11 衝撃
ほぼ落ちるように座り込んだが、痛みは気にならなかった。視界が急激に下がったことは見ていたが、床に落ちたことはすぐには理解できなかったのだ。身体から一気に力が抜けたことは一瞬前に感じた、それからあっという間だった。
突然混乱の中に放り込まれたよう。否、ビアンカの中がかき混ぜられて混乱が突然起こされたみたいで、未だに収まりを見せるどころかひどくなってきている。
低い低い、声。元の声ではなく、意志が込められ、聞くだけで威圧される声音。
王は怒っている。
やっとはっきりと理解できたのはたった一つ。しかし依然として理由の分からない代物だった。
目を見張り見上げる行動はビアンカの意思とは関係なく、糸で吊り上げられているように、目を離すことができない力が働いていた。
へたり込んだビアンカを冷たく見下ろす王は、ビアンカには長く感じた時間黙していたかと思うと、おもむろに口を開く。
その動作にビアンカはビクリと震える。もはや身体は怯えっぱなしだ。
王の瞳がより不快げに感じる様子で細められた気がするが、ずっと見ているからもう定かではない。
「フリッツ」
王が作った言葉は、側近の名前。
短い返事があり、そのときはじめてビアンカはフリッツが部屋の中にいることを知った。だからといって振り向く大きな動作をできるはずは、ない。
「出ろ」
ビアンカを見たまま言われたので、反射的にビアンカは自分に言われたものと受けたが、違うようだった。
「……お言葉ですが」
「出ろ」
「――っ、分かり、ました」
二度目も、一度目と同じ言葉だったなのに、そうしなければならないと感じさせる力があった。静かな室内で息を飲む気配がありありと伝わってきて、ためらう様子のフリッツが出ていった。
扉が、閉まる。
次こそビアンカだけだと示すがごとき静寂に、耳が耳鳴りに似た音を捉えかけた。
王が動く。
身体が後ろに行きたがった。
「私から逃げるのか」
逃げたい、と身体は思っていることは間違いない。心は分からない。
けれど今の王は今まで見たことがない様子で、怖い。これも間違いない。
首を振ること、声を出すこと、意思の疎通を図る手段が取れずに強張っていると、王の瞳の色合いが濃く、瞬きをしていれば分からない変化を遂げた。
ビアンカは瞬きを許されず変化を目の当たりにし、直後急激に酒に酔わされたみたいな感覚に陥る。
全てがぼんやりとし、霞がかかり、力が入っていた身体から強制的に力が抜ける。
身体の前で握り合わせていた手もだらりとし、ままならない視界の中央では一対の鮮やかな瞳だけが明確だった。
人にはない吸血鬼が持つ実体のない力。
動く意志が奪われた中で手が伸びてくることが分かり、反射的に身体は身構えそうになるが、実際には力も入らない。
大丈夫。この手はビアンカを傷つけない。傷つけないと王が言った。
ビアンカが言い聞かせるように確認するように思い出す間に、伸びてきた手は腕を掴み座り込んでいるビアンカを無理矢理立たせた。力が入らない身体が勝手に床に落ちてしまわないように、腕が後ろに回され、腰と背を抱き固定する。
王の気配が間近に、瞳が目の前にある。
抱き寄せられたことで密着している部分もあり、今日最も近い距離だった。雰囲気に当てられ何がなんだか分からない状態で全てが朦朧とされられた中――悲しいと思い、泣きたくなった。
すると乾いた短い微かな笑い声を耳が拾う。ビアンカ以外にいるのは王のみ。つまり――笑い声は、楽しいものではなかった。
「私から離れたいか」
低く囁く声。
首に熱いものが這っていたのは、声よりも後だったろうか。気がついたときには王の顔は視界にはなく、美しい白金色が輝き、熱い息を無防備な首に感じた。
曖昧な意識の中でも、指でも肌でもない湿り気を帯びた熱さの動きが生々しい。
「お前は私のものだろう」
王にしては感情的な声音が囁かれたが最後、首を這い回っていた熱いものは離れ、すぐに違うものが触れた。
鋭い、硬い、触れただけでは止まらず反応する暇はなかった、何かが突き立てられ、ブツ、肌を突き破――――痛み、バチッと意識が弾けたように明確になった。声にならない悲鳴がビアンカの喉から引き絞られる。溢れんばかりに開いた目から瞬時に生まれ頬へ伝い落ちるうっすらとした感覚。それよりも、何よりも、
痛い。
首が熱い。
何かがビアンカに突き立てられている。
何を。
王の顔は、まだ見えない。
激しい痛みの中心をすぐにでも手で押さえたいのに、その手が押さえられていてもどかしいどころではない。痛い、止めて、痛い。
懇願の叫びは言葉にならず、悲鳴に代わった。
「――失礼します!!」
誰かが乱暴に開けた扉から入ってきた、
「陛下、駄目です! それだけはいけません!」
次にはとても近くで、大きな声が聞こえる。
「陛下! 正気ですか!! お姫様を傷つけていいんですか!?」
聞いたことのないくらい声を張り上げた言葉がなおも続けられようとし、ビアンカも祈るような気持ちになってきたとき、首からズルリと突き刺さっていたものが抜けた。
支えをなくした身体はどさりと為す術なく床に崩れ落ち、直に座り込み両手を床についていた。視界が徐々に自分の両手を認識し、さっきまでの圧迫感で、息を浅く速く繰り返す。
首を、ドロリと汗が伝うに似た、それより遥かにねっとりした、決して良いものではない感覚が伝わった。わななく手をのろのろと上げると、じくじくと痛みを訴える箇所に確実に近づいてゆく。
心臓がうるさい。
床を見つめたまま、どくどくと、身体中に響き渡る鼓動を感じ、手を違和感を頼りに近づけ――触れた。乾いた肌を指を滑らせ……ふいに濡れる。
指先が震えた。汗とは異なる手触りで、そうしている間にも首を下へ下へ伝っていく、それを、手で確かめる。
ベタリ。
下ろしてきた手が見慣れない色で、愕然とした。濡らした赤が鮮やかで、手が先だったか身体が先だったか。再度震え始め、ぼう然としたまま視線を上へ上へ、そろそろと辿らせていくと――
このような時でも美しい顔。唇が色味を増し艶めき、赤い舌がちろりとそれを舐めとった。口から覗く一番尖った牙が赤く染められている様が目につく。
噛まれた。
ビアンカの首に顔を埋めていた王。
声。
痛み。
あの牙がビアンカに突き立てられたと、頭のどこかがすべてを繋ぎ合わせて素早く理解した。容易に飲み込みたくはない事実を突きつけてくる紛れもない証拠。
噛まれた。
噛ま……
「お姫様!」
最後に見えていたのは王。
最後に聞こえたのは王の声ではなかった。




