1 代わり映えがしない平穏な毎日
帝国に来て数ヶ月が経ちそうな今もビアンカはのんびりとした生活を送っていた。
「ガウちゃん、遊びたいのですか?」
ソファーに座って本を読んでいると、いつからか足元に何度も繰り返しふわふわとした肌触りのものが触れ、それは動いていた。意識が連なる文字を少し離れた隙にふとそのことに気がついたビアンカが本から目を移すと、銀毛の狼がいたのだった。身をこすりつけていたようだ。
「ガウ!」
狼は相変わらず言葉が分かっているみたいに吠えるので、ビアンカは本を閉じた。
***
代わり映えがしないと言えば悪く聞こえるかもしれないけれど、ビアンカにとっては穏やかと言うべき日々である。祖国にいたときの十五年もほとんど部屋か書庫で過ごしていたし、ここには話し相手も戯れる狼たちもいるので退屈することはない。
外にもときどき出る。主に城の敷地内の庭となるのだが、十分である。
本を読むことをやめたビアンカはソファーから降りてしゃがみこみ、狼の毛並みを飽きることなく丁寧に撫でて思案していた。
時刻にして昼過ぎ、この国での生活にも慣れて起きている時間がいつ外を見ても真っ暗――夜なのには慣れた。
ときおりさすがにお日さまが見たいなというときもあるが、なんとなくやり過ごしているうちに数ヶ月経ちそうという事が起きているので今度言い出してみるのも有りかもしれない。デューベルハイトが許可を出してくれる可能性がないわけではないのだから。
そのデューベルハイトとはいうと、ビアンカが狼を撫でている部屋はビアンカの部屋なのでここにはおらず執務室にいる。たぶん。
朝連れて行かれたときには執務室の机に向かいはじめ、ビアンカが出ていったときにもまだ机にいたけれど、それから一時間経っているので現在そうかは推測でしかない。
帝国の王にして吸血鬼の王、デューベルハイトは忙しい。それは今に始まったことではなく普段から忙しいのには忙しいものなのだ。あのように毎日高く積まれた書類をどうやって処理しているのかとビアンカは不思議でたまらない。
相変わらずビアンカは執務室に連れて行かれるも、これまた相変わらずビアンカは黒髪の吸血鬼――カルロスのことが苦手であり、その吸血鬼がいるときには好んで執務室に残ろうとは思わなかった。慣れるべきなのだろうか、しかし慣れる兆しは見えない。
もしかしてビアンカはほとんどが好意的な視線に囲まれているので耐性が弱くなってきているのではないだろうか。
「ガウちゃん、中で遊びますか?」
「……」
銀毛の狼は撫でられ気持ち良さそうに目を閉じたまま口を開く気配がなかったので、今度は反対の事も聞いてみる。
「外で遊びたいですか?」
「ガウ!」
こういう反応が返ってくるからきっと言葉が分かっていると思えてならない。
目と口とを同時に開けて元気に返事をしてくれた銀毛の狼、と、少し離れたところで伏せて背を向けていた茶色の毛の狼がピンと耳を動かしたではないか。
聞いている、おそらく出ることになったらしれっとついてくる。茶色の狼はビアンカに二番目になついてくれている狼なのだ。
「では外に出ましょうか」
「それは私に言うつもりだろうな」
「もちろんデューさまには言って――」
無断外出厳禁とはいえ言えば可能なのでもちろん言っていくつもりだ、と狼を見ながら答えているとはた、と気がついたことがあって声が自然と途切れた。
狼が話すはずはない。この言葉を理解している様子ではそろそろ話しはじめてもおかしくはないようにも思え――おかしい、狼は話さない。
狼を撫でる手を止めて声がした背後を振り向いても足元しかまだ目に入らないので見上げると、白金色の髪に赤い瞳という色彩が目を引く、微動だにしなければ一枚の絵画に見えるほどの美貌の男。声の主、デューベルハイトが立っているではないか。
ビアンカは振り向く前に声で頭のどこかはすでに誰かとは判断していたものの、いつ背後に立たれていたか全く気がつかなかった。
「でゅ、デューさま……!」
「お前はすぐに私の見える場所からいなくなるな」
だから来たと言いたげに。
「それは、お手間をおかけします……?」
デューベルハイトが仕事の合間にビアンカの部屋に来る時間がある、その時間まではビアンカが執務室にいた方がいい気もしないでもない。忙しいのならなおさらに、と思い言うとそれ以上は言われずヒョイと抱き上げられ気がつくとソファーに腰かけたデューベルハイトの膝の上。
「外に出るのか」
「は、はい。狼と一緒に出たいのですが……」
「一人では出るな」
「はい」
許しは出たのでしっかり頷きもしてから、すぐそこにいるはずの狼をちらりと見ると片腹を見せてぐでんと横たわったまま。撫で待ちだろうか。許しが出ましたよと後で教えてあげると、今は床に落ちているしっぽがきっとふっさふっさと振られるだろう。
と少しだけ狼に向けていた意識は急激に引き戻された。
膝の上に置いている指に触れるだけでなく絡んできた武骨な指があり、一番に向かう位置的にはめられた指輪を確かめるようになぞる。指の合間にまで至り、ただ触れられているはずがその触れられ方に手から広がるこそばゆいだけではない感覚に勝手に頬が熱くなる。
手を引くこともできずにデューベルハイトを見ると、反応を眺めているようにじっとビアンカに眼差しが注がれていた。赤くなっているはずの顔を見られることが未だに恥ずかしくなるも、意識するともっと熱くなってきて逆効果なようでビアンカは困るしかない。
――頬が淡く色づき色味がどこか艶かしくも濃くなると、その様子を目にする王の雰囲気がまるで誘われるように濃密になっていくことを人間のお姫様は知らない。しかし彼女は彼女なりに感じていることがある。
ビアンカがどことなく目を離せずに見つめているデューベルハイトの瞳の赤が濃密になった。
ずっと見ていなければ分からないそれは最近分かってきた前触れだ、とビアンカは認識していた。元々宝石よりも美しい色をした赤がもっと深みを増していく様は他の何にも見られないもので、つかの間見とれてしまう。
ただその場合、次瞬きしたときには。
「……ん」
唇に食らいつかれている。
代わり映えがしない毎日、毎日が平穏で起伏なく過ぎていく刺激が全くない毎日……では、正確にはなかった。
デューベルハイトの触れる回数は減る様子を見せないどころか、どこでも構わずこのようなことが増えはじめてビアンカはどうしたことかと頭を抱えたく恥ずかしさで隠れたくなるほどになってきている。
それらはいつも突然で、認識しはじめた『前触れ』を恥ずかしがって顔を伏せたりしていて見逃せばもっと唐突に感じられる。
今も部屋には侍女がいるはずなのに、デューベルハイトの方は欠片も気にする様子を見せたことがなく、最初は気になって仕方がないビアンカのなけなしの心の余裕を呼吸と共に奪っていく。
上手く息ができないのは慣れた慣れないではなく呼吸を奪われる口づけの仕方をデューベルハイトがするから、だとビアンカは思っているが果たしてどうか。
数ヶ月が経とうとしているのに一向に限度が見えてこない王の重ねられる口づけを受け止め続けるビアンカは、この行為によってもたらされる甘い痺れに溺れさせられてゆく。
――現在窒息気味です




