16 前進
毛布の下から、身につける寝衣の上から腰に腕を回されて、前に身体が倒れる。毛布だけが置き去りになり、肩を滑り背を滑り、ビアンカの体温が移っていた毛布の温もりはなくなった。
代わりに、数日越しの、懐かしく感じてしまう引き寄せられる感覚。
移り変わる視界が定まったとき、ビアンカは王の膝の上に乗せられていた。腰に両腕が巻きつき距離はもうない。即座に無意識に強張りかけた身体は、全身が王に包まれているような、毛布とは異なる温かさを感じると、不思議とそれ以上にはならず反対に僅かずつ解れていく。
息が頭にかかった。すぐ上に顔があるようだ。
「……」
何も喋らなかった。
ただ引き寄せられて抱き締められて、ただその状態が続けば続くほど温かさが伝わるにつれビアンカの緊張は解れて、不自然な強張りがなくなるまで沈黙は続いた。
固い緊張がある程度解れた頃。そのことが分かったかのように、腰に回されている手の内片方が動きはじめた。
手はビアンカがベッドを移動したときみたいにゆっくりと、とてもゆっくりと背を、布を擦りながら上がってくる。ビアンカはその動きをじっと息を潜めて感じていた。いつかのように、触れられている場所に全神経が集まっていると錯覚するくらい敏感に、実際に見るより事細かに、どこを移動しているか分かる。
手はやがて首の裏に着いた。
指先から手のひら全体が首を撫でて、向かった先もすぐに分かり、否応なしに再度身体に力が入る。
「何もしない」
分かっている、分かろうとしているし信じようとしているけれど、やはり身体は一番覚えているから。
王が手を滑らせた箇所は――噛まれた傷のある首の側面。
手当ての薄い布越しに、触れた。
次に爪が肌に触れたと感じ分け、一体何をするつもりかと身体が経験からの過敏な危機反応をますます示す……が、ごくわずかな時間で爪は肌から感じられなくなり、すぐあとにペリ、と小さな音が立てられた。一緒に首の肌に小さな刺激が生じる。
手当ての布が剥がされているのだ。空気が遮断されていた肌のごく一部が空気に晒され、じりじりとした感触が終わるとともに全てが剥ぎ取られた。隠されていたものが、現れたはず。首にかかっている髪が避けられる。
「……人間は治りが遅いな」
隠されていた部分を見たと察することができる呟きがぽつり、と落ちてきた。
ビアンカは傷が覆われていないときに鏡の前に立つことはなかったので、未だに傷を見たことがない。侍女たちが気を使っていたのかもしれない。しかし傷は数日では塞がってはおらず、手当ては続けられている。
傷をつけた本人の視線が気のせいではなく注がれていて、緊張する。緊張しているのは全部が全部それから来ているのではないだろうけれど――
「悪かった」
じっとしていたビアンカは驚き、目を見張り、耳を疑った。ふいに耳に届いてきた言葉。
謝られ、た?
謝ることが想像できない王が、今、謝らなかっただろうか。
状況を忘れてぽかんとして顔を可能な限り上げると、ビアンカの首に視線を落としていたであろう王と目が合った。自分で見上げたくせに不意を突かれた気になって目を逸らそうとすると、
「…………ぁ」
首の辺りにあったはずの手に頬を捕まえられて、微かな声が洩れた。赤い瞳は、あのくらりとした感覚をもたらさないのに深く濃密な色味をしており、目が離せなかった。
「痛かったか」
「……痛……かった、です」
「怖かったか」
「……はい」
口からはたどたどしくも正直に答えが出てきた。ビアンカの答えを受けた王は新たな問いを向けることはせず、
「二度とお前を傷つけることはないと約束しよう」
そう言い、
「だが、お前を離すことはあり得ない」
強い瞳でビアンカを射抜き、いつもの声音でそう言いもした。その腕でビアンカは引き寄せ直される。顔がもっと近く、瞳がより近く。
「離れることは許さない」
「離れる、ことを……?」
「そうだ。私がお前を離したくないからだ」
正面からの言葉が鮮明に耳に入り理解して少し、なぜか勝手に目からぼろぼろと涙が生まれ零れはじめた。
「あ、れ……?」
流れ落ちてはじめて気がついた。予兆がなかったのでビアンカにとっても突然で途端におろおろする。何故涙が。
「あ、あのすみませ、」
怖いのではないのに。
数日前に泣いてしまったのは、怖かっただけではなくされたことが衝撃的で哀しくて。
(どうして、今、泣いているのでしょう……?)
今度こそほとほと自分でも理解できずに、困り、それだけではなく王の前で泣いたことに焦りが生まれる。そうではないのだと、伝えなければならないような気持ち。
「お前は存外よく泣く。――今回は私のせいか」
腕が上手く動かせないくらい密着しているので、どうしようともっとおろおろしていると、王の顔が近づいて――目を閉じると熱いものが目の下に。
閉じていた目を開くと間近にその顔はまだあり、身を離そうとしたら頬にある手に離れることを阻まれた。
「泣くな」
「すみま」
「謝るな」
「――」
その瞳が理由が判明せずに泣くビアンカの情けない顔を映し、指が頬を輪郭を確かめるように撫でる。
「私の名を呼べ」
「……デューさま……?」
すみませんを封じられて口を閉じていたビアンカは言われるまま名前を口にした。すると周りの腕に力が入って、ない距離をますます詰められ、顔の距離もわずかな距離がより近く。
「私の側にいろ。離れるな」
息が、唇にかかるほどに。
ビアンカの唇が震える。
「分かったか」
「は、い」
返事を聞いた王はビアンカを抱き締め直し、何やら息を吐いた。
ビアンカはその胸に頬がつきながら、しっかりと抱き締められる腕の中に安堵を胸に抱えていた。まるで以前のような状態で、もう身体は拒否反応を起こさない。
――大丈夫
この腕はビアンカを傷つけない。
扉を叩く音が響いたのはどれくらい経った頃か。うとうととしてしまっていたらしいビアンカははっと気がつき、目を開き、意識が浮上する。
時間を少しだけかけて、うとうとしていた場所がどこかと気がつくと恥ずかしくなった。
少し前までとは正反対すぎる。抱き締められて安心を取り戻すやこの有り様とは……いつからだったのだろうとまだ王の膝の上で腕の中だと把握するに、それほど時間は経ってはいないのだろうか。
そろりと腕の主を見上げると、腕の主たる王は――予想外にも目を閉じているではないか。
そこでまたノック。
「あ、あのデューさま」
ノックが続きそうで、もしかしてこの王を探しにきたのではないかとの考えが浮かんだ。まるで反応を示さない王に知らせなければ、ビアンカは抜け出せそうになくて対応できない。
「デューさ、」
「デュー、いるんだろう?」
(この声はどこかで聞いたことがあるような気がします……)
誰だったろう。
男性の声だからアリスではなく、しかしフリッツでもない。
「でゅ、デューさま、呼ばれています」
ともかくデューベルハイトを呼んでいるようなので、起こさなければ。そもそもこの体勢で本当に寝ているのだろうか。と、思いながら掴める位置の服を握り控えめに揺すっていると、手を動かしつつ見上げる顔、瞼がスゥと開きはじめてくれた。
寝起き特有の若干ぼんやりした赤い瞳が現れ、久しぶりに見る気がするとは別に、本当に寝ていたのかと驚きを隠せない。そうは言ってもビアンカも寝かけていたようなのだけれど。
「……何だ」
「よ、呼ばれています」
「呼ばれる?」
「はい、部屋の外から……」
ちょうどノックが三度目。
「誰だ……」
眠そうな声に少し不機嫌さを混ぜて呟きながら、首筋に顔を埋められるので、ビアンカはくすぐったさにちょっと身を捩る。
「あの、」
「寝るぞ」
「え、あの、でも、」
「もう入ってしまうがいいか?」
「…………叔父上か?」
王が声の主の名前を呟くとほぼ同時と言えるか。ガチャリ、扉が、開いた。
「……これは、良い光景で安心した」
「叔父上、何か」
「悪いのだが話をしたいのだよ、デュー」
入ってきたのはドレイン公だった。
いつからいたのだろう。




