19 母親のような抱擁
一人で眠って、一人で起きた。上手く眠りにつけなくていつ眠っていたのか記憶が曖昧。
ベッドの上で起き上がるまでしばしの時間を要し、起き上がってもぼんやりしていて結局我に返ったのはノックの音でだった。
着替えるときに目に入った肌に赤い痕がいくつか見えて、眠る前そして起きたときから昨日からずっと苦しい胸がもっと、無遠慮に鷲掴みされたみたいに痛んだ。
どうすればいいか分からないのは変わらない。
食事の後は部屋で過ごす時間。
未読の本を読んでみようと本が並べられた棚の前に立ったはいいが、背表紙の題目さえ上手に頭に入ってこない。最終的に一番端の本を取って本棚を後にした。
けれどソファーに座って本を開いても一向に内容が頭に入って来ないために意味がない。
本を閉じようかぼんやりとしながらぼんやりと考えて読むも閉じるもどちらにも転ばないでいたら、部屋の外から入ってきたらしい銀毛の狼が近づいてきてふんふんと匂いを嗅いでくる。その上で「ガウ!」と何度も鳴くがビアンカは心そこに在らずの状態で手を伸ばして狼を撫でた。
撫でて撫でて撫でて……
「……姫様、お姫様」
呼びかけが耳に届いてビアンカは弾かれたように顔を上げた。
そこにはアリスが案じている表情でビアンカを窺っていることが見え、手には触り心地の良いふわふわな毛の感触。
視線を移すと銀毛の狼は立ち去ることなくまだ側にいて、じっとビアンカに撫でられ触れられるがままになっていたのだ。どれくらいなすがままになっていたのか、途中毛の流れに逆らってなでてしまったようで若干の乱れが見られる。
慌てて毛並みを流れに沿って撫で直して、ゆっくり柔らかく撫でて手を離した。
「すみません、アリスさん。何でしょうか?」
「えーっとですね……」
見上げたアリスは躊躇った様子を見せたが、
「そうです! お茶をお淹れしましょうか?」
思いついたように身を乗り出し気味に言われてビアンカは瞬いた目を伏せる。
「……いいえ、いいです。ごめんなさいアリスさん」
冷ましてしまう気がするから、せっかくの申し出を断らざるを得ない。
「じゃあ図書館にでも、あ、それか……」
返事を待たずしてあれこれと提案してくれるアリスを見上げたビアンカはああ、と気がつく。アリスはビアンカの様子に気遣ってくれているのだ、と。
普段から本を読んだり読まなかったりとの生活を送っているビアンカが気がつけば心ここに有らずとぼんやりとし、何も手につかない。思考に耽るでもなく、ぼんやり。
いつかもこんなことがあった。デューベルハイトに噛まれて、彼がしばらく来なくなったときだ。
しかしそのときと似ているようで明確な違いがある。
じわ、と目に込み上げて来る感覚。
「お、お姫様」
アリスが狼狽えた声を出した。目が潤んで見えてしまったのかもしれないとビアンカはすぐに下を向いて目に力を入れる。手で押さえては明らかだから自力で防ぐために、意思も込めて。
「何でも、ありません」
試みはどうにか成功して顔を上げて、言えた。
***
気を使わせたくなくて、かといって部屋から出る気も起きずにそれからも部屋の中にいた。銀毛の狼が側にいてくれることをいいことに銀毛の狼とまったりしているふりをして単にその毛に触れていた。
侍女たちは狩猟祭の森でビアンカに起きたことを知っているようだった。
ただ、寝室に連れ込まれたときにデューベルハイトとの間に何が起きたかはデューベルハイトが言わずビアンカも言わない限り誰も知りようがない。
昨日寝室に最初に入ってきたのはアリスで、入ってくるなり悲鳴のような声を上げた。ビアンカの顔を覗き込み唇を噛み締める様子に驚きながらも大丈夫かと聞き、着衣を素早く整えてくれた。それから、冷ましてしまっていた紅茶の代わりに淹れ直してくれてきたハーブティーを少しでも落ち着けるようにと勧めてくれて。
そんな彼女にも相談することはできなかった。誰に相談すればいいのか、そもそも相談してもいいのか甚だ検討がつかずに、でもこのまま身を時が流れるままにしていると取り返しのつかないことになりそうで強い不安に襲われる。自分でも救いようがないと思うくらいどうしようもなくなっていた。
指輪は指に通すことができず、しまい込んでいる。
「ビアンカ」
女性の声、ただしそれはビアンカの様子から今日はあまり声をかけない侍女の声ではない。
「…………ベアトリス、さま」
「あらあら、お母さまと呼んでと言ったでしょ?」
はじめて見た、ドレス姿のベアトリス。飾り気なく流していただけだった金色の髪は艶やかに結い上げられて、色香が倍増したよう。
装いに相応しいよりもっと美しい微笑みを浮かべる彼女が、小首を傾げて流れる動作でビアンカの隣に腰かけた。
いつ入ってきたのか気がつかなかったビアンカは突然現れたベアトリスを呆け気味に見つめて「お母さま……」と言い直すとベアトリスは満足げに弧を深めた。
「レオノーラ・フレールに力を使われた影響はないのかしら?」
花畑で会った、あまり思い出したくない令嬢のフルネームをレオノーラ・フレールと言うようだ。
あの場での記憶を思い出さないようにして問いにだけ「もう平気です」と答えた。
「それなら良かったわ。怖かったでしょう」
細い指に頬を撫でられるビアンカは「はい」とも「いいえ」とも言えずにいたけれど、ベアトリスは気にしなかった。
「もう、外に出るのは怖い?」
「……外に出るだけなら、分かりません」
これにはどうにか答えを述べられた。
単に外に出るだけなら怖くないのかもしれない。けれどあのたくさんの吸血鬼たちのいる場で視線に晒されることになる外なら怖いかもしれない、と。
「元より外に出たい性格ではないので、大丈夫です」
閉じ籠る生活を続けてしてもきっと苦にはならないだろう。視線から避け続け、逃げ続ける生活を送っても。だからそれは気にしなくても良いのだとつけ加えた。
すると、
「それなら、ビアンカの頭を悩ませている一番のものはそれではないようね」
急に心を突かれて、息が止まりそうになった。
元々見ていたベアトリスをわずかにだけ見開いた目で見ると彼女は変わらず微笑んでいる。
「私に言ってみる気はない?」
そうして柔らかく促す言葉をビアンカに向けた。優しく、柔らかく、背を撫でる手も優しくて。
はじめて会ってからそれほど日にちの経っていないベアトリス。娘だと言ってくれる彼女は本当にビアンカがそうであるかのように声と眼差しを向けてくれている。
言ってしまってもいいのだろうかと迷うと同時に、ずっと出口を求めていたそれはビアンカの中から、口から溢れていた。
「わたしは、心にないことをデューさまに言ったのです……」
側にいてはいけない。どうか遠ざけてほしいと。
怯えて縮こまっていた心と向けられた言葉でいっぱいだった頭。それらに恐れを抱いて支配されて、思い込んでそうするべきだと思っていた。
でも一度思考が解放されたように時間が経ち平静になって思い出してみると、花畑に来てくれていたデューベルハイトは怒った声音をしていたような気がする。
ビアンカに力を使った令嬢に怒っていたのだと、アリスから聞いた。その場にいる吸血鬼たちに宣言したのだと。
それなのにビアンカは――
寝室でのデューベルハイトのあの声を思い出すと胸が潰れそうな酷い苦しさがこれ以上ないくらいになる。「自分が側にいるべきではない」と言ってしまったけれど本当は。
ビアンカの本心は。
とても言ったことを後悔していた。
――ビアンカの人生を一変させたのはデューベルハイトだ。それからずっとビアンカに新たな感覚を教えるのもデューベルハイト。温かな場所をくれ、不思議と落ち着くようになった腕で包み込む。
その上あろうことか王である彼はビアンカに好きだと言って、ビアンカは戸惑いながらも側にいることを約束する誓約書へのサインは抵抗がなかった。
当たり前だ。
側は心地が良すぎて、怖いくらい。
本当は、側にいたい。
以前誓約書にサインするとき、ごちゃごちゃと考えた結果は本心極まりなかったのだ。『狼枠』で連れてこられたけれど願わくば忘れられることなく、側にいたいと一体いつからそんな思いは潜んでいたのだろう。
「側に……」
確かめるように口に出すと、胸が震えた。
デューベルハイトの側に。それはとてもとても甘美な言葉に聞こえてならなかった。
その事実にあのようなタイミングで気がついてしまった。デューベルハイトが背を向けて出ていったあと。どうして。
側にいたいと思うのに、どうして遠ざけてほしいと言ってしまったのだろう。泣きたい気持ちに駆られて、やはり堪える。
「噛んでは駄目よ……あら、もう傷になっているじゃない。どうしたの」
ベアトリスの指が無意識に噛んで堪えているビアンカの唇を解放するように触れ、目を丸くした。
傷になっているのか、それは気がつかなかった。だから侍女の一人が唇に丹念にどことなく慎重に何か塗っていたのだろうか。指摘されて、自分では見ていない傷があるらしい唇に今微かな痛みを感じた。
「……フリッツの言うとおり、少しこじれているようね。まったく、だから……」
ぽつり、と何事かを呟いたベアトリスはにこりと微笑みを戻して「こうやって我慢していたなんて意外と我慢強いのね、あなた」と唇を一押しして離した。
「デューに何を言ったのか教えてくれる?」
「……遠ざけてくださいと、言いました」
改めて声に出そうとすると、出す声に苦労した。
「あなたはそれを後悔しているということなのね?」
きっと胸の苦しさは後悔に苛まれているせいだ。
「デューの側にいたいと理解してもいい?」
口には出せずビアンカのこくりとの頷きを受けたベアトリスは、首を傾げて思考に沈むように視線を下に向けた。
しばらく、彼女は黙し続けて首を傾けたまま話しかけはじめる。
「ねえビアンカ、聞かせてほしいの」
「……?」
「あなたはデューのことが嫌い?」
「いいえ」
そんなはずはない。嫌いではない。
即座に首を振り答えると、ベアトリスは頷いて続けてこう訊ねてきた。
「じゃあ、好き?」
「好き?」
何気なく言葉を復唱した瞬間――胸、いや、もっと奥が震えた。
心臓が実際に震えるはずもなく、感覚的な震えに戸惑い胸に手を当てるけれど源が何なのか分からない。
デューベルハイトに以前そう言われたときがある。彼はあれ以来言うことがないけれど、言葉の代わりみたいな熱い口づけをされる。
彼に触れられることは嫌いではなかった。口づけだって、恥ずかしくて翻弄されるばかりだけれど嫌なら嫌悪感があるはずで、嫌ではないのだ。
側にいると鼓動が高鳴ってどうかなってしまうのではないかと思うこともあるけれど、彼の口許に刻まれた笑みが深くなると面映ゆくて、どきどきする。
ビアンカはデューベルハイトの側にいたいと思う。遠ざけてほしいと言って、デューベルハイトの苦しげな様子を見て遠ざかってしまう姿を見て気がついた。
違う、本当は離れたくない。
離れないでほしい。
遠ざけないでほしい。
側にいたい。
どうして側に。
胸が奥から熱を持った。
今突然起きたとは感じられなくてずっとそこにあったみたいな温かくもある、熱。
「……好き……?」
もう一度呟いてみると、今度はとくん、と心臓の鼓動を当てた手に感じるようだった。
デューベルハイトのことが頭に浮かんで言うともっと胸が熱くて高鳴って。ここに彼はいないのに。
そう、デューベルハイトはいない。これが続くと思うと、そうなっても自分のせいなのにビアンカは悲しくなって泣きたくなる。
こんな風に思うのに、嫌いなはずなんてない。
嫌いなはずがなかったのだ。
だって好きなのだから。
好きとはやはり熱いものだった。胸が今や奥から熱くその想いを抱えている。
震えたのは、反応したのは、心だ。
これが「好き」なのだと胸――心を抱えたビアンカは理由もなく確信した。そうすると何が原因か分からなかった震えの源にとても自然に心が受け止めるではないか。
でも、苦しさも増す。
理由は分かっていた、もっとよく分かっていた。デューベルハイトにあんなことを言ってしまったからだ。
――嗚呼、何ということだろう。
本当に、愚かな、愚かなことを口にした。
「お、母さま」
「なあに?」
「わたし、」
苦しいだけではなく熱さの加わった胸に手を当てたまま、ビアンカは実際にも苦しい息を吸い、ベアトリスを見上げてその望みを口に出す。
「わたし、デューさまの側にいたいです」
「そう……それで、あなたの不安は何? ビアンカ」
ベアトリスは一瞬驚いた顔をして、すぐに笑顔になって先を促した。ビアンカはもう一度、息を吸う。
「わたしにそれが許されるのでしょうか」
あれほどの吸血鬼たちがビアンカを、心の底では未だに人間を王の妃とは認めない中、きっともう『狼枠』には後戻りできない中。ビアンカに許されるのだろうか。
側にいたいと思う。
デューベルハイトのことが好きだから、側にいたいとの気持ちがあるのだ。だが、そんなことが本当に許されるのだろうかとビアンカは思う。自覚してしまったからこそ、ビアンカがこんな想いを抱いていいのかと。
「デューベルハイトが許すのなら。彼がこの国の王であるのだから、彼ならば今ある障害を、あなたが見聞きしたもの全てをやろうと思えばなくしてくれるわ」
それにも関わらずベアトリスは考える素振りも挟まずに断言した。
デューベルハイトも、そう言った。ビアンカが気にすることではないと。不安が過るところなんて想像がつかない彼らしい調子で言った。
「けれど、それでいいのでしょうか……。それでは、強制です。反対する吸血鬼の方々を押さえてまでわたしが側にいてもいいのでしょうか」
「吸血鬼の長は差はあれど最後は力任せで暴君ばかりなのだから今さらよ。デューが望み、あなたが望む。それで終わり」
艶然と微笑んだベアトリスはビアンカに両腕を伸ばす。
「デューに任せてしまいなさい。あの子の責任なのだから」
両腕でビアンカの身体を引き寄せてもたれさせた上で、ベアトリスは抱き締めてくれた。彼女は頭に自らの頭をくっつけて直に響かせるように囁く。
「これまでどんな事案もさばいてきたデューの最大案件になるかもしれないけれどね。――誰が止められるというの?」
生まれてはじめての本当の母親のごとき抱擁の中、優しく響く言葉にビアンカは目を閉じてベアトリスにしがみついた。
デューベルハイトは、まだ望んでくれるだろうか。




