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22 朦朧




 図書館に行く途中のこと、銀毛の狼と歩いていたところはじめて会う吸血鬼に遭遇した。


 ぶつかってしまったようで、怒気が露な声に反射的に慌てて謝ることはできた。

 が、相手からはそれ以上の言葉はなく、かといって前から去る様子もなかった。ビアンカはというと怒鳴り声で身が怯んでしまっていたことと、許してもらえていないのかと去っても良いのかも分からず、凍りづけられたみたいに動かない足で立っていた。


 しかし長く経たない内に、側で銀毛の狼が聞いたこともない唸り声をあげた。

 驚き横を見ると、大きな狼は身構え、獣本来の獰猛さを持ち鼻面にシワを寄せて目の前を睨みあげていた。

 何事か。とにかくそんな風になることはないと宥めようと手を伸ばす――その獣の身体が、ビアンカの指先が少しでも触れないうちに、前触れもなくどさりと倒れた。

 手を伸ばしていたビアンカは何が起こったのかが全く分からず、見た先、すぐ近くで狼が倒れてしまった現実だけが見えていた。


 一体、何が――


 冷えた床に倒れた狼の元に膝をつくと、ピクピクと前肢が動いていて安心した。最も悪い考えが過っていたが、そうではなかった。

 でも前肢はわずかに動いているといえども狼自身の意識はないようで、勝手に震え――痙攣しているように思える。


 突然、どうしたのだろう。具合が悪くなったのだろうか。そんな素振りは見られなかった、と思うのは、狼だから人間と同じようには表に出ずにビアンカには分からなかっただけなのか。それにしても突然で。

 動かないけれど息はしている狼をどうすればいいのかと真っ白になりそうな思考で懸命に考えつつ、案じて様子を確かめていると……まだ動いた様子のない人影を感じた。

 急に、その近くの存在が、このときまた気になったのだ。


 まさか、狼には誰も何も触れていなかったから何もしようがない。狼が唸った光景が甦り、その方向に立っている存在。狼はなぜ唸ったのか、危険を察知した野生の獣を思わせる様子だった。

 そのことが、ビアンカに根拠もなく、恐ろしい何かが働いていると考えをどこからともなく寄越した。

 そんなはずはない。

 どうしてか、狼をどうにかしたのが今近くにいる存在だとの考えが強く浮かんで仕方なく、ビアンカはおそるおそるそこにいるはずの吸血鬼を確認してみようと、見上げた。

 何も動かない吸血鬼を。


 暗く影が落ちて明確に見えない顔、探り見つけたその目と目が合う。赤い瞳が異様に鮮やかに見えた。


 異様に。

 煌々と。

 ぼんやりと。

 うっすらと。

 くらくらと。


 意識が絡めとられると、このような心地に陥るのだろうか。


 真っ暗に。


 身体が固いものにぶつかって身体に衝撃が。その固いものはビアンカの頬と手のひらに直に冷たさを感じさせた。

 床? 視界の端っこには、ぼやりとして淡くなった銀色が輝いていた。







「団長、連れてきても大丈夫なのですか」

「いなくなったともどうせしばらく気がつかないだろう」

「ですが、一体どうするつもりですか」

「忌々しいこの存在を消す」

「消す……とは、さすがに、」

「息絶えたならば、捨てるしかあるまい? そうすれば目障りなものはなくなる、それだけだ。――帝国に人間はいらない」


 「殺してはばれる。ここに閉じ込めて放って置けば弱い人間のことだ、そのうち死ぬだろう」と冷たい固い感触が消えて浮いて、また冷たさが戻ったあと、そんな言葉の羅列を作る声がただ耳に入ってきた。


 いつからか、ずっとか、開いてはいた視界に映る景色が頭の中に入って、目の役割を僅かながらに果たしはじめた。

 暗くて、黒くて、何も見えない場所だった。けれど開けた場所、廊下ではないとは感じ、どこか部屋の中らしいと察して、そこまでだった。


 手は後ろに回されたり前に回され拘束されていることもなく、足も同様。

 縛られたとすればあるはずの窮屈さは感じず、目の前の床に置かれているだけの手は自由で、動かそうと思うとぴくりと指が動いた。

 しかしながら、一枚、薄い薄い布がかかったような感覚だった。

 指は、確かに自分で動かしたはずなのに、感覚的には自分が動かすように容易なことではなかった。

 動かそう動かそうと思い、動けと思い、ようやっと人差し指が一本ちょっとだけ動くのみ。立ち上がろうとするなら、どれほどの力と気力がいるだろう。


 とてもではないが、計り知れない。

 身体が重くて、普段思うと同時に動いていたことが不思議に思える。それくらいにままならない。例えるなら、高い熱があるときみたいにぼんやりして怠い。

 物の輪郭が明確には把握できない視界を、開けたり閉じたりすることは、できていた。



 吸血鬼の赤い瞳、誰とも知らないはじめて会った顔だった。その目を見た途端に、ちょっとだけ窺おうと思っていた目が固定された。赤色しか見えなくなり、赤が光って、何もかもがぼやけた世界に様変わりした。

 今もゆらゆらと瞼の裏に奇妙な光が揺らいで見える、のは、幻覚か。


 何だろう、何だろう。


 思考も鈍って、まともなこと、細かいことが考えられない中でもビアンカは一つだけ感じていて考えることがあった。身体が自由に動かないのはなぜか、ということではない。


 赤い瞳にあったのは、侮蔑の色だった。ぶつかって顔を合わせたばかりの見知らぬ吸血鬼は、王の側にいた黒髪の吸血鬼と同じような目をしていた。

 そのような感情を持つ吸血鬼に今まで会わなかったことが、やはりおかしかったのか。繰り返し思う。周りにいた吸血鬼たちは、優しすぎるほど、優しかったから。


 ビアンカは何がどうなっているのだろう。

 あの吸血鬼は、帝国の人間でもないどころか制圧された側の国の人間であるビアンカのことを知っていて、目障りだったのだろうか。城は吸血鬼だらけで、人間がいれば目立ってもおかしくはない。

 そのビアンカがぶつかって機嫌を損ねたのだろうか。だからこうなっているのだろうか。


 もっと、もっと慎重に行動すべきだったのに。ビアンカは甘くなってしまっていたのだろう。空気のように、静かに、ひっそりと行動するべきだったのだ。祖国でそうしていたように。ここは祖国でもないのだから。


 疑問は尽きず、何をすることもできずに自問すれど、答えは自分では分からない疑問が消えてはまた浮かぶ。

 後悔しても遅い。いつまでこうしていれば許されるのだろう。





「――探し回っていたそうです」

「侍女たちなのだろう、それなら問題ない」

「しかしもしも陛下の耳に入れば」

「入ったとしても人間の国を時に攻め滅ぼすお方だぞ? 責められることはあるまい。余計な事を伝えられるより前に仕方ないが、」




「殺してもな」



 声が聞こえる、誰とも知れない声。敵意に満ちた声は慣れるものではない。


(そうでした。……ここは、いつわたしの命がなくなってもおかしくはないところ、でした)


 祖国でも価値のなかったビアンカの存在が、きっと価値のない以下の帝国。本当はビアンカも帝国に仇を為す声を出した王族の一人として殺されるはずだったのに、なぜかあの王によって連れて来られて命は繋がり贅沢な扱いをされていた。

 だから、忘れかけていた。周りがいくら優しくても全てがそうであるはずはないと。



 冷たいなぁ、と、今感じることができる温度に思う。

 帝国に来てから温かいばかりだった。人間とは異なる存在が、祖国で周りにいた人間より温かいことが不思議でたまらなかった。

 アリスの作ってくれたショールは今は視界に映らないけれど落としていないといいな、と思う。彼女の作ってくれたショールは役割以上にとても温かかったから。

 狼もどうしてかビアンカになついてくれた。狼の毛はふわふわで体温もあってもちろん温かい。銀毛の狼は大丈夫だろうか。


 就寝時間になると決まってやって来てビアンカを抱き枕代わりにする王にも体温はあり、そういえば温かかったなと思い出す。

 王はビアンカが怯えることが気にくわないと言っていたけれど、今思い出すと少なくとも王は侮蔑の瞳ではない。

 何を考えているのかなんて誰を見ても読み取れないことだろうけれど、王の瞳はそれに加えてひどく強い、強すぎる意志があってビアンカに威圧感を与えていた。


 でもそれだけで。ビアンカにとっては過激な発言もあったけれど、結局はビアンカを傷つけたためしがない。

 無造作な動作ではあるものの、乱暴ではないことは実際に抱き上げられ撫でられ知っていた。

 それは気にくわないだろう。殺さないと言っても怯えられ、刃をつきつけたわけでもないのに怯えられ、変えようのない雰囲気だけで怯えられ。


 あの王は紛れもなく優しい部分を持ち合わせ、全部ビアンカが怯えていただけで、ビアンカを実際に傷つける行動をしたことはないのだから。



 そう思うのは、その誰でもない吸血鬼がビアンカに向かって手を伸ばしているからだろうか。分からない。

 身体が、いつの間にか震えていたことを感じる。

 嗚呼、とても、とても今、怖いのだ。これが本当の恐怖。





 この手は、怖い。









「誰のものを無断で殺すと言っている?」







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