8 居眠り
無断で出て行った状態だったため、城に戻るなり王の執務室へと促されたビアンカはデューベルハイトの腕の中にすっぽり収まり鎮座していた。
「外の匂いがする」
戻ってきたことに関しては何も言わず一言で呼び寄せたビアンカを腕の中に閉じ込めるデューベルハイトは、にわかにそんな呟きを発した。
外の匂い、とはどのような匂いかは分からないけれどビアンカは先程までベアトリスにつれられて城の外、街にいた。
「勝手に出てしまって、申し訳ありませんでした……」
「母上に連れて行かれたのだろう、聞いた。今回はよしとしておいてやるが、次はない」
次はない、に不穏な雰囲気を感じ取ったビアンカではあったが抱き寄せられていて顔の見えない状態のデューベルハイトの声は次いでこう続けもする。
「城の外に出たいのであれば言えばいい」
「そうすれば、よろしいのですか?」
「勝手に傷つくことも他の何者かに触れられることもせず私の元へ戻って来ることが誓えるのならば許す」
転んだりしてもいけないということになるだろうか。
ビアンカが道に躓き転びそうになった今日のことを思い出して少しばかり難しい顔をすると、デューベルハイトが一段声を低くして同じく言う。
「だが、破ったときはもうお前を外には出さない」
破ったときの罰に思わず顔を上げてデューベルハイトの顔を窺うと、
「簡単なことだろう?」
と彼は首を傾げた。
交換条件の理解し易さがだろうか、するなと言われたこと自体がだろうか。
庭での散歩と違って今日の様子だと難しそうに思えるのだけれど、少なくとも障害物がたくさんある街へ出かけることはそうそうないことと思い、頷く。すると満足げにデューベルハイトに頭ごとより引き寄せられて彼に頭が寄りかかる形に。
身動きしない間に、ビアンカの長い髪に手を差し込まみ頭の輪郭をなぞるような手つきが最初はくすぐったくて……ずっと続くと何だか心地よくなってくる。
どうしてか頭を上げる気力も削がれてきて、デューベルハイトはすっかり仕事の手を止めてしまっているが大丈夫なのだろうかとの疑問が過るも、そのときにはもう意識はうつらうつらと現実と眠気の狭間で揺れ動いていた。
思えばその日、普段そんなに歩かないのに長時間疲れ知らずに見えるベアトリスに連れられて歩き回っていた。その疲れか、ビアンカはあろうことか王の膝の上で眠るという失態をおかしてしまった。
しかし寝る時間でもないのに、それほどまでにも心地よくその膝の上で抵抗なく眠りに落ちてしまったのは、ビアンカがすっかりその位置に慣れてしまっている証拠でもあったろう。
デューベルハイトは腕の中でビアンカが眠ってしまったことに気がつき、完全に脱力した身体を抱え直した。その拍子にずれ落ちそうになった小さな手をすくい上げ、ついでのように指に通った指輪を指の腹で触れる。自らの紋章と指輪が通る指を確かめるように、撫でる。
そんな些細で優しい手つきにビアンカが起きるはずもなく元の位置に手を戻してやったあと、デューベルハイトは次にビアンカの顔にかかる髪を耳にかける形で避けた。隠すものがなくなった瞳の閉じられた顔は、吸血鬼には見られない淡い青の色彩が見えなくなってはいるがその寝顔は起きているときには見られないものだ。いつも滲む気の弱さや何もかもが一緒に眠りに落ちたよう。
デューベルハイトは自らに身を委ね眠る寝顔に、髪を避けた延長で顎のラインを手でなぞる。愛しげに、慈しむそれで、ゆっくりと。
そうして顎の先にまで指が至ったとき、彼はそっと口づけを落とし、静かに寝息を洩らす唇を塞いだ。
――行動範囲から言えば一般的には狭いと言えるかもしれないけれど、十分な世界と温かな日々をビアンカは送っていた。温かで、「幸せ」とはこういうものなのだとそれまで意識したことのなかったことを意識し感じるほど。
だからベアトリスにもそう答えた。
確かに苦手な吸血鬼もいるけれど、小さな世界の中、それを圧倒する優しさに囲まれていたから。




