15 大丈夫
赤い瞳に硬直したはずの身体が跳ね上がるように身を起こすや、ビアンカは毛布を巻き込み、素早く奥へと後ずさった。
王がいる。
ビアンカがベッドの中央ではなく隅に寄って眠っていた傍ら、ベッドの端に腰かけている状態のようで、見るからに逃げたビアンカを捕まえようとはしなかった。
驚きと勝手に働いた本能でぎりぎりまで下がったビアンカは、巻き込んできた毛布で身を包み、ぎゅうとすがるように握りしめながら息を整える。そんなに動いたのではないのに、息が少し上がっていた。
状況を上手く理解できていない頭は、同じような思考の混乱で大半を占められている。
これは夢か。
数日、『あれから』顔も合わせなかった王が寝室にいる。ここはビアンカに与えられた部屋の寝室で、王の寝室ではないはず。確かにそうだ。
整っていく自分の息の音、足に触れる滑らかなシーツ、握りしめる毛布など伝わってくる感覚がリアルすぎて、夢だとは到底思えない。きっと、いや疑うべくもなく夢ではない。
従ってビアンカが凝視している暗い中で存在感を放つ王の姿も、見間違いでなければ夢ではなくそこにいる。
目の錯覚と思い込みにしてははっきりと見えすぎて、無視できない存在なので見間違いでもない。
現実、とビアンカが見える光景のみを理解するにも時間が必要だったが、王だと思われる姿はその間目立った動きを見せなかった。けれども視線だけは感じるので、息が完全に整ったビアンカは最後に息を飲み込む。
身体は身構え、固まり、これ以上は動けない。
そこでようやく、王に動きがあった。
「――私が怖いか」
以前にも問われた記憶のある、この王にはどこか似つかわしくない問い。ビアンカは一度怖いと答えた。その後怖くないのだと知ることになり、今は。
数日振りに聞く声は冷たく恐ろしい音ではなかったことで小さくほっとするが、ビアンカの口は思うように動かない。あのときの恐怖が身体に蔓延っているようだ。
口を開いたところで、怖いと言っていたかもしれない。
「そうか」
しばしの沈黙が続いたのち、王が静かにそう言った。
これもまた怒ったと思われる声音ではなく、またほっとする。きっとビアンカはまたあのようなことになることを恐れているのだ。
こんなときだからこそ薄まる兆しを見せない感覚が甦り、本人が近くにいることから後ろに下がろうと身体が判断するが、すでにぎりぎりまで下がってしまっている。これ以上は落ちることになり、逃げるならば部屋の外へ行くしかない。
しかしビアンカは逃げても良いのだろうか。逃げて『また』王の機嫌を損ねでもしたら? と何かが囁きビアンカはその考えを振り払う。
フリッツがドレイン公との対面のあとに『中々難しいことだとは思うんですが、お姫様には陛下のこと整理をつけてみてほしいんです。もちろんできる限りでいいです、我々も何の罪もないお姫様が傷つけられるところは見たくありませんから。次はお一人にはしませんし陛下のあの行動もどうにかしてみます、どうでしょう?』無理を承知という顔で言ったが、ビアンカははいとは言えなかった。
フリッツは何か知っているのだろうか。ビアンカがなぜ王を怒らせてしまったのか。何によって王は怒ったのだろう。どれだけ考えてもわからないことだった。
どうして怒ったのだろう。外に出ては行けなかったのだろうか。分からなければ気をつけられず、ずっと怯え続けるだろう。
やっと怯えることはなくなったのに。今、王の機嫌は悪そうではないときに聞いておくべきではなかろうか。
震えそうになる唇を懸命に開いて、息を吸って、ビアンカは勇気をかき集めた。
「あ、の……」
「何だ」
「……わ、わたしは、わたしは何をしてしまったのでしょう……? どうして、」
「お前は」
どうしてあれほどまでに恐ろしかったのかと、ビアンカが自分が何をしたことによりそうなったのかと最後まで尋ねきる前に、もたもたした声が遮られ、口をつぐむ。
「私から離れ、人間の男に触れさせただろう。それがこの上なく気にくわなかった」
あの日。それ以外の出来事が薄まりそうなことが起こったが、確かに帝国より遠い地から来たという人間の使者と話し触れられた。けれど、でも。
王の声は冷え冷えともしていないが、聞き慣れた様子の声でもない響きに耳に聞こえた。久しぶりに耳にするからだろうか。
「お前が私のものだと刻みたくなった」
だから噛んだと言い、短く嗤い、すぐに消える。
「私には分からん。お前はなぜ私にそう思わせる、――狼はこれほど制限しようと思ったことはない」
分からないと言われても、ビアンカにも分からないから結局理由も分からないまま、困惑する。
しかしながら、視界よりも聴覚の方が鋭い中で聞いた王の声は本当に分からない、とはじめて理解できないことに行き当たったように聞こえた。
ぼんやりと見える姿も、ベッドに腰かけたまま背の部分にもたれかかり、目は遠くを見ているようにビアンカには向けられていなかった。
「来い、と言ってお前は今私に近づくことができるか?」
向けられた王の瞳は、あの怖いものではなかった。
手も伸ばされず、近づくことはされず、それだけを言われて、ビアンカは何度目かの困惑を覚える。
来いとははっきり要求されてはおらず王が近づいても来ないことから、ビアンカにその判断が委ねられている。
出来る限りまで距離を置いているビアンカに。
そのビアンカは自分の身体と戦っていた。
『近づくべきではない』『今は大丈夫だ』と相反する思いが、特に身体は近づくべきではないと一度受けた衝撃を覚え固く主張し動こうとしない。心は、王の様子に大丈夫だという方に傾いている。
この王が優しいことを知っている。助けてくれたことだってある。
たった一回のことに今までのことを凌駕するほどの衝撃があったのは、むしろ今までのことがあったから。だからたった一回は『たった』一回ではなくなった。
それでもたった一回と思えるなら。
ビアンカに祖国にはなかった温かな場所を与えてくれた王のことをもう一度――今もあちらからは近づこうとして来ない王を前にピクリ、と毛布を握る手が最初にわずかに動いてくれた。
毛布に刻まれるしわが緩み痛いまでに手に力を入れていたことを知りつつ、わずかにわずかにビアンカは自分の身体を徐々に取り戻していく。
――大丈夫
大丈夫、大丈夫と心の中で言い聞かせるときに思い出すのは温かな腕、ビアンカを撫でる手つき。
――大丈夫
今の王は近寄り難い、威圧感のある空気ではない。目だってそうだ。
――大丈夫
這うようにして、生まれたての子猫が歩くよりゆっくりと慎重に距離を縮めていくと、広いとはいえベッドの上。近くまで行くのは慎重に行けど意外と早く、残りの距離はあと一歩進めば手が届くくらい。
それくらいになって内に囁くものがあった。王が相手ではビアンカはまさに為す術がない、王が危害を加えようと思えば前回の二の舞になる、と。消えない記憶。曖昧な記憶に重なりそうな、自分が近づいていく先の姿。
一番に連動したのは身体で、じりじりとでも動いていた動きが止まる。
――残された微々たる距離を縮めたのは、伸びてきた腕だった