番外 刺繍教室
番外というか本編後の話、後日談、はじめます。もうしばしお付き合いいただけると幸いです。
ビアンカの心はしくしく泣いていた。
ソファーではなく位置の高いテーブルの側の椅子に座るビアンカの手元には無地の白のハンカチ……否、布がある。四隅の一角に縫いつけられた青色の糸がガタガタと線が飛び出ている、いくら見方を変えようといかな模様にも見えない歪な塊がある布。
心の目で見ても分かりようがない塊と化したこれの当初の完成図は簡単な花だったのだ。その、はずだった。
(布と糸を無駄にしてしまったのではないでしょうか……)
力が入って握りすぎてよれよれになったハンカチを見つめるビアンカの目はどこか遠くを見ているように、視界には定まっていない。言えば、現実逃避。
今日は私室にて新たな試みをしはじめた日だった。
普段は一日、読んでも読んでも尽きる様子は見られない本を読み狼と戯れるというほとんど変わりのない過ごし方をしているビアンカ。
そのビアンカがなんと刺繍に挑戦しはじめたのが二時間前、教えてくれるのはすでに腕前が職人の領域だというアリス。しかしそれはビアンカにとって苦戦の始まり――との言い方は別に言い過ぎではない。
刺繍を習っていると、前に少しだけ予期していた事が案の定発覚した。ビアンカは刺繍の素質が壊滅的になかったのである、と、いうよりも不器用で細かい作業がまるでできないということは以前花冠を作ったときに発覚していたのだが、そんなものは可愛いものだったのだ。
今や見るに耐えない有り様が広がっていた。
白い布に咲くはずだった花はどこにも見当たらず隅にあるのは青い『何か』、そうとしか言いようがない。図案があったはずなのに花びらの形は形成されなかった。
アリスの教え方が悪かったのではない。花冠のときもそうだったが、アリスの教え方は分かりやすく同時進行で実際にするところもゆっくりと動きを見せてくれる。ビアンカも説明を聞いているときは納得して理解するのだ。なるほど、そうするのだな、と。
だが実際に自分でやろうとすると思うようにならないのが現状というだけで……一番の原因でもある。図案があったはずなのに、ともう一度思う。なにゆえにこうなったのか、懸命に針を刺して改めて見たらこうなっていた。
慎重にやり過ぎるほどやり過ぎているので針を指で刺していないことが唯一の救いかもしれない。些細すぎる。
「……」
「お姫様?」
「……アリスさん」
手を止めてハンカチをじっと見たきり止まっていると、隣の椅子に座っているアリスに呼びかけられたのでビアンカはとても暗い声で呼びかけ返した。
視界には何度見ても、むしろ改めて見る度に不出来すぎる刺繍。
出した結論を述べる。
「わたしには向いていないようです……」
「そんなことないですよ!」
即座に力一杯否定をもらうものの、実は刺繍はまだ途中なのにこの先完成までに改善される未来が見えてこない。
これでは「そんなこと」もあると思う。最初にしても散々すぎると思うのは悲観も過ぎることはなく、妥当な判断にしか思えない。
しかしどんよりと見上げたアリスは熱弁。
「これからいっぱい練習すると上手になります! 私もたくさん練習しましたから!」
最初は上手くできないもの、練習を重ねれば慣れてきて上手くなる。
あまりに力強く力説されるので、どんよりしていたビアンカはそうだろうか、とちょっと思う。
ビアンカだって上達したくないわけではもちろんない。単に途中仮定ですでにあんまりな腕前に自分で絶望してがっかりした。これでは向いていないのは確実だ、と。
テーブルの上、アリスの前には同じ大きさの白いハンカチにお手本そのものの橙の花が咲いている。色は違えど同じ図案から出来たもので、ビアンカも当初は同じ花の青色版を予定していた。
ああなれるのだろうか。なに、ビアンカのショールに刺されている濃淡まで細かく見事で本物にさえ見える花々をとまでとの贅沢は言わない。けれども、せめて最低限のレベルを身につけられるようにはなるだろうか。
望みが低いかもしれないが、今日発覚した状態では目標としては妥当だと思われる。
「そう、ですね」
はじめに絶望して止めてしまうのはもったいない、時間はあるのだから。
それにここから上達していけるように頑張ろうと目標が出来て良いことなのかもしれない。
そう思って言うと、アリスは嬉しそうに笑顔を弾けさせた。
「今日は今日のもので取っておきましょうね!」
「え、でも、こんな有り様で……」
「最初に縫ったものですから!」
それに毎回とっておけば上達具合も分かるのだとアリスは言った。
その通りかもしれない。刺繍の成長記みたいなものか。
どうやらこの散々な第一号もとって置かれることに決まり何だか隅に隠して置きたい気するけれど、ではひとまずは完成に向かわせなければならない。
どんな形であれまだ途中なのだから最後まで出来る限り花に近づけられるよう精一杯やってみることにしよう。
ビアンカは静かに意気込んで針を取り布に刺――
「刺繍か」
え。と反射的に振り向いた後ろにはいつの間にか音もなく誰かが立っていたではないか。それは。
「デューさ……っ」
手元をそのままによそ見不注意指に一刺し。証拠に痛みが走り息が詰まり声が詰まった。
「お姫様?」
「な、何でもありません」
やってしまったことは目にせずにどうしたのかとのアリスの問いかけに、ほぼ無意識に全てをさっと隠す。刺繍の面は下に、痛む指はハンカチの下にハンカチにもドレスにも触れないように間に隠した。
刺繍を隠したのはもちろん――側に来ていたデューベルハイトに刺繍の有り様を思い出してこんなものを見せられるはずがないと身体が動いたのだ。
斯くして普段より何倍も俊敏に複数の事を行ったビアンカは今のところ驚きから跳ねる心臓を押さえ、改めてデューベルハイトを見上げる。刺繍の惨状を見られていないことを願いながら……。
なぜか、デューベルハイトは元から寄っている眉をより寄せていた。
「手を出せ」
「……手を、ですか?」
一番見られたくない刺繍の事で頭が占められているビアンカは思わぬことを言われたもので聞き返した。
頷かれたのでとっさに出た方の片手を出すと、もっと眉を寄せたデューベルハイトが動いて――ビアンカのもう片方の手を引っ張り出した。
「……あ」
それがじんじんと小さくも明確な痛みを訴える指がある方だと気がついたビアンカは間抜けな声を出した。刺繍のことでいっぱいで、無意識に違う方の手を出したのだと自分でも今気がつくとは。
デューベルハイトはビアンカが指を刺したことに気がついて隠したことを指摘したのだろうか。
「お姫様、指を刺したんですか!?」
デューベルハイトを再度見上げる前にかなり驚きに満ちた声でアリスが言い、一気にその場全てに事が伝達されてアリスを含めた侍女が数人どこかに行った。
瞬時にいなくなったアリスたちの素早い動きに声をかける暇がなかったビアンカは姿を見送り、ふと自らの指を見下ろす。
……やってしまった。
これだけはやっていなかったのにとうとうやってしまった事実と、すぐに場の全ての吸血鬼の知るところとなった事態に居たたまれない。
針で刺した指の小さな傷からは意外とプクリと出てきていた血の玉が崩壊して、タラリと指を流れはじめた。その手を持ち上げられて、指が消えた。
消えた。
指先の特に傷の部分にヌルリと絡みつくものが熱い。
「お前は血まで甘いな」
ビアンカの指を舐めた赤い舌が口の中へ引っ込んでいく様子が嫌に艶かしく目に映った。上体を屈めて目線のほど近くまできていた顔が遠ざかる。
自分の指を追いかけていたはずが、指を口に含み舐めていった舌を追いかけていることにビアンカが気がつく前に視界が切り替わる。
他に椅子はあるのにいつものように身体を浮かせられ、椅子に座ったデューベルハイトの膝に座り直させられると、来ていたらしいフリッツと顔が合った。
「……あー……えーっと、吸血鬼の傷の治りは人間より早いようなので、身体に巡る何かしらが違うと考えるともしかすると舐めておけば治りが早いかも?」
確証も何もないと分かる言葉は取り繕うように聞こえた。にこ、と笑いかけられて呆ける視界に映ったフリッツを見つめていたビアンカはぱちぱちと何度か目を瞬く。
そして、ようやくさっき目にしていた光景がまともに頭の中に入ってきて――頬がカァと熱を孕みはじめ恥ずかしくなって顔を赤く赤くさせている内に侍女がさっと戻ってきて指の手当てをされた。
目撃していたのはフリッツだけ。それはいいのか悪いのか。
デューベルハイトはその行為に関しては気にした様子もない。
ビアンカだって今まで誰かがいる部屋で――ただし皆見ない振りをするなど気を使ってくれているようだが――口づけされることもある。デューベルハイトのことが好きだと思ってからはどうしてか恥ずかしさと照れが増えたものだが、口づけを目撃されると同じようにこれほど恥ずかしくなるのは普段されないことだからだろうか。
「傷の治りが遅いのだから無闇に怪我をするな」
手当てのされた指を弄るデューベルハイトはそういえばここに来たということはつかの間の休憩ということで、刺繍教室は一旦休止。
ビアンカはなにがなんでも上達しなければならないと刺繍の技術向上を決意した。




