17 苦しげ
いつかの目に似ている目に囚われている間にビアンカを連れてどこかへ歩きはじめたデューベルハイトの後を、非常に慌てた様子のフリッツの声が追いかけてくる。
「陛下ちょっと待ってください、ええっとその、お姫様とは少し間を開けてお話になっては――」
「煩い」
デューベルハイトが冷えた声とともに一瞬だけ顔を後ろに向けたが最後、フリッツの言葉は途切れ穏やかではない呻き声がしてはっと見たときにはフリッツが膝をついていてビアンカは息を飲む。
フリッツを黙らせたデューベルハイトは気に止めることなく再び歩きはじめ、隣の部屋の扉を開き、すぐに扉がさっきまでいた部屋とを隔て閉まった。
荒く下ろされたのはベッドの上。下りるまでは皺一つなかったシーツの上に少し弾んだあとに座ったビアンカは戸惑い、暗い中で自らを連れてきた人物を探す。
ここは寝室。
どうして寝室に。
そんな時間だろうか。
そうではなく、どうして自分を。
何のために。
だって、さっき……
「お前は前は気を失ったからな」
バサリ、とデューベルハイトが脱いだ上着がどこかに落ちた音で大きな戸惑いから現実に引き戻される。
同じベッドの上にデューベルハイトも乗った証に沈み、無視しようのない存在が近づいたことを感じる。暗くてビアンカにはよく見えないけれど視線をさっと前から逸らしていると、音もなく伸ばされて手が顔の横を過ぎた気配が。ということはそれほどまでに距離は詰められているとのことで、息が勝手に潜んだ――
「もう気絶するな」
と間近で言われた言葉の意味をどういうことかと理解する前に頭が、通りすぎたと思われた手に前に引き寄せられた。
直後、口がデューベルハイトの唇で塞がれて息が行き所を無くす。重ねられた唇は普段されるより乱暴に感じてとっさに力がこもるが、いとも容易く唇をこじ開け強引に割って入ってきた熱い舌が奥に縮こまったビアンカの小さな舌をすぐに見つけ出し、絡めとってしまう。
「……んぅ……」
目の前を認識すると赤い瞳があって、思わず思いきり目を閉じるとさらに口づけが深くなった。
ほとんど全ての感覚を奪われるような口づけに持っていかれて、舌を、口内を味わい尽くすようにされるがままで溺れてしまいそうになりながらも鋭い歯が当たっていることを感じ、食べられてしまいそうだと思った。
――デューベルハイトが口にした「前」とはいつか。
結婚誓約書に名前を記した日、ビアンカはデューベルハイトに普段触れられるはずのない箇所の肌に直に触れられた……が、なにぶん初めての経験で心臓も頭も状況について行かず、いつの間にか意識がなくなってしまっていたのだ。
気がつけば見た先に王の寝顔がありぽかんとしていたのはつかの間のこと、すぐに記憶のみならず肌に触れたその唇と手の熱さまでも思い出してしまってあせあせしてこのときばかりはもぞもぞと身を捩らせていると、デューベルハイトが目を覚ましてしまったのだ。
慌て焦ったのもつかの間、「まあいい」と頭と身体を元の通りよりずっと引き寄せられて何事もなかったかのように眠って、それ以降は何もなかった。
それなのに。
いつの間にか自由になった口で懸命に息を吸い、吐いて、繰り返していた。これもまた気づかないうちに身体は倒れており、だからといって起き上がるという考えを浮かばせることができなかった。
自分の乱れた呼吸音に合わせて上下する胸と軽い酸欠状態でくらくらする頭を抱えながら前を見上げ、上手く認識できない視界を瞬き、要は自分に精一杯になっていたのだ。
シュルリと立てられた音が何の音かもすぐにはよく分からなかった。けれど息を整えながらも理解できたのは、ドレスの背中につけられている可愛らしい大きなリボンが引っ張られたことにより擦れ合った音だということ。続けて手が動き、身体の締め付けがゆるりとゆるんだからビアンカは焦ってとっさに胸元を押さえる。後ろで留めてあったボタンがおそらく全て取られた。
「でゅ、デューさま、」
「さっさと刻んでおくべきだったな」
「ぁ」
「誓約書で満足している場合ではなく――直接刻み込むべきだった」
両手を頭上にまとめあげられたことにより何も押さえられなくなる。まだドレスは身につけている状態でも全身が無防備になった気がして、上から見下ろしてくるデューベルハイトの視線に落ち着かない。
その間にもビアンカの手をシーツに縫いつける手が動き、長い指がデューベルハイトと比べてしまえば小さなビアンカの手を探り、あるものに引っかかり止まる。
「指輪は所詮物に過ぎない」
キン、と甲高い音となくなった感触で指に通っていた指輪がどこかにいったことを知る。ビアンカがその行方を追える状態であるはずもなく、息をゆっくりする余裕も与えられない間にドレスがずらされ覆われていた首と肩が空気に触れる。空気の冷たさを感じるより先、鎖骨の辺りに熱く吸いつかれると唇の熱さにビクリと身体が震え、首を竦めた。
「……っ」
ふるふると横に首を振った直後に熱さは這い移動して首に小さく痛みが走るが、それは傷つけられる痛みではなくて震えが生まれるような感覚に身体が熱を孕む。
心臓が壊れそうに忙しなく打つ事さえ、今は些末事だった。熱を与えられる行為が一回一回重なる度に小さく震えるけれど、移る熱の元が止まる気配はない。ろくに気を回していられない視界をちらつく白金色の髪が頬を擽る感覚も震えの一因になる。
デューベルハイトの顔は見えない。
いつドレスの裾から入り込んだのか手が脚の内側を撫でる手つきにぷるりと震えても手は止まらず、脚を閉じようとしても間にデューベルハイトの脚があって不可能にされていた。男性そのものの手が動き肌を触れるたびに自分の身体ではなくなったみたいにこれ以上は増えないと思われた熱が増えるが、どうすることもできない。
目が半ば無意識にデューベルハイトを探してさ迷うけれど、やはり彼の顔は見えない。
それはどうしようもなくビアンカの心を乱した。
熱い唇が耳元で立てた音が耳に響いて羞恥が湧いてくる。続けて耳を這う舌にぞくり、ぞわりと経験したこともない感覚が身体を、背筋を走ってわけが分からなくなってくるのに、それを与えてくる人の顔も目もずっと向けられないことが熱の隙を縫って不安を生む。
「…………ゃ」
小さく、とても小さく出た声は拒否の声。
聞き逃されてもおかしくはない声は刹那には当然のように空間に溶け込み、消えてゆく。
無意識の声を上げたビアンカは声が瞬時に消える前に口を引き結んで顔を合わせず与えられる感覚に我慢しようと、思った。だって、顔が見えなくてもデューベルハイトだから。確かに彼だから……ぎゅっと目を閉じる。
しかし。
止まった。
どのタイミングでか、手と触れている熱、ビアンカの身体を動く全ての動作が止まっていた。目を閉じた後に動作の停止を感じたビアンカは急な事に目を開けるべきかどうか迷い惑う、その内に、直に熱を伝えていたものがふっと耳元から離れ頬に触れていた髪の感触までもなくなる。
押さえられている手は変わらず脚の間に割り込む身体があることにも変わらないけれど、すっかり沈黙したことに疑問に思いつつビアンカは恐る恐る閉じていた目を、開く。
顔があった。
恐ろしいまでに整った顔が見えて、妖しい光を灯す赤い瞳と目が合った。デューベルハイトの顔が見えて心が何か反応する前に突然行為を止めたデューベルハイトが、髪が触れないギリギリの距離からビアンカを見下ろし、口を開く。
「――お前の拒絶が、どれほど私の中を騒がせるか分かるか?」
押さえられた手首が痛い。
「お前がいくら拒絶してもこのまま私を刻み込めばどれほど楽になるだろうな」
ビアンカが瞬きと息をすることも忘れて見つめている顔で、眉が苦しげに寄せられる。
――苦しげ?
どうして、そんなに苦しそうなのだろう。不快げでもなくそれに類するようでもなく見えて、デューベルハイトがそのような類いの表情をすることを想像もしたことがなかった。
押さえられて直接の痛みを感じる手首よりもそちらの方が気になって、伸ばしたくなった手はもちろん動くはずがない。むしろ意思に連動した微かな動きを感じ取ってか、もっと強く押さえられた。
「どうすれば側に縛りつけておける。お前を傷つけずに、後、何をすれば。――なぜお前は私から離れようとする」
聞いたこともない切なげな響きを含んだ声に、ビアンカが開こうとした口は手で塞がれた。
塞がれなかったところでビアンカは何を言おうとしたのか、何かデューベルハイトにする手段を奪われたビアンカは赤い瞳を見ながら考えても分からなかった、けれど。
赤い瞳も苦しげに見えたのは、彼の表情のせいだろうか。
ビアンカの口を塞いだデューベルハイトは苦しげな顔を逸らし伏せてしまい、ビアンカからは表情も瞳も窺うことはできなくなってしまった。
ビアンカは何もすることができず、デューベルハイトは完全に動きを止めて、しばらく。
手首と、口を押さえるそれぞれの手にぐっとわずかに力が入って――次に明らかになった顔に苦しげな様子はどこにもなく、彼はいつもの顔をしていた。
いいか、と低い声が言う。
「ビアンカ、お前が何を言おうと私はお前を離さない」
お前が離れたく思ってもだ、と低く囁きビアンカの上にあった身体、触れていた手、全てが離れて――振り返ることなくデューベルハイトは出て行った。