4 広がる青
ビアンカは広がる景色に目を奪われていた。
意識を失うという、慣れているわけもない体験を短期間で二度目したあと、やはり例の軍艦に乗せられていたらしい。
気がつけば部屋にいたが、見知らぬ部屋で知らないベッドの上にいた。
それでも外に出て、せめてこんなに願ったことはない城であればいいと……。
望みは大いに裏切られ、陸さえもそこにはなかったという経緯となる。
海だった。
これが海。陸は見えず、祖国のある陸地も跡形もないことは言うまでもない。地の広さなど序の口であった。一体どこまで広がっているのかというほど、青だけが広がっている。
視界が染まったことのない色に染まり、起きたばかりのようなのに早くも頭がまた現実を受け入れられなくなりそうなところで、よろりと縁を離れた。
へたりこんでしまいそうなところに、周りに目があることと自分の他に誰かがいることに気がついた。
無防備にまともに横を向いて、飛び込んできた色彩にああまたか、となる。慣れてきたのではない。声を出すならば呻き混じりで、表情にするなら情けない顔になったはず。
人ではない赤い瞳、鋭い歯が覗く口から出る声がビアンカを見て交わされている。
「何だあの人間? 軍の人間じゃないよな」
「知らないのか? 陛下が連れてきたんだそうだ」
「陛下が? 何でまた」
「あの癖らしい」
「あの癖……にしては今度はまた新しいな人間とは」
「確かに、人間って少し狼とは勝手が違うだろうに」
「いや陛下らしくないか」
「それにしても人間って……まあ陛下だからな」
「だよな」
「あ、目覚めたんですね。ちょうど良かった」
強張っている表情筋が情けなく変化しそうな頃に、ビアンカに近づいてきた者があった。
たぶん、見たことがある吸血鬼だった。片手に布を被せたトレイを持って、にこにこと躊躇なく距離を近づけてくるもので、ビアンカは怯える。
その様子に怯えが伝わったか、細身の金髪の吸血鬼は足を止めてくれた。赤い瞳がじっとビアンカを見つめて……首を傾げる。
「君たち、悪いけどしばらくここから離れてくれるかな」
にわかに背後を向くと、そこにいた吸血鬼たちにそう声をかけた。すると吸血鬼たちは波が引くようにすんなりとどこかに離れていくではないか。
一連の流れを見ていたビアンカは軽く呆ける。
「まだいたいのであれば止めませんけど、中に入りませんか?」
この吸血鬼、少し優しいのではないか。
ちょっとだけ、そう思った。
しかしながら吸血鬼に囲まれる事態を回避させてくれたとはいえ、この男性も吸血鬼には違いはない。
外にいるべきか部屋に引っ込むべきか。海の上である以上選択肢は一つと同等であり、簡単に言うと部屋に引っ込んだ。
そのあとに続きドアを閉められた音で、ビアンカには恐怖が戻ってきた。
部屋に、吸血鬼と二人。
それもドアはあちらが近い。
一気に絶望した顔になると、金髪の吸血鬼は困った顔をした。
「そんなに怖がらないでください。傷つくので」
「え、あ、あのすみませ」
「まあ嘘ですけど」
「……」
表情が分かることは、人と変わらない。
かつて吸血鬼は害がないと語った商人の言葉を思い出したビアンカは、とっさに罪悪感のようなものが湧いたのに、これである。
にこりと吸血鬼は元の通り笑顔になった。信じられない。別に信じていたわけではないのに裏切られた気持ちにさせられて、情けなくなった。
そんなビアンカを気にせずに、金髪の吸血鬼はトレイを机に置いて、改めてビアンカの方を見る。
距離を詰められないことに少し安心するのは、おそらく、最初の吸血鬼がビアンカに近づくどころか触れてきたからだろう。
それにこの吸血鬼の顔も綺麗な部類だが、笑顔が胡散臭いながら雰囲気は柔らかい。
吸血鬼は苦笑いを滲ませた。
「取って食おうとかお姫様が恐れていることはありませんよ」
「……そんなことは、思っておりませんが……」
「そうなんですか? 国から離れるにつれよくない噂が回っていると聞いているので、つい。ここではない離れた大陸なんかでは化け物扱いされているようなんですよー」
「……そ、そうですか」
実際に回っていた噂の大部分がそれだとはとても言えない。が、この吸血鬼は分かって言っているのではないだろうか。
にこにこと笑顔を浮かべているものの、これは作られ貼りつけられたものかもしれない。そうは見えないのだけれど。
「あなたがいた国はうちの国から離れていたので情報が希薄でしょうから言っておきますと、私たち――まあつまり俗に言われるところの吸血鬼は遠い国や大陸外の人間には姿が見えないものだからか、何だか化け物的な扱いをされているようですが、私たちからすれば統治地には人間がいるわけなので仲良くやっている方です。知らない存在ではないので人間だからといってどうこうなるわけでもないので安心してください。あとこの船には人間も乗っていますから」
この船に人間もいるのか。もしかしてビアンカは、吸血鬼の存在だけ目が行きすぎて人間を見逃していたのだろうか。
(そういえば……大広間にいたのは……)
ビアンカの部屋に乱暴に入ってきたのは、思い出すと人間だった。赤い瞳ではなく、大広間に散らばって王族を監視するように立っていたマントを着ていない軍服姿も人間だった気がする。
はたと気がつき、ビアンカが考え込む間に金髪の吸血鬼は続ける。
「うちの国自体にも人間もいて一緒に暮らしている状態ですし。あ、でも城は吸血鬼だらけですけどね。それは元々吸血鬼だけの国だったもので」
帝国は吸血鬼が治めているが人間と共存している国、ということか。
そこまで聞いてビアンカはこの大部分の言い回しに、もしやこの吸血鬼は自分を安心させようとしているのだろうか、と気がつく。人間と共に暮らし、この船自体にも人間がおり、人間だからといって危害を加えることはないと聞こえた。
合わせないようにしていた視線をそろりと改めて戻すと、気にした様子もなく吸血鬼が笑顔を浮かべる。
「そうそうこれどうぞ、食事です。お腹すいてるでしょう」
示されたのは机の上に置かれたトレイ。布が取り去られ、現れたのは言葉通り食事らしきもの。中身は、離れていて器の中が見えないけれど、パンらしきものは見えた。
食事を運んできてくれたというのか。寝かされていたベッドも粗末なものではなかったし、部屋自体物置的なものではなかった。そのような待遇を覚悟していたのに、この待遇の良さはなんだろう。
今まで吸血鬼、と態度的に化け物扱いしていたことに今度こそ紛れもない罪悪感が湧いてくる。心が痛いとはこのことか。
ビアンカは謝ろうかお礼を言うか、そして大人しく近づくべきかとても迷った。自分から近づくのにはまだ勇気をかき集めても足りないようなのである。
「あと陛下は忙しいのでゆっくり過ごしていてください」
陛下。
迷って口をもごもごさせているとぽん、とその単語が放たれた。陛下=王。帝国の王、とはイコールで吸血鬼であるのだろう。王様が今ここいる、ということだろうか。そんな口ぶりだ。
「あの、陛下とは、」
「私たちの王様ですよ。いたでしょう? 白っぽい金色の髪をした方。あなたを連れてきた方ですよ」
白っぽい金髪と聞いて、すぐに浮かんだのは恐ろしいまでに整った顔立ちの吸血鬼だ。ビアンカに手を伸ばし、馬に乗せ、抱き上げてきた吸血鬼。
大広間で目にした瞬間、その場においてその国の王なんて比べ物にならないくらい高貴な雰囲気を醸し出していると感じさせた存在。
あれが帝国の王にして大陸の大半を手中に収めている王なのか。
しかしどうしてあの吸血鬼はビアンカを連れてきたのだろう。
人質を雑に選んだのだとしたら、運が悪い。ビアンカは人質にしても意味はないのに分かっていないのだろうか。そうならそれが知られたときどうなるのだろう。
「あ、ああの、わたしはどうして、」
「戸惑いますよねー。さすがに可哀想」
声が上手く言葉に変換されないのは、人見知りとかいう以前の問題。
侵略された側の人間と、した側の人間もとい吸血鬼。
「言っておくと人質とかではないですよ」
「……え……」
「うちは人質なんてとりませんから。面倒じゃないですか。まあ陛下の思いきりのよさもあるんでしょうけど」
金髪の吸血鬼はビアンカの疑問なんてお見通しだと言わんばかりにさらりと否定しつつ、ティーポットを手にしていた。
ポットから茶色の液体がティーカップに注がれる。湯気のたつ、見るからに熱そうな紅茶。船内なのにティーカップは陸で使うような陶器製のようだった。割れてしまわないのだろうか。
「じゃあ何で連れてきたのかっていうことになりますよね。なんと説明するべきか。……前提として陛下は狼が好きでしてねー」
「熱いうちにどうぞー」と音も立てられずカップが受け皿と共にトレイの外に置かれる。
紅茶の良い香りが鼻をくすぐるけれど、ビアンカはそれどころではない。
(狼?)
なぜに急に狼の話を。確かに見た覚えのある狼を思い出したが、ブルリと震えが身体に一巡しただけ。それ以外に収穫はなし。
「森に行ったりすると時々連れて帰るくらいですから。たぶんそれと同じなんですよ」
それってどれですか。
話が一向に読めない。さっきまでの、分かりやすく安心を与えてくれる説明の仕方はいずこへ。
「動物でないパターンははじめてですけど。陛下が仰るならそうなんでしょうね、失礼ですけど扱いからしても。陛下自身に悪気はないんですよ。ほらありませんか。自分好みの動物とか見かけて、家に帰るときになると連れて帰りたいなーって思うこと。あれですあれ」
猫がにゃーんとか細く泣いている様を思い浮かべる。城の庭で、子猫がどこから来たのか遭遇したことがあり、連れて帰りたいのは山々だったが、ビアンカにはどうしようもなかった。
それがそれでどうした。
「ある種の『一目惚れ』とも言えるかもしれませんね。狼見ませんでした? あれは全部陛下が森とかに行った際に連れて帰ってきた狼たちなんですよ、あなたみたいにね」
(……え、わたし、みたいに……?)
「つまりまとめるとですね、森に行ったついでに好みの狼を見つけて連れて帰る癖のある陛下が、今回はあなたというイレギュラーですが人間を同じように気に入り連れて帰ることにした、ということです。分かりました?」
(……ええええぇぇ!?)
狼と一緒、だと?
ペット、という言葉が脳内に浮かび急いで消す。違う。断じて違う。だって人間と共存していると聞いたばかりではないか。
「……え、あのわたしは、狼と同じ扱いをされてここに……?」
「陛下的にはですね。他の者はさすがに獣である狼と一緒の扱いなんてしないの安心してください。国のお姫様だとも聞きましたし、まあ狼の前例からして前もって言っておきますと忘れられることはあっても外に放り出すことはないので安心してください」
「忘れ去られる……」
放り出す発言も気になったがそれはされないらしい。
安心しても良いのか。忘れられる――祖国と同じことになるととるべきか。それでもまだ異国より祖国で忘れ去られた方がましな気がする。
狼と同じ感覚で連れて来られたらしい、連れて来られたは来られたで最終的に忘れられるらしい。……文句が言える立場ではないのは重々承知で言いたい。なんて勝手なんだ。
「帰しては、くださらないのですか……?」
「そうですね。あの方の決定は誰にも覆せません」
暴君なのですか、王様は。
元より良い思い出なかったが異国よりは祖国、しかしながら侵略された祖国に帰っても……な考えは無駄になった。帰してくれないようだ。すんなり言われた。
「うちの陛下がお姫様を連れ去ってきてしまったわけですから、とりあえず気を使わずゆっくりしてください。悪いことにはならないと約束できます。早いですけどようこそ、とでも言っておきますね」
にこにことした「人の良さそう」な笑顔で、退路がないことを示されたビアンカは途方に暮れ直した。
――理解し難いことに、『狼枠』で連れて来られてしまったようです