24 涙
今日ばかりは、お風呂は付き添われて入ることになった。
「アリスさん……ありがとうございます」
「いいえ! 本当に、私が目を離さなければ……!」
「それは、違います」
「でも恐ろしかったでしょう!」
髪を丹念に拭いてくれているアリスが、違う布でそっとビアンカの目元を押さえた。
涙はせき止めるものが無くなったように止まらなくて、布が吸いとっても、後から後から筋を作る。そのせいで気の毒がられる度合いが濃くなっているのだろうけれど、ビアンカは自分でも戸惑っていた。これは止まってくれるのだろうか。
意識は、もう何が起きていたのだというほどはっきりとしているので、そのせいではない。
止めようと思っても止まってくれないし、頬を伝う感覚がなければ気がつかないだろうほどに自然に流れているのだ。
どこかのタイミングで擦りむいていた頬に手当てがされ、貼られた薄い布に染み込んで頬がひりひりする。
「それよりも銀色の毛の、狼は大丈夫でしたか……?」
何より可哀想なのは狼だ。何もしていないのに、ビアンカの巻き添えをくらってしまった。
「大丈夫です。少しだけ眠らされていただけです、今はお姫様のお部屋にいますよ」
「そうですか……」
良かった。ほっと息をつく。
けれどあんな目に遭っておきながらまだビアンカの部屋に来てくれているのは、運ばれたのか気に入っているのか、だろうか。
銀毛の狼が離れていってしまうのは悲しいので、そうではなければいいな、と思う。
「お姫様」
「はい」
今度は櫛を入れはじめたアリスが後ろから呼びかけてきたので、ビアンカは返事をした。
前にある鏡越しに見えた彼女は珍しくも真剣な、少し迷う様子を見せていた。珍しいのは迷う方だ。
「アリスさん……?」
「――お姫様、吸血鬼が怖くなってしまったでしょうか?」
鏡の中で目が合って、アリスは早口で言った。
ビアンカはぽかんとする。
「どうして、ですか?」
「力を使われたと聞きました」
力。
ビアンカの意識を朦朧とさせた瞳。やはり見えない力がそうさせていたのだと分かる言葉だった。
「私たちには吸血鬼だけが持つとされる『力』があります。手を使わずに意識を混濁させることや奪うことも吸血鬼によってはできるんです。私たちも頻繁に使うことはないものなのでこれは他の国には知られていません。それに吸血鬼の中でも一般の民にはないものなので、だからより強い力を持つ高位の貴族は一般の民に恐れられることもあるんです」
「…………」
血を飲むこと以外、身体能力の強さは人間の何倍とでも表すことができるものだった。しかしこれは違う。
決して人間は持たない力だ。そして歯向かうこともできない。
今の話では、おそらくアリスもその力を保持している。それどころか、ビアンカの周りにいる吸血鬼たちほとんどが持っているのかもしれない。けれど、これまでそれに気がつかなかったということは。
「…………アリスさんはわたしにその力を使いますか?」
「いいえ!? まさか! 絶対にあり得ません!」
「そうですよね」
「はい!」
「……だから、いいのです」
だからいいのだ。
元よりビアンカは人間でさえも屈強な軍人に両腕を掴まれたら身動きできなくなるだろうし、不意打ちで何かされたら意識だって奪われるだろう。
悪意に満ちた目は自分に危害を加えるかもしれないけれど、そうでない目は違う。祖国でずっと培いたくない以前に培われた感覚。
でも今は、ビアンカがこの国に来るまでほとんど接して来なかった優しい目しか近くにない。
「アリスさん」
「はい」
優しさを疑うことはしたくない。
今までその吸血鬼の力に気がつかなかったということは、周りにビアンカを害そうとする吸血鬼がいなかった証拠ではないか。
「……すごく、時間が経ってしまっているのですが、……いつもありがとうございます」
言葉だけしか伝えられる手だてはないのに、つっかえてみっともなくなってしまったが、アリスは……ぼたぼたと涙を落とした。
「お姫様!」
「アリスさ、ぅ、」
「優しすぎるんですううぅ!」
後ろから身体を絞められた。
正確には抱きつかれた。骨が悲鳴を上げたので、アリスが泣いた驚きは吹き飛んで、声を上げるにも絞められて出ない状況が出来上がった。
涙が未だ止まっていないこともあって、絞められて泣いているみたいになった。違う侍女が止めてくれた。
アリスは泣くほどに力加減を間違えたと思われて怒られていた。
アリスの明かしてくれた吸血鬼の力について、ビアンカが誰かは分かっていない吸血鬼による、意識が朦朧とした感覚に近いもの……それよりもっと酒に酔ったみたいな甘めの感覚を味わった気がしていた。が、頭は引っ掛かりを覚えるだけで分からず、ビアンカは頭の隅にしまっておくだけにした。
部屋に戻る道すがら、涙を止めようと再度物理的にも精神的にも色々頑張ってみたが、止まらず本気で心配になってきた。明日起きたら止まってくれているだろうか。
止まっていなければ途方に暮れるに違いない。
「あ、お姫様ー」
「……フリッツさま」
せめて泣いている顔は出来る限り隠しておこうと俯いて歩いていると、前方から呼びかけられて顔を上げる。
フリッツがいた。
「あれ? 泣いているんですか?」
「あ、これは…………止まらないだけなので、気にしないでください」
「意外とあっさりしている感じからして納得です。――その前にお詫び申し上げます」
「え、ど、どうしたのですか?」
フリッツがいきなり頭を下げたのでビアンカは驚く。
「彼らには罰が下ります、お姫様にも今後一切近づくことはないでしょう」
顔を上げたフリッツははじめて見た真剣な顔で、次いでにこりと目の前で表情が変化した。よく目にする笑顔。
「それより涙が止まりませんかー。今も怖いとかいうものではないんですか?」
「それはない、はずなのですが。……助けていただいて、ほっとしたので」
「それならいいんですけど。アリス、止める方法とかない?」
「色々試してみたんですけど無理だったんですよ、鼻も赤いしこのままではいたわしすぎます!」
「鼻が赤いのはアリスもだと思うよ。もしかして思っていたんだけど、君も泣いた?」
「お姫様が、お姫様が!」
「思い出し泣きはストップ」
「……あの、すみません」
「お姫様は気にする必要ないんですよ。でもそうかぁ……」
フリッツが顎に手を、考え込む所作をする。長くはなかった。
「このまま長く待たせる方が考えものだからいいか。――お姫様足を止めてしまいすみません、どうぞ部屋に戻ってください」
「はい」
何だったのだろう。少し疑問に思うが、にこりとフリッツに促されてあと少しの距離を歩きはじめる。
(あれ……? 結局どうしてフリッツさまはここにいらっしゃったのでしょう)
待っていたようで、今もついて来ている。
なぜ。
尋ねる前に部屋について、扉が開いた。吸血鬼の王がいた。
ソファーに座し長い足を組み、最初に見えたのは横顔だった。その顔が思わず足を止めたビアンカに向き、目が映す。
「まだ泣いているのか」
「――こ、これは、」
「止まらないそうなんです」
その通り。
顔を隠すかどうにもならない状況を言うか。動揺してどちらともを先行したがり、ままならないビアンカの補足どころか、まとめた事情を、フリッツが言ってくれた。
「私のせいか?」
「いいえ……! それはありません!」
それだけは否定しておかなければ、と無意識が働いて出したことのない必死な声が出た。
必要以上に声が出て思ったより大きかったことで恥ずかしくなって俯く。
「まあさっきの出来事が尾を引いていることは間違いなさそうですねー」
それはおそらくそうだろうけれど、
「!」
俯いている間に起こった、慣れてしまった床に足がつかない状態。すぐに安定する体勢に。抱き上げられ、誰の腕かと理解するとほっと息を吐きたくなった。
間にも入ってきたばかりの扉から、自分の足でではなく出ることに。見慣れた経路が過ぎていく。
「お休みなさいませー」
言われてみると、王は寝るときの服装だった。