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16 人間であること





 城に戻るとビアンカは手を拭われるなどしてから普段着のドレスに着替え、部屋のソファーに腰かけていた。机の上には侍女が淹れてくれた紅茶があり、白く湯気が立ち上る様をぼんやり見ていたはずがいつの間にか白い湯気はなくなっていて一度も手をつけないままに冷めてしまったようだった。

 気がついて、申し訳ない気持ちが生まれながらも手を動かしカップを取る気にはやはりなれず、結局わずかたりとも動かずにただただ座っていた。


 アリスの心配する声には大丈夫だと頷きを返す。思い返すに一度のみならず時折声をかけられているということは、上手く頷けていないのだろうか。そうだとしても身体どころか思考も少ししか動かない以上どうもしようがない。


 今、何時だろう。

 今日城を出たのは時間的には朝早く。この国風に言えば夜早く。森に着いて途中からどれくらいの時間が過ぎたかは記憶にないので城に戻ってきた時刻も図ることはできない。それから、ここに座っている時間も――


「陛下、この後は――」

「分かっている」


 扉が開き入って来た声に反応して身体が強ばる。あまり聞き慣れない吸血鬼の声と……デューベルハイトの声。

 神経が扉の方に向いたことを感じる一方で強ばった身体はより動く気配がなくなった。

 立たなければならない、顔を上げなければならない。思うのに全身に、特に首に鉄の棒でも通ったように固く動かない。


「怪我はあった?」

「ありませんでした。手をついたのも芝生だったので……ただ」

「様子はまだ思わしくない?」

「はい……私、ハーブティーを淹れてきます」

「うん」


 フリッツとアリスのやり取りが意識の端の方で聞こえる。その間にもデューベルハイトの気配がビアンカに近づいてきて、ふっと影が落ちてくる。

 きっと、もう、触れられるほどすぐそこにいるとひしひしと感じているのに、横の方は流れた髪で見えず、ここにきて目すら動かなくなっていた。


「ビアンカ」


 落ちてきた声に、顔は上げられなくとも反応はしなければならない。と、強い思いが働いたかいがあってわずかにだけ口は開けど、口の中が乾いている。緊張、している。


「顔を上げろ」


 上げなければならない、とは思っている。

 けれどやはり身体は動かず何か言うこともできなければ、誰一人話すことのなくなった部屋に沈黙が落ちる。


 沈黙は、長くは続かなかった。

 ビアンカの隣に誰かが腰を下ろした。誰かといえど確認するまでもなくデューベルハイトだと思われ、そう思った瞬間ビアンカの身体は勝手に離れようとした。その身体を捕まえられる。

 ビクリ、と一度身体が跳ねたことで腰を捕まえた手に力が入って離れる隙を与えられず容赦なく引き寄せられた。

 すぐそこどころか、距離のない隣に彼はいる。

 この距離はこれまでのことを思い返すと珍しい距離ではなく、身構えることではなくなっていた。


 これまでは。

 今、ビアンカの身体は不自然に固まる一方。


 それが分かったのだろう、デューベルハイトが命じる。


「どうした。何を考えている、言え」


 目を合わせず不可解な様子で一体何を考えている、と。


 何を。

 ビアンカの頭の中はいっぱいだ。他のことを考えられる余裕がないくらいにいっぱいで、それは今日の一時でビアンカに強くぶつけられたものたちで構成されている。それらがデューベルハイトとのこの距離に、ひたすらに一つの考えを押し出してきた。


「わたしは……デューさまの側にいるべきではない、です」


 出した声も勝手に、微かではあれどビアンカは自分では震えていると気がついた。しかしながらそんなことに気を使う余裕もなく、きゅうと膝に乗せた拳をドレスを巻き込んで握った。


 傍らではビアンカの髪を避け明らかにした頬に触れようとしていた手が言葉が発されると止まった、が、ほんのわずかな間で。


「それはどういう意味で言っている」


 止まっていた手がとうとう直接頬に触れ、今度はビアンカはピクリと反応する。


「側にいるのでなければどこにいる」


 そう問われれば分からない。でも、側にいてはいけないのだとの考えだけが頭にあるから。

 黙りこくっていると、頬にあてがわれた手が問いに答えず自分から顔も上げないビアンカの顔を上げさせたので、――ビアンカは一日も経たない前に合わせていたはず顔と顔を合わせることになり、とても久しぶりにまともに彼を見た気がした。

 赤い瞳に、ビアンカの姿が映る。


「ビアンカ、お前は私のものだ。そうだろう」


 甘い毒でも含んでいるように、そうだと頷きたくなる声。


「で、ですが、デューさま」


 口から出たのは「でも」。否定だった。

 赤い瞳に吸い込まれそうになる前に、合ったばかりなのにビアンカの目は逃げるように逸れた。




 ――だからこそビアンカは気がつかなかった。気がついてどうしていたかも知れないが、デューベルハイトの目にある感情が慈しむそれではなかったこと。それどころか、言葉を止めなかった。




「わたしは、人間です……。帝国の、吸血鬼の王様であるデューさまの妻となるには相応しくないのでしょう……」

「それはお前が考えたことか、それとも言われたからか」


 言われてから頭の中にそれがあって、考えることは戻ってきてからずっと言われたそれらの事で、だから考えた結果でもあるのではないだろうか。


「お前が気にすることではない」


 それでもビアンカは一度逸らした目を戻せずにデューベルハイトの顔を見ることもできなかった。


「ビアンカ」


 促すような呼び方に、ビアンカは身体も心もずっと小さくなっていて、耳を塞いでいるわけではないのにデューベルハイトの言葉を奥にまで通そうとしない。


 響いてくる。思い出そうとしなくとも思い出される、今日向けられ受けさせられた言葉の数々。



 帝国を統べる吸血鬼の王に自分は相応しくない。



 ビアンカは自分の手を握りこんで目を伏せた状態で声を絞り出して懇願する。


「デューさま、どうか、わたしを遠ざけてください」

「もう一度言う。お前が気にすることではない」


 言うと、間髪入れずにデューベルハイトにそう告げられる。







 ――――ビアンカの心は固められたままだった。








「……お前は私から離れると、そう言うのか」

「……」

「ああなるほど」


 手が離れすっと離れた身体に、側にいるべきではないと自分で言ったくせしてビアンカの胸はツキリと痛んだ。なるほど、と落とされた言葉にデューベルハイトが離れていってしまうことを予期して本当に、自分で言ったのに心が裂かれたように痛みはじめた。


 心も身体も、離れなければならないと言っているはずなのに。それで言ったはずなのに。


 なぜか今になってビアンカが心も身体も分からなくなっていた――とき、背が背もたれから離れた。

 それだけでなく身体全体が浮いて視界が高く、気がつけばデューベルハイトに抱き上げられておりどうして、と思いとっさに避けていたはずの顔を見ると同時にあまりに急激に抱き上げられたことで手をどこかにつこうとした反面、デューベルハイトに掴まることを躊躇う。


 するとそのとき顔を見たビアンカの目が捉えたのは、こちらに向けられていた目の温度が下がった様。を見た気が、した。








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