6 心配事
店を出て左右を見たベアトリスは馬車が通る広い道を横切り向かいの道へ渡った。
店が立ち並ぶこの場所へどうして来たのかようやく分かったビアンカは嬉しくもあったが、祖国にいたときの身なりが長かった分装飾品をもらうのは不相応な感じがして鼻歌でも歌いそうに軽やかな足取りのベアトリスに呼びかける。
「あの、ベアトリスさま」
「あら、駄目。あなたには『お母さま』って呼んでもらいたいわ」
こちらが本題に入る前に切り返されてビアンカはうっ、と詰まり言われたことにはぽかんとする。
(お母さま……?)
聞きなれない言葉ではない。
この世に溢れる言葉でもあり、ビアンカにだって祖国でも血は繋がっていなかったようだがそう呼ぶべき対象がいた。……呼ぶ機会には恵まれなかったけれど。
疎まれていたのだから呼ぶ機会に恵まれるはずはなかった。実の娘でもなかったから、そうやって接されることも。
それなのにデューベルハイトの母親である彼女は、自分を娘だと言ってくれるのだとビアンカは不思議な心地に包まれる。結婚誓約書にサインすることがデューベルハイトの側にいることだと理解した、そのときの心地に似ているようにも思える。
こんなにも当然のように言われるものだから、特に。
本当に、帝国という地はビアンカにどれほどのものをもたらしてくれるのだろうと、ビアンカはにこにこと自分の言葉を待っている様子のベアトリスを見つめて心の中で十分に転がした言葉をそっと口の中に用意する。
おずおずと、呼んでみる。
「お、……お、お母さま?」
小さく、他の音が混ざる外では消えてもおかしくない小ささだった……が、それを拾い上げたベアトリスは大輪の花が咲いた光景を想像させる笑顔を浮かべた。
「ああビアンカ、なんて可愛らしく呼んでくれるの!」
それほどまでに喜ばれるとビアンカは何だか照れ――ぎゅっと抱き締められて「ぐぇ」と出したことのない声が押し出された。
「あら! ごめんなさい!」
「い、いえ平気です」
一瞬潰れるかと思ったことはすぐに解放された今口には出さない。
一気に気分が急降下したのか急上昇したのか、とりあえず強すぎる抱擁にどくどくと打ち始めた鼓動を宥めながら返事。大丈夫。
「本当に、嬉しくて」
抱き締められたときに立ち止まり向き合う形のベアトリスが言葉通りに心の底から喜んでくれているように見えて、ビアンカは心臓が突発的な激しい鼓動から落ち着くにつれて、頭の一部部分が考えていることに気がついた。
「お母さま……」
「なにかしら?」
子どもを持っているようには見えない美しい吸血鬼が優しく首を傾げる。
「お母さまは、わたしがデューさまの妻となってしまったこと大丈夫でしょうか……」
数年ぶりに帰ってきたらビアンカが息子の、それも国を背負う王の側にいた。母親の立場で何か思わなかったのだろうか。
思わなかったはずはない、と思う。人間であるという根本的なところから問題だと思われたのに、ここまでを知っているかどうかはさておき考えると制圧された国の人間である。そのくせ何か目に見えて魅力があるわけでもないのだから。
「あなた、物事を悪い方に考える傾向にあるでしょ」
ベアトリスはそう言った。
元々の境遇が境遇なのでそうかもしれない、とは思うけれど……。
「むしろあなたみたいな子を娘として迎える身としては安心したというか、嬉しい方よ。気の強すぎる子とはギスギスしてしまいそうだけれど、あなたは気が弱すぎるのかしら?」
「す、すみません」
にこりと言葉で突かれて否定しようがない。弱すぎる自負はないが、気が強いとは口が裂けても言えない。
「昨日も言ったかしらね。デューが妻を、それも自分の意思で迎えることになるとは夢にも思わなかったわって」
そこまでの言い方だったかどうかは覚えていない。
「私にとっては驚きで、でも後から納得のような気もしたのよ」
「納得、ですか?」
「そう。なぜならもうすでに妃候補のレディたちは出尽くして、それでもデューは誰も気に入ることはなかったようだから。自分で見つけてくるのは『らしい』と取れるのではなくって? 人間であることは……そうね、私はこの数十年で人間の国にもお邪魔してきたから柔軟になっている可能性はあるけれど、結果的にあなたのことを気に入ったのだから良いでしょう?」
ね? という風に同意を求められて、どうして自分のすぐ周りにいる吸血鬼たちはこんなに柔らかなのだろうかとビアンカは感じる。知っている内二名の親だから、それこそ納得するべきなのか。
柔らかな笑顔につられて小さく頷くと、ベアトリスは「でしょう?」と笑ってその繊手をビアンカに差しのべた。ビアンカがもう躊躇いはなくその手に触れる、けれど、ベアトリスは歩き出す気配はなくじっとビアンカを見ている。
「ビアンカ」
「はい」
「あなたは今の生活は好き?」
「……え」
「私はあなたが心配でもあるの」
「わたしを……」
「ええ、ビアンカ。あなたを」
どうして、心配するのだろう。ベアトリスの笑顔が少し薄まったことも手伝い、戸惑う。
けれどもベアトリスは戸惑うビアンカにすぐに理由を明かしはせずに「さあ次に行きましょ」と今度こそ手を引き歩き始めた。
「ビアンカ、あなたは城の外にはあまり来たことがないと言ったわね」
「はい」
「私はね、着飾ることも大好きだけれど元々出かけることも好きだったの。どこへでもね」
そうだろうな、と知っている数少ない情報だけでも思う。さっきの店で装飾品を見る目だって楽しそうにきらきらうっとりしていたから。旅をしていた、という情報からも。
「邸や城で持ち込まれた宝石類を見るよりも質なんて気にしないからこうして出掛けて、その先で見ることの方が好き。とにかく外に出ることが好きなのよ、理想は着飾ってこうして出掛けることが一番なのだけど反動が来ちゃっているのよねきっと」
(反動……?)
「前の王、私の夫はとても私を側に置いておきたがったわ。それに嫉妬深くもあった。外にも自由に出られないことは当たり前で、本当に遠くに行けることはなかったわ。確かにそこまで思われて大事にされていることは女冥利に尽きるけれど、ちょっと度が過ぎていたわね」
「お嫌だったのですか……?」
「そうねぇ、アル――私の夫の名前はアルファルドと言うのだけれど、アルのことは好きだったわ。望んで嫁いだわけではないけれど責務とは関係なしに幸運にも好きになれた。でも実家にいた方が気楽で軽かったわーって思ったことは何度もあったわねー、全部全部中で済ませられちゃうことが窮屈に感じたの」
だから、今目的があるわけでもなく旅に出ているのだと笑ってベアトリスは言った。確かに幸せだったがもっと外に出られていたならもっと幸せだっただろう、と。
「あなたは今の生活は好き?」
ガラス張りにされた空間に、ピンク色に真っ白なレースがふんだんに使われたドレスが展示されている店の前を通りすぎた。
同じ質問。
通りすぎたガラスに一瞬だけビアンカ自身の姿が映ったが、よくは見えなかった。
「わたしは、」
「ビアンカはデューのことをどれくらい知っているかしら」
デューベルハイトのことを?
強くではなく柔らかな口調で遮られて、前を向いて微笑むベアトリスの流れに流される。ベアトリスは何の話をしようとしているのだろうか。どれもこれも本題だとは思えず、かといって待つしかない。
「私はね、あまり子どもたちと接点を持って来なかったのよ」
確かに昨日見た限りでデューベルハイトとは親しげな空気はなかったようだけれど、ベアトリスの今の言い方ではデューベルハイトだけではなくフリッツとも、ということだろうか。
「フリッツとはまだ関わっていた方だったけれど、デューとは全くと言っていいほどだったわ。次期王位継承者とその当時の王の妃というだけの関係で関わりになっていたから……早くから後継者としての素質が表れていてね、アルの弟の方が政務のことで関わり合っていたのではないかしら。だから今も、母上とは呼ばれてもデューにとっては私は母というより先代の王の妃という方が強いのではないかと思うわ」
ベアトリスは流れるように、そっと続ける。
「まるで王になるために生まれてきたように情というものに繋がりが薄い、冷酷な子」
デューベルハイトが冷酷な面を持っていることは、ビアンカもうっすらと知っている。
容赦がないのだと。それに、生まれながらの王者のような気配はとても身に覚えがある。けれど。
「ですがお母さま、デューさまは温かいお方です」
温かい面を持っていることも確かなのだ。
ビアンカが抑えきれず言ってしまうと、
「そうね。四年しか経っていないのに久しぶりに見た気がしたわ、『血の気』が通っているような気がしたせいかしら」
ベアトリスは気分を害した様子は微かにもなくすんなり頷いた。
しかしこう続けもする。
「――とてもアルに似ている。王位を継いでアルを遥かに越える才能を発揮しはじめて、けれど色恋方面にちっとも気を向けないものだからきっと性格の片面だけを受け継いでしまったのね、と思っていたの。でもフリッツに聞いたことと見た様子では違ったようね、やっぱり受け継いでいてこっちも遥かに彼を越えているみたい」
前を向いていたベアトリスがビアンカを見る。
「ビアンカ、私はあなたが心配よ。とてもね」
「それは、どのようなところがですか?」
本題は最初に述べられていたのだ。同じところに返ってきたから。
ビアンカは今も心配されているところが分からずに尋ねると、ベアトリスはようやく答えてくれる。
「あなたが幸せになれるかどうか」
「……?」
「デューベルハイトに引きずられているだけなら、あなたはきっと幸せになれないわ」
幸せ。と心配されている事項を明かされて、ビアンカは別の意味で戸惑う。
引きずられていると示される具体的なことは分からないものの、今これ以上の幸せがあるというのだろうか。ビアンカは現在幸せであるように思える。これ以上があるとしてもビアンカには想像ができなくて望むことはないだろう、とも。
だから、ビアンカはそれを表してみることにする。
「わたしは、今で幸せだと思います。これまでにないくらいに」
彼女に対してきた中で一番しっかりした声音で言うと、ベアトリスは虚を突かれたような表情を一瞬、それから。
「そう」
と微笑んだ。
「……そうね、あまり心配し過ぎるのは良くないわね。どんな夫婦にだって色んな山も谷もあるものよね」
――『娘』も慣れませんが、『夫婦』も慣れません。




