2 指輪の意味
ビアンカがいつも身につけることになっているものがある。一つの金色の指輪。上に向ける部分にあるのは宝石ではなくとある模様が彫られているだけの、一見するとシンプルなデザインなそれはとても特別な代物だった。
ではどう特別なのか。
帝国の王にして吸血鬼の王デューベルハイト・ブルディオグはなんやかんやあってビアンカの『夫』にあたる吸血鬼である。
その容貌は初対面の印象では白金色の髪と赤い瞳も相まって恐ろしいまでに整っているとさえ思わせた造形で、今見てもなお整っていることには変わりはない。
王として相応しい装飾の施された衣服を身に纏うが、他にネックレス、ピアス、ブローチなど加えて身を飾ることはしないようだった。それで十分で不自然ではない姿のデューベルハイトではあるが、ただ一つ思い返せるだけでも寝るときも外していない装飾品があり、それが金色の指輪だったりする。
ビアンカと同じ、模様が彫られている指輪。というよりもビアンカに与えられた指輪が王と同じものなのだが、この指輪が特別である所以は彫られている模様の正体にある。
ここブルディオグ帝国には国としての紋章があるが、それ以外に移り変わる王には代々紋章があるらしい。人間よりも遥かに長生きで、従って治世も段違いに長い吸血鬼の王が代替わりすると作られ、王が命令書などに許可を示す際に押す印鑑になったりするそうだ。
と話してくれたのは王ではなくフリッツで、それも指輪を王に手ずからはめられてから数日後のこと、かなり簡単に分かりやすく説明してくれた。通称『王の紋章』と呼ばれるのだと。
帝国の紋章は他の国に向けたもの、代々の王ごとに作られる紋章は主に国内向けたもの。
基本的に追加で装飾品を身につけない性格のようなデューベルハイトが指輪を身につけているのも代々のしきたりのようなもので、いつも見える指にその証として存在する。
ビアンカの指にある指輪に刻印されている紋章も言わずもがな現王デューベルハイトのものである。
が、しかしその紋章自体を身につけることは基本的に王自身にしか許されないものだとも聞いたので、そうなのかと新たな帝国独自の文化に触れていた気分だったビアンカは「ではなにゆえにこれを自分に?」と思い指輪を突然渡されたことも合わせて改めて尋ねると、フリッツはどう言ったものかと見られる表情をしてからこう言った。
「まあその紋章はつまり陛下自身の証であるわけでして、お姫様は陛下の妻となられたでしょう? その証、みたいなものと思ってください。陛下もそのおつもりでしょうし」
「……独占欲の表れだー」とフリッツの小さな声が聞こえる傍らで、ビアンカは『妻』との単語に慣れないものでくすぐったいような感覚を抱えていた。
結婚誓約書にサインをして書類上ビアンカはデューベルハイトの妻になり、確かにまるで恋人に対するような――いや実際は夫婦になったようなのだけれど――対応も受けるが『妻』と言われる場面は中々にない。
改めて視線を指にある指輪に落として紋章を見ると、それにしても基本的に王しか身につけてはいけない紋章を自分が身につけていいのかと思われ、手にある指輪が重く感じられてならなかった。
ぴったりとはまることを考えるにビアンカとデューベルハイトのサイズは大幅に違うはずなのでビアンカ用に作られたよう。いつの間にサイズをと思うくらいにぴったりなので手を下に向けても振っても取れることはない。
考えた結果、王にも「外すな」と言われたのでつけておくことにした……のだが、当初つけておけと言われても習慣がすぐにつくわけでもないのでお風呂のときに濡らすことを避けるため外していたあと、忘れていたことがあった。
ビアンカ自身よりも先に気がついたのは就寝時に決まって迎えに来るデューベルハイトで、元々刻まれている眉間のしわが深まったかと思うと指輪がないことが発覚した。「指輪はどうした」とその一言。
しまった、お風呂のときだとビアンカがおろおろあせあせしている間に後から侍女が指輪を持ち追いかけて部屋に入ってきた。その侍女から指輪を受け取ったデューベルハイトは、
「何のためにお前にこれをつけさせていると思う。――お前が私のものだという証だ」
指輪をビアンカの指に戻しながら言ったのだった。
***
デューベルハイトが仕事に戻った後。ビアンカが外に出られると分かってぶんぶんとしっぽを振る銀毛の狼と、起きてきた茶毛の狼と一緒に外に出たビアンカは二頭の狼がじゃれあっている光景を眺めている。
大きな狼たちが相手に飛びかかったりのし掛かったりしている様子は何度目にもなると落ち着いて見られるが、ときには喧嘩であったり本気で襲いかかっているような迫力が見えてはらはらとする。口を開くと並ぶ尖った歯と大きな牙がそう感じさせてくるに違いない。
今はごろんごろんと両方が立ち代わり入れ替わり地面に倒され倒しでどんどん離れて、宵闇でビアンカの目で見える範囲を越えていってしまった。こんなことも珍しくはないのでもう慌てない。
最初に遠ざかって見えなくなる姿にどうしようと思ってわけもなく慌て追いかけようと走った結果転んだ過ちはもう二度と犯さないだろう。
二頭以上になるとビアンカそっちのけで遊びはじめて夢中になっているのかどこまで行ったか中々戻ってこないこともあり、彼らは自由に城に出入りして戻って来られるようなので別に待つ必要はないのにいつもビアンカは待っている。最終的には狼は戻ってくるからだ。
眺めていた狼がいなくなったことで見るものがなくなった目で頭上を見上げてみると、空は少しも曇っていない満天の星空を広げていた。余計な灯りもないのでそのおかげもあって星の輝きがよく見えるのだろう。
以前にとある事件があってからビアンカが一人で出歩くことはなく、今も側にはアリスがいる。ビアンカが帝国に来てから――正確には到着する前からになるかもしれないが――侍女として側にいてくれているアリスは数ヶ月経った今も変わらず侍女としていてくれている。
「お姫様、寒くないですか?」
こんな風に。吸血鬼にとってはそうでもないそうなのだが、人間にとってはこの国の気候は寒いのでこの気遣いを今も変わらずしてくれる。
「大丈夫です」
このアリスは実はビアンカの護衛も兼ねているそうだ。彼女だから一人で済んでビアンカは外に出られるのだとかフリッツから聞いた。
なぜに自分に護衛をとまずはその点を思うと、単なる侍女だけでは以前のようなことを企む吸血鬼が――「もしもですよ、もしも」とフリッツは言っていた――いても防ぐことはできないかららしい。確かにそうかもしれない。
そこでビアンカは一つの違和感に気がつくことにもなった。デューベルハイトに護衛らしき吸血鬼はついていただろうか、と。
いつも近くにいるフリッツ、彼は側近であり護衛が主ではないだろう。と考えると見当たった記憶がなく、王が護衛を連れていないことに今までなぜか気がつかなかったし、城内とは言えど一番重要な地位にあるので四六時中護衛が側にいてもおかしくはない。むしろ護衛らしき影を目にしたことがない事態がおかしい。
しかし理由を聞くと単純。吸血鬼とは血筋が貴い者ほど優れておりさまざまな身体能力、吸血鬼特有の力が強い。従って国で最も尊い王が一番強く、過去に刺客を手も触れずに目に見えない吸血鬼の特別な『力』だけで地に沈ませた……とか聞くとそれはいらないなとしみじみ思ったものだ。
一方ビアンカは人間であり、どのような吸血鬼にも劣るどころかひ弱な部類なので人間にさえ勝てないと思われる。
フリッツが彼女さえいれば一人で十分と言わしめたアリスはどれほど強いのだろう。出会った頃に家の影響で軍人と侍女とを行き来している状態だったと聞いたか、侯爵家の中でも高位の血筋を持つらしい彼女なので――潜在能力は高いと思われる。
「アリスさんはお強いのですね……」
「何ですか急に!? 照れます!」
全力で照れるアリスの側で、ビアンカはしみじみと彼女には本当に感謝しなければならないことだらけだと感じる。
軍艦の中で出会わなければビアンカはもっと縮こまっていただろうし、ずっと良いようにしてもらってばかりなのだ。
「私一生お姫様のことを守りますよ!」
「そ、それはありがとうございます」
「もちろん侍女としてもお姫様の可愛らしさをより引き立てられるように腕を磨きます!」
「い、いえそれはもう十分備えられているかと思います」
「駄目ですよ! せっかくお姫様はお可愛らしいんですからもっと色々着てもらいたいです!」
「それももう十分といいますか……」
元々握られていた手にもう片方の手も添えられ力説される。
実は起きている時間はずっと夜で暗いために外では特に足元が見えにくい。そこで灯りではなく手を引くことを思いつくのは吸血鬼ゆえかアリスゆえかは不明ではあるが、アリスと手を繋いで散歩に興じていたところなのである。
子どものようでどうかと思ったのは最初だけで温かい手と手を繋ぐことは新鮮で、なんだか嬉しかったからビアンカは甘えてしまっている。
その手が増えて正面から向き合う形になったのではあるけれど、力説とともに力が込められたことに内心少し焦る。アリスは熱が入ると力加減を誤りかける傾向にあるためだ。この元気がよくはきはきとした口調がいつにもまして弾けるときは、そのタイミングがどこなのかビアンカにはほとほと読めない。
早くも勢いに押され気味のビアンカは手を握られるままにそのままで十分だと本心から言うも、一度走りはじめたアリスの勢いは止まりそうにない。
「今度のときはもうそれは腕によりをかけてお姫様をより可愛らしくしてみせます!」
「それは楽しみにしています……?」
断る度胸はない。
今度とは、アリスならば明日とでも言いそうなものだと思いつつ今度とはいつだろうとも思う。
「ガウ!」
「……ガウちゃん……?」
近くからではなく遠くから聞こえた吠えにアリスにたじたじたったビアンカが狼たちが消えていったはずの方向を見ると、ぼんやりと暗闇の中から駆けてくる白い塊。
「帰ってきたみたいですね」
熱弁していたアリスもそちらを見た。
どうやら散歩は終わりそうだとビアンカは元のように手を繋いだ状態でアリスとぐんぐん近づいてくる狼を待つ。
待っていた、が。
「ガウ!」
「バウ」
あっという間にさすがの獣の足で来た銀毛の狼と茶毛の狼が行儀よくも前にピタリと座って順に吠える。
ビアンカはいつもなら彼らの頭を順に撫でることをするのだけれど、今は狼が来た方を狼が来てもまだ凝視していた。誰かが、来ている。
狼たちよりゆっくり姿を徐々に明らかにしていく影は――狼ではなく人の形。
「あ」
アリスが先に見えたと思われる声を上げた。ビアンカが見上げると、「問題ないです」とのこと。
不審人物の類いではないことは保証され、顔を知っている人物である可能性は低いのでとりあえず待っているとその吸血鬼は現れた。
「あなたたちデューの狼ではなかったのかしら? 案内をしてくれると思っていたのだけれど」
乗馬服のような衣服を身につけている吸血鬼はすらりとした体型の女性。額を出した形で後ろに流している金髪が首を傾げる動作に従って右側に流れ、赤い瞳はビアンカの前にいる狼に向けられており、美しいというより綺麗な声と形容したくなる声で作られた言葉とともに細い眉が上がる。
イヤリングの赤い輝きがこれほど似合う姿もないだろうが、宝石がただの飾りと化す美女。絶世の美女とはこのような人物のことを言うのだろう、とビアンカは姿が見えた吸血鬼に完全に見とれていた。
「王太后陛下」
「あら、そんな呼び方をされることは好きではないわ。ベアトリスと呼んでちょうだい」
アリスが隣で様子で呼びかけたその呼び方に見とれていたビアンカは辛うじて引っかかるほどの意識はあり「ん?」となる。『王太后陛下』――ビアンカの人生の中では実際には聞き慣れない言葉。しかしながら知識としては知っている、と思う。
それにこの女性はさっき……
「あなたの狼なの?」
「……い、いいえ違います」
ぽかんとしていたビアンカは絶世の美女に目を向けられ尋ねられて反応遅れつつも否定した。ビアンカの狼ではない。
返答を受けた吸血鬼はまた首を傾げ、じぃとビアンカを見続けている。どこかおかしいだろうかと反射的に思ってしまうビアンカはしかし見られるままに身動きができない。
吸血鬼の視線は目が合っていたことからはじめは顔に。徐々に観察するように移り、すぐに止まる。
「あら、それはデューの紋章よね?」
紋章、の言葉に思い当たるものがある手を見下ろすと指輪がある。紛れもなくこれを示した言葉であるが小さいのによく見えたものだ……。
(王太后陛下……王太后陛下……あ、)
女性が口にした「デュー」――デューベルハイトを示す呼び方。
ビアンカは「王太后」の意味を時間をかけて思い出すことができ、頭の中にぼんやりとあった系図に一つ当てはめながらぱっと背の高い女性を再度見上げた。
「あなたはお嫁さん?」
――もしかしてお母さま、ですか?




