エキストラエピソード 養護教諭リーナの夢。もしくは枷。もしくは世界の裏側。
「世界がこんなことになっていたなんて……」
元ヘクトール養護教諭リーナは、ほっと溜息をついた。海岸歓楽都市ポルト・プレイザー。街を出て十日ほどかけた調査を終え、長期滞在型ホテルの小さな自室に戻ったところだ。
アイヴァン学園長とZクラス担任大賢者ゼニスに頼まれて、ヘクトールを出て「羽持ち」と呼ばれる謎の存在を調べてきた。ふと掴んだ噂を頼りに、伝承・伝説を辿りながら海岸沿いを進み、ここポルト・プレイザーで、「羽持ちを直接見たことがある」老人という、決定的な手がかりを掴んだ。
ポルト・プレイザー近在、山奥の寒村に暮らす老人はかなりの高齢で、すでに死の床に就いていた。リーナが訪ねるとそれでも看病の家族を遠ざけ、はるか昔に見聞した「羽持ち」の実態を教えてくれたのだ。残ったわずかな命を削るかのようにして。
「ふう……」
シャワーを浴び、調査で疲れ切った体を、簡素な寝台に横たえた。少し休まないと、倒れてしまいそうだ。
うとうとした。
なにか夢を見た気がする。数か月前、モーブやラン、マルグレーテの卒業試験をサポートしたときのこと。それに子供の頃、勇ましい戦装束を着た祖父を見送ったこと。
あのとき祖父は私になにか言っていた。なんと言われたのかしら……。思い出せない。
とにかく祖父はそれっきり、帰ってこなかった。父親は言っていた。お前は戦いのない世界に生きるのだと。祖父が居なくなって数年経った頃、家をひとりの男が尋ねてきた。祖父の戦友だと言って。ハーフエルフの若者が。それが、ヘクトール学園長アイヴァンとの出会いだった。
「さて……」
ぼんやりした過去の夢から醒めると、リーナは寝台に起き直った。裸に薄手のリゾートウエアだけまとうと、白砂の海岸に出る。ビーチは幅広く、強い七月の日光に打ち寄せる波が輝いている。
リゾート客が、水着姿でそぞろ歩きなどしている。ビーチの端にあるバーに、リーナは顔を出した。
カウンターこそ数席と狭いが、このビーチバーはビーチにテーブルを多数置いている。もちろんパラソルが覆っているので、打ち寄せる波の姿を日陰から楽しむことができる。真夏の海風が、潮気を含んだ爽やかな香りを運んできていた。漁師の魚目当てに、カツオドリが船を追っている。
「いらっしゃいませ、お嬢様」
バーテンの声に迎えられ、海から遠い、バーカウンターに近いテーブルに就く。そこがリーナの定席だった。
「お帰りなさいませ、リーナ様。……長いおでかけでしたね」
しゅっとした、いかにもモテそうな若者が、テーブルに名物の炭酸鉱水のグラスを置いてくれる。
「ありがとう、オーウィー」
「山はいかがでした。……たしかなにかの調査でしたか」
「のんびりした、いいところよ」
適当にごまかしておく。このビーチにいると、この世には「幸福」という駒しかないように思える。でも世界の裏に不思議な世界が広がっていることを、今の自分は確信している。
「ねえオーウィー、ペンと紙を貸してもらえるかしら」
「おや……」
バーテンは微笑んだ。
「これは殿方への恋文ですな」
「そんなんじゃないわよ」
「リーナ様の付け文をもらえる殿方がうらやましいですね。どのようなお方でしょう」
脳裏にモーブの笑顔が一瞬浮かんだのを、リーナは塗り潰した。
「はい、こちらでございます。恋文用に、かわいい紙を厳選致しました」
細かな花柄が型押しになった薄桃色の便箋を、置いていってくれた。
「かわいい紙ねえ……たしかに。花の香りまで着けてあるじゃない。……学園長に勘違いされたりして」
軽口と共に香り高い炭酸鉱水をひとくち味わうと、リーナは紙にペンを走らせ始めた。
「さて、早くアイヴァン様にご報告しなくては……」
学園長や大賢者ゼニスに頼まれたのは、「羽持ち」と呼ばれる存在の調査だ。彼らは馬の一頭が羽持ちだろうと看破していた。それがいかづち丸であることを告げると、頷いていた。いかづち丸は迷い馬。おそらく誰かに送り込まれたのだろうと。
彼らの話では、「羽持ち」とは特異な能力を持つ存在で、古来、稀に観察されてきたという。「羽持ち」が噂になる時代というのは、おおむね不吉な時代らしい。戦乱や原因不明の謎の大天災、そういう事象が発生する前後に、目撃されるというから。
いかづち丸が羽持ちとして学園に送り込まれたのなら、そこには明確に誰かの意図がある――。それがふたりの見方だった。戦乱も天災も、できれば避けたい。だからそれ――羽持ち――について調べてほしいと、命じられたのだ。学園を離れて。
「アイヴァン様は、私の気持ちに気づいていたのかも……」
入学試験でモーブと知り合い、細かな学園クエストをこなしていくうちに、自分がモーブに強く惹かれていったことを……。
ランやマルグレーテと共に、モーブを囲んで楽しく旅をしたいと、何度願ったことだろう。しかし学園生同然の年齢とはいえ、自分は教師。学園生への気持ちは、隠し通さないとならない。それに……自分には王室からの「借り」がある。祖父が戦で大きな働きをしたとかで、一家は手厚く保護されてきた。父も母も働くことを免除され、過大な年金を与えられた。というか働こうとすると反対され、自宅で寛いでいろと勧められた。保護は徹底しており、監視と言えるほど厳重なものだった。
自分が十六歳になり、祖霊の祝福を受ける成人のイニシエーションを終えたとき、またアイヴァンが尋ねてきた。彼自身こそ微笑んでいたが、鋭い瞳の王室の参謀が何人も、背後に控えていた記憶がある。アイヴァンは言った。リーナよ、王立冒険者学園ヘクトールに奉職せよ。それが王家の命だと。これまでの保護もあり、嫌も応もなかった……。
とはいえ修行に励む学園生の姿は美しかったし、傍で見るのは楽しかった。だから自分も楽しく仕事ができた。モーブが入学してからは、さらにもっとずっと楽しく……。
「いけない」
我に返った。ペンが止まり、頭の中のモーブの姿ばかり追っていた。
「ちゃんと仕事をしなくては……」
ここまで書いた部分を読み返してみた。
「羽持ち」は、アイヴァンや大賢者ゼニスが考えていた以上の存在だった。調査の端々で羽持ちの噂を手繰り、自分なりの「羽持ち」像を作ってきた。だが死の床にある老人が語った話は、そうした想像をはるかに超える、驚くべきものだった。
なにしろ古来、不思議な力を持つ人物が、この世界では稀に登場するというのだ。魔力が高いとか、そういうレベルの話ではない。誰も知らない力を使うという。そしてその人物の周囲には決まって、「羽持ち」と呼ばれる存在が見え隠れすると。
「羽持ち」は人間とは限らない。人間だったり、テイムしたモンスターだったり、家族同然の動物だったり……。とにかくその存在は、「不思議な力の人物」が危機に陥ると、幻の羽を広げて、その人物を助ける。
「不思議な力の……男の子、か」
自分の知る限り、「羽持ち」だったいかづち丸の周囲に、「不思議な力を持つ人物」は、たったひとりしかいない。もちろん、入試のときから異様な力を発揮した、モーブ。彼ただひとりだ。つまりモーブこそ、何十年ぶりだか百年ぶりだかにこの世界に登場した、台風の目のような存在ということだ。
「そして……アルネ・サクヌッセンムね……」
その老人は、若いときに、そうした不思議な力の人物と一時行動を共にしていた。ある晩、酔った彼に教えてもらったらしい。自分は、アルネ・サクヌッセンムという名の大賢者と会った。そうして二体の「羽持ち」を直接授けられた、守護者として。――そう、彼は告げたという。
その二体の「羽持ち」はと尋ねると、「もう死んだ。自分の代わりに」と、悲しげに言い捨てたそうだ。「だから次に戦うときに、自分は死ぬであろう」と。
「いかづち丸がアルネ・サクヌッセンムと関係しているのだったら、モーブくんがなにかの諍いや戦乱に巻き込まれるかも……」
そうなったらどうしよう……。学園長への手紙には、その点を特に強調しておく。
「でもきっと大丈夫。私が守ってあげるもの。安心してね、モーブくん」
「羽持ち」とアルネ・サクヌッセンムの関係を、アイヴァンもゼニスも口にしなかった。卒業試験ダンジョンに「アルネ・サクヌッセンム」銘の宝箱があったことは、自分が教えた。そのときも特に「羽持ち」の話にはならなかった。
「つまり、羽持ちとアルネ・サクヌッセンムとの関係は、アイヴァン様もゼニス様もご存知ないのね……」
手早く筆を走らせると、オーウィーにもらったこれまたかわいい封筒に手紙を収め、ヘクトールの宛名を認めた。
「ごちそうさま」
請求書に部屋付けのサインを残すと、席を立った。
「手紙、出してくる」
「それなら私どもが手続き致しますが」
オーウィーが、微かに首を曲げてみせた。
「いいのよ。……それにちょっと、大事な連絡だから」
「おやおや」
笑っている。
「これはますます、その殿方がうやらましいですな」
「違うって言ってるでしょ」
軽口と共にバーを出た。手に封筒を持ったまま、リゾート外れの逓信処へと向かう。
「さて、これで私の調査も終わり。アイヴァン様の返事を頂いたら、今度こそモーブくんを追わないと」
ダメだと思っていても、心が浮き立つのを止めることはできなかった。
「モーブくん、マルグレーテちゃんのご実家にしばらく逗留するって言ってたわよね。そっちに向かおうかな……」
それともいっそのこと、このリゾートに招待しちゃおうか。ここならエリク家領地から、一直線に飛ばせば馬でひと月もかからないし……。
「まあ、どちらにしろ楽しみだわ。せっかくだから、ここでかわいい服、買っておこうっと。モーブくんが私のことも好きになってくれるように。……少し年上だって大丈夫だよね。モーブくんは今……十六歳、私は十八歳。このくらいの年の差カップル、普通だし」
リーナは、ほっと熱い息を吐いた。ランもマルグレーテも、モーブを独占しようとは思わないタイプだ。それに自分を含めた四人は、友情で固く結ばれている。それはあの卒業試験ダンジョンで、よくわかっていた。
「だから絶対大丈夫だよね、うん。四人で仲良く歩いているところ、簡単に想像できるもん」
浮き立つような足取りで、リーナはビーチの道を歩いていった。背後に女がひとり、気配を消すようにしてついてくることも気づかずに。




