5 外出
ベアトリスが突然現れた。美しく綺麗な笑顔で「ビアンカ、私と出かけましょう」と言われたビアンカは出かけるとはどこに? となりつつ外に出るのであればデューベルハイトに……という問答を一応経たのだが気がついたら外にいた。
ベアトリスにヒョイと軽々抱き抱えられて窓から躍り出られ、混乱の最中でも覚えている限りでは屋根の上をあり得ない速さで走り、落下し、上下に揺さぶられ――気がつけば見たことのないところにいた。
抱き抱えられていたことでどこにもついていなかった足が丁寧に下ろされて地につき、記憶が混乱して整理できていないせいで瞬時に移動していたかのように錯覚してしまいそうな中、何度も瞬き広がる景色が消えないことは確認済み。
暗くても分かる。部屋ではなくそもそも屋内ですらない環境は突然放り込まれた身としては新鮮と感じるまではまだ行かないようで、とっさに隅に寄りたい気分に陥る。けれどそのような隅は見つかりそうにもない、ビアンカが立っているのは道でその道は四方に伸びているのだ。
周りを見渡すと城ではない小さな建物が立ち並び、少し離れたところからいくつもの声が混ざった音、ガラガラと馬車が道を行く光景を思わせる音が聞こえて引かれるようにそちらを見ると、建物に挟まれた道の先にぼんやりと小さな小さな灯りが見えた。その前を人影が通る、一度だけではなく何人も何度も。
どうやら道を進んだ先には活気溢れる場所が待ち受けているようだ。
「さあビアンカ、行きましょうか」
一番近くからの声に未知が広がる方向へ意識がいっていたビアンカが前を見ると、にこりとフリッツそっくりの笑顔でベアトリスに笑いかけられる。
――ここはどこでしょうか
ビアンカが連れてこられた場所は首都、城のある元に広がる大きな街のようだった。窓からだけ見たことがある景色の中にビアンカはいるのだ。
祖国でも城から出たことがなく帝国に来ても同じような範囲でだけ過ごしていたビアンカには実に新鮮極まりない体験。馬車が通れるようにかかなりの幅がある道を挟んで、主に人々が歩いている左右の道の右の道を行っているビアンカの視界は狭いのに情報はすでに過多となっていた。
ベアトリスに「お忍びね」と言われて頭から身体までを覆うローブをドレスの上から身につけ、フードをすっぽりと被り、「これは目立つからちょっとだけしまっておきましょ」と紋章つきの指輪を指から外して、フードの影外を窺っている状態。
店だと思われる建物が並ぶ道、それだけでももう見るのに忙しいが、何よりもすれ違う全ての人々――が吸血鬼。赤い瞳を持っていた。
当たり前、ここは吸血鬼の住む帝国のそれも首都。人間とも共存しているとは聞いたが、吸血鬼にも一般の民がおり首都ともなれば吸血鬼の方が多いのだろうと頭のどこかが冷静に判断する。
それ以前にここに歩いている内で目につく吸血鬼たちの身なりが良いように見えることから、彼らは貴族だろうかと思う。赤い瞳の貴婦人と赤い瞳の紳士が共に上品な構えの店に恭しく開けられたドアの中に吸い込まれていった。
そのドアを開けていた者が伏せていた顔を上げ、ビアンカは慌てて顔を逸らした。
すれ違う吸血鬼たちの中で一人人間であることを、とても実感する。
城の中とは格段に違う人数と見知らぬ人、もとい吸血鬼であることがなおさらに。緊張だと推測できる身体に走る感覚があるのは吸血鬼の中に一人だけ人間との意識があるからだけではなく、むしろ外も外の街にいるからだろう。
慣れない空気感、雰囲気に不安も感じて、握られている手をぎゅっと握ってしまう。
ここに至るまでにアリスが後ろから呼ぶ声が聞こえていた気がしたのだけれど、いざ止まって状況をいくらか飲み込んだ今アリスの姿はなく完全にビアンカとベアトリスの二人だけだった。
ベアトリスがはぐれないようにと握ってくれた手はとてもありがたいものだった。やはり外は夜で暗いことももちろん働くが、灯りがあってもビアンカには十分とは言えないくらい暗めな場所はありさらに見知らぬ場所。こんなところで一人になったらと思うと不安で仕方ない。
しかし失礼ながらベアトリスとは昨日が初対面でさらにろくに話していないものだからどう振る舞っていいか分からない……。
「ビアンカ、そんなに下ばかり見ているともったいないわ」
「は、はい」
石造りの地面を向いていた顔を慌てて上げて、見知らぬ吸血鬼とすれ違うところでまたすぐに慌てて目を伏せる。
「もしかして緊張しているの?」
「お城の外にはあまり来たことがないので……」
「デューが許してくれないのかしら」
「い、いえわたしは、元々部屋に籠っている性分ですからそのためです」
「そう?」
これまた慌てて首を振ると、ベアトリスは顔を傾けながら納得してくれた。
そう、デューベルハイトが許す許さないの前にビアンカが街に行きたいと言い出したことがない。これまでの人生で縁がなかったこともあり思いつかなかったのだ。それゆえに慣れず、軽く挙動不審。
「あ、このお店に入りましょ」
ベアトリスが歩くままに歩いていたビアンカはそんな言葉が早いか、手を引かれて大いに右に寄ることになる。その先には立派な扉が入り口となる、店。
(は、入るのですか……!?)
躊躇いたいビアンカとは正反対に、手を取るベアトリスは躊躇なく店の中へと入っていった。
中は、外よりも明るい気がした。そしてあちこちで立っていた音が消えたことで背後の扉が閉まったことを知る。店の中はとても静かだったのだ。
中にはそれほど多くの吸血鬼はおらず、いる吸血鬼たちは全員それなりに身なりが良いと後ろ姿や横姿で分かる身分で全員自身の目線より下にあるものを熱心に見ている。
「自由に見てもいいかしら」
「もちろんでございます。ご入り用の際はいつでもお呼びになってください」
す、と音もなく近づいてきた吸血鬼にベアトリスが言うと店の者であるらしい吸血鬼はすぅと離れて行った。
ベアトリスの格好はこの場では明らかに目立ち異質そうなものだけれどその雰囲気で何か察したのだろうか、怪訝そうな様子はまるでない。むしろビアンカの方が浮いているのではないかと思われる。
「目の色で人間だということは分かってしまうにしても、そんなに隠れなくても大丈夫よ? 首都に人間は稀にしかいないから珍しがられるけれど、私もいるから怖いことにはならないわ」
フードの奥に隠れたビアンカに、ベアトリスはそう囁きを落としてきた。
たぶん、ビアンカは過剰に反応しているだけですれ違う吸血鬼たちはただ歩いているだけ。ビアンカのことを意識もしていないだろう。むしろ陽もないのにローブをすっぽり被って挙動不審になっている方が怪しく、ビアンカを誤魔化してくれているのはベアトリスの堂々とした様子だ。
それでも不特定多数の知らない吸血鬼たちに囲まれること自体が緊張ものなわけで……。
「ど、努力します」
「無理にとは言わないわ。しがみついてきてくれるのはそれはそれで可愛いから」
ぎゅっと店内でも手を握ったまま、ベアトリスはそう言い奥へとビアンカを導いた。
「あら、このデザイン良いわね」
この店は装飾品を売っているのだ、とビアンカは目にしたもので分かった。ガラスでできた箱の向こうに飾られているのは見事なネックレスだった。大粒のアメジストが一番目を引き、細かな星の煌めきのような宝石が左右を彩り首の形に沿うように円を描く。
それを良い、と言ったベアトリスではあったがそれほど注視することはなく隣へ流れ出いく。隣にはまた別のネックレスが揃いのデザインのイヤリングと共に飾られ、また隣は吸血鬼たちの瞳のごとき色の宝石を冠した――
「ビアンカは気に入ったものはあった?」
「え、わ、わたしですか? い、いえ……」
小さな子どものようにベアトリスに連れられるがまま前を流れていく装飾品たちを見てはいたが、素敵だなと一つ一つを見ていたにすぎず唐突に尋ねられて首を横に振る。
「んー、ビアンカの瞳は綺麗な淡い青色だものね。吸血鬼にはない、素敵な色。同じ色の宝石を使ったものはないかしら」
ベアトリスはビアンカの返答はお構いなしにビアンカが未だに被っているフードをちょいと上げて目を覗き込むようにした。
そのベアトリスの瞳こそ宝石よりも余程綺麗な色をしていると思う。宝石より生き生きとした瞳、宝石にはこのような輝きは出せない。デューベルハイトとは異なる瞳だと、ふと思った。
そういえばデューベルハイトには結局言って来ず終いだったことが思い出されて、少し落ち着かなさが戻ってくる。
ローブの内ポケットにしまい込んだ指輪を外側から確かめている間にも、ベアトリスは店に展示されている装飾品だけではなく店員に色々と尋ねているようだった。
「いい色。ビアンカ、これはどう?」
「とても、素敵だと思います」
「ええあなたによく似合いそう、でも少し濃い色ね」
どうしてビアンカに? と手袋をはめた店員によりビアンカの胸元に当てるようにされたネックレスを見てベアトリスを見上げる。はて? と。
そうすると「もっと似合うものがあるはず」と店員にネックレスを下げさせたベアトリスが考えていることが分かったみたいに笑う。
「だってあなたに何かプレゼントしたくて来たのだもの」
「……え」
「だから良いものがあったら言ってちょうだいね。一番良いのはやっぱり欲しいと思ったものよ」
「そ、そんな、わたしは」
装飾品を身につけることに慣れていない。
帝国に来てからアリスが嬉々としてビアンカを飾り立てようとするのだけれど、あまりに輝きを秘めた装飾品類をつけられると異様に緊張して動きが慎重になってしまう。ゆえに出来るだけ遠慮している次第であり、そもそものところビアンカにそういったものは畏れ多いような思いがある。
と、手と首を駆使してベアトリスの思いもよらなかった言葉にいいですと表現すると、ベアトリスはより笑う。
「遠慮はなしよ。私は元々宝石は好きで着飾ることも好きだけれど、誰かのために選ぶって違う楽しみがあるから私の好きでやっているの」
「ですがわたしは今のままでじゅうぶ、」
「現状で満足しちゃ駄目よ。それにデューにはそういう考えはないのじゃないかしら? 何かプレゼントされた? あの指輪は問題外よ」
指輪はなぜに問題外なのだろう。
ビアンカの答えを待たずしてベアトリスはあっさりとその店を後にした。見尽くしたらしい。




