番外 返り討ち
ある日の昼下がり。
起きている時刻はいつだって夜であるためぽかぽか陽気には恵まれないが、元々そんなことは気にかからないビアンカは図書館から私室へ戻る途中。
「あ、お姫様」
金髪輝くフリッツに会い、声をかけられた。すれ違うだけなら挨拶のみのところを、どうも何か用事があるらしく歩み寄って来るのでビアンカも足を止める。
「お知らせしたいことが」
「何でしょうか?」
「今日はお一人で眠っていただくことになるかもしれません」
「……そう、なのですか」
デューベルハイトは忙しいのかもしれない、とビアンカはフリッツの言葉に前にも数度同じことがあったので大まかに推測する。それは彼が一国ならず複数の国を統治下に置く王である以上仕方のないことだ。
しかし一人か、と帝国に来てから数えるほどしか一人で眠りにつくことはなくなったビアンカは残念に思っている自分に気がつき、それを振り払うべく首を振る。はしたない。
「お姫様どうかしましたか?」
「い、いえお気になさらず……デューさまはお忙しいのですね、分かりました」
「そうですね、ちょっとしたことがありまして今日は少しその対応に」
ちょっとしたこと? と少し気にかかる言い方なので内心首をかしげていると、それがフリッツには伝わったらしい。
「陛下が撃たれました」
答えてくれたが、息が止まるどころか心臓が凍りついたかと思えた。
耳鳴りに似た高い音が耳に生まれ、聞こえ、他の音が遠ざかる。
「誰がそんなことを!」
「謁見途中だった他国の使者だよ。小型の銃を持ってて……まったく身体検査を厳しくしてもらわないと、厳罰ものだ。まさかそんなこと予期していなかったし驚いたよ」
憤然とした声を上げたのはビアンカが図書館に行くのについてきてくれていたアリス。アリスの言葉にやれやれという風に応じたのはフリッツ。
二人のやりとりがビアンカの耳には入って回って通り抜ける。
デューベルハイトが撃たれた、などという信じられないことを聞いた気がする。
けれども憤然とした様子のアリスも、まったく……といった様子のフリッツも当のデューベルハイトの容態には触れないではないか。
逸れて怪我はないということなのだろうか、でも「撃たれた」だから撃たれたことに間違いはないのでは。様々な事が頭を駆け巡り、堪えきれずフリッツに訊ねる。
「あの、でゅ、デューさまは、だ、大事ないのでしょうか……?」
「陛下ですか? 陛下はぴんぴんしていますよ?」
「で、ですが撃たれたのですよね?」
「ただの銃くらいでは大した怪我にはなりませんから」
銃くらい? 言い方に引っかかりを覚えていると話題のわりににこやかなフリッツが未だビアンカの知らない吸血鬼についての事実を明かす。
「銃では吸血鬼の身体は貫けないので。まあ個人差はありますけど、陛下に大きなダメージを与えられるはずはないわけなんです。帝国製の剣ならまだしも高位の吸血鬼の身体を貫くほどの銃は現在の技術では作ることはまだまだ不可能でして、大砲くらいなら分かりませんけど」
「よく、あることなのですか……?」
「まさかー。暗殺者系は久しぶりです」
暗殺者系以外に何があるのか気になるけれど、とにかく動揺が収まらない。
吸血鬼の身体の作りが強靭であるのはうっすら知っているのだがはじめの心配は一度してしまえば消えず、本当に大丈夫なのだろうかと落ち着かないまま。
自分の目で確かめたい気持ちも逸るが、フリッツの様子ではきっと大丈夫なのだろう、と無理矢理に自分を納得させる努力を――
「あ」
心配だけの百面相をしているビアンカを見ていたフリッツは突如短い声を出した。
心を宥めていたビアンカはビクッと心持ち身体が跳ねた。次は何事か。これ以上は心臓が抱えきれないとおそるおそるフリッツを見上げる。
と、フリッツは首を傾げてこう言うではないか。
「お姫様、陛下にちょっと手当て受けてほしいですなんて言ってくれたりします?」
「わたしがですか……?」
「はい、傷が全くつかないということでもないので手当てくらいは受けてほしいんですけどね、当の陛下は必要ないの一点張りで。ぜひ、お願いします」
果たしてビアンカが言って変わりがあるのだろうか。
***
そもそものところデューベルハイトの立場を考えると暗殺者を送り込まれてもおかしくはない。それなのに一日中護衛がついていないことの方が異常。
「当たったはずなのに全然反応がなかったときの顔は何とも言えないものでしたよ。避けられるより衝撃が大きかったでしょうねー」
あはは、とのんきに笑うフリッツについて王の執務室のすぐそこまで来ているビアンカは心中複雑なもの。色々な意味で。
今の話し方ではやろうと思えば銃の弾でさえ避けられるというのだろうか、そうだとするのならデューベルハイトは避けようとはしなかったのか。
「傷は見てはいませんがかすり傷程度だと思うんですよね。ですが、傷の大きさが問題ではなくてですねー」
フリッツの手で扉が開かれ、執務室内の声が洩れてくる。
「完全に単独犯のようですが、如何様に致しますか」
「使者を選定するに関わった者たちから全て処罰しろ」
「通達致します。捕らえた者はすぐに」
「国自体の処遇はその後だ」
不穏なやり取りである。
ビアンカが今入っても良いのか疑問しか感じない空気で出直した方が良いのではとしり込みしかけるが、フリッツが構わず促してくるので足音を忍ばせて入ると、話を終えたのか執務にいた吸血鬼たちが入れ替わりに部屋を後にする。
執務机の前から彼らがいなくなったことで声だけが聞こえていたデューベルハイトの姿、すぐにこちらに気がつく。
「陛下、やはり手当ての方を受けてもらいたいんですが」
フリッツが前置きなしに話を切り出した。
「必要ない」
間髪入れずに却下。
「その話はもう終わった」
彼の中では終わった話を何度もすることが嫌いらしいデューベルハイトは言外にその話を出すことを禁じる空気を醸し出している。
この流れは大丈夫なのか、とビアンカがフリッツをそっと窺うと、そのときは突然やって来た。
「ですがお姫様が心配してますよ、ねーお姫様?」
「は、はい」
「些細な傷とはいえ毒とか塗られていたり仕込まれていたなら大変じゃないですか」
「ど、毒……!?」
聞き捨てならないことをサラリと口にしたフリッツを見上げたビアンカはぎょっとしてすぐさま顔ごとデューベルハイトへ向ける。しかし顔を合わせたデューベルハイトはこれにも表情を変えず問題ないと言う。
「人間が使用する毒など大したものはない。現に影響はない」
「ただ吸血鬼にも効く毒は希少なりともあるので入手できていた可能は否定しきれませんから。陛下に万が一何かあれば大変なことですし、心配ですよねーお姫様」
「はい、し、心配です……」
二度目の同意を求める言葉がわざとらしいことには気がつかず、ビアンカは言った。
デューベルハイトには何も変わった様子は見られないし毒のこともよく知らないが、毒であれば見た目に出ずとも体内から身体に何らかの影響を与えてしまうのではないか。
ビアンカは気がかりに顔を曇らせ、フリッツに言われたこともあるが何ともない様子を目にしているはずなのに不安要素が濃くなったことで自分の意思で言葉が口に上ってくる。
「手当てを、お受けにはならないのですか……?」
その様子にデューベルハイトが首を傾けた。サラ、と白金の髪が揺れる。
「受けて欲しいのか」
「はぃ」
デューベルハイトが一度決めたことを曲げないことは知っているけれど、ビアンカはおずおずともう一度頷いた。
余計な世話だと思われやしないだろうかとも思うが、後から何かあったと思うと気が気ではなかった。デューベルハイトが弱ったりする光景は全然想像できないけれど、可能性はゼロではないということ。
ビアンカの返事を聞いたはずのデューベルハイトはしばらくビアンカのことを見たまま動かなかった。何かを考えているように見えなくもない。表情は動かないので思考は読み取れないのだ。
ゆえにビアンカもビアンカでじっとデューベルハイトを窺い続けていると、おもむろにデューベルハイトが動き、立ち上がった。
執務机を回りビアンカとの距離が縮まっていく……ということは彼が明らかにビアンカに近づいて来ていることを示すわけで。
「お姫様、説得できたら教えてください」
同じく黙っていた横からそんな言葉が聞こえてきたものだから、とっさにフリッツの方を見るとこそっと言い落とすだけ言い落としたフリッツは出ていくところだった。
なぜに。
ここからビアンカはどうすれば。
デューベルハイトは怒ったのだろうか。
何となく無言で近づく気配にそんな考えが過ってそちらを向くのにちょっとした勇気を有していたら、気がついたら抱き上げられていた。
そして、執務机に備えられた椅子にデューベルハイトが戻ったよう、だった。
すっかりどの部屋においても定位置となった膝の上に鎮座したビアンカはデューベルハイトの顔をそっと見る。
「……ん」
探さずとも合った赤い瞳がもっと近くなっていると思ったときには唇に重なるものがあって、すぐに離れる。
とっさに閉じた目を開けると至近距離に宝石よりも美しい輝きを秘めた赤い瞳。
「お前から口づけするのなら手当てを受けてもいい」
「……え」
思わなかった言葉。
なんと手当てを受けてもいいと言ってけれたではないか。だがしかし、その直前についた条件が上手く聞こえなかったような。
いや、聞こえたには聞こえた。
――ビアンカから口づけするのなら。
理解した途端に頬が勝手に熱を生みはじめた。
「え、あ、え……わ、わたしが、ですか……」
「そうだ」
聞き間違えではなかった。
手を伸ばせば届く位置にいるどころか密着しているデューベルハイトが何ということなしに肯定するものなのでビアンカの頭の中は現在パニックだ。
さっきまでは気がかりでいっぱいだったはずなのに。そう、デューベルハイトが撃たれて小さいといえども傷があると思われて、もしも弾に毒が含まれていたとすれば万が一の大事が否定しきれない。
だからそのさっきまで手当てをいらないと突っぱねていたデューベルハイトが手当てを受けると言うのであれば良いことで、しかしそのためにはビアンカから口づけしなけれはならないという条件が降って湧いてきたからパニックだ。
普段デューベルハイトからの口づけは受ける。未だに慣れるということはなくて、見つめられただけでも顔と言わず身体までも熱くなってくるからむしろ重症化の一途である。でも決して嫌ではない。嫌なはずはない。
嬉しい、とふと感じることもあるのだから。
では何が問題か。
たった一つ。
ビアンカ『から』口づけ。
なぜにこのような条件が。
目の前のデューベルハイトの口許にある笑みがよくよく見ると面白そうなそれに見えるのは思い込みであろうか。顔の熱さからして真っ赤になっていると自分でも分かるビアンカの頬をデューベルハイトの指が擽る。
「私が心配なのだろう?」
「そ、それはもちろんなのですが……っ」
途中で顔がまた接近してきて、言われたことが言われたことだけにとっさに引きかけた身体は回った腕によって引けることもなく、顔が顔の横に。頬と頬が触れ、擦れ、息が耳にかかり息を詰める先に耳を甘噛みされた。
鋭い歯は柔らかな耳を傷つけることはせず絶妙な加減で身を震わせる感覚を及ぼしてくる。
「私は一向にこのままで構わんが、どうする」
そのままの位置で、唇が耳に触れたまま声が言った。
このままとは傷のことかこの状態のことか。
「どうする」
耳から熱さがなくなり前に現れた顔は、近い。
少しだけ、ビアンカが顔を近づければきっと唇同士が触れあってしまうほど。
少しだけ。
触れたら。
ビアンカはデューベルハイトのことが好きだから、口づけするのは別におかしいことではない。今まではデューベルハイトがしてくる頻度が高くて、そんな考えも及ばなかったけれど。デューベルハイトから言っているので触れても問題ない。
邪魔をしているのは羞恥だから、羞恥を乗り越えれば。
混乱の極みの中視線は触れるか触れまいかのとんでもなく大きな選択になっている対象の唇しかほぼ映していない。思考も視界もある種の極限状態。
ただこの時点で無意識にも道は一つしか浮かんでいなかった。他の道を探すということも、考えつかなかった。
そして、ついにそのときはやって来たのだ。
どれほどの時が経ったのか気にする余裕が微塵もないビアンカはともかくデューベルハイトがどのくらいじっとしていたのか、おそらく短くはなかった時間を経てようやく。
突然。
ビアンカは自分の中の、必死に宥めていた心に隙が生まれたことを自分のことながら感じて、その瞬間力一杯目を瞑り顔を近づけ――――触れた。
微かながらに唇に柔らかな感触が伝わり、そのことに驚き離した。
目を開けると、激しく打つ鼓動と熱い頬を感じながらも、確かにやり遂げた実感でいっぱいで自分がしたことに倍以上の恥ずかしさが返ってきながらもデューベルハイトを確かめる、と。
「足りると思うか」
勇気を振り絞ったのに泣きそうである。
どうにもビアンカにとってはやり遂げた実感溢れた口づけであったとしても実に一瞬軽く触れた、とのそれがお気に召さなかったようで。
精一杯なのに、ともう一回はどれほどの時間を有するかと情けない顔をしていると首に片腕が回り、引き寄せられて唇が重なる。
ビアンカがしたようにすぐに離れるのではなく、しっかりと合わさった唇はありありとその感触が伝わるもの。
「あれで許してやるが、お前のその顔を見せられてはもっと足りない」
隙を縫って半ば強引に割って入ってきた舌により深い口づけになだれこむ。
ビアンカがした赤ん坊にするようなちょんと触れる軽いものではなくて、全部食べつくされてしまいそうな口づけ。
「……ふ……ぅ」
ビアンカの意識も感覚も全部持っていかれて、全て支配される。
曖昧になって与えられるままに答えることに精一杯の中、口の中をなぞる舌は甘いような気がした。
「約束は守ろう。手当ては受ける」
説得できたにしろ出来なかったにしろ外にいるフリッツにすぐに教えることは出来なかった。
色んな意味で返り討ち。
本編後の予告では番外は二話で本来であればここで終わり、だったのですが……なぜか増える可能性が出てきて、結果増えました。最終的に何やかんやありあと四話できたわけですが、それらはここまでの番外と異なり話が繋がっています。
ということであと四話、番外続きます。本編と同じく長引くこととなりました……。