番外 銀世界が灯す温度
あと一話で話数的にきりがいいなと思い続けていた結果の後出し番外。
八頭いる狼の中でのボスは黒毛の狼であるらしい。
城にいる狼たちの出身の森やその中でも細かい位置――小さな森ならば未だしも大きな森であれば狼の群れの一つや二つ、縄張りも複数あるのだろう――はほとんどばらばらであるそうだ。
ほとんど、というのも誰も詳細を覚えておらず、わざわざ記録していることもないので曖昧なのだ。
しかし現実城に連れて来られた彼らは一つの群れを構成しているように見える。全員ボス級の大きさに思える中でも、確かによくよく観察するに黒毛の狼は一際大きな身体を持っている。……から、ビアンカだってこの狼がボスなのではないかと薄々勘づいてはいたのだけれど。
(……重いです……)
ビアンカはその黒毛の狼にのし掛かられていた。
背中に乗る圧倒的な重量に為す術がないビアンカは冷たい雪に伏す。手にはめた黒い革手袋はこうなってしまえばなおさら防寒の役目は果たさずに、一枚越しに冷たさが伝わってきて雪に濡れはしないが手が冷えていく。
冷たい。
――雪が降った。
ブルディオグ帝国は人間のビアンカからすると普段からして寒いことを考えると、もっと寒い時期が来るとどうなるのか想像は難くなかった。もっと寒くなって、寒くなった結果雪が降ってもおかしくはないのだ。
こんな風に。
場所は帝国の首都の城を離れた小さな森。ビアンカが以前来たことのある、あまり良い思い出のない森とは別の森だ。
倒れ込んだ場所は一面、雪が少なくともビアンカの身体が埋まるくらいには積もり、真っ白。
視界も真っ白。
冷たさがなければ、というよりこんな風に雪に突っ込むことがなければ白銀の世界を楽しめたかもしれないが、如何せん頬に伝わる温度が低い。
ビアンカは呆気なく倒され何事かと混乱していた側なりに、我に返って一度頑張ってみることにした。最初に考えることは起きなければ、ということで身を起こそうと手に力を入れてみる……と、顔とちょっと胸が上がるくらいで移動もできない。一通り身を捩ってみてすぐに力尽きてしまった。
チラリ、と横目で窺ってみた上では黒毛の狼に堂々たる様子で見下ろされたのでさっと目を逸らす。駄目だ、意志疎通できる気がしない。
狼の鋭い視線に負けてちょっと待っても、かの狼が退く気配はなし。悲しい。
(……重いのですが……退いてくれないのですね……)
そもそも滅多に外出しないビアンカがこの森に来ているのには、デューベルハイトの趣味であるらしい狩りについてきたという理由がある。
けれどもまあビアンカに狩りは出来ない。森に来て馬から降ろされると、何やら話しはじめた吸血鬼たちから少しばかり離れたところで、雪を転げ回った銀毛の狼の毛皮からせっせと雪を払っている最中に事は起きた。
背中からとんでもない重量に襲われたのである。
前にいた銀毛の狼を巻き添えにしなかったことは良かった。
しかし時間が経てば経つほど――実際には数分であろうが――冷たいに加えてのし掛かっている狼が重すぎてとても苦しい。さっき無駄にあがいてみたせいでもっと苦しくなった。腹の底から押し潰された酷い声が出そう。
「え!? お、お姫様が消えた!?」
どうにもアリスからはビアンカの姿が突如消えたように見えていると推測できる言葉が慌てた声の様子で聞こえた。雪に埋もれているせいか、黒毛の狼で見えていないのか。あるいはどちらとものせいかもしれない。
悲鳴もなく倒れたので、忽然と消えたようになっていると思われる。
「こ、」
ここです……とビアンカは声を上げて知らせたいのは山々なのに、肺が圧迫されていて上手く声が出せない。酷い声さえも出なくて、白い息がそれに代わった。
さすがに危機感を抱く。自力脱出なんて試みずに最初に助けを求めればよかった。その時なら声くらい出たかもしれないのに。
と、後悔してももう遅い。
このままはあり得ないにしても、それほど長い時間は経たずにアリスが気がついてくれるか、銀毛の狼が吠えて知らせてくれるか……巻き込まれなかった銀毛の狼はビアンカの身につけているマントを噛んで引っ張り出そうとしてくれていた。
しかし努力実らず若干ずれたのみ。
黒毛の狼がそれほど重い証拠だ。かといって全ての原因である黒毛の狼が退く可能性はあまり信用できない。さっきから動く気配は感じられず、獣特有の息づかいだけが聞こえるような。いつ、降りてくれるのかはさっぱり分からない。
この狼はビアンカに何か恨みでもあるのだろうか。
途方に暮れて、あまり関わったことがないはずの黒毛の狼との記憶を掘り出そうと思考が動いてきた。冷たさに身を侵食されてきているからといって、断じて走馬灯のように死に際に駆け巡るあれではない。
「へ、陛下! お、お姫様が!」
(――こ、ここにいます……!)
どうしようもなくうつ伏せていると、顔は見えずとも明らかに動揺しているアリスがなんとデューベルハイトを呼ぶ声が聞こえたではないか。
ここで焦るのは雪に埋もれて行方不明中 (アリスからは)のビアンカだ。びっくりしてわずかに顔を上げて、すぐそこにいるだけだからデューベルハイトを呼ぶまでしなくとも、と思ってもやはり伝えることは叶わない。
……助かるのであれば何だっていいような気がしてくる。じわじわと冷たさが顔から手から全身から伝わり、染みてくるように感じられているから。
帝国に来て以来最大装備の厚い布地のドレスの上にモコモコのマント、履いたブーツもこうなれば足りないらしい。
容赦なく雪に包まれているから無理もない。体温が奪われていく感覚とはこういうものなのだ。
普段にない体勢で頑張って顔を上げる気力も直ぐに尽き、元通りに雪についてしまった頬の感覚が曖昧になってきた。
冷たい。寒い。
「――クウーン」
「……!?」
上から威勢のない情けない声が聞こえてぼんやりと不思議に思っていると、ビアンカはいきなり圧迫感から解放された。同時に急に難なく息を吸えるようになってむせそうになる。
「……は、ぁ」
ずっと重さで圧迫されていたことで、胸が少々軋むように痛む。骨が折れたとか予想できそうな激しい痛みではないので一時的なものだろう。
何はともあれ自由になった呼吸を存分にしていたビアンカは起き上がれることにも気がついて、のろのろと手をついて身を起こそうとする。が、自分で起き上がる前に身体は雪の中から浮いて、服についていた雪が眼下にぱらぱらと落ちて見えなくなった。
広くなった視界の端では退けられたらしき黒毛の狼に銀毛の狼が飛びかかっていた。ただのじゃれ合いならいいのだけれど……と白い世界に転がり消えていく彼らの行方を最後まで追うことはできなかった。それくらいあっという間に消えていった。
「お前は少し目を離した間に何をしている」
息も絶え絶えで雪に埋まらされていたビアンカを助け出してくれたのは、デューベルハイトだった。アリスの呼びかけに応じ、ビアンカを探しだしてくれたのだ。
眉間に皺が刻まれたデューベルハイトと顔を合わせて、
「も、申し訳ありません」
そのまま抱き上げられたビアンカは手間をかけたことに謝った。
そのビアンカの顔を長い指が掠めてついていた雪をさらっていく。続けて豪快に雪の中に伏していた名残の、髪に絡まった雪も払う。
雪に埋もれていたことでついた雪を払ってくれている。
遅れて気がついて、なんと、デューベルハイトにそんなことをさせるわけにはいかない。と可能な限り身を引きながら、ビアンカは彼の手が伸ばされている頭に自分の手をやる。
「動くな」
いきなり動いたビアンカを咎める声を出したデューベルハイトの指を、掬われたままだった亜麻色の髪が一房滑る。
「じ、自分でしますので」
「大人しくしていろ」
「ですが、デューさまにしていただくわけに……」
「聞こえなかったか」
「……」
動かず、大人しくしています。
ビアンカの弱々しい抵抗は脆くも崩れ去り、言われた通り大人しく雪を払ってもらうがままになる。
身体は少しとして動かないようにしながらも、視線をさ迷わせていると、デューベルハイトの肩越しにアリスの姿を見つけた。後ろにはフリッツの姿があって、なぜかアリスの口を塞いでいる。どうしたというのか、と異様な光景を見ていると、冷えた身体が不意にぷるりと震える。
雪に冷やされたことが原因だろう、急に強い寒気がやって来た。
「寒いか」
視線を戻すと、ビアンカが震えたことに気がついたデューベルハイトが手のひらをビアンカの頬に触れさせる。雪が直接触れていた頬は冷えすぎていたのかもしれない、触れたデューベルハイトの手がとても温かく感じた。思わず染み入る温かさを与える手に頬を委ねると、頬から温かさが行き渡る錯覚を覚える。
「冷たいな」
本来ある温かみの失せた頬に手を這わせたデューベルハイトが呟いたかと思うと、
「……ぁ」
もう片方の頬に触れた唇も、冷えているからか余計に熱く感じられた。
景色を染める色とは異なる鮮烈な色が遠ざかる。デューベルハイトの指が顎先を撫でたのを最後に離れ、その手で周りを毛皮で縁取られているフードをすっぽり被せられて、ビアンカの赤く染まった顔はフードの影に隠れた。
抱き身体を支えてくれる腕とは別の腕が身体に巻き付き、体温を分け与えるように強く抱き締められた。
目的が狩りなので、デューベルハイトは狩りのとき専用の服装をしている。
とは言えど、ビアンカのように特に防寒しているとは言えない格好に見える。彼のみならず他の吸血鬼たちも装いの防寒度にはそれほど変化は見られず、薄いローブを身につけていることくらいが変わったところ。
彼らは、雪が降るほどの気候になろうとも寒くないようだった。慣れた結果か吸血鬼の身体の造りか気になる。
ビアンカは、再度デューベルハイトの馬に一緒に乗って森を進んでいた。
森に不規則に生える針葉樹も雪によって白く染まり、下も雪が一面に積もっているから陽の光が当たっていればきらきらと光ったのではないだろうか。ただし現在夜、空には星が輝き月に照らされた雪は不思議な色味を浮かび上がらせている。
「こんなに積もるのですね 」
吐く度息が白く、ビアンカは呟いた。
「この辺りはな。お前の祖国でも雪は降っただろう、積もらなかったのか」
「雪は、降っていたとは覚えているのですが……」
積もった、だろうか。
寒かった記憶はある。部屋も寒かったけれど書庫も寒くて、そんな寒い時期はあまり部屋から出なかった気がする。
ああでも、と雪が多少積もっていたことを遅れて思い出した。ビアンカにとっては寒くて冷たそうなものに過ぎなかったから、肩掛けを羽織って窓越しに見つめたことを。
「……これほど積もったところを見たのは、初めてです」
小さく、それだけを伝えた。
祖国の城や帝国の城にも積もっていた量よりも多い雪。こんな中で雪を踏みしめたことも初めてだったし、雪の中に埋もれたことも初めてだった。
「あの、狩りは始められないのですか?」
それよりも、ビアンカを乗せて森を進んでいるのはどうしたことなのか。狩りをするのならビアンカは邪魔ではないか。
「狩りを始めるとお前から目を離さなくてはいけないからな。お前は目を離すとどうなるか予測が出来ん」
「じ、じっとしています。あの、ちゃんと」
「動かなくともどうかなるだろう。先ほどのように」
反論の言葉がない。
元々ビアンカはそんなにうろうろする質ではないのだ。つまりはビアンカはそれほど動かないのに、なぜにか『どうかなる』。今日も、さっきの狼の件以前に実は雪に足を取られて転びかけたことを思い出したビアンカは『そんなことはない』と伝えようとしていた目を微妙に逸らした。
「もちろんここへは狩りをするために来た。狩りはする」
そのために来たのだから当たり前。
そうだろう、その間ビアンカは絶対にじっとしているのだ。……じっとしていると寒そうだとさっきの体験から思ってしまう。
寒いから、それもあるけれどデューベルハイトとこうしていられることが温かさで実感して、もう少しこうしていられるといいなとも思う。
「だが今は、お前とこうしている方がいい」
「陛下、着きましたー」
着いた? 落ちてきた言葉に、彼を仰ぎかけたビアンカは周りが静かだったところにフリッツの声がかけられて、下とデューベルハイトにしか向けていなかった目を前へ向ける。
向けた目を、大きく見開いた。
「――ここ、は」
星空が地上に降りてきたようだと思った。
森を進んだ先、木々がない開けた場所に広がった光景に目を奪われている間に止まった馬から下ろされて、デューベルハイトに抱き上げられても、目が離せないでいた。
「湖だ」
森の生き物たちの水場だろうか。
湖だと短く正体を明かされた場所は、さしずめ周りを白い雪に覆われた地面で囲まれた舞台のようだった。
水が凍って張ったと思われる透き通った氷に月光で照らされる輝きたち、星空が映り込み、星空になった氷から白い花が生えて咲いている。
そこだけに空が降りてきたかのような夢のみたいな光景は何なのだろう。ビアンカはこんなにも美しい景色を見たことがない。
「あれはこの時期には『雪の花』と言われる花です。冬になると湖には氷が張るんですが、その前に湖の底から生えていた花が凍ります。さらに降った雪が全て花に吸い込まれるようにしてつくので『雪の花』、張った氷には雪は積もらずにこんな光景が出来上がるというわけです。……ごゆっくりー」
フリッツがさらりと解説を残してザクザクと去っていく。
湖が凍る以前から咲く花が、寒くなって湖の水が凍るとともに凍った。雪が降ると花が今度はその雪を身に纏い、結果、雪は氷には積もらない。雪の花とはなんとぴったりな名前なのだろう、雪を纏える時期にだけ見られる花ということ。
それにしてもこんなにも氷が透き通るものなのか。まるで鏡のように遥かに離れた星空を映し、雪の花と共にこの世離れした幻想的な光景を生み出している。
「……綺麗……」
綺麗だけでは称え尽くせない。
無意識に溢れた言葉にため息が混ざった。
「私は何度か通りかかることしかしなかったが、気に入ったか」
ビアンカとは異なり淡白な様子のデューベルハイト。
はい、とビアンカは返事をした。
「こんなに素敵なところがあるのですね」
ビアンカが出てこなかった、自分ではあまり出ようとしない外にはこのように美しいところがある。
本のどんなに工夫の凝らされた挿し絵にも出せない、現実にしかない光景と言えるだろう。
他に余計な灯りがないからこそ、特に大きな月の夜、木々がなく月光を十分に取り入れられる場所にある湖はきらきらと、もしかすると頭上に実際に広がる星空よりも美しく輝く。本物の星空にはない儚げな花が、雪を纏う身に淡く月光を灯す。
この場所はこの光景を、この時期に生み出すためにあるのではないかとビアンカは思った。
いつまでも見ていられる気がして、事実時を忘れ瞬きも忘れながら目の前を見ていた。
「ビアンカ」
「はい」
見たことのない幻想的な光景に見入っていると呼ばれて、はじめて引きつけられていた視線を動かせる。抱き上げてくれているデューベルハイトを見ると、前に広がるこの上ないほどの光景があるのにも関わらず、ずっとビアンカを見ていたような瞳があった。
淡く、触れてしまえば消えてしまいそうな雪の花とは正反対の強い色。吸血鬼の中でもデューベルハイトしか出せないと感じる色。
いつも見ているはずの目に引き寄せられていたビアンカは、はた、と思考が及ぶ。
狩りを始めずに、ビアンカを馬に乗せて来た場所。「着きました」とここに向かうために進めていたと思われるフリッツの言葉。あったのは、単にビアンカが待っていられそうな湖の畔ではなく、美しすぎる場所だ。
デューベルハイトはここを見せるために、狩りをする前に連れて来てくれたのではないかという考えが生まれて、それは正しいのかどうかは分からなかった。
ビアンカが口を開いて洩らした白い息を塞ぐように唇が重なったから。
――初めて埋もれた雪は冷たかった。それに時刻は夜で、一人でここにいたならばきっと周りの木々の奥に潜む暗闇に怯えるばかりだったろうという環境。
けれどデューベルハイトの側にいるから周りの暗さは気にならず、雪は寒いばかりではないとも知った。側にいると、もっと温かい。
舞台裏。
狩りに行く森を決めるとき。
「あの森には綺麗な湖がありましたよね、お姫様が見れば喜ぶかもしれませんね」
フリッツが狩りができない、馬が乗れないビアンカのことを考えに考えた結果の提案。
特にこだわりがなかったデューベルハイト、即決。




