21 従兄
すっかり忘れてしまっていたが、狩猟祭と他に予定されていた大きな催しである舞踏会は今日日付が変わってから陽が昇るまでの間ずっと開かれるらしい。
だが、狩猟祭よりももっと周りにいる吸血鬼たちが増えるということではないのだろうか。そこへ飛び込む勇気はまださすがに湧いて来ないのが現状であったためビアンカは控えめにではあるがその旨を伝えた。
そもそものところ大きな事があって忘れていたそれを思い出した理由は。
「大丈夫よ」
では舞踏会に行きましょう、と言い出したベアトリスのビアンカの手を取って立ち上がった状態で何も問題なんてない、というような笑顔。
「あなたは何も心配をしなくていいの。それに一度様子を見てきたけれど、あの様子ではもう大丈夫」
あの様子?
どうやらベアトリスは城のどの位置かにある会場での舞踏会に一度覗いてきたらしい。そういえばそれはそうだ、彼女は本来ならその場にいるべき存在。
そう思えば遅くもベアトリスの装いが単にドレスであるだけでなく、とても華やかであることに気がついた。はじめてドレス姿を見たということやらが重なり、さらに似合いすぎてその華やかさがむしろ自然に見えていたのだ。
「舞踏会が始まってもう大分経っているから招待者ほぼ全員が入場し終えているはずだから、今なら目に触れずに行けるわよ?」
ベアトリスは首を傾けて、
「デューベルハイトに言いたいことがあるのではないかしら?」
最後に言われたことにビアンカは。
――小一時間後、花びらのように布が何枚も重なり絞られた腰より下にいくにつれふんわりと広がる黄のドレスに身を包んでいた。キラキラとところどころドレスに縫いつけられた輝きにしろ何にしろ、手の込んだ一着。
幸いにもドレスは露出の少なめのデザインだったので鎖骨まで何とか隠れて例の赤い痕も隠れたのだが、首は露でどうにも横にある痕が肌に近い色の何かを塗って隠したはいいが、とアリス含め複数の侍女が頭上で話し合った結果念のため太めのデザインのチョーカーもつけることになった。
「唇、染みませんか?」
「大丈夫です」
自覚なしに強く噛み締めていた唇には出来たばかりの傷が塞がっておらず、薄い皮膚が裂けて色が変わっている部分がわずかにある。傷を透明な塗り薬で保護されて、その上で赤い色彩で唇が彩られる。
化粧も施され、髪もきれいに結い上げられて鏡に映る像が自分であることは間違いようはないのに自分ではないみたい。
見とれることはないけれど、どこか落ち着かない。
「予想以上に可愛らしい仕上がりね、やっぱり娘っていいわよねー。私も色々と着て見せてもらいたくなっちゃうわ……先に見られたのは役得かしら」
後ろから声がして後ろを向くより先に鏡の中に姿が現れて鏡を通して目が合う。
「ビアンカ、私は先に行って残りの顔出しを終わらせてくるから会場で会いましょうね」
なんと、先に行ってしまうのか。どうも本当のようで鏡から消えた姿を追ってビアンカは今度こそ振り返る。
「ベアト――お母さま、ありがとうございました」
「あーら可愛くない息子たちより可愛い娘のためだもの、そんなに気にしないでちょうだい」
冗談ぽく片目を瞑ってベアトリスは一足先に部屋を出ていった。
***
「こちらです」
侍女数名に囲まれて端から見るとおそらく厳重体制で、誰かとすれ違ってもたぶんビアンカは見えないだろうと推測。
けれども情けないながらデューベルハイトとのことには整理をつけられたとはいえ、昨日のことが未だに尾を引いているビアンカにはありがたいことこの上ない。
舞踏会の会場に行っても薄い布で隔てられたところにいればいいとのことなので行ってしまえばこちらのものだろう。
そこにはデューベルハイトもいるはず。彼はビアンカに会ってくれるだろうか。大広間がどこにあるか知らないためどのくらい歩きどのくらいで着くのかも知らないのに、歩くにつれてそのことで頭が占められ緊張してくる。
あんなことを言ったビアンカをどこか遠くに離してしまわないだろうか。きゅ、と手袋をした手を胸元で握り締める。
「アリス!」
その声は不意討ちで、ビアンカの背筋がビクッと跳ねた。
他に誰もいなかったはずの廊下に響いた男性の声は聞き覚えがないもので――誰かを呼んだ。
「兄様! どうしてここに!」
一同が足を止めた小集団の中でビアンカの隣で声を上げたのは――アリス。
(あにさま……?)
度々アリスの話で出てくる呼び方である。ぽかんとアリスを見上げたビアンカはそれからアリスが凝視している前方に視線を辿る……と、侍女たちの隙間から見た前より歩いてくる男性の姿が一つ。
橙の色味の濃い茶髪にもちろん赤色の瞳。服装はこれから行く場にいる方が相応しい貴公子然とした格好というよりも軍人色の強いデザインの華やかな正装のようだ。
「張ってたんだよ」
「舞踏会の方はどうしたんですか!」
「一度抜けてきただけで、おまえを捕まえられた以上はこれから戻る」
適当な距離の位置まで来た男性とアリスの高い位置でのやり取りを耳にしながら、ビアンカは二名を交互に見る。
兄様、ということはアリスの兄とのことで間違いないはず。交互に見ると手始めに髪色は似ており、目の形も似ている。しかし雰囲気が元気なアリスに比べて大人しいというべきか落ち着いたと言うべきか、そのよう。
そんな風に突然現れた吸血鬼を見ていたからだろう、もう片方の隣にいる侍女がやり取りを横目に小声で言う。
「安心してくださいませ。あの方はアリスの従兄君です」
「従兄?」
耳に入った言葉に声を潜めることも忘れて繰り返した。従兄、と聞こえた。
すると声が届いてしまったと思われ、あれこれと話しているアリスがはっとしたような顔でビアンカを見た。
「すみませんお姫様」
「いえ、構わずゆっくり話してください」
「いいえいいんです! あ、遅れましたが一応こちら私の兄――正確には従兄です!」
「おい一応って何だ、『兄様』って慕ってくるわりにおまえは……。お初にお目にかかります。第一騎士団の団長補佐をしております、アラン・ガッサムと申します」
アリスを睨んで一転、笑顔を浮かべて手の甲をさっととられ口づけられて呆気にとられた。手の甲への口づけではない、それは挨拶だ。
そんな風に自然な振る舞いにも虚を突かれ、印象を変える笑顔も一因にはなる。
「お兄さまとは、従兄君のことだったのですね」
「そうです。ですが、幼い頃から頻繁に会っているもので実の兄のようで。本当は私にも兄様にも兄弟はいません。それから笑顔は詐欺なので騙されないでください!」
笑顔は詐欺、の言葉でアリスの従兄の表情から笑顔が消えて驚く。表情が抜け落ちたみたいだったのだ。さっきまでとの落差が激しい。
「詐欺とか言うな、俺の善意十割だ。辛気くさい顔されてるよりいいだろ」
と反論したアリスの従兄の視線が向けられる。仏頂面、ではなく単に表情筋がサボっている感じの表情。
じ、とビアンカを見ることわずかに。
「なんだ思ったより素敵なお姫様じゃないか」
「当たり前です! そんなに見ては駄目です!」
「おいおい、いくら侍女だからっておまえに独占する権利はないだろうが」
「大体どうして張るなんてことをしているんですか!」
「おまえが仕えるという主人を見ておこうとも思ってな」
ビアンカを見たまま言われるものだから若干居心地が優れない。と、突如話しかけられる。
「迷惑がかかっていませんか?」
「迷惑……?」
「アリスがあなたに迷惑を、です」
「い、いえそのようなことは全くありません」
「そうですか? ……おいアリス」
「何ですか」
「レオノーラ嬢との一件を聞いた。おまえ側にいたそうじゃないか」
「……う」
「仕える対象が人間だとか何とかその辺りを言うつもりは俺にはない。ただな、仕えると決めたのなら主人を守るのも仕事だぞ」
「はい」
「おまえはその場で仕事を果たしたか」
昨日の花畑でのことを言っているのだと分かった。でも、アリスが側にいながら令嬢からビアンカを守れなかったと叱責しているとも分かった。
アリスは表情を改めて神妙に言葉を受け続けている。
「ですが、アリスさんは、庇ってくださいました」
強い口調で非難してくれていたことを覚えているから、口を挟むなどという普段はしないしできないことをしてしまった。
しかし言ったことは事実であるし、声により向けられた目を懸命に見返した。アリスの従兄はビアンカの言ったことに少し迷った素振りを見せたが結局こう言う。
「残念ながら庇い切れなければ意味がないんですよ」
「そんな、」
「お姫様、兄の言うとおりです。私は、肝心なところでお姫様を守ることができませんでした」
アリスも彼女の従兄に同意するその顔は普段は見られない、眉を寄せた厳しいものだった。
「私はあの場に任されてお姫様の側におり、立っていました」
声も、溌剌とした聞いている側が明るい気持ちになるそれではなく、自身への責めを口に出す。
「あのとき、私はあらゆる手を尽くしてレオノーラ様に力を止めさせるべきだったんです」
アリスは自分自身を責めていたのだ。
一体いつからだろう。昨日、からだろうか。ビアンカは全然気がついていなかったことといつになく異なる様子に声をかけることが出来なかった。
そんなことはない、と言うことは正解にはならないと感じた。
「それで、おまえはどうするんだ」
容赦なく言葉を重ねたのは、アリスの従兄。
「その結果どう思ったんだ、それだけか」
従妹を真っ直ぐに見据えて問い詰める。
それに対してアリスはこの上なく厳しい顔で見据え返し、口を開く。
「どうもこうも、――二度はありません」
これが彼女の軍人であった頃の一面なのかもしれない、とビアンカは思った。それくらいにアリスの声は断固たる様で瞳には強い意志が宿っていたから、彼ら二名の間の空気にビアンカも緊張して息を潜めてしまう。他の侍女もそうであるようで、アリスの言葉を聞いた従兄の方をそっと窺う。
アリスの従兄である吸血鬼は視線は動かさず黙し続け、その場に静寂をもたらした。
「分かってるじゃないか」
しばし経って、あまりに動かないものなので時間が止まったのではと錯覚しそうだった頃に放たれたのはこんな言葉。
同時に彫像もかくやというほど動かなかった表情がフッと和らぐ。
「兄様……?」
「おまえが自分を責めているだけならすぐにでも引きずって帰って鍛え直してやろうかと思っていた」
「……」
「なあアリス、おまえは軍人ではなく侍女になりたいと言ってなったんだ。侍女に相応しいと俺に示してみせてもらわないことには困る」
「それは、もちろんです」
返答に自然な笑みを浮かべたアリスの従兄が手を伸ばしてアリスの頭に手を置き、
「じゃあしっかりやれよ」
ポンポンと叩く様子が見えた。「はい」とアリスが真剣さに照れ臭さを交えて頷いた。
素敵な『兄妹』だ、ともはや見物人の位置で見ているとふいにアリスの従兄が従妹の頭を叩くことを止めてビアンカに身体ごと向き直る。
「つまらないものを見せて申し訳ありません」
「い、いえ、滅相もありません」
瞬間的に背筋を伸ばして手と首を振り、口で主張。滅相もない。
「つまらないものを見せついでにですが」
頭を下げ、
「こんな愚妹でよろしければどうかお願いいたします」
言われたことにビアンカは、予想もできなかったことですぐに反応が出ない。
その間に反応したのは、アリスである。
「愚妹とは何ですか!」
「愚妹は愚妹だ。噛みつくなら侍女として一人前になってから噛みつけ。それよりおまえ静かにしなければいけないところで静かにできているのか?」
「心配無用です」
「そっちの方が余程心配だ」
「どういう意味ですか!」
繰り広げはじめられた遠慮のない『兄妹』のやり取りを、側で再び聞くビアンカはアリスと彼女の従兄を目に映してこんなことを実感していた。
嗚呼、まさしくアリスの血縁だ、と。あんな風に接してくれるのだから。
彼女たちのように、彼のように分け隔てなく接してくれることが当たり前ではないことを知っている。
「アランさま、こちらこそアリスさんにお世話になっております」
まだ出会っていない吸血鬼たちの中にはきっと彼のような吸血鬼もいる。ビアンカの周りにいるアリスたちのように。そのことを忘れないようにしなければならないと思った。
それにあなたの従妹がどれだけビアンカの救いになってくれているか。




