7 目を疑う光景
帝国までとれほどの距離があるのか正確には知らないビアンカにとって、船旅はある日突然終わった。
すっかり慣れてきたアリスが来て、一緒に部屋の外に出ると、辺りは暗く空は真っ黒だった。星の輝きがあることで、夜のようだと知る。
吸血鬼の王には一度のみならず二度三度と部屋の外に連れ出されたが、そのうちの一度も夜だった。
しかしなんというか、――寒い。
恐怖心からではなく、寒さからぷるぷる震えがくる。
「お姫様、大丈夫ですよ! 誰も何もしてくることはありませんから!」
そういえば呼び方は「お姫様」で定着してしまった。
名前で様と呼ばれると、それはそれで他国のそれも大国の方に呼ばれるのは気が引けてしまうと思うし、形だけながら王女ではあったのでなすがままにすることにした。
元よりビアンカはなすがまま派なのだけれど。
それより今は寒さで震えているのです。
「そ、そうですね」
答えたはいいものの、歯の根も微妙に合わなくなってきた。
「では降りましょう!」
「はい。あの、えぇと……出口はどちらでしょうか?」
「降りられる方はあちらです!」
あちらにあるらしい。タラップを探すべく、ビアンカは覚束ない足取りで歩きはじめる。
しばらくすると、タラップが見えた。馬が順番に降りているところで、これは時間がかかりそうだなとビアンカは止まるかもう少し先に進むか迷った。
迷って、その目で信じられないものを見た。
「え」
人が、飛び降りた。
すぐ横にタラップがあるのに、まるで塀を越えるように身軽に縁を越え姿を消して――落ちていった。
ビアンカは衝撃的な光景に足がもつれて、衝撃的な光景が繰り広げられた方を見たままこける予兆を感じた。転ぶな、と。
そして、ビタンッと派手に音を立てて、転んだ。
「お、お姫様!?」
つっかえたところなんて聞いたことのないアリスが、声をつっかえさせて慌てている様子がうわずった声に表れていたが、視界いっぱいに船の床を映したビアンカは申し訳なくも返事ができなかった。
痛い、のはもちろんだが。
「お前たち何をしている?」
「陛下! お姫様が、お姫様が転んで……!」
返事をしなかったビアンカが悪いのは認めるので、どうかそんなに大きな声で言わないでほしい。ビアンカの心がしくしくと泣きはじめた。もちろん情けなさと羞恥からである。
寒さが吹き飛びました。
「転んだ?」
聞き返しもしないでほしい。床に張りついて恥ずかしくて顔を上げられない状態なのだから、一目瞭然だろうに。
前から来ただろう「人物」が立ち去る様子がないので、意を決したビアンカはできるだけ何事もなかったようにもそもそと起き上がりはじめる。
痛くない。転んでない。ちょっと足がもつれて……。
「危なっかしいな」
脇に何かが差し込まれ、羞恥で熱い顔を伏せつつも立ち上がれそうになっていたビアンカの身体が浮いた。
やがて落ち着き、何事かと改めて顔を上げると、
「……」
――吸血鬼の王様のお顔がありました。
ビアンカは抱き上げられているようだった。
すっと視線をずらすと、王が引き連れてきたのか彼らが勝手について来ているのか、下を行く狼がいた。
その内の一体の首根っこを吸血鬼の王が掴む。いつぞやもそうやって持ち上げられていたことを思い出す。
で、自分が抱き上げられている光景と重なり……こういう扱いも同じ感覚なのかと納得する。
ははあ……とビアンカは急に狼に親近感が湧いてきた。仲間ですね。仲間なのだろうか? 人質ではないものの、少しと言わずかなり複雑な心境だ。狼と一緒。
むんずと掴まれた狼はといえば、捕食者めいた強気はどこへやら黄色の獣特有の目は弱気になっていた。これから待ち受けることを憂いているようだ。
これから……?
そのとき、吸血鬼の王が長い足を船の縁にかけ、それを目にしたビアンカに嫌な予感が駆け巡る。
さっきこの動作を見た気がする。転ぶ前。
「! あ、あのすみません、自分で降りられま――」
時すでに遅し。急に声を出すことができたビアンカを抱く吸血鬼はあろうことか軍艦の外、宙に身を踊らせたのだった。
直後、ビュオオと冷たい風が吹き付け、それとは別に気持ち悪い落下感に包まれる。落ちている。
たまらず手近なものを握りすがる。落ちる、落ちている。一体どうなる――ふわりと急に気持ちの悪い感覚は霧散し、一瞬時が止まったがごとき印象を受けた。
振り返ってみると短い時間だった落下により、ビアンカは地面に叩きつけられる、ことはなく、ビアンカを抱く王はいとも簡単に地に降り立っていた。
身の毛逆立つ気持ち悪い感覚が残る中、ビアンカは何が起こったのか信じられず後ろを見る。
軍艦の高い壁のような面が見え、今いる場所が軍艦の外だということを示してくる。
見上げれば高い高い位置に人影が見え、まさか体験したとはいえあそこから飛び降りて……フリッツが降ってきた――着地。
アリスが降ってきた――着地。
二人が後を追い同じように上から降ってきて、たいした音もなく地に足をつけ、平然と歩いてくる姿に目が疑えてならない。
吸血鬼の身体能力とはこういうことか。
やはり人間と違うということを、再認識するはめになった。
「お姫様ー! 転んだときに膝とか擦りむいてませんか!?」
大丈夫です。忘れさせてください。