22 勇気を、想いを
アリスの後ろにほとんど隠れてしまいながら覗いた先は色で溢れ返っていた。
磨き抜かれた床だけでなく遥か高い天井にも優雅な模様が描かれており、大きなシャンデリアが幾つも吊り下がり灯りによって輝いている。その灯りはこの広い空間を余すところなく照らす。
音楽隊による音楽が途切れることなく流れ続け、出来上がっている空間は気が引けるほどの優美さ。
祖国で出たことのある同じ類いの催しよりも華やかさが格段に違って見えて不思議な心地がした流れでビアンカが祖国での苦い記憶も甦り、アリスの後ろに完全に引っ込む前にただ一つの姿を目が見つけた。
大広間の一番奥、前方を踊り通りすぎ歓談する吸血鬼たちではじまりは見えない長い長い階段の先、はっきりと下と区別された高い場所にデューベルハイトはいた。
あれほどまでに玉座が似合う王もいないだろう。
誰だと思うまでもなく彼しかいないと確信した王は高みから大広間を見下ろしているのか、白い衣服を着ているらしい彼は別人のようで、遠く感じる。
実際に距離はある。
入る直前の位置と最も奥、階段の上。声なんてどうやっても届かない距離。
遠い距離でもその姿を見た途端に胸が落ちつかない鼓動を刻みはじめるが、同時に切なく締めつけられる。これが好きということなのだな、とぼんやりと実感して、間にある距離が物理的な距離以上にとてつもなく遠く思えてしまう。
好き、この気持ちをデューベルハイトは抱いてくれているのだろうか。それは今さらながらとても非現実的にも感じられた。
「お姫様、陛下のところへ行きますか?」
隠れ気味になることを快く許してくれているアリスに問いかけられて、ビアンカは彼女を見上げてから、再び玉座を目に映す。本来、ビアンカが通されるはずの場所は紗幕の内側つまり他の目からは見え難くされているはずの場所で、それは玉座から視線を横にずらして少し下がった目立たないように下からではあまり見えない、奥の辺り。
一方、デューベルハイトのいる玉座は隠すものなんて一つもない位置。
この場にいる誰よりも高貴で、相応しい吸血鬼の王。それが、デューベルハイトなのだから。
早く、会って言ってしまったことを取り消したい気持ちと不安が混ざり合ってビアンカが手を握りしめると、握りすぎて冷たさのなくなった指輪の存在を感じる。
指に通せないまま、置いておくこともできないまま。
ここに来て、来たからこそビアンカはまた怖じ気づいている。直ぐ様踵を返して部屋に戻りたいと主張する部分があることを知っている。
でも、何のために出てきたのか。
デューベルハイトがもう見える場所にいるのに、行かなければきっとビアンカは部屋にいたときよりもっとずっと後悔すると分かっていた。
意気地無しな心に今だけは負けないように流されないように胸に握った手を押しつけて、情けない言葉が生まれる前に、ビアンカは頷いた。
***
緊張は足を進めるごとに身に満ちていき歩幅も小さく、歩みはゆっくり遅くなってゆく。
吸血鬼たちでいっぱいの場所を通らずに案内に従って歩いているところだった。行く先は、デューベルハイトのいる場所。だからこそ前へと進める足の動きがぎこちなくて、緊張が大きくなっていくことを抑えられない。
息を吸うこともいつもは意識をする必要はないのに若干の苦しさに気がついた瞬間から意識して呼吸をすることになり、鼓動の落ち着かなさを感じずにはいられない。どうにか、鎮めなければ。着く前に落ち着いておかなければ……。
「着きましたよ、お姫様」
歩いている間中ずっと下に向けていた顔を声によって上げると案内してくれていたアリスが横に退いて見えた前方は、大広間の入り口から見上げた場所だった。どのような通路をどれほど歩いて来たのか記憶にない。
アリスの姿が消えて開けた先、目が引き寄せられたのは中央に据えられている玉座――ではなくそれに座している王の姿。
圧倒的な存在感を放つデューベルハイトは頬杖をついて微動だにせず下を見下ろしているようだった。
大広間に入る前の位置より格段に近くなったデューベルハイトの姿を認めた、その瞬間からビアンカの足は勝手に止まっていた。竦んでいる、と言った方が正しいかもしれない。
心臓のどきどきは健在だが、いざこんなに近くまでくると襲ってくる極度の緊張の方が勝っているよう。落ち着けようとしていた鼓動は反対に暴れはじめる。
心を決めて覚悟して来たはずなのに、ビアンカは――見るばかりだった横顔だけでも綺麗な顔が、気がついたようにビアンカに向いた。
ビアンカの呼吸が、止まった。
「デューさま、あの――」
その中でも辛うじて言わなければならないとの意志が残り、引き絞るようにして声は出てくれた。
そうだ、言ってしまったことを取り消したくてここに来たのだとぎゅ、と手を握り真っ白になりかけていた頭に目的が甦ったことで消えてしまった声を再度出そうと息を吸う。
しかし、向けられた顔に眉を寄せられた様子を敏感に捉えたが最後、声は引っ込んでしまった。身体も縮こまる。
ビアンカが離してほしいと言ったのに来たからどんな反応をされても仕方ない、と考えはしていたもののそんな反応をされるのは悲しいのだと思う。
怒っているだろうかと奮い立たせていた気持ちが萎んで消えてしまい顔を俯けようとしたとき、だった。
「来い」
短く命じられた。
声に、ビアンカの足が引っ張られたみたいに前に出てコツ、コツと危なげに進みはじめる。
一歩ずつ、何も考えられずに距離をなくしていきデューベルハイトの元へ着く、直前に躓きヒヤリとする。
幸いなことに無様に転び床に打ちつけられることにはならず、受け止めてくれた人物がいた。すぐそこにまで近づいて、その直前で躓いたわけで――デューベルハイトである。
真っ白に染まった視界に別の意味でヒヤリとしたビアンカは反射的に慌てて離れようと身を引くが、それより早く身体が浮いた。何枚も重なったドレスの裾がふんわりと脚を撫でていく感触に気を取られているわずかの間にビアンカが座らされていたのは、デューベルハイトの膝の上。
普段は黒い系統の衣服を身につけているだけに上下白い服を身につけた彼はやはり少し異なって見え、赤い瞳が強調されているように見えた。身体が覚えているためにすぐに見つけたその顔が不機嫌そうで、改めて間近で表情を確かめて身体を小さくしかけていたビアンカは手に触れた感覚にピクリと小さく反応する。
デューベルハイトの手。手袋越しとはいえ薄いもの、直接触れた温もりにそれだけで強張っていた身体がほどけていくように思えた。
その間にデューベルハイトの手はビアンカの手を掬い上げ、鋭い視線でビアンカを見据えるから再び身体は硬直する。
「お前は私が気にくわないことを続けるな」
「……ぇ」
「誰に触らせた」
触れる手に力が込められたから手のことを言っているのだ、とようやっとの思いで理解。
手に触れたのは記憶の中では侍女以外にはベアトリスと……さっきアリスの兄、正確には従兄だ。そのことを言っている、のだろうか。なぜ分かったのかは不明だけれど、とにかくその声音に何だか言ってはいけない気がして口ごもると、
「ビアンカ」
名前を呼ばれて胸が震えた。次いできゅう、と締め付けられたに似た感覚。
苦しいのではなく――名前を呼ばれるだけでこんなに嬉しいのかとこんなときに状況を忘れて実感していると、目の前で赤い瞳が色味を増す。
「言え」
酒に酔ったみたいなくらりとした波が襲ってきて、途端に意識が少しぼんやりとする。
「私以外の誰に触らせた」
力を持つ声だけが響いてきて、その言葉だけが耳に入ってきたことで素直に答えを述べるために口が開こうとするのが他人の口のように察せた。
だが、
「私以外のどこの誰の元へ行く」
重ねられた問いに、緊張や不安に隠されていた心から消えようのない強い想いが頭を出して顔を出して強く、思う。
――どこへも行かない。
どこにも。デューベルハイトの側にいたいから。だってビアンカは。
想いだけを胸に必死で首を動かそうとしていたら、奇跡的に首を横に振ることができた。微々たる動きができると、明確さを欠いている意識が少しだけはっきりして目の前もわずかに明確に。
自分の口を自分の意思で動かす。
「わたしは、デューさまの側にいたいです」
言えた。
「わたし、デューさまの側に、いたいです」
もう一度、赤い瞳を見つめて繰り返し同じ言葉を声に出すけれど込み上げてきそうなものがあって拙い口調になった。
好きだとの想いは言えずともそれも含めて側にいたい、と届けられるようにと思うビアンカの掬われていた手がデューベルハイトの手を握ると、デューベルハイトの瞳が僅かながらに見開かれて映った。彼のことだから気のせいかもしれない。それにビアンカはそれどころではなかったから。
「どこにも、行きません」
「……」
「離れたく、ないです」
「……」
「わたしは側にいてもいいですか……?」
「……私のか」
「はい」
返事をすると手を反対に握り締められた。
「ならばなぜあのようなことを言った」
「申し訳、ありません」
謝ることしかできず謝る。
「なぜ頷かずにあのようなことばかり言った」
やはり、許してはくれないだろうか。謝る言葉を繰り返す声が震えそうになる。
デューベルハイトの表情は険しい。一度言ってしまったことを撤回しても言ったことが、言った事実が消えることはない。一度どころかデューベルハイトの言葉を否定してまで言ったこと。甘かったのだろうか。
目が涙が生まれる前兆に熱くなり、ビアンカは閉じた口に力を入れた。泣いてもどうにもならない、泣いて許されることではない。
けれど、デューベルハイトが許してくれずに離されてしまったらどうしよう――。
デューベルハイトは黙り込んでいる。何を考えているのか、ビアンカには彼の表情を読めた試しは一度たりともないから沈黙が怖くてたまらない。身体が震えそうで、耐えて、何分、本当に幾ほどの時間が流れたのだろう。
デューベルハイトが動いたことを見るより前に感じ視界では見続けていた顔、口が開く。
――その声は、こう言った。
「最初から頷いておけ」
と。
力強く腰を抱き寄せられ隙間がないくらいに密着して抱きしめられた上で、首筋に顔を埋められる。
強く抱き寄せられたビアンカは呆然としていた。緊張と恐れと不安により考えで埋め尽くされていた思考では、硬さの失せた声で言われたことが理解できなかったのだ。
しかし、
「二度と、言うな」
「――はぃ」
区切られ言い含める口調の言葉に頷く。
触れた肌、抱き締められる腕の力、響く声。後から急に理解が追いついた言葉。
許された。
許された事実がじわじわと頭に心に浸透してきて、新たに目頭が熱くなった。
良かった。
根を張っていた緊張はするりするりと解けて溶けてどんどんなくなっていき、側にいる存在を感じることで完全に――消えた。
情けなくも、緩んだ緊張で抑えきれなかった涙が一粒だけ零れ落ちた。
「なぜ泣く」
見ていないはずのデューベルハイトが涙の落ちる気配でも感じたというのか、ただの勘かビアンカが証拠隠滅する前に顔が肌に触れているせいで声が身体に響いた。
「こ、れは、ほっとして……」
頭が起き上がってデューベルハイトの顔と顔を合わせることになる。涙の証拠隠滅と再発防止の努力ができていないビアンカが慌てて目を押さえようとすると、手を捕まれ阻まれる。
「お前をあのような状況に陥らせたのは私の失錯だ」
「そのようなことは、」
「私がそうだと言うのだからそうだ」
花畑での令嬢のことを言っているのだと読み取ったビアンカはあれは誰のせいでもなく、強いて言えばビアンカが人間だから出来た状況であって、と首を振りかけると顎に手をかけられてそれも阻まれた。
「だが、それも終わりだ」
赤い色はこれまでよりもさらに深い色味になり、している話が話なのに胸がどきどきと高鳴りはじめてビアンカは自分で驚く。
「お前に害なそうとする全ての者を、私は黙らせる」
弱々しい意思しか持たないビアンカなんて特に圧倒される強い意思の籠る瞳が、明らかにビアンカのためにそう言っているのは何だか現実ではないように思える。
「噛んだのか」
親指で唇をなぞられ、早くなる一方の鼓動と触れられた部分が熱を持つ唇を抱えたような感覚も現実味を遠ざけていく。
けれども顔が傾き舐められたと思うと、唇を食まれる感覚はとても生々しく紛れもない現実。
「あの、デューさまここは、ん、」
ここがどこかさすがのビアンカも忘れ去っているはずはない。ここは大広間で階段の一番上の玉座、ビアンカがいればいいと言われていた紗幕のある場所ではない。ともすれば、ではなく確実に注目を集める場所――それなのに構わず唇を合わせられて言葉を途切れさせられたビアンカは代わりに羞恥で顔を真っ赤に染める。
恥ずかしさに耐えるために近くの衣服を握ると、反応を楽しむようにデューベルハイトの笑みが深まったことが触れる唇の動きだけで分かってしまいますます恥ずかしくなったビアンカは――
「お前は私だけを見ていればいい」
口の動きを直接感じとり囁かれ、触れるだけの口づけを受けた。
一方その頃。
「……お姫様に手を出したのは一体誰なんだ? 記念すべき最初の『さすがに理不尽な犠牲者』が出るところだったよ……」
「実は私の兄なんですフリッツ様」
「うわあ君の兄君何も悪いことはしていないのに危機一髪だ」
「フリッツ」
「母上……助かりました」
「あなたも反省したのならもうこんなことはしないようになさい」
「もうやる必要はないですけどね」
「フリッツ」
「分かってます、もう余計なことはしません。陛下に一任、それが一番と分かりましたから。やるならフォローだけですね……」
「それならいいわ。これで帝国に平和が戻ったわねー」
「あはは、冗談みたいに言ってますけど母上、冗談抜きで平和が戻りましたよー」
近くではこんな会話が交わされていたとか。