3 はじめての外
意識が完全に浮上するより先に思ったのは、お尻が痛いということ。それにより意識が浮上したと言っても過言ではない。
ふっと浮上した意識を自覚すれば、今度は身体が上下に揺れているではないか。
一体何事――視界は目を開いているのに暗くて、しかし宵闇の暗さではない。頭に違和感があることから、黒い布に覆われていることが察せた。
ためしに手を伸ばしてみると、肌触りの良い少し厚めの布があり、頭の上からすっぽり被せられているよう。
袋の中に入れられているのではなく、前に切れ目がありその隙間から光が入ってきている。
そもそもどうして袋に入れられているという物騒な考えが勝手に浮かんできたのか。騒ぐ心臓を抱えて、そっと布の切れ目に手を差し込み、目の前を明らかにした。
端的に言うに外だった。
太陽に照らされ、開けた地は広かった。ビアンカがこれまで見てきた地といえば、城の中のそれも限られた地で、視界の端にはいつだって壁がつきものだった。
頭の中のそんな景色と比較すると、広がる地の広さはすぐには飲み込めないもので、ここがどこか当てることは無理難題というもの。
少なくとも、城ではないとの事実を飲み込むのが精一杯だった。
目を溢れんばかりに見開いて、景色を瞳に映しているばかりのビアンカから被せられている布がずれて、より広く景色が開けた。
すると黒い影のなくなった視界の端にそれでも引っかかるものがあって、ビアンカの目はようやく「外」という大まかな事実以外のものを認識した。
周りにも布――フードをすっぽり被った人たちがいた。凛々しい顔つきの馬に乗り、ちょうど横に並んでいた顔がふいにビアンカに向けられる。フードの影で異様に存在感を発揮する瞳を見つけた。
赤い。
吸血鬼。
馬に乗っている。
そう、馬。
意識がなかった人間が一人で馬に乗れるはずがない。ビアンカは誰かと一緒に黒い鬣の馬に乗っていた。
目に入った横の馬には吸血鬼。では、ビアンカは――身動ぎしたが途端、
「動くな、落ちるぞ」
上から落ち着いた低音が降ってきたことにより、無意識に動いた身体は、無意識に止まった。
声がどこから発されたのか。これこそ考える必要はなく、ビアンカの一番近くから。
ビアンカを馬に乗せている「人物」。背後から回りビアンカの身体の前で手綱を取る人物。
しかし残念ながら予想が当たることが恐ろしく――この周りの光景を確認した時点で決まりである気がするが――結局振り向けなかった。
――波のない生活を送っていたので、室内でないだけで頭がいっぱいいっぱいなのです。次はどういう状況でしょうか。出来ることならそんなに精神に衝撃の少ない方向でお願いしたいものです。
どこまで行くのか。乗馬初体験でお尻が痛く、かといって降りられるはずもなく、段々と遠い目をしている内に着いたのは、どこまでも続く陸路ではなく陸の途切れる港だった。
ビアンカは港を実際に見ることもはじめてで、広がる水しかないその先を見ることもはじめてだった。
けれども海に目を引かれるより先に目に入り、視界を独占したのは巨大な真っ黒な――見た目はおそらく軍艦。
ビアンカが本で見た挿し絵のどの軍艦より厳つい作りをしている巨大な船だった。同じような軍艦は他にも見られ、その内の一隻に馬の集団は近づいていく。
黒い軍艦はビアンカの国の所有物ではなく彼らの持ち物であるようだ。
そこではっとする。
帝国からこの国への最短経路は海。
海から来たのか。それではまず港を制圧して、王都に向かい……と手順を考えると、王都に何らかの知らせが行くよりも彼らの要所要所での制圧が早かったというのか。
ビアンカの記憶では、唐突な日常の幕切れがなされる直前までは城の中には異変はなかったように思えていた。実に唐突であったのだ。
それに考えたくはないのだが、まさか自分はあれに乗せられる……?
なぜかここにまで連れて来られており、前には軍艦。導きだされる未来が一つしかなくて、困るどころではない。
(そもそもどうしてわたしはここにまで連れて来られたのでしょうか……)
現実逃避を兼ねて思考に沈もうとすると、それを阻むかのように馬がはじめて歩みを止めた。
それだけなのに軽く驚き、挙動不審に左右を最低限の動きで見ると左右の馬も止まっている。
それどころかマントを身につけた吸血鬼たちは馬から身軽に降りはじめており、ちょうどそのタイミングでビアンカの後ろからも「誰か」がいなくなる。
馬に一人で乗ったことのないビアンカは一瞬の安堵を得た後にどうすれば良いのかと焦りを覚え、おろおろとしていると下に「後ろにいた誰か」が現れた。
吸った息が、引っかかるような形を持たないはずが、喉に引っかかりそうになった。
フードも被らず太陽に整った顔立ちをさらけ出した吸血鬼。赤い瞳と目が――合ってしまった。
腕が伸ばされてきて避けようとした。が、馬の上だと揺らぎかけた身体で思い出され、動きが鈍っている間に、いとも簡単にその手はビアンカを捕らえる。
反射的に目を瞑ると身体が浮き、目覚めたときから今まで尻にあり続けた硬い鞍の感触がなくなる。身体がだらりと伸びたのは数秒もしない時間で、すぐに何かに腰かけたようになった。
「……?」
そろりと目を薄く開けて後悔した。目を開かなかった方が不安だったかもしれないし見たところで何も……どちらにしろ後悔した。
あろうことか、ビアンカは吸血鬼に抱き上げられていたのだ。
(ひえぇ……!?)
出た悲鳴が心の中でだったのは上出来だったろう。
単に、置かれた状態に身体も声も何もかも衝撃で固まってしまったのだけれど、声を上げていたらどうなるか。
小柄だとはいえ子どもではないビアンカを重さを感じさせず片腕で支える吸血鬼にも驚いたが……、何よりさっきよりも近くにあることになる存在に緊張が止まらない。
(歩かせてくださいぃぃ)
ビアンカを選んだ理由はさておき、捕虜扱いで連れて来られたことは立場からして疑いようがないだろう。
しかし土地勘もなく走ることも体力的にままならないひ弱なので、逃げられるとは微塵も思っていない。
いくらこの状態から逃げたくても、逃げ方も見当がつかないような有り様だ。逃げないので歩かせてほしい。新手の拷問か。
と、心の中で何を考えようが叫ぼうが実際に言える勇気がない。身体を固まらせて、ひたすらに行く先を案じるしかないビアンカの目は曇り空よりも曇っていることだろう。
この先、どうなるのだろうか。
「お帰りなさいませー」
軍艦がある方から、間延びした緊張感がない声がした。
緊張させた身体を抱えているビアンカが、余計な動きはしないようにと器用に目だけを動かしてちょっとだけそちらを見ると。
軍艦から地上にかけて伸びるタラップの前に立つ人影があった。
出迎える形をとるその人影もまたフードを被っており、今とった。その時点でお察しだったが、揺らした金色の前髪の下に覗く赤い瞳、この男も吸血鬼。
どこもかしこも吸血鬼だらけだ……と暗い気持ちになっていると、ビアンカを運んでいる吸血鬼が金髪の吸血鬼の前で止まった。
慌てて視線をずらす。視線を感じる。
「えーっと、陛下、そちらの見たところ人間の方は?」
「連れて帰る」
「やっぱり連れて行った要員ではないですよねー、服装と体格からして。あはは。……この国の方ですよね」
「そうだ」
「連れて帰ってどうするんですか?」
「側に置いておくが?」
「何のために?」
「気に入ったからだ。なぜそんなにも聞く。狼を拾ったときは何も言わなかっただろう」
「え、あーそうでしたね。……その方向なのかぁ」
前に吸血鬼側にも吸血鬼と小刻みに震えるビアンカを見たか、前方から先程と同じ声が言う。
「わお、補食される寸前のウサギみたいになってますねぇ」
「どういう意味だ」
「震えてますよ」
「震えている? なんだ寒いのか?」
震えていることに今気がついたらしい。さっきまで知っていて知らない、という態度だったのではないのか。
近くからの声に気にしないでくださいと頭を振りたいが、首は一向に動かない。
「寒いという可能性も考えられますけど、その様子では違うと思われますよ。相当ですねー」
間延びした声がのんきに言った。
直感的に、自分を運ぶ腕の持ち主より話が分かりそうだとビアンカは思った。小刻みな震えはまだ止まりそうにない。
「それより上手くいったようですね。まあ陛下が向かわれたのであれば当然でしょうが」
「後はカルロスに任せてきた」
「そうですか。ではとりあえず乗ってください。揃えば出られるようにしてありますから」
「ああ」
その頃ビアンカは新たな存在に気がついていた。
下、吸血鬼の足元に寄ってきた毛の塊があった。耳があり、黄色の目があり、下を見ていたビアンカに向いた鼻面……クワリと開けられた口には鋭い歯が揃っていた。
(お、狼……!?)
新たな存在にして新たな脅威に身を竦め、ぎゅっと手に触れているものを掴む。
大きい。大きすぎる。ビアンカが地に下りて並べば腰を越え、下手をすると肩くらいの高さがあるのではないか。狼というものはこんなにも大きな存在だったのか。王妃が可愛がっている白い小柄な犬しか見たことのないビアンカは驚愕する。
今下ろされたら確実に食べられる。獣特有の黄色の目がビアンカを見ているのだ。
だが牙を剥いてくる狼を恐れる一方でそのとき自分が何にすがり握っているのか自覚し青ざめる。吸血鬼の服!
下にはビアンカを噛み砕けそうな狼。下ろされてはたまったものではない。しかし近くは――とどうしようもない環境に置かれており頭はパンクしかけている。どうすればよいのか。
「グルルル」
「ひっ」
「おい」
「……っ」
一度目は狼の唸り声、二度目の声にならない悲鳴はすぐ側からの低い声に対して。
ビアンカにはどちらも恐ろしすぎて、どうしてこんなことになっているのだろうと、泣きたい気持ちで心の中ではとうとうしくしくと泣いている。心の中だから許されるだろう。
「お前もついでに運んでやろう」
言うが早いかビアンカに狼が近づいた――と思っていると身を屈めた吸血鬼が空いている手で狼の首根っこをむんずと掴んだ。
掴んで、
飛んだ。
ビアンカの身体は表現の仕方が分からない感覚に包まれ、息が圧迫に近い形でできなくなった。
視界は移動しているようだけれど追えず……フワリと身体が浮いたその一瞬、黒が消えて青が見えた。遠く、遠くの景色。意識も遠く、遠くどこか。
「クゥーン」
と威勢の良かった狼の情けない声がどこかで聞こえて、それだけは怖くないなと思った、気がした。
また記憶はここで途切れている。