20 異性
扉が完全に閉まるより早く、ビアンカの身体は浮き、座った王の膝に座る形になっていた。
「あの、け、結婚とは一体どういうことなのでしょうか……?」
テーブルの上の、一枚の紙とは思えなくらい存在感あるそれをちらちらと視界の端に収めつつ、ビアンカはおずおずと尋ねた。
何がどうなって、こうなったというのか。どこをどう間違ってこうなったというのか。何かしらの理由があるに決まっている。
「私はどうもお前のことが好きらしい」
「……へ?」
とんでもなく間が抜けた声が出たが、恥ずかしさは生まれなかった。とてつもないことを言われ、耳に届いた気がしたのだ。
「私はお前を離さない。目の届くところに置いておき、他の男に触らせたくはない。確かにこのように思うのはお前だけだ」
「え、あ、の」
「側に置いておきたい、私はお前のことが好きだ。ならば伴侶にすればいい」
二度目は一度目と異なりはっきりと言われる。『好き』『離したくない』から『結婚』――
(フリッツさま助けてくださいぃ……)
何か飛ばしている。何かは具体的に思い浮かばないけれど、とりあえず思考が飛んでいるように思えてならない。
説明が説明に聞こえなくてビアンカは助けを求めたいが、大丈夫だと言ったことで助けは部屋の外だ。
「何を考えている?」
急に不機嫌な重々しい声がした。
頬に触れた手に、扉に飛ばしかけていた視線を顔ごと戻された。
「私がここにいるのに他のことを考えているのか」
美しいまでの造形をした顔が傾けられ、問いの形をとっていない問いを発する。
「いいえ、そんなことは、ありません」
「怒っていないから怯えるな」
そうだろう。怒った怖い気配はなく声だけが重かったけれど和らぎ、手の力は優しいものだ。
「私と結婚するのは嫌か」
目と声に同時に無視できない、見たことも聞いたこともない響きが混ざったので慌ててビアンカは、
「い、いえ、決して嫌とは思って、思って…………」
ない。
最後は声にはならなかったのに、デューベルハイトは聞こえたように満足そうに笑んだ。
一方のビアンカは自分の返答にびっくりしていた。嫌ではない、とっさに出した言葉は全く深く考えずに出てきた言葉でもある。
『結婚』、それもこの王と。
想像もできない話すぎて嫌かどうか以前の問題で頭はいっぱいだったのだが、どういうことか問われて出てきた言葉があるではないか。
嫌ではない。王の側にいることは再度怖くなくなり、大丈夫だと再確認したばかり。嫌いではないのだから、嫌ではないのは当たり前――――当たり前?
連なっていく考えをうまく理解できず一人戸惑う。一体自分は何を思っているのだろう、と。自分で自分が分からない不思議でたまらない感覚に陥っていた。
王をそっちのけで。
「ビアンカ」
驚いたどころではないのは急に呼ばれたことが少し関係するが、呼ばれたこと自体に耳を疑った。
名前。
ビアンカの名前。聞かれてから一度も呼ばれたことはなく、忘れられているのだとたった今まで思い込んでいた。
顔を向けているのに思考に沈んでいるビアンカの意識を引き戻す効果は大いにあった。驚いたままに目を見張って王を見つめていると、デューベルハイトの方もビアンカに眼差しを注ぎ離さなかった。
頬にあった手が奥に移動し、髪を手で撫でられる。触れられ方は変わっていないはずなのに、どこか変わったと筋の通らないことを思う。
それに、いつからか心臓がどきどきと跳ねている。呼ばれたことのなかった名前を呼ばれたからだろうか。
それにしては王の視線自体に落ち着かないような……
「嫌ではないのなら、私のものになれ」
囁く低音は唇が触れそうな距離で出され、ビアンカの唇が震えるより早くわずかな距離さえも詰められ――――唇が重ねられた。
どんな風な感触なのか知らない、知らなかったものに名前を呼ばれたときより倍驚いて、引こうとする頭は髪を撫でていたはずの手に固定され叶わず。
その上驚いた拍子に小さく開いた唇の隙間から、これも知らない感触を持つものが入り込んできた。『それ』はビアンカの口内を暴くように動き、くすぐったさに似た、しかし明確に異なる感覚をビアンカに与えてくる。深く、熱く、なぞられ、動く。
未知を与えてくる王に翻弄されるビアンカは、どうにかすがるみたいにその服を握った。そうでもしないと置いていかれそうな、それくらいの感覚だったから。
何をされているのかはこんな状況下では到底頭が回らず、それよりも身体が溶けてしまいそうな体験にいっぱいで気がつくのが遅れたが、息ができなくて頭がぼんやりとしてふわふわと現実味もなくなってきた。
手の力だけでなく全身の力が次第に抜けて――だから、いつしか熱は離れていた。
「癖になりそうだな」
うっすら開いていた視界をはっ、と認識するとタイミングが良いのか悪いのかちろ、と真っ赤な舌に唇を舐められた。
さしずめまだ食べ足りない狼のような舌舐めずりも。
ついさっきのことがまざまざと甦り、ビアンカは突然王の顔を見ることができなくなった。
顔が熱い。
じわじわと熱くなって。
(さっきのは、さっきのは…………)
口づけ。
頭がじん、と痺れる口づけ。
腰を引き寄せる手が急に気になった。力強い手、だけでなく上半身がくっつく布越しでも明らかな逞しい胸板。もたれかかってくる頭、熱い息。極めつきはビアンカよりも遥かに全てが大きくて、包み込んでしまえそうな身体。
そうか、この吸血鬼は男性だったのだ。
ビアンカは王以外に「男性」に触れられた経験が一切ない。これまでに、今も心臓が暴れていたのは怯えが消えて「異性」に触れられていると身体は分かっていたからだろうか。
心臓が今にも爆発しそうに大きく打ち、顔を真っ赤にしたビアンカがどうしたか――




