8 帝国の城
着いたのは帝国。港からまた馬で旅してようやく着いたのが、首都である。
その国の名を「ブルディオグ帝国」、吸血鬼が治め大陸を順調に手中に収めていっている王の根城は、ビアンカのいた城よりも大きく見えた。
城を見上げたついでに目に入った空は、まだ姿は見えないものの太陽が昇りはじめているらしく、遠くの空は薄く明さを帯びていた。
***
城に着いて一番にビアンカはどこへ連れて行かれるのかと思ったら、お風呂に放り込まれていた。
服を剥ぎ取ったのはアリスではなく、お仕着せらしき制服を着た、これまた瞳の色からして吸血鬼たちだった。
目配せし合い手際よく服を剥ぎビアンカを浴室に放り込んだ彼女たちは、逃げる隙が見られず女性とは思えない力だった。
見知らぬ人、もとい吸血鬼たちに裸に剥かれてごしごしと磨かれる間、ビアンカは小刻みに震えていた。
旅の汚れを落とすためとは理解できるが、こうまでやってもらわなくともできます。
そうしてごしごしばしゃりと磨かれお湯で流され、お湯に浸からされたのち布で丹念に拭かれ、素早く上から衣服を着せられ、髪をより丹念に拭かれ櫛を入れられ……一つの部屋に放り込まれた。
身に起きていったことが目まぐるしすぎた。
背を押されて来た部屋に一人立ち尽くして、忙しなく部屋内をきょろきょろする。
部屋の中に目についたのは、まずはくつろげるソファーが二つ、一人掛けも一つありその前にテーブルがゆったりと備えられている。
それらを始めとして、広い部屋の中にあるもの全て、壁紙やちょっとした調度品に至るまで、立派に輝いて見えてビアンカは隅に後ずさった。
落ち着かない。
軍艦内の部屋でさえも祖国のビアンカの部屋より立派な雰囲気だったのに、広さだけでも何倍単位で質素な要素がなくきらきらしている。
身につけさせられた衣服もすべすべしていて、ドレスではなくなぜかシンプルな寝衣のようだったが、肌触りが心もとなく思える。
一体これはどうしたことだろう。放りこまれる部屋を間違えられたのでは? そもそもビアンカは誰かと間違えられたのでは?
「ここです。――あれ? まだお風呂なのかもしれませんね」
扉が開いた。
隅っこにいるビアンカからは扉を開けた人物の姿は見えず、焦げ茶の扉しか見えない。でも、おそらく聞いたことのある声だ。
何やら誰かと話しながらその人物は部屋の中に入ってきて、扉が軋む音もなく閉まっていった。
「そこにいるぞ」
「え? あ、本当ですね。お姫様は隅が好きなんですか?」
入ってきたのは、白金と金の髪をした吸血鬼たち。
隅にいるビアンカに笑って尋ねたフリッツは軍服めいた服装ではなくなり、ビアンカの印象では政務に関わる者の服装になっていた。
思えば吸血鬼の王の姿ある近くに必ずいるように思えるので、彼は側近の類いなのかもしれない。
一方の白金の髪がますます輝き増したと見える吸血鬼の王は、黒いズボンと飾り気のないシャツのみの格好だった。
今から寝るのだろうか。
「いえ、あの、この部屋が落ち着かなくて……」
「使い慣れた部屋ではありませんからね、そればっかりはすみません。その内慣れますよ」
「そ、そうではなくてですね、広すぎて落ち着かないと言いますか……」
「広すぎて? あ、陛下」
アリスの次に話すことができる吸血鬼と意志疎通を図っていると、その後ろから王が進んでくる。
見るからに自分の方に来るので何事か、とビアンカが思っていると、見たことのある腕の伸ばされる様子が目に映り、ヒョイと抱き上げられた。
「……え、……あ、あああの」
その上どこかに連れて行かれようとしている。
「あ、開けます」
扉が開けられ、なぜに部屋の外へ。やはり部屋が間違えていたのか。それにしては王自ら運んでくれますか。
抱き上げられているため身動きをピタリと止め、ビアンカは目を白黒させる。
「あのー陛下」
少しだけ歩き、別の扉の中へ入ったところで、フリッツが王に尋ねる。
「お姫様も連れて行かれるんですか?」
「そうだが」
「いやあさすがに狼とは勝手が違うので女の子だし寝るときは別の方がいいんじゃないかなーと私は思うわけですが」
(寝る……? とはどういうことでしょうか)
聞き捨ててはならない言葉が聞こえた気がした。
ビアンカは、移ってきてもやはり豪華な印象の部屋を進む腕の持ち主の傍らを行くフリッツに目を向ける。
ちらっと目が合ってにこりと微笑まれる。違う。微笑みがほしいのではなくて、詳しく聞きたかっただけですが。
「私が連れて帰って来たのだから、一緒に寝ようが私の勝手だろう?」
一旦足を止めて言う王の声は、本気で不思議そうに聞こえた。
――だから寝るとは何ですか。
寝る。
ビアンカはそこで自身を見下ろしてみた。さっき確認した衣服、上質な生地で作られたそれはデザインからして寝衣みたい……と思わなかっただろうか。
タラリと汗が内心伝ったのは、嫌な予感がしたから。王の服装が軽いな、今から寝るのだろうかと思わなかっただろうか。
ビアンカを挟んで交わされている会話の中に出てくる「寝る」とは、何だろうか。
「たぶんそのために連れて帰ってこられたのだろうなーということは私も分かっていますけど……あはは」
今のところ一番心を許せるアリスもいない今、助け船と化すフリッツにすがる目を向ける。頑張ってほしい。
「…………そういう意味で襲われることはないので安心してくださいね」
こそっと言われて、ようやく事態を飲み込んでいたところだったビアンカは急激に青ざめる。
襲われる。それはどういう意味で。文字通り殺されるとかいう心配はないという意味でとってもいいのだろうか。それとも別の……?
「え、……う、嘘ですよね?」
「理解が早くて助かります。一回目を乗り越えればそうでもないと思いますよ」
「そうでも……って」
「では私は寝る」
(誰か教えて……じゃなくて助けてくださいいいぃ)
「あはは、悲壮感溢れる顔してますねー。けどごめんなさい。――おやすみなさいませー」
最後は王の手で扉が開けられ、こうなっては全力ですがりたかった後ろのフリッツの姿はパタンとの音と共に消えた。
もう少し頑張ってほしかった。
扉が閉まり、壁に窓はない部屋は真っ暗と言って差し支えないほどに暗い。静かな部屋、密室で二人の空間での歩みはすぐに止まり、ビアンカは床ではない何かの上に下ろされた。
尻がついた瞬間どこまでも沈み込んでいく錯覚を感じたくらいふかふかな――――ベッドの上だった。むき出しの脚に触れたシーツがこれもまたすべすべだとか何とかいうのはもういい。
ベッドは大きかった。そして一つだった。
ビアンカが下ろされてすぐに近くが沈んだことを感じとり、それだけで精神的に無意識の部分から危機感を覚えた。
なぜにベッドが一つで、吸血鬼の王は自分を連れてきて、さらに同じベッドに。距離がほしくて後ずさろうとすると、ビアンカはベッドに引き倒された。
全身が沈み、悲鳴がすぐそこまで出かかってとっさに唇を引き結んだときには抱きしめられていた。
逃がさないように腰に腕が回され、退路は断たれ、移動中に抱き上げられていたときの比ではなく身体が全体的に密着する。
ドレスのときより薄い生地越しに回る腕の感触。抱き寄せられて逞しい胸板に押しつけられた上半身と頬に、シャツ越しにその体温がまざまざと感じられて、耳に首に吐かれた熱い息がかかった――ところでビアンカの意識は飛んだ。