15 支配
「お姫様、もうすぐですからね」
耳を、アリスの声が右から左へと流れていく。
アリスがビアンカと相乗りしてくれて一足先に森から城に戻る道中だった。そのため他に馬はおらず、馬が歩く音も一頭分。
アリスの前に乗るビアンカはフードを頭から深く被り、それだけでは収まらず俯いていた。ローブをかきあわせているためドレスの色は見えない腹部の辺りでは、力なく持っている花冠の花びらが弱々しく揺れて……一枚離れて過ぎ去る景色に溶け込んでいった。
ビアンカはデューベルハイトの妻となった形になっている。
誓約書へサインをしろと言われるがままにサインした。流された面はあろうがそのとき確かにビアンカは考え、その上であったことに間違いはない。そして考えた結果ではビアンカに悪い要素は考えつかず、デューベルハイトの側にいるということは嫌ではない。どこから出てきたのか知れない温かな心地がしたほど。
だから。でも。
でもやはり吸血鬼たちは良く思っていなかったのだ、あんなにも多くの嫌悪、侮蔑の視線がビアンカを嫌い疎み見下す。今まで体験した中でも一番多く重いものだったかもしれない。
黒髪の吸血鬼はよく思わない目をしながらもビアンカに何か言ったことはなかった。ビアンカがどこかに閉じ込められたときも、ビアンカに向けられた言葉や目は少なくすぐに払われたものだった。
それが――お前は相応しくない、と見知らぬ令嬢に言葉で面と向かって言われ、視線態度全てがそうだった。
吸血鬼特有の瞳に異様な光が宿ったとほぼ同時、突然圧迫されて、地に伏していた。一気に全てが不明瞭になる中でアリスの声が聞こえて、会ったばかりの令嬢の声が聞こえた。
手には芝生の柔らかな感触があり、目は閉じていて視界はなかった。聴覚が拾ったのは一番近くにいるアリスの声よりも今日耳にしたばかりの声の方がよく聞こえた。アリスの声ももちろん聞こえていた、けれどその中身まで入って来なかったのはどうしてだったのだろう。反対に明瞭に聞こえた言葉は、鈴を転がしたような聞きなれない上品な同じ声が作るものばかりだったのに。美しくも冷たい声。
聞きたくないのに身体は動かなくて、耳は思いに反してそれらばかりを拾い、拾われた言葉は通り抜けることはなくビアンカの耳にねっとりと嫌に絡みつくように残って……。
すべてを嫌な感覚に囲まれており時が過ぎているのかどうか、だが永遠のようにも感じられた時間。
その中でふいに引っ張り上げられたみたいに顔がほとんど勝手に上がると、ぼやけた視界にデューベルハイトの姿が見えた気がして不思議と身体が楽になったような気もした。そのまま、安心するあの腕の中にいる心地に包まれた気までも――夢か現実か実感する前にまたあの声が聞こえてきた。
耳の中で残った言葉たちが絶えず反響し続けていたとき気がつけば耳に呼びかける声があり、顔を上げると今度こそデューベルハイトがいて、ビアンカはいつの間にか彼の腕の中にいたようだった。
安堵が生まれた――反面ですぐに他の感情に安堵を塗り潰された。
次の瞬間にはその感情、不安と恐怖に襲われてビアンカの心は落ち着かずここから消えてしまいたいとの思いが生まれてろくに周りを見ずに顔を伏せた。周りにある目を見ることが怖くて、瞼の裏に張り付いているあの目と同じ目があると思うと顔なんて上げられなかったのだ。
現実に一度にまざまざと思い知らされた。
デューベルハイトはビアンカを好きだと言った。
けれども彼は吸血鬼の王。そして吸血鬼の王には高貴な吸血鬼が相応しく、ビアンカは人間であるということでもう認められない。
ひどく胸が苦しくて、頭の中ではビアンカを否定する言葉の数々が絶えず聞こえ、胸が苦しくて仕方がなかった。
今も。
ビアンカはこんなに近くにいてはいけない。
近くにいることが許されない。
デューベルハイトにも触れることが許されない気が、した。
――それは短時間で好奇だけとは程遠い、嫌悪にも至ったこれまでとは比べ物にならない多くの視線とビアンカに意図を持ってはじめてぶつけられた言葉の数々、身体の自由を奪われた事が合わさり重なり生んだ強い恐怖心から来たものだった。
周りが全てよく思っていないような。
時間がそれほど経たずして、自分の状態を落ち着いて考えられる状態にないビアンカは耳から入り残り続けるその考えに強く根を張られ、植えつけられた恐怖に思考を支配されていた。




