8-2 ワラキアの里
「ほら、見えてきた……」
御者席で揺られながら、リーナ先生が、うれしそうに指差す。
「あれが私の故郷、ワラキアの里」
「へえ……」
膝の上に乗せたレミリアを、俺は後ろ抱きにしている。レミリアの髪越し、曲がりくねった山道の先に、ひなびた村が見えてきた。どれも古そうな建物が、寄り添うようにして立ち並んでいる。きちんと整形されたレンガ建てのようで、屋根もしっかり同じ角度が付けられている。田舎……というより都会的だ。
「思ったより近代的ですね。古ぼけているからひなびた感じになってますけど」
「昔はお金があったみたいだからね、ご先祖様。みんな、ソールキンだよ」
「……ちょっとモーブ」
レミリアの息は荒い。
「あんまり手を動かさないでよ」
「いいだろ。嫁と仲良くしてるだけだし」
「あっ……また胸を……」
ぎゅっと手を握って、こらえている。そんな仕草が愛おしい。
「今晩一緒に寝る宣言してただろ」
「なら夜にしてよ」
「予行演習だよ」
「……んっ」
ぷるっと体が震えた。
「そのくらいになさいませ」
やんわりと、横のアヴァロンにたしなめられた。
「それ以上なさるとレミリア、立てなくなりますよ」
「そうだな……悪かった、レミリア」
服の間から手を抜くと首を回させ、レミリアにキスを与える。
「かわいいぞ、レミリア」
「愛してる……モーブ」
一所懸命、俺の舌に応えてくれる。レミリア、かわいいなあ……。
キスを終えるとレミリアは、俺の体に背をぐったりともたせかかってきた。甘えるように。
「ほら。もうみんな出てくるよ」
リーナ先生の声は弾んでいる。
「なにしろ訪問者なんてめったにないからね。私がお婿さんを連れてきたと知ったらもう、大騒ぎになるよ」
「……いえ」
微かに、アヴァロンが眉を寄せる。
「どうでしょうか、それは……」
「なにかあるのか、アヴァロン」
「気配が……少し……」
「おかしいなあ……誰も出てこない」
まだゆっくり走っている馬車から、リーナ先生は飛び降りた。
「モーブ、そこの広場に寄せて。私、先に行くから」
藪をショートカットして、広場へと駆けてゆく。
「危険なのか、アヴァロン」
「いえ、モーブ様。……むしろ安全でしょう」
「どういう意味だ」
「人気がありません」
広場には、枯れた噴水があった。誰か戦士かなんかを象った噴水のモニュメントに、リーナ先生が足を掛けた。そのまま大声で、誰か人の名前を叫んでいる。
「……」
「……」
返事はない。四方にそびえ立つカルパチア山脈に反射して、微かなやまびこが返ってくるだけだ。
リーナ先生の代わりに手綱を取っていたレミリアが、馬車を広場に駐めた。噴水は作動していないが、きれいな水が底に溜まってはいる。真っ先にスレイプニールが水を飲み始めると、いかづち丸やいなづま丸、あかつき号も続いた。
「どういうことだ……」
たしかに奇妙だ。集会所と思しき建物や住居など、建造物は二十かそこら並んでいる。普通この規模ならざわめきがあるはずだし、通りを行き交う人だってそれなりの数いるはずだ。なのに周囲を包んでいるのは静寂だけだ。
「リーナ先生」
「う、うん……」
俺に話し掛けられても気もそぞろ。先生はあちこちを見回している。
「故郷に連絡は」
「手紙で。でもこういう土地だから……」
頬に手を当てた。
「逓信事情が悪くて、届くのに何年もかかったりするから。最近はあんまり……。モーブくんのことは知ってると思う……手紙が届いてさえいれば……だけれど」
顔が曇った。
「でも……誰もいない」
「留守なんだよ、きっと」
ランが、リーナ先生の手を握った。
「みんなでキノコを獲りに行ってるんだ、森の中に」
「それだと……いいのだけれど……」
村全員でキノコ狩り……は考えにくい。ランなりに落ち着かせようとしているんだ。
「少なくとも、何年も放置されていた印象ではないのう」
頭を手で押さえると、ヴェーヌスが首の関節を鳴らした。
「それに襲われた気配もない。最近……流行り病が里に蔓延したとか」
「病人の臭いはしませんね」
アヴァロンが、さりげなくフォローした。
「ああ……どうしよう、モーブくん」
「大丈夫ですよ、リーナ先生」
落ち着かせるため微笑んではみたものの、俺は考えていた。世界を滅ぼしかねない焔が燃えつつあると、のぞみの神殿でカエデは言っていた。俺が未実装のロジックコードを叩いたせいで世界の整合性が崩れつつあると、大賢者アルネ・サクヌッセンムも語っていた。
どちらからも、この地を目指すようにとアドバイスを受けた。この不在が、問題のひとつの表出でなければいいが……。
「……モーブ」
俺の腕を、マルグレーテがそっと取った。俺の言葉を待っている。俺とリーナ先生を取り囲むように、全員が集まってきた。いつもはにゃおにゃおかしましい猫シュレでさえ、黙って顔など洗っている。
「とにかく……調べよう」
俺は決断した。
「幸い、モンスターや山賊に襲われた気配はない。調べれば、不在の理由も判明するはずだ。いつぞやの……幽霊船ラルゲユウス号のときのように」
「稀人、来たれり……か」
背後から声が掛かった。
杖をついた老人が、木陰に立っている。俺達全員の視線を浴びながら。八十歳くらいだろうか。百年前の役人のような服だ。もうぼろぼろではあるが、しっかり繕われており、むしろ年月を経た落ち着きが感じられる。
「長老様……」
リーナ先生が呟く。
「リーナよ、よくぞ戻った」
「あの……私の家族は。それに……みんなは……」
「うむ……」
長く伸びた顎髭を、長老はさすった。
「この里は滅びた」
「そ……んな……」
リーナ先生が絶句すると、のんきな山鳥の啼き声が聞こえてきた。




