22 迫る決断
次の日起きてからの時間、ビアンカは狼と密かに待っていたけれど、昨日のことを思うと安堵するべきか、王は来なかった。少しだけ寂しい感情が芽生えつつ、一日の終わりが近づきすっかりお風呂にも入ったあと手で狼をもふもふ――
「お姫様、結婚の件ですが会議は通過しましたよー」
会議を今までずっとやっていたらしい。
フリッツが入ってくるなり、にこにことした笑顔を携えてのんびりした口調でとんでもないことを言った。ビアンカは狼のもふもふな毛に手を埋めたまま動きを止めて、フリッツを見上げた。
「会議を、通過ですか……?」
「円満といえば円満です本当。そういえば陛下が縁談を寄せ付けず早くも生涯独身疑惑が出て来ていることを忘れていました」
それでいいのか帝国、とビアンカは心の中で言わずにはいられない。
――フリッツの言う『会議を通過』したことといえば昨日王の口から出てきた『結婚』の話。
反対する吸血鬼がいるはずだと考え言ったビアンカに王は言った「それを払えばいいのだろう」と。
まさか昨日の今日だとは。
「いやあ大変でしたよー、陛下がはじめから力ずくで行こうとするので。後のもしものことを考えないんですから。その代わり長くなりましたけどね」
近くまできたフリッツが半日以上かかりました、とか言っているが、半日程度で飲み込ませた方法とはいかなるものなのか。ビアンカは気になったがそれどころではない。
昨日からもうすぐ一日になる時間中テーブル隅に置かれたままの一枚の紙、サインする気になればいつでもできるようにと置かれている気がしてならない紙。
ちらりと見てしまったけれど、目を逸らす。
「それにしてもお姫様は昨日てっきりサインしてしまうかと思っていました。意外と強情なんですね」
その視線を追ったと見られるフリッツに言われた通り、昨日の時点では結局ビアンカはあの紙にサインすることはなかった。あの王を相手に快挙と言えるかもしれないが、それは強情というより混乱が大きすぎて、それから……。
「これで逃げられませんねー」
「面白がっていらっしゃいませんか、フリッツさま……」
「まさかー」
紙からビアンカへ顔を向けたフリッツはまさにまさかーという顔で笑うが、これは信じられない。
アリスもアリスで早まって祝福してくるし、ビアンカの味方は銀毛の狼しかいない。撫で撫でする。落ち着かねばならない。
「お姫様、少しだけいいですか?」
「はい」
「私にだけこっそり教えていただくことは可能ですか?」
「何をですか?」
「お姫様が陛下との結婚に消極的な理由です」
フリッツがしゃがみこみ、内緒話の体勢になった。
ビアンカは思いもよらず尋ねられたことに手の動きを止め、頭の中からどうにか答えを捻出する。
「…………それは、あまりに急で……」
「時間を置けば可能なんですか?」
「……でもわたしは人間で、それに身分も、吸血鬼の方にとっては王であるデューさまの相手には好ましくないはずです」
「それはさっき決着がつきましたねー」
そうだった。行き場をなくした気分になって、ビアンカは口を閉じる。フリッツが聞きたいのはこのようなことではないようで、けれど困って俯いてしまう。
「お姫様は陛下といるのは嫌ではないでしょう?」
「……はい」
「嫌いでもない?」
「嫌い、ではないです」
嫌ではなく、嫌いでもない。
けれど、戸惑っている。デューベルハイトの「好き」に戸惑い、それを受けた心に心が戸惑い引っ込んでいるみたいだ。
「……ですよねー。圧倒的に短縮された感じで、時間が足りてないですよね」
「……フリッツさま」
「はい」
「どうして皆さまは『結婚』に同意なさったのですか」
「理由、ですかー」
座っていることで少しだけ高い位置なだけの顔が困り顔になり、ビアンカを窺う。
「知りたいですか?」
「知りたい、です」
「そうですか。お姫様には内緒にしておこうと思いましたが……この際言ってしまいますね」
具体的には思い浮かばないけれど、あまり良いものではないことは悟り、それでも気になった。どう思われているのか、怖いもの見たさに近いかもしれない。普通同意するべき箇所の方が見当たらないはずだから。
ビアンカがフリッツを窺う番だった。
「お姫様は人間です。私たちは、陛下は吸血鬼です」
「はい」
そんな前置きをしたフリッツが続けて明かした理由に、ああ道理で、と構えていた思考の中に納得が広がる。
王が結婚の件を口にして数十秒後には反対が吹き荒れたそうだ。それはそうだろう。それではどのような過程で合意に至ったのか。
簡単に言うとビアンカをきっかけに吸血鬼の伴侶を迎える気になれば、という考えだった。
妃選びを中断してから全くそのような空気は読めず、早くも『生涯独身疑惑』が出ていたデューベルハイト。しかし今回、別の視点から見るにその王が自ら結婚の話を持ち出してきた。これは良い兆候ではないのか、少々方向が違う方へ向かったが興味が出てきたということならば……吸血鬼にとっては遥かに短命なビアンカが寿命を迎えたあとにでも、吸血鬼の伴侶を迎えることが可能。そうなるのならば別に良いのではないのか、と。
「――それなら、と。……陛下は不機嫌そうでしたけどね、叔父上にどうにか収めてもらいました」
理由が理由だけに申し訳なさそうな表情と声だったけれど、ビアンカはあまり気にしなかった。フリッツが誘導したのかは知らないが、そういう風に受け入れられたのだなと安心したほどだ。悪感情とは思わなかった。
しかしその理由に忘れていたことを思い出させられた。
吸血鬼と人間との寿命は大きな差がある。
ビアンカが祖国の広間ではじめてデューベルハイトを見たとき、その場の支配者のような存在感に目を奪われたが外見は人間でいう二十代後半くらいだったので巨大な帝国の支配者だとは思わなかったのだ。フリッツだってアリスだって外見は若く見えて、見慣れてしまって接することにも慣れていたから感じなかった。
(そうでした……実感はないですが、そうなのでした……)
外見が若いからこそ、彼らの人生はまだまだ長いのだろう、と大まかに推測する。ビアンカと過ごす年数もその中では短い部類なのかもしれない。
だから。
「そうですか」
「お姫様が考えたことは何となく予想がつくんですけどね。寿命が大きく違うから簡単に陛下が結婚を持ち出したと思いませんでした?」
心が読まれたと思ってぎょっとすると「それくらい予想済みですよー。お姫様は中々に自己評価が低いと薄々分かってきましたから」と笑われた。
「そうではないのですか? あまりに急すぎるので、思ったのですが……」
「嫌ですねー、そんなこと陛下の前で言うと陛下が……どんな反応をするかは全く想像がつかないので止めておいた方がいいです。……結婚の件が終わってすぐ先に会議抜けてきてよかったー」
危なかったとの呟き。会議を抜けてきたと聞こえていいのかと気になるが、フリッツは別に気にしていないようで「陛下が来る前に前もって言っておきますね」と普段と比べると真剣な表情と顔が合い、背筋が伸びる。
「な、何でしょ、」
「あなたは陛下の唯一です」
唯一。慣れない言葉。人生の大半を必要とされる立場にはなく、むしろいなくても誰も気にしない立場にあったビアンカには難しい。
「脅すようですが、陛下はお姫様を離しませんよ」
「……わたしは、離れようなどとは考えておりません」
「そこは分かってるんですけどね、お姫様。少なくとも私は」
フリッツが首を振る。
「今のままじゃ、足りないんですよ」
ビアンカが首を傾げる。
「陛下があなたを離したくなくて側に置きたがるのは独り占めしたいから、自分だけのものにしたいからです。首を噛んだあれすらも、端から見れば独占欲から来ていると言えるんです。お姫様には急かもしれませんが前からはじまっていたんですよ、むしろお姫様が陛下に見つかったときから」
「それは、どういう……」
「きっと重いですよ、陛下の想いは」
ビアンカは本来流される派だ。というよりも流されるまでもない人生に置かれ、祖国にいたときもいずれは臣下に嫁がされることもあり得ると考えていた。そのため結婚に関しての心構えもできていたはずが――今である。
そんな感情を向けられるときが来るとは思わず、帝国に来てからは嫁ぐこともないだろうとまで無意識に思っていた、からだろうか。
好きだと言われた。複数回言われた。
離したくないから目の届くところに置いておきたいから、好きだから、それでは結婚すればいいと。
同じ感情が詰まったような口づけをされた。絶対に離さないと、言われた気がした。
思い出すたびに心臓がどきどきと落ち着きがなくなり、王が側にいるわけでもないのに困り果ててしまう。
「せめて時間が、欲しいです」
ビアンカは断る理由を述べろと言われ、その理由は払われた。すでに道は一つしかない状態、元よりデューベルハイトが本気で言うのならばビアンカに拒否権はない。しかしデューベルハイトは先にビアンカの口にした懸念を無くした。
ビアンカは……
「あると思います?」
「……フリッツさまは、意外と容赦がないですね」
「おもしろいこと言いますね、お姫様。だって私は陛下の弟ですよ?」
陛下も容赦がないでしょう? と首を傾ける角度が一緒に見えて、ここで兄弟が似るのは如何なものかと思う。
ビアンカがそれを顔に出すと、実に似ていないと思わせる笑顔でフリッツは続ける。
「ゆっくり行きましょうよお姫様。生活はなんら変わりませんから」
「……そう、ですか?」
「ですよ。今まで通り今しているように過ごすことには変わりません。陛下もそのつもりですよ」
「今まで通り……」
この生活は好きだ。ビアンカの心がちょっと軽くなる。
何だか王と結婚となると、大きなことを背負う立場になりそうと考えていたのだが……。
「あ……でも陛下の行動は保証しかねます」
そこを保証していただきたい。ここにきてフリッツがそんなことを言ったとき、ちょうど扉が開いた気配がして敏感に反応すると――デューベルハイトが入ってきていた。
フリッツが近くで素早く立ち上がりがてら、「あまり重く考えないでください」と助言かと思われる言葉を残していった。
決断しなければならないときが、すぐそこに迫る。




