18 思いもよらない提案
王がドレイン公と出ていった。一旦起きてしまったビアンカは頭を撫で「戻ってくる」と言い残したデューベルハイトを待つことにした。
寝室の横の部屋に出るとアリスとフリッツがおり、いつからいたのだろうと今はいないドレイン公に抱いた疑問と同じく、軽く疑問に思いながらも、何か聞きたそうなアリスに「もう、大丈夫です」と言っておいた。少なくとも王が寝室に入ったことは知っていたのだろうから。
もう大丈夫、怖くない、傷つけられない。
お茶を淹れようとするアリスに慌てていいと伝え、ショールを羽織ってソファーに座って待つこと二十分……は過ぎていたかと思われる。ビアンカはまたうとうとしていたのだ。
「あ、お姫様、陛下です」
陛下、との言葉に真っ先に目が応じてパチリと開いた。寝ぼけ眼気味ながらその姿を探そうと思うと、部屋の中に入ってきていた王はビアンカが探す前には近くに、探しはじめたときにはすぐ側にいた。
「……お帰りなさいませ……」
ちょっと滑舌悪くぼやりとした声で言いながら見上げると、どことなく王の笑みが深いのはなぜだろう。
「寝ていても良かったが、好都合だ」
「……?」
好都合、とは。
首をコテと傾げて王を見ていると、王が手を動かすとヒラリと一枚の紙が動作によりなびく。
紙なんて出ていくときは持っていなかったはずなので、ドレイン公から受け取ったものだろうか。しかしながら何故にそれをテーブルの上、ビアンカの正面に置くのだろうか。
紙を探り見るより先に王をまた見上げると、かの王はこう言う。
「私のものになれ」
それはそれはいつものごとき口調で端々まで揺るぎなく、ビアンカの耳にもしっかり届いたが、真意が分からず呆ける。
「私のもの」も何も、ビアンカは『狼枠』で連れてこられた王の抱き枕みたいなものなので、改めて任命でもされるのだろうか。などと王の顔を見つめて考えていた。
けれども周りの、他にいる吸血鬼たちの様子がおかしい。見ると王の横からフリッツとアリスが揃ってテーブルの上を何か何かと確かめているではないか。
そして目が良いはずのフリッツが目を凝らすみたいに目を細くして、平坦で読み上げただけように言葉をこぼす。
「……結婚誓約書……」
「結婚誓約書!?」
アリスが素っ頓狂な声を上げ、一言読み上げ終えたフリッツが目元をおさえる。
「アリス、見間違いかもしれないからもう一度見てくれる? ……目が疲れてるのかな」
「フリッツ、ペンを寄越せ」
「あ、どうぞ」
「フリッツ様、見間違いじゃないですよ!」
「………………え、本当に? これ現実?」
同じ大陸内、使用する言語や文字は祖国と同様であるため、ビアンカは彼らと言葉を交わすことができ、帝国の書物を読むことができる。
ゆえに大騒ぎしている吸血鬼たちにつられて初めてじっくり確認した、テーブルの上に出された一枚の紙の一番上に金色で刻まれている一番大きな文字が読めるのだが、ちょっと頭の中で理解が追い付かない。眠気は飛んだので眠気によるぼんやりとかが原因ではない。
『結婚誓約書』――かなり上質な紙に特別な装飾のされたこれは、一体何の用途で使われるものなのだろう。
「あの陛下、失礼ながら、陛下が間違うことはないと知っているんですけど、紙を持ってくるにしてもこれ間違えていませんか? いえお姫様に本ならまだしも何か紙だけを渡すとなると何をとは心当たりがないんですけどね」
「どこが間違っている」
「重ねて失礼ですが、これが何か分かっていらっしゃいますか…………?」
「お前は私を馬鹿にしているのか?」
「まさか! 私の目のための確認ですよ!」
フリッツの戸惑った声と、おそるおそるの声と、必死の声が聞こえた。
「結婚誓約書だ」
「あー見間違えではなかったですはい」
「陛下、お姫様と結婚されるんですか! お姫様おめでとうございます!」
おめでとうございます?
結婚?
結婚誓約書?
全ての鍵を握るのは、目の前の紙とそれを持ってきた王である。ビアンカが見つめ続けている紙の横に、コンと一本ペンが置かれた。王の手。
「……あの」
「どうした」
「これは何でしょう……?」
「結婚誓約書だ」
さっき近くで確認されていた気もしないではないが、ビアンカも自分のために最終確認せずにはいられなかった。が、ぎこちなく見上げた王は、何らおかしなことはないように同じ言葉を返してきた。
王がフリッツに言ったこと、紙に記されている文字、再度の言葉、一致。
『結婚誓約書』とは。
結婚をするにあたり提出するべきものである。結婚する二人の関係が法的に認められるための書類でもある。簡単に言うとこんなものである。今ビアンカの中で引き出せる情報にして、最低限の情報。
「私と結婚しろ」
先ほどの『私のものになれ』はこういうことだったのか。何とも自然なプロポーズ。躊躇やおかしなことは一切ないと思わせる口調で確かにビアンカに向けられ――――大いに戸惑っているのはビアンカだけか。
「け、結婚ですか?」
「結婚だ。お前は結婚を知らないのか」
「し、知ってはおります」
しかし帝国に連れてこられたビアンカに縁があるとは思わず、『プロポーズ(たぶん)』を言い放ったのは王だ。
当の王は本当に何か問題があるかと言わんばかりなので、ビアンカは自分だけでは抱えきれずに助けを求めたい。
「あ、アリスさん……」
アリスは明るい笑顔を浮かべていた。この現実を肯定している。
「ふ、フリッツさま……」
フリッツは「え、本当に?」という顔をしているが、止めようとはしない。それどころか「あはは、自覚するとこうなるのかー。確かに理に叶ってるーあははははは」壊れた。
これはビアンカがどうにかしなければならないらしい。きっとこの王は何かどこかで間違えているのだから。
何の紙だかは間違いないらしく『結婚』という定義もおそらく同じで、頑張って頭を働かせるにつれてわけが分からなくなってきてビアンカは王の視線に耐えかねてこう口走る。
「きゅ、吸血鬼の方は人間とは結婚されないのでは……?」
「私の勝手だ。いいからサインをしろ」
「さ、サイン……!? ま、待ってください、あの、あの、心の準備が……あの、」
心の準備どころではなく、言葉が詰まるどころでもなくなってきた。王はどうしてしまったというのか。
それに……急な事に加え完全に理解を待たず要求されるもので頭がパンク寸前だからだろうか、妙な圧迫感が。
「陛下、無理矢理はよくないですよー。しかも力が洩れてます、無意識だからって許されるときと許されないときがありますよ」
「誰が私を裁く」
「いえー、あのですね倫理的にですから私ではないことは言っておきます」
この吸血鬼は肝心なところで頑張りが少ない。ようやく助け船を出してくれたフリッツが、すっと出て来てすっと引っ込んだことが分かった。
「陛下はお姫様の心がなくてもいいんですか?」
「それ以前に逃がすつもりはない」
「あの、叔父上とお話はされましたよね……?」
「したからこうしている」
「あはは、自覚してこうなのかー。方法としては法的になって陛下らしさが出てきたというか、でもやっぱり性格なのか…………陛下提案があります」
「言ってみろ」
「やはり無理矢理はあまり良くないです。お姫様が戸惑っていますし無闇に繋ぎ止めればいいというものではないかと。お姫様は陛下から逃げません。それが、分かったばかりでは……?」
「それとこれとは別だ」
「……副作用……。それでも一度じっくりお話しになられた方が良いと思います。なぜそれに至ったのか……など」
「ならば今から話すことにする。お前たちは出ろ」
「お姫様」
アリスに呼ばれ彼女を見ると、出ても大丈夫かと小声で尋ねられた。一体どういう流れになったのかと思っていると察され「陛下がお姫様にお話されたいそうです」とのことで、お話とは説明だろうかと考えたビアンカは首肯。
今ビアンカに何よりも必要なのは明らかに説明である。
「じゃあアリス出ようか…………叔父上探そう」
フリッツが机の上を一瞥し、アリスはビアンカの肩のショールをかけ直してくれて部屋を出ていった。
――狼枠からなぜか大幅に昇格しそうですが、その先に混乱しています
作中の『結婚誓約書』は今で言う婚姻届的なものだと思ってください。




