番外 狼が走っても追いかけなくても良い
時系列的には、二章と三章の間くらい。狼がどこに走って行こうと大丈夫だと分かる前の話。
教訓:狼が走っても追いかけなくても良い。こうしてビアンカは学んだ。
ビアンカが庭に出るきっかけは、ほとんどと言っていいほど狼だ。
自分からは外に出る気配のないビアンカを心配してか何か。特に銀毛の狼が率先して、外をしきりに示したりして、外に出ようと誘ってくれているような行動をする。
それにより、ビアンカはデューベルハイトに許可を取ってから、アリスと共に外に出る。
出る外は決まって夜。
空を仰げば、月が出ているため、完全なる黒ではない夜空が広がる。城内であれば未だしも、庭には灯りはないので、見上げた空の輝きはいつでも綺麗だ。
空を見上げていると、ドレス越しにふわふわとしたものが通った。見下ろすと、身を擦りつけてきたのは銀毛の狼……かと思ったら、茶の毛の狼だった。
「起きたのですね」
「バウ」
良い返事である。
部屋から出るときは床に横たわって寝ていたから、わざわざ起こすのは申し訳なく、銀毛の狼とだけ出てきたのだけれど、やって来たようだった。
茶毛の狼の頭を撫でると、少しだけ前にいた銀毛の狼が振り向いていることに気がついた。
まるで後から来た茶毛の狼を待つように立ち止まっているので、そこまで行くとビアンカも立ち止まることになる。
合流した狼たちはというと、鼻面を突き合わせてふんふんと匂いでも嗅いでいるのだろうか。――と、ビアンカは狼同士のコミュニケーションを眺めていたのだが。
「えっ」
いきなり、茶の毛の狼が銀毛の狼に飛びかかった。
何事。ビアンカは無意識に、一歩後退る。
飛びかかられて下になった銀毛の狼が大きく口を開き、上から乗しかかる茶毛の狼も口を開いて、鋭い歯が除く。
「あ、アリスさん。これは、大丈夫でしょうか」
びっくりしながら隣にいるアリスにすがると、アリスは何でもないように「大丈夫ですよ、ただの喧嘩か遊びでじゃれあっているだけですから!」と答えた。
(喧嘩か、遊びなのですか、これが……)
争い始めたようにしか見えない。
ビアンカは、ごろりと反転して、上下が入れ替わった狼たちを、戦々恐々して見つめるばかりだ。
止めなくてもいいのだろうか。
狼の尖った歯を見ていると、流血沙汰が頭に過ってくるので、おろおろとする。
「ガウ!」
「バウ!」
「あっ」
一旦取っ組み合っている状態が無くなったかと思うと、今度は威勢よく吠え合って急に走り出した。
あっと思ったときには、足の速い狼たちはそこにはいなくて、急激に遠ざかり、早くもビアンカの視力ではあっという間に宵闇に溶けていきそうだ。
行ってしまう。
こんなことは一度もなかったことで、ビアンカは焦った。追いかけなければ、と、とっさに思って走り出そうとした。
──思えば、元から彼らは離してあるわけで、本当にどこかに行ってしまう心配はしなくてもいいはずだった。それに、追いかけようと思っても、ビアンカの足で追いつけようはずもない。
直前まで取っ組み合っていた二頭なだけに、止めなければならないと思考が働いたにしろ――普段走ることも滅多にないのに、急に走り出そうとしたビアンカは。
結果として、転んだ。
三歩も行かない内に、何もないはずの地面に躓いて、地面に飛び込んだ。
「お、お姫様!?」
気がついたときには、視界は地面でいっぱい。
ビアンカ自身が転んだと理解するより早く、驚きに満ちたアリスの声が聞こえた。
「大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫です……」
無様にも地面に伏したビアンカを起こしてくれたアリスにどうにか返事したけれど、突発的に鼓動が激しく打ちはじめて、まだ収まりをみせない。
それでも転んだ事実を理解して、地面から立ち上がろうとすると、恥ずかしさで俯く視界にぬっと鼻面が入ってきた。
「ガウちゃん……?」
いつの間にか銀毛の狼が戻ってきて、転んだビアンカを見つめていた。
「大丈夫ですよ、ガウちゃん」
どことなく心配してくれているような気がして言ったが、銀毛の狼はその鼻でビアンカのドレスの裾をもぞもぞとやりはじめた。
何をしているのですか?
「……あ」
「ち、血が出てます!」
銀毛の狼が鼻でずらしたドレスの裾。露になった膝の有り様。
アリスが悲鳴混じりの声を出した。
当のビアンカは、自分の体なのに、見えた血に他人のものを見ている気分だった。
それはつかの間、見てはじめて膝の痛みを自覚し、さらに、転んだときに地面についた手のひらもじんじんと痛むことに気がついた。
「中に入ってすぐに手当てしましょう!」
呆然と膝と手のひらを見ているうちにアリスに抱き抱えられて、あれよあれよという間に城の中へと舞い戻っていた。
ビアンカの怪我を目にした侍女の吸血鬼たちは、揃って赤い目を見開き、直後一斉に動きはじめた。
包帯だ、薬だ、先に傷を洗わなければならないから水を、布を……。
手当ては数分で終わった。
「ありがとうございます、アリスさん。……ドレスを汚してしまい、すみません……」
「そんなこといいんですよ! それよりこの傷が無事に治ってくれればいいんですけど……」
転んでドレスを汚したばかりか、怪我もしてしまった。怪我はそれほど深くなかったので、その内治るだろう。しかしドレスの汚れは大丈夫だろうか、と遠い目をするビアンカ。
手当てをして、傷が覆われている膝の辺りを見つめるアリス。
「ちょっと行き来が慌ただしい気がしたんだけど、どうかした?」
落ち着きを取り戻した室内に入ってきたのは、フリッツ。
どうやら数分の、素早くも忙しない動きに気がついて、疑問に思ったらしい。
源らしきビアンカの部屋の様子を窺いにきたようだ。
ただし、部屋の中に入っても、もう手当ての道具一式はない。
椅子に座るビアンカも、膝はドレスで隠れ、少し擦りむいていた手のひらも膝の上に重ねているので一見すると分からない。はず。
けれども、他の侍女やビアンカの側に膝をついていたアリスが立ち上がって何か言う前に、なぜか辺りを見渡したフリッツが言う。
「誰か、怪我した?」
出来れば知られない方向がいいと思っていたビアンカは驚きに目を染めて、フリッツを凝視する。
フリッツの方は歩いて来ながら、宙を見渡している――否、空気の匂いを鼻で嗅いでいる。
「それにしても吸血鬼の血の匂いっぽくないなー。狼、でもなさそうだし…………」
そこで、目が合った。
吸血鬼の鼻は良い。
場合によっては狼よりも良いそうで、ビアンカには分からない匂いの違いを嗅ぎとったフリッツは、ビアンカの前で立ち止まった。
「お姫様ですか?」
「な、何がでしょう」
「怪我したんですか?」
「…………はい」
「怪我、したんですか?」
「……少し、だけですが」
なぜに二度聞いたのか。それに、たちまち真顔になったではないか。
さらにフリッツは問いを重ねる。
「どういう経緯で」
「その……」
転んだ、という事実の恥ずかしさ。
しかしフリッツが真剣な表情をしているため、口を開かざるを得ない。
「庭で、転びました」
どうぞこの歳で転んだ事実を笑って下さい。と言いたいくらいのビアンカに対して、経緯を聞いたフリッツは「転んだ」と復唱してから、ほっとしたような表情に変化した。
「転んだんですか、良くないけど良かったー。いや良くないか……」
すぐに思案するようにぶつぶつと呟き、ちらりとビアンカを見る。
「アリス、お姫様の怪我の程度は」
「手のひらはすり傷ですが、膝の方はそれよりも少し深いです」
「傷は残りそうなもの?」
「残しません!」
「まあ致命傷ほどでなければ、大丈夫か。……陛下が気がつくとすれば、今日は就寝時くらいかな」
陛下、という言葉にビアンカははっとした。
「ふ、フリッツさま」
「はい」
「デューさまに、言ってしまわれるのでしょうか……?」
デューベルハイトに、転んだばかりか怪我をしたという淑女にあるまじきことを知られるのは、避けたい気持ちがある。
転んだことは初めてでではないが、それは別。回数を重ねるのは恥ずかしい。
おずおずと見上げると、フリッツはあっさりと首を横に振る。
「いえ、私は言いませんけど。ほら、膝は隠れても、手のひらの手当ては見えるでしょうから気がつきますよ」
と言われて、ビアンカは左手手のひらの死守を心に誓った。見られなければいいのだ。
ぎゅっと手を握るビアンカの前で、
「……と言うよりこの部屋からはすぐに血の匂いは消えても、傷がある限り些細な血の匂いはあるはずだから……お姫様のことに関しては陛下なら気がつきそう……」
とフリッツが呟いていた。
そして、今日ばかりは幸いと言うべきかデューベルハイトの仕事の都合で夕食はビアンカ一人で摂ったので、問題の就寝時。
寝衣は膝下まで覆う長さだから、問題ない。左手も、握って下に向けているから問題ない。
やって来たデューベルハイトも、フリッツのように部屋を見回したりしなかったからちょっとほっとする。
お風呂にも入ったから、大丈夫なのだろうか。
しかし、いつものように抱き上げられたときだった。
扉の方に歩き出そうとせず、デューベルハイトが動きを止めた。
見ると、彼はビアンカをじっと見ており、ビアンカの方は見つめられて、顔が赤くなるようなどきどきと、手のひらに汗が滲むようなどきどきが入り交じる。
別に大したことを隠しているわけでなないが、隠していることがあるからか。これが後ろめたいというものか。
美しい赤の眼でビアンカを見つめていたデューベルハイトは、にわかに、整った顔をビアンカに近づけた。
「……ん」
首に顔を埋められて、触れた自分のものではない体温と擽ったさに、微かに声が漏れた。
「違うな」
直に耳に入り込んだ声と共に吐き出された息が、肌をくすぐる。かかった息の熱は数秒で、首に近づいていた顔が離れると無くなる。
デューベルハイトの顔が見えるようになり、彼はビアンカをその目で捉える。
心なしか抱き上げている腕の力が強まったと感じて、近い距離がもっと近くなった気がしたデューベルハイトが間近で口を開き、言う。
「血の匂いがする」
と。
瞬間、ビアンカの心臓はまさにドキリッとした。
「なぜだ?」
自分の感覚に疑いを持たないデューベルハイトの視線に射抜かれ、目を逸らせないビアンカは、無意識に左手にぎゅっと力を入れた。
刹那、左手が掴まれて、息が止まるかと思った。
片腕一つでビアンカを支え、目を逸らさずに左手を掴んだデューベルハイトの手が、ビアンカの小さな手を絡めとり、手のひらを開かせる。
手当ての部分をなぞる指が擽ったくて、背筋に震えが走りそうでもある。
そのとき初めてデューベルハイトはビアンカの目から視線を外し、捕まえた左手を一瞥。手当てを目にする。
「この手はどうした」
明らかに怪我をしたときに施されるものを前に、問われる。
「ビアンカ、なぜこうなっている」
戻された視線にも問われ、ビアンカは、隠そうと思っていた自分の浅はかさを知った。
「に、庭で……」
「庭で、何だ」
「……転びました……」
転んだ事実を白状したとたん、やはり恥ずかしさが込み上げてきた。転びました。転んだのです。
顔を覆ってしまいたい気持ちに駆られるが、未だ左手は掴まれたままで、右手も動かせる雰囲気ではない。
懸命に恥ずかしさに耐えながら、デューベルハイトを見つめる。
「転んだのか」
「はい……」
確認されることの恥ずかしさときたら。
デューベルハイトは、ビアンカが思っていた呆れたような反応は示さず、手当てされた手のひらをまた見ると、手のひらに口づけるように顔を近づけた。
「これだけではないだろう。他にどこを怪我した」
手のひらが離されたかと思うと指摘されて、胸を撫で下ろしていたビアンカはびっくりする。
「あの、膝を、少しだけ」
もう隠すことは出来なさそうで、転んだことも白状してしまった後でもあり明かすと、直ぐ様衣服の裾を上げられ、別の意味でびっくりした。
こんなところで。
きょろきょろと周りを見ても、いるのはちょっと遠巻きにこちらを見守っている侍女ばかりで、デューベルハイトと一緒に来たはずのフリッツはいなかった。
良かった。
良かった、のだろうか。目を戻すと、裾を上げた脚をデューベルハイトが見ているから、頬が熱くなる。
さらに手のひらと同じく手当てされた膝を手が滑り、脚を撫でる感触と光景に、ビアンカの顔は真っ赤だ。
ビアンカが限界を迎える前に手は裾を戻して離れてくれたけれど、代わりに戻された目に、赤く染まった顔を見られてしまうことになった。
真っ赤な顔をしたビアンカを見たデューベルハイトはそんなことはお構い無しに、僅かに顔を傾むけて、ビアンカに口づけた。
「お前はもう少し気をつけて行動しろ」
「はぃ」
支えていた腕とは別の腕でもビアンカの体を囲い直したデューベルハイトは、寝室へと向かうべく、ようやく歩きはじめた。




