2-5 水神の祝詞
「モーブ様、しっかり」
声に目を開けると、正座したアヴァロンが、俺を起こしてくれたところだった。どうやら俺は、波打ち際に倒れていたようだ。ぐしょ濡れで、ベイヴィル女将を抱いた形で。
ベイヴィルも瞳を開いた。首を振ると、髪から水が飛ぶ。狼神アルドリーは脇にちょこんと座っている。ゆっくりと尻尾を振りながら。
「俺は……」
顔を起こす。
「気がつきましたね」
アヴァロンの言葉に、周囲が歓声に包まれた。
「どうした」
「アルドリーさんが、ふたりを乗せて泉から上がってきたんだよ」
ランは楽しそうだ。
「スガミは……」
「あそこよ」
マルグレーテが、背後を指差す。
振り返ると泉のちょうど中央に、スガミが立っていた。バレリーナのように、水面につま先立ちで。
「スガミ……いや水神」
水神は微笑んでいた。水草のような優雅なドレスに包まれ、揺れる水色の髪。それに赤い瞳で。堕落水神霊スガミは、神格を取り戻したのだ。水神として。
つと、俺と女将に向かい手を伸ばす。頭の中から声がした。囁くような女神の声が。
『モーブ……それにベイヴィル、吾の殻を砕いてくれて感謝する。吾のあの、凝り固まった呪いの殻を。吾は自らを解放し、水神に戻れた。あれは……』
微かに首を傾げる。
『あれは狼神と絆の業よの。汝等と共に立つ、隻眼の』
『うむ……』
アルドリーの声だ。どうやら俺やベイヴィル女将の心の中でふたり、会話しているようだ。
『余とデュール家祖霊が結んだ、魂の繋がりの』
『これからあんたはどうするんだ、水神』
俺は心で呼び掛けた。
『本来の、東の地に戻るのか』
『いや……』
首を振った。
『この水源を穢した。しばしこの地に留まり、水と土地に祝福を与えようぞ』
『ありがとうございます。水神様』
女将の声だ。
『感謝するのは吾のほうよ。汝のその純真な魂が、吾を動かしたのだ。そこな男と仲ようにな』
『……いえ。モーブ様は旅のお方。私にはこの地を護る定めがあります』
ほっほっと、水神は笑った。脳内だけではなく、現実に笑い声を上げて。
その瞬間──、泉から竜巻のように水が盛り上がり、女神の体を包んだ。と思う間もなく竜巻は霧散した。周囲に清らかな水粒を撒きながら。きらきらと、水粒が陽光を反射した。
水神の姿は掻き消えた。後になにか、節に乗った不思議な言葉を残し。
「水神様……」
呆然とする女将の襟を、狼神アルドリーが咥えた。立ち上がるよう、優しく導いて。
俺も立ち上がった。水粒が水面に落ち、ころころと音を立てる。霧のように細かな水粒はしばらく空中を漂い、陽を受けて虹を作った。
「やったね、モーブ」
ランが抱き着いてきた。
「モーブがやり遂げたんだよ。ベイヴィルさんやアルドリーさんと共に」
「リーナ先生、怪我は……」
「大丈夫。たいしたことなかったし、ランちゃんがすぐ治してくれたよ。……心配してくれてありがとう、モーブくん」
「やっぱり水上からはなにも攻撃できなかったわね」
マルグレーテが、ほっと息を吐いた。
「うむ。今回ばかりはあたしも、なんの助けにもならなかったわい。岸辺で後衛陣を移動させるだけしかできなんだ」
ヴェーヌスは苦笑いだ。
「気合が入っておった分、気が抜けたぞ」
こきこきと、指を鳴らした。
「あれ……最後、なんて言ったんだ、水神は。日本語じゃないよな。謡みたいだったし」
「あれは祝詞です、モーブ様」
アヴァロンが解説してくれた。巫女だからわかるんだろう。
「意味は」
「わかりません。ただ……祝詞だとだけ」
「祝詞だと。女神だからか、祝詞を残したのは」
「そういうことです」
「ニュムはどうだ。お前はアールヴの巫女筋。祝詞ならわかるんじゃないか」
「僕にもわからない」
首を振っている。
「ただ、なにかを祝福する祝詞だよ。それだけはわかった」
「あれはのう……」
口をすぼめると、狼神アルドリーが節を回した。
「──Sugami'thar lunaya nymora el'thalien──。……そう言っておったのよ」
「なんだ神々の言葉かなんかかよ。訳してくれ」
「いいのか。多くの嫁御の前で」
なんだか知らんが、妙に楽しげだ。尻尾をぱたぱたと、高速に振っている。
「構わん。はよ」
「では順に読み解いてやるか……」
ほっと息を吐くと、アルドリーが続けた。
「単語だけ訳すならまず最初が『水神の神威、神の名において』。次の単語が『水の祝福、清き流れ』。次は『魂の絆、流れ』。最後の単語は『融合、永遠の契り』よ」
「わかるようでわからん。まとめろ」
「文章にすれば──水よ、清き契りを讃え、ふたつの魂をひとつに結ばん──。要するにモーブ、お前とベイヴィルの魂の婚姻を水神として認める──ということよ」
「魂の……婚姻」
ベイヴィル女将の顔が、みるみる赤くなった。
「いえ……私は……。それにモーブ様には……多くの嫁御様が……」
「もういいでしょう、ベイヴィル様」
アヴァロンが、そっとベイヴィルの手を取った。落ち着かせるかのように、優しく撫でている。
「ベイヴィル様が最後の晩、祖霊の洞窟でモーブ様と契を持ったのは、わかっていました。そのような……幸せの香りを感じたので」
アヴァロンは獣人ケットシー。嗅覚の鋭さは人間の比ではない。つまり俺と女将のあの関係は、ハナからわかっていたんだな。ただ……これまでみんなには内緒にしていてくれただけで。
「女神に祝福されたなら、仕方ないわね」
腰に手を当てたまま、マルグレーテは首を傾げた。
「ベイヴィルさんは、モーブのお嫁さんよ。それでいいでしょ、みんな」
「もちろん」
「構わん」
「わあ……いいねモーブ。またお嫁さんが増えたよ」
「今さら……」
「歓迎する」
口々に、みんなが祝福してくれる。
「この際、はっきりしましょう」
リーナ先生が、全員を見渡した。
「ゴーゴン孤児院のエリナッソン先生も、モーブくんのお嫁さん。それだって多分……あの孤児院で起こったことだもの」
「いえその……」
慌てたように、エリナッソン先生が首を振った。だが頭の蛇は全員、うんうんと頷いている。
「もうそれでいいよ。あたしお腹減ったし」
レミリアがあくびをひとつした。
「馬車に乗って、リゾートに戻ろうよ。そこでモーブとベイヴィル、エリナッソンは一週間でも1か月でもしっぽりやればいいじゃん。あたしや部族はアルドリーと森で狩りをして楽しむから。いいよね、アルドリー」
「うむ」
アルドリーが、四人エルフを見つめた。
「エルフ各部族と狩りをできるとは、楽しみだ。はるか昔を思い出すぞ」
「決まりですね。私も久々、体を使えます」
カイムも楽しそうだ。
「ダークエルフの業を存分に見せてやろうぞ」
シルフィーもやる気満々だ。
「では余は他の嫁御と友誼を通じておくか」
最新の嫁(候補)、ドラゴンロード(婚姻形態)のルナヴィアが、ヴェーヌスの手を取った。
「よろしく頼むぞ」
「うむ」
いやドラゴンと魔族の友情とか、考えたら笑えるんだが。
「あの……」
こわごわ……といった様子で、ベイヴィルが俺を見つめた。
「よ……よろしいでしょうか、モーブ様」
「ああ。ベイヴィルもエリナッソンも、俺の嫁になってくれ」
「あ……ありがとうございます」
ベイヴィル女将の瞳から、涙がひと筋流れた。
「ゆ……夢のようです」
「私も……でも、ビックルとハックルにからかわれそう」
そりゃ心配だろうな、エリナッソン先生は。あのふたりは悪ガキだし。なんたってランを嫁にしようとしたくらいだからな。俺のことは淫魔扱いだし。
「平気平気。あいつら、リゾート出るときに石化させたじゃないか。俺達が存分に愛し合う間、あいつらはそのままでいいさ」
「いいのかしら……いいわよね……うん、それでいい」
エリナッソン先生の言葉に、みんなが笑い出した。




