10 錯覚であれ
「部屋に戻ったら温かい紅茶をお入れしますね!」
「ありがとうございます」
城内へと入ると、アリスが溌剌とした口調で気遣いを見せてくれたので、ビアンカはお礼を言った。
しかし外での出来事が刺の先のように残っていて、ビアンカはここまで言い出すきっかけを作ることができなかったが、今ようやく口を開く。
「あの、アリスさん」
「お姫様が謝る必要はありません」
「……え」
どうして言いたいことが分かったのだろう。
外で会ったランガルドからだという使者の、吸血鬼に対する偏見を彼女に聞かせてしまうことになった。ビアンカは否定することができたのに、すぐにはできなかった。
「あの使者の言うことは思ってもみなかったことではないので」
「でも、」
「お姫様が否定してくれて私は嬉しかったんです」
アリスは笑顔で言った。
自分が否定してどこが嬉しいのだろう。ビアンカは首を捻る。
「帝国には人間も住んでおり私も人々と関わったことがあります。しかし帝国の外、遠くの国には吸血鬼は統治下に入らない限り全く吸血鬼はいませんから、自然と吸血鬼の情報は曲がり尾ひれがつけられどういうことか悪いものとなってそれらの国に届きます。攻めた国によってはその地で化け物と言われたこともあるので、人間からはこう見られることもあるのだと私は知っていました」
「…………」
「けれどお姫様が否定してくれました」
「それは、アリスさんたちが本当に優しいからです……」
「そう思って下さっていることが嬉しいんです!」
それに、とアリスはそのままの笑顔でつけ加える。
「私は見知らぬ吸血鬼が何をしたと責任を持つつもりはありません。だから人間はさらに数が多いのにお姫様が出てきた先から責任を負っていてはきりがないですよ?」
「確かにそうだとは、思いますが……」
「そうでしょう? 他は他ですよお姫様!」
この吸血鬼は、日だまりのようだ。眩しくてたまらない。言い切るアリスの言葉と笑顔が本当に眩しかった。
きっと、最初からわけ隔てなくビアンカに明るく接し続けてくれている彼女のことが、ビアンカは大好きになっているのだろう。
ランガルドの使者が吸血鬼に関するあることないことを言ったとき、実際に近くにいて他にビアンカの近くにいる吸血鬼たちのことを思い出して、こんなことを聞かせたくない、悲しいと思ったから。彼らは優しいのに、と。
「……わたしはアリスさんが好きです」
「え!? 照れますよお姫様! 私も大好きですけどね!」
知らないうちに溢れた言葉に倍にして返されて、ビアンカの方が慣れない言葉に照れるという感覚を味わった。
そうこうしている間に、部屋の前に一直線に伸びる廊下に差し掛かったのであるが、見慣れない光景がそこにあった。
廊下に動くわけでもなく固まっている小集団が。
近づくにつれ服装もビアンカにも分かり、侍女たちが集まっている様子が目に入って「どうしたんでしょう?」とアリスが言うのにビアンカも同じ気持ちである。
どうして部屋の中ではなく、廊下を歩くでもなく、そこに皆集まっているのだろう。
「お姫様……」
「フリッツさま?」
フリッツも混ざっているのではないか。侍女たちの中からビアンカの元へ歩いてきた吸血鬼の顔にいつもの笑顔がなくて、ビアンカはフリッツが前まで来たタイミングで足を止めてしまう。
「陛下がお待ちです」
王は今日は忙しいはずではなかったのかと、聞いていた記憶との差異を感じて戸惑う。確か今日は就寝時にも来られないはず。それなのに、今、扉の向こうの部屋にいるというのか。
それに待たせている。ということが一番重要に聞こえて、散歩に行っている場合ではなかったとひとまずいち早く入るべきかと扉に向かって……背後で会話が聞こえた。
「アリス、君は駄目だよ。入れないように言われているんだ」
「それなんですけど、何があったんですか? 皆外にいて、中には陛下だけということですか?」
「何か? 強いて言うのなら……外にいるお姫様を見たことくらいしか記憶にないよ」
「外、あ、お散歩に行っていたのが見えたんですね! ……それだけですか?」
「それだけ」
外にいるビアンカを見たとの言葉に、さっきのことかと思い当たるもいつかとは分からない。
それにしても、どうして侍女たちは外にいてアリスも中に入ってはいけないのか。これでは閉め出しているようだ。それに――
「どうしてお姫様だけを?」
「分からない」
「分からないんですか?」
「情けないことにこればっかりは何一つとして全く陛下の考えていることが、流れが分からないんだよ」
フリッツの笑顔がない理由が読み取れなくて困惑し、フリッツ自身も戸惑っている風な言い方だ。違和感ある流れの会話を聞いていたビアンカは、念のため、扉の取っ手に手をかけたままおそるおそる尋ねる。
「わたしは、入っても良いのですか?」
「お姫様を待っていらっしゃるわけですから。……本音はあまりお勧めできませんが、残念ながら私には他に道が見当たりませんね」
不吉な言葉が返ってきた。
ビアンカは扉の向こうには何が起きているのかと、不可抗力ではあるものの待たせたから王が怒っているということだろうかと考えるが、フリッツは詳細は言わなかった。
漠然と不安と疑問を抱えることになる。しかし中に入らなければ何も分からないようで、ビアンカは止めていた手で扉を力一杯引いた。
錯覚だろうか。入った中は空気が重いように、感じられた。
模様替えされたわけもなく、変わったこともないのに、部屋の中でも違和感めいたそれを覚える。
入ったのはもちろんビアンカに与えられた、一日の大半を費やしている部屋。慣れてしまった部屋はこんなに身体が緊張する場所ではなくなっていたのに。
見慣れた調度品、絨毯、カーテン、テーブル、ソファー。
中には侍女たちが外にいるので彼女たちの姿はなく、三人は余裕をもって座ることができるソファーの決まった位置に座る姿が一つ。
待っていると聞いた王がソファーに座り、扉の方向には横顔を晒していた。
ビアンカの足取りは勝手に鈍る。そちらへ進むたびに足が少しずつ重くなっているみたいだった。
しかしビアンカが王の元へ行かずとも気がついた赤い瞳がビアンカを捉え、途端にビアンカは動けなくなった。
見るしかできなくなったビアンカの視界で、ソファーから立ち上がりこちらへ歩む王の表情は、威圧感のある笑みも眉が寄った様子も今まで見てきた通りに、見える。
ただ鋭利な容貌が冴え冴えとし、気のせいかとても冷たく映るのは単なる感覚だとは言い切れない。王が近づくほどに、ビアンカは縮こまりたく、隠れたくなっているのだ。
普段は中々正面に向き合って立つことはなく慣れていないからか、とうとう目の前にきた背の高い王の姿に圧迫感までも。
「私がいない間に何をしていた」
感覚だけに苛まれて、緊張の渦の真ん中にいるビアンカはそのような自分の状態に戸惑っており、反応が遅れる。
王がいない間に何をしていたのか、と聞かれた。
「私の見えるところから離れ、外に出たのはどういうつもりだ?」
「あ、の……」
毎日連れて行かれる王の執務室を出たのは、忙しそうで、黒髪の吸血鬼の視線はやはり居心地が悪く邪魔だと言われているようだったから。外に出たのは狼に外に出ていないことを知らされたから。外では言えば散歩をした。
答えはビアンカの中にあるのに、紡ぎ出すことができない。王は答えを求めている様子に見えなかったのだ。
淡々と問われることに答えるが正解か、黙っているのが正解か。どちらも正解には思えず分からない。
「人間と話すのは楽しいか」
「……ぇ」
「誰に触れさせている」
手が伸ばされてきた。
身動きしないうちに手が触れたのは首。その手に浴場でされたように、濡れていないからそれよりも滑らかに撫でられる。優しい手つきとも言え、爪を突き立てられたとかいうことはない。
けれどビアンカは震え出しそうな身体を抱えていた。王の醸し出す空気と、言と、手つきがぴったりと合わさることがなくて、どれを信じればいいのか。
身体は勝手に震えそうになっている。心臓は最近のどくんどくんと頬も熱くなるような打ち方ではなく、冷や汗が滲みそうな変な打ち方をしていることを感じていた。
まるで、王を恐れているようで。
どうしてか、明確に分からずビアンカは瞳を頼りなく揺らす。
ビアンカの首もとで、ネックレスが、首から滑り落ちた王の指に掬われて肌から離れた。
「首飾りではなく狼のように首輪をつけられたいか?」
ネックレスの細い鎖が首を擦る。細かく小さな鎖。今の王の手にある光景を見ると、少し力を入れられれば千切れそうな鎖。
鎖を指で弄ぶ王は目をす、と細め、笑う。笑う形なのに愉快そうではないからずれが生じる。
「中々に妙案だな。そうすれば誰から見ようとお前は私のものだという証になる」
表情は変わらないのに目の温度と感情だけを変えてみせて、王は睦言を囁くような声で言った。
ビアンカは、今や抑えようもなく身体がカタカタと震えていた。
その瞳にほの暗い色を見て、決して狼を愛でるような目ではないとは分かり、王は怒ればこのような目をするのかもしれない。怒っているのだとしても、ビアンカは一体何をしてしまったというのだろう。
待たせたことに対しては何も言及されず、外で起きたことだけを言われているように思える。勝手に外に出てはいけなかったのだろうか。
謝るべきなのだろうか、と思っても、この部屋に入ってからろくに口が動こうとしてくれない。
王がそうさせてくれない。
「お前が私から離れようとすることは許さん。離れようとするのならば、これまでとは話が別だ」
その言葉だけは明確に、声色が優しくも普段の響きではなく、耳に入ったが同時にビアンカはすとんと腰が抜けて床に落ちた。




