18 祖国にないもの
ビアンカを寝室に連れ込み、抱き枕のように抱き締めて目を閉じた王は数分ほどすると眠りにつく。それに至るまでが長くないことが救いだ。
ビアンカにとっては長い時間のはじまり。
特に今、浴室で目にしてしまった衣服を纏わない身体がたった一枚隔てたシャツの向こうにあり、その腕に抱き締められていると思うと、いつにもまして落ち着かなかった。
寝ていることは間違いないのに、少しも弱まらない力と、薄い寝衣越しの手の感触。
裸同然の姿を見られたこともそうだが、本当なら同じ寝室に同じベッドで一緒に寝ていることも、未婚の乙女にとってはあるまじき事なのだろう。
祖国から連れ去られてから驚きの連続ではありながらも、最近は慣れてきつつもあった。意外とビアンカは根が逞しいのかもしれない。
異国、それも祖国を制圧した国で周りは人とは違う部分が続々と明らかになる吸血鬼たちだけ。王には人間扱いより『狼枠』により狼と同じく接されて、女子であることも遠い彼方のよう。今日のようなことがあれば途方に暮れることもあり、他の吸血鬼たちが優しすぎてか吸血鬼の王の怖さが際立ち怯えることもあるが、こうしていられるということは根が逞しいと言わずして何と言おう。
違う。
ここは祖国ではないが、祖国にはないものがビアンカを取り囲んでいる。帝国に主にいる吸血鬼という意味ではない。
どうしてそんなに優しく接してくれるのかというほど、くったくなく笑いかけ、接してくれる吸血鬼たち。狼も優しい。
外は起きているときはずっと夜で暗いのに、部屋の中は祖国で室内にだけいたときと明るさは変わらないのに。
周りには誰かがいる。
誰かと言葉を交わす。
獣の温かさも、誰かと触れ合うことはあっても指先程度だったから心地よくて仕方がない。
全てが祖国になかったこと。
根が逞しいのではなく、新たな場所に戸惑いながらも温かいことに惹かれている。
この場所はビアンカが帝国の人間ではなく、制圧された、それも皆殺しにされるはずの王族端くれである限り、いつ失われてしまうとも知れないのに。
祖国とは、何なのだろう。
ビアンカは祖国に思い入れがない。頭を振り絞って出してみても、育った国今までいた国自分が存在しないかのようだった、ときに思い出したかのように出自で笑われた、そんな国。
ではここは、ビアンカにとって何なのだろう。
敵国といえば敵国。祖国よりもビアンカに接してくれる不思議な国。けれどやはりビアンカの居場所がずっとあるとは思えない国。
喉の奥が苦しくなった。
この時間は好きではなかった。眠れないのにやることもなくて、ぼんやりすることには限りがあるので、何かとりとめもないことを考えてしまう時間。
それでは何を考えるのかと言うと、無意識に向くのはこれからの自分の行き先しかないだろう。いつだってビアンカはそのことが不安だったから、場所が変われば特にそう。これまでも考えて、考えて、日が経つにつれ苦しくなる。
ここが祖国であれば良かったのだろうかと考えてしまう自分がいる。でも現実は違い、ビアンカの不安定さは変わらないから。
歯を噛み合わせて耐える。
心の中が氾濫して、感情が溢れる。
「――なぜ泣いている?」
寝起きの声だった。
部屋には二人しかおらず、また声は近くから響いてきた。必死に声と息を殺していたはずなのに、起こしてしまったのだろうか。
「……泣いてなんて、いません」
まだ数時間も経ったとは思えない時間のとき、声がしたことに驚いたことで新たな涙は引っ込んだ。
上ずりそうな声を努めて宥めて出して言うと、すぐ側の王は喉を鳴らして微かに笑った。
「見えているのに泣いていないか」
吸血鬼は人間より目がいいという。城内は灯りが乏しい印象で、ときおりビアンカは目を凝らすことになるのに、吸血鬼たちにははっきり見えているようなのだ。
あの赤い瞳にはそんな秘密もあり、身体能力が高いとはどこまでが身体能力なのだろう。身体の全部の機能とかいう可能性も見えてきた。
だから灯りが一つもない場所で、至近距離で見えてもおかしくはない。
「泣いていません」
ビアンカは顔をうつむけて繰り返した。
今日は予想外な展開がいっぱいだ。逃げられないここでそんなことになるのは避けたい。それにもう泣いていない。
「珍しく強情だな」
おかしそうな声。
「お前は強情だ。情けない顔ばかりしていると思えば、もっと情けない顔をするくせに頑として言おうとしないことがあるな」
それは強情などという精神の強いことから来るものではなくて、単に口に出す勇気がなく、口に出すほどのことではないとも思っているからだ。
今も。
「そういえばお前は私を怖いと言ったな」
この前のことだ。
「だから泣くのか」
「……い、いいえ」
「そうか?」
声が眠そうに聞こえるのは、場所のせいだろうか。
「それならいいが……情けない面をするのは止めろ」
「情けな……」
情けない顔はしていませんとは言い切れなかった。
表面だけ軽く触れあっていただけの身体が、隙間という隙間を埋めるようにくっついた。
ビアンカを抱く腕に意思をもって力が込められて、多少ゆったりと横たわれる距離ではなくなった。息が物理的に詰まる。
少し持ち上げられるように力が入れられたために、身体がずれて、頬に自分のものではない体温が直接伝わる。たった一枚でも遮るものが完全になくなったのだ。
全てが王による出来事だった。
「お前が情けなさすぎる面を見るのも、気にくわない」
怯えていることが気にくわない、と前に言われた。
耳に生ぬるい息がかかり、よく分からない感覚に襲われる。
耳のすぐ近くから掠れた声が入れ込まれたことにより、似たことを言われた記憶が出てきただけで、言葉自体を上手く頭に入れることは叶わなかった。
声が近いこと以上に、つまりは、耳に触れんばかりの位置に王の口があるように感じられてならなかった。
「お前は、分からない……なぜ……」
顔は見えず、雰囲気と声が眠そうに、寝起きのときと同じく覇気に欠けている、和らいだ声。
体温とそれらだけではまるでまるで――
吸血鬼の王の優しい部分が見えたのは、感じたのは、状況が作用しただけの錯覚だろうか。