21 側近、直感する
「失礼します!」
「アリス、元気なのはいいけど場所によっては静かにね」
「すみません!」
ぴくりと眉を動かす気難しい吸血鬼がいるので、元気よくはきはきと入ってきた吸血鬼に、フリッツはそれとなく注意した。それから執務机を離れて、要件を聞くべくアリスの元へ歩いていく。
「用件は僕で事足りるかな」
「おそらく、はい」
アリスの目が奥の執務机に向けられたことで、そんなに大事かもしれない用なのかと首を捻りつつも、少しだけ壁に寄って聞く。
こそこそと耳元で伝えられる用件……を、声が止まるまで聞ききって、アリスと顔を合わせて確かめるべく聞き返してしまう。
「それは、確かなのか?」
「はい」
頷くアリスは、そういえば入ってきたときから真剣な顔をしていた。それは王の部屋に来るからではなく、このためだったのかとフリッツは理解する。
「陛下に、お伝えしますか?」
「何だ」
吸血鬼の耳はいい。
だが、神経質な性格でもない限り、興味のない話や緊急性を帯びた音でなければ聞き流す作りでもある。王もまたその類いだが、「陛下」と自身を示すそれは聞き逃さない。
フリッツは伝えるべきかと悩む前に聞かれたので、この際だと直ぐ様判断をした。
振り向き、身体の正面を王のいる執務机に向けて王を見る。アリスの代わりに、聞いたことを簡潔に伝える。
「お姫様がいないそうです」
執務机から声を放っていた王は、お姫様の祖国運営にあたり、一旦現地で盤を固めるまで指揮を任されていた吸血鬼が戻ってきたことで決済事項、新たな書類に取り囲まれていた。
訊ねられた事に正直に述べると、フリッツが言うまでは動いていた手が止まる。
その王が何か言う前に口を出したのは、同じ部屋の中におり今の要件を聞いていた黒髪の吸血鬼。執務机の前にいる彼は怪訝そうにしている。
「何だそのお姫様というのは」
「お姫様はお姫様ですよーお姫様なんですから」
「あの人間の王族の、元王族のことなのだな?」
「そうですね」
「いないなどという些末事、陛下のお耳に入れることではないだろう。よく探したのか?」
「探しましたよ!」
「ではいなくなってどのくらいなのだ」
「お昼からなので……もう六時間は経っています!」
「たった六時間?」
「されど六時間です!」
黒髪の吸血鬼が眉をぴくりと動かした。
「もう一度、探して間違いないことを確認して来るがいい」
「ではもう一度よく探して参ります! 失礼いたしました!」
これは駄目だと思ったのか、つっけんどんに言い捨てたアリスはちょっと不満そうな顔で出ていった。フリッツは閉じた扉を見てから、思案する。
お姫様がいないとは、迷子だろうか。と、まず一つ目の考え。
どうもあのお姫様は部屋からあまり出ていないようで、城の中を見て回りたいと言い出さず案内したとの話も聞かない。迷った可能性はあるだろう。
姿が見えなくなって六時間だという。一日も経っていないことを考えると客観的に見れば、確かにそれほど心配するべきことではないように思える。
けれども部屋に大抵いるらしいあのお姫様を見ていた側からすると、六時間は異様な空気を醸し出すからどうしたものか。
「迷子ですかねー」
あり得そうな可能性を述べながら笑顔でそれとなく窺う王の顔は別段変化してはおらず、黙々と仕事の手を再開させていた。だが、話を聞き手元も動かすことは可能なので、先ほど手を止めていたことが稀。
偶然ならば良し。
しかしながら、人間のお姫様は見つからなかった。
「図書館に行くと言って部屋を出て戻って来られないそうですが、夕食時になり図書館に見に行ってもおられずかといって部屋にもまだ戻っておられず、疑問に思って迷った可能性も視野に入れて探しはじめたものの見つからない。そして報告に至り再度探し、今ですね」
戻ってきたアリスは同じことを言った。やはり見つからない、と。
これはどうしたことだろう、とフリッツが思う一方で気難しい吸血鬼――カルロスが再度の報告に眉間に刻む溝を深め、大層不快げな目をしていることはとうに気がついていた。
吸血鬼の中には人間を見下す者がいる。地位問わず、生まれもって格段に違うらしい能力の高さを掲げて見下すのだ。
帝国は吸血鬼の国だ。今は人間も共に住んでいる部分があるが、大部分は吸血鬼であることに変わりはない。
そして身分がある。一から順に身分の高さがある。
帝国は豊かだが、身分だけは変わらず吸血鬼といっても貴族もいればただの地位を持たない民もいる。
しかし身分が高いほど身体能力が高いとされる吸血鬼ではあるが、一番低い身分の者でも人間とは比べ物にならない。
ゆえに身分を問わずして、吸血鬼より明らかに劣る人間を見下す者がいる。王の傍にも。
普段は城、それも王の傍に人間が近寄ることはないことゆえに辛うじて隠されていたそれが、今露になっていた。
「放っておけばよろしいかと。所詮は人間それも制圧された国の人間です。逃げたくなったのでしょう、そのうちどこぞでの垂れ死んでおりましょう」
カルロスが王に向かって恭しげな口調で言った。
フリッツはとっさに王の顔を窺ってしまう。
「放っておくか、簡単で簡潔な方法だな」
なるほど、と呟く王の手を止めて窓の方に目を向けている横顔はやはり変わっていない。連れて帰って来た狼が逃げた、そういう時もあった。そうか、で終わったこともある。
カルロスはそのつもりで言ったに違いない、けれども彼は帰ってきたばかりでここ最近のことを知らない。知っていても目にしていても、同じことを言ったかどうかは分からない。
「お前の頭を飛ばすぞ、カルロス」
地の底を這うような低い声がそう言った。王の声音はさっきまでと明確に異なり、一瞬で機嫌が急降下した印象を受けた。
カルロスがわずかにたじろいだように見えた。表情は、何を言われたのか分からないといったところか。
この吸血鬼は、今日お姫様の部屋に行く王についていったのではなかっただろうか。そこで目にしなかったのだろうか。目にはしたが、他の多くの者と同じく狼が人間に変わっただけだとでも思い、人間を嫌う精神が狼以下にさせているか。
王はフリッツやカルロスの方を見ずに、窓の方を見たままだった。コツン、と指先が机に下ろされ爪がぶつかる高い音が鳴る。
「これはどういうことだ」
「お姫様が逃げたということは考え難いですね」
「どうしてそう言えるのだ」
間髪入れずに気難しい吸血鬼に聞かれるものだからフリッツは苦笑したい。帰って来たばかりと分からないのと、偏見が入ってどうせ分からない。
「逃げたいのならもっと早い段階で気持ちが逸っているはずですし、その機会はいくらでもあったはずなんですよね」
ずっと前から。
拘束していない。部屋に鍵はかかっていない。侍女はいるが侍女は侍女であり、監視もついていない。
お姫様は一度として逃げようとせず、部屋にこもっていた。
それが、お姫様の祖国を制圧した国だということが作用していて当初は怯え、今になって解けて好機を窺っていたのだと言われればそれもそうかとなるが、あのお姫様に限ってそれはないだろうとフリッツは思う。
彼女には逃げようという素振りが、気持ちが全く見られない。王の雰囲気に威圧されているのかまだまだ身を縮めているようなところはあるけれど、諦めているとは別だと感じる。
彼女は不思議だ。
祖国のことを自分からは聞きたがらない。王族の安否をその後尋ねることもない。恐れているのか、どうせ帰れないと思っているのか。
――祖国に執着がないのか
小動物のようで華奢な体型と、弱気そうな見た目のせいか、儚げに見えるお姫様には直接聞いていないけれど、どれが正解か分かりそうな気がする。
とにかく、あのお姫様がこの城から逃げようとする素振りは欠片も見たことがない。
「お姫様は逃げません」
二度目のそれは主に王に向けたものだった。
「今、情報を集めていますからもう少々お待ちください」
王から返事はなかった。
***
「お姫様になついていた狼が一匹いたではありませんか? あの狼が見つかりました。どうも『眠らされて』いたようです。それから目撃情報は少なかったんですが、辛うじて第二騎士団長が特徴と合致する人物を抱えていたのが最後です、かね」
辛うじて出てきた証言がこれなので報告するフリッツは困る。笑うに笑えない。とりあえず微妙に曖昧な微笑みを残して、当たり障りのない言葉を探してみた。
「……えーと、ただの無断借用であればいいですね」
「何のために借りる」
は、と王は心の底から可笑しそうに短く笑った。しかし声は冷え冷えとしている。さっきから部屋の温度がおかしいように感じられるのは、おそらく王の雰囲気ゆえであろう。
そうだよなぁとフリッツも思う。騎士団長がお姫様を借りる理由がまるで分からない。王と一緒で気に入ったとか……?
ない。
雲行きが怪しくて仕方がない。
「えーと、どうされますか? 私が話を聞いてくるか様子を見て探りましょうか」
「いい」
いい?
考える間もない時間で却下された。この王らしい判断の早さだがどういうつもりで、いいと。当たり障りのない方法をまず提案してみたフリッツは口を閉じて王の様子を、意図を確かめるために窺う。
「あれは私のものだ、それが連れて行かれた。どのような理由であれど私が軽んじられている事実は変わるまい」
王が椅子から立ち上がり、
「愚か者に話を聞こうではないか?」
薄ら笑った。その表情も声音も遊戯を始めるがごときものなのに、裏にちらつく空気は違う。
フリッツがとっさに動けないうちに、王は執務机の横から通りすぎた。どうやら自ら行くらしい、それは分かった。それよりも。
遅れて王の姿をつられたように目で追いかけると、表情も何も見えないはずなのに、先ほどより余程背中が語っているように感じた。
むしろ表情や声がなくなったからだ。
王が変えてしまった空気だけをありありと感じ、その結果、フリッツは思う。
まずいのではないか、と直感的に。