころか宇宙旅行だって思いのままだ。
二度と現実世界に戻ることはできなくとも、天寿をまっとうするまで脳は幸せな夢を視続けることができる。
さらにそれが人類の抱える慢性化した問題の解決につながっているのだから、仮想世界で生きる者たちもまた「英雄」だと讃えられた。
しかし栄華の時代を築いた裏で、イヌイは苦悩を抱えるようになっていった。
「地球の文明レベルはこの半世紀で格段にあがっている。だが人類はどうだ? このさきオレ達の未来はどうなる?」
イヌイが憂うのは人類の「進化」についてだ。
明確に二極化してしまった地球人類は、この先どこに向かっていくのか。未来への展望が描けなかった。
***
西暦2120年。
イヌイ・タカハシ、四十歳。
変わらず仮想世界の管理責任者として働く彼は、天啓のような夢を視る。
(何故、今まで一度も視たことはなかったのに)
それはかつてイヌイが、おのれの半身のように愛した女性の夢だ。儚くなった今でも、想いは褪せることなく胸のなかで佇んでいる。
夢のなかの彼女はひどく悲しげな様子で、イヌイと仮想世界に背を向けると、闇のなかに消えていくのだ。
……ぞっとした。
すべてを否定された気分だった。
何故なら、タダの夢だからと無視することもできないほど、現実世界には異変が起きている。
仮想世界への移住希望者は、年を経るごとに増加傾向にあった。つまり現実世界で夢や希望を描けなくなっているという事実だ。幼き子供すら、仮想世界へいくことを「夢」としてしまっている。
(このまま仮想世界の住人が増え続けたら、世界の均衡は崩壊する。……だが、今さら後戻りはできない)
規則正しく流れだしたものを堰き止めるのは困難だ。
苦しみ喘ぐ人々と、その隣で心を痛める人々のために作り上げた仮想世界。
その根っこにある想いが淡くなっていく。
悲しみに向き合い、傷ついた者に手をさしのべるような美しい精神性も、創造性も、知性も、自然を愛する心すら衰え、失われていくようだった。
その果てに、人類を待つモノはいったい何か。
人口知能ですら予測できない「なにか」が起こる予感がする。膨大な可能性に対してイヌイは備えなければいけないが、今はまだその全貌の欠片も見えない。
もしも取り返しのつかない事態に陥ったとき、その責任をかぶり、償う者としてイヌイという存在は必要になるだろう。
泥を被りたいわけではない。
とにかく答えが知りたい。
良かったのか、それとも間違いだったのか。
(オレは知りたい、未来を──)
イヌイは周囲が止めるのもきかず冷凍冬眠にはいった。因果を知るために。