【深緑の魔女】 3
「まじでか」
行きよりも二割増しで地を踏み鳴らし、そそくさと帰っていく後姿を見つつ、バタークッキーを摘まむ。
確かに薬は渡した。
けれどその効能はあくまでも「自身の感情を高める」だ。お互い愛し合っていれば最終到達点は変わらないはず。だからこれでいい。
彼に限ってそんなことは無いと思うけれど、万一不埒な輩に渡ったら事だ。
(倫理に反することはしない)
力があるからこそ、その線引きは厳格でなければならない。私の中で魔女イコール悪ではないのだ。
クッキーが舌の上でほろりと崩れる。次いでミルクのあまみが唾液に溶け、バターの芳醇な香りが鼻を通り過ぎる。昔食べていたものとは異なる、ただただ素材の風味がするだけの、無骨な味。
でも、これが故郷の味だ。
耳を澄ましても、辺りには誰もいない。当然だ、自分は深緑の魔女なのだから。
部屋奥にどっしりと構えている大鍋から、プクプクと泡が弾ける音がしていた。
この国は一年の間の内、約半分が春っぽい気候である。パステルカラー色の花が咲き乱れ、どこに居てもフローラルな香りがする。霜が降りる時期もあるけれど、大体ひと月位で終わってしまう、非常に過ごしやすい気候だ。
そんなおとぎ話な場所の片隅に、【深緑の魔女】は居る。
何度も言うけれど、私は日本出身だ。
だから、この世界では異邦人である。
もしかしたら地球上のどこかにあるのかもしれないけれど、考えても意味がない。そんなことをしても私は還れない。
バタークッキーを摘まみ、口に含む。
本当の【深緑の魔女】を思い出す。
そもそもの発端は、前任の【魔女】が犯した失敗だった。
彼女こそ本来の意味で魔女であった。植物や自然の知識に精通し、動物も含めこの世のあらゆるものを使って様々な薬を作り、摩訶不思議な力を持って不可能を可能にする、ひとならざるものだった。
彼女によって私は≪使い魔≫として召喚されたのだ。
タダのヒトである私は、はじめこそ彼女を責めたけれど、すぐ気持ちに整理がついた。
私がここにきてしまったのを、誰よりも悔やみ絶望したのは魔女だった。どんなになじっても、泣きわめいても彼女は全てを受け止めた。
そして、泣いていた。
皺皺の手で顔を覆いぼろぼろと大粒の涙をこぼし、
『すまない』
『大変な事をしてしまった』
『でも、どう詫びたらよいかわからない』
『還す方法は知らない』
私が悪いのだ、申し訳ない。ごめんなさい。ごめんさい。ごめんなさい。
額を地面に擦り付け、震えていた。激昂する私の前で、小さな身体をさらにちいさくさせて数えきれないくらい、何度も謝った。
「なんでもする」と彼女は言った。「私の全てをもって、あなたを守る」と。
だから、ここにいてくれないかと。
私に選択肢などなかった。
同居生活が始まると、彼女への怒りは水に触れた角砂糖のように、さらさらと消えていった。
実際言葉の通りこの世界で生きる全てを教えてくれたし、何の力も持たない私に寄り添い、ひとつひとつ丁寧に教えてくれた。すさんでいだ心は真綿にくるみ優しく撫でてくれた。
そしてたまに、寝る前にひとり泣いていた。
涙の意味は直ぐに分かった。
魔女は何だってできた。でも、孤独だったのだ。
私が【庶民派】なら、彼女は【泣き虫】な魔女だった。
口下手な性格も相成って、常連客はいても、友人は居ないようだった。
魔法を使うとエネルギーが減るのだろう、日に日に弱る身体に鞭打ち働いていた。不器用な手つきで私を育てつつ、どこか距離を測りかねているような、どこまで近づいたらいいのか分からないような顔をよくしていた。
生涯口にする事は無かった。でも、態度が言っていたのだ。『私が居て嬉しい』と。
ひとりが二人になることが、どれだけ生活の支えになるのか。ひとりを怖がるその気持ちは、痛いほどよくわかった。
だから私はいつも、彼女の隣で今日会ったちいさな出来事を面白おかしく話すようにしていた。とっくに成人しているのにやっていることは幼子だ。俯瞰でみたら痛い行為なのはわかっている。それでも、私たちにはそれが必要だった。一秒も惜しい、私は彼女と家族になりたかった。
月夜の晩、部屋の隅で、闇に溶けたまま私の名を呼ぶ声は、とても細かった。
でも、ある夜お決まりの「すまない」に、「ありがとう」が加わった。
私も布団の中で泣いたのを覚えている。
そんなせつなくもこそばゆい日は、そう長くは続かなかった。此処に着て何度目かの寒い季節に彼女が他界したのだ。寿命だった。
私は彼女から【魔女】を引き継いだ。
恨んではいない、とは言い切れない。でも今、私が前を向いているのは先代のおかげに他ならない。彼女は死ぬ前に、自身の命を賭して魔法を授けてくれていた。一子相伝のはずの、ひとならざる力をだ。いろいろ思う所はあるけれど、これは彼女の置き土産なのだと思っている。
私の純日本人然とした容姿はこの国では異質だけれど、魔女だからの一言で片づけられている。ありがたいことだ。
さて、私は彼女からもうひとつ与えられたものがある。
茨の呪いだ。
もう一枚クッキーを摘まむ。
(いつかはプリンとか作りたいな)
私には魔法があるから出来ないものはないし、幸い魔女業は儲かる。生活に困る事なんてない。
……一つのこと以外は。
左胸がざらざらとした音を立てる。視線を扉に向け辺りに人の気配がない事を確認してからローブを脱ぐ。真っ白に漂白されたブラウスのボタンを上から三つほど外すと、左胸元に入れ墨が彫られていた。薔薇の花のまわりに棘がびっしりとついた茨が巻き付いている、こぶし大のそれ。じっと見つめていると、うぞうぞと微妙に動いているのがわかる。まるで生きているみたいだ。吐き気さえする。
この入れ墨は、彼女が亡くなった直後に浮かび上がった。その瞬間から私は魔法を使えるようになった。先代の様子から、魔法は生命力がエネルギーになるのだろうと言う事は察せられたので、これが力の源になるのだろう。実際、使うたびに疲れるので、間違いない。
茨の呪いは、いわばオートガードのようなものだ。
私に危害が及ばないように、危機を察知したら発動する。何もない空間から幅20cm近い茨が現れて、対象を威嚇する。
問題は、危機察知の制度が良すぎるところ、つまり【無意識下でも発動する】ところだ。
(茨の呪い)
あんなに優しかった先代が何故呪いを遺して行ったのか。未だにわからない。
それにしても、今日は客人が多い。
こちらに向かって来る気配を感じ、手早く身なりを整える。
狼狽えている暇はない。
すれ違いで入って来たのは常連さんだ。笑顔を浮かべて迎え入れ、いつもの薬を棚から取り出し、両手で包み込み力を籠める。
痛みが治ります様に、と魔力を込めればわずかに血の気が引く感覚と、左胸に不快感が走った。
いつもの感覚が今はひどく憎らしい。先ほどの騎士様の後姿が瞼の裏に移った。
(集中しろ、接客中だ)
気合い入れだと腹にちからを込めて、再度意識を集中する。
数秒立ってから瞼を開き、品物を相手の目に滑らせた。常連客は御礼を言って、代金を金属トレイに置いてくれる。
手が触れ合うことは無い。
「ありがとうございました。お大事にしてください」
立ち上がりお辞儀をして、客を送り出す。そのまま服越しに胸を見た。そこは明らかにピクピクと収縮し、僅かに痙攣をおこしていた。
下唇を噛むと、また茨が浮かび上がる。黙ったままそれを睨みつけていれば、あざ笑うかのように左腕を締め付け始める。
お前は誰にも触れられないのだと、茨がいう。じくじくとした痛みは左腕を通り、心臓に伝わる。
痛い。でもこれだけは何をしても、どんな魔法を使っても解けない。
魔女は今日も薄暗い森で薬を売る。願えばなんでも叶う第二の生活は気楽だし何不自由ないけれど、少しむなしい。