17 許容範囲
ザラリ、ザラリ。
「…………ん」
赤い色が、視界に広がっていた。
次に、頬にざらざらした感触を認識する。ザラリ、一際長く舐めあげられたあと、舌が大きな口の中に引っ込んだ一瞬だけ狼の鼻面が見えた。
銀毛の狼が、ビアンカの顔をその舌で舐めていたのだ。
(どういう、状況でしょうか……?)
はて? と実際に首を傾げるには至らないものの、内心では大きく首を傾げ、その間にも何度も何度も顔を舐められる。
「……ガウちゃん、どうしてわたしのことを舐めてくれているのですか……?」
「ガフッ」
返事が返ってきた。もちろん言葉も分からず、表情も読み取れないので一向になぜかは不明である。
それにしても「ガフッ」とは、最初に聞いた鳴き声が「ガウ」だったから密かに「ガウちゃん」と便宜上に命名したのに。
銀毛の狼はビアンカがそんなことを考えているとは知らないだろうが、舐めることを止めた。起きたからだろうか。
さて、横たわっているここはどこだろう。
ザラリとした感触がなくなった頬に空気の冷たさを感じつつ、意識を周りに向ける。
どうやらビアンカに与えられた部屋だ、ということは、見ればすぐに分かった。
部屋の、今のところ座ることにしか使用したことのなかったソファーに横たえられているらしい。
無意識にさ迷った手で確かめた身体には、身を包む衣服があった。当たり前か。
「あ! お姫様起きましたね!」
「あ、アリスさん……」
「平気ですか? 」
ビアンカがゆっくりと身を起こすことを背に手を添えて手伝ってくれたのはアリスだった。顔をぬっとソファーの上に突き出していた狼が退く。
「平気ですが……どうしてわたしはここに寝ていたのか伺ってもいいですか?」
平気も平気。具合が悪い様子は身体からは受け取れないのだけれど、自分でここに横になった記憶はぽっかりないのは忘れているのだろうか。平気ですか、との問いから考えると倒れでもしたのだろうか。
「覚えておられませんか? 浴室で倒れられたようで、陛下が運んでくださいました」
ビアンカの頬に熱がないか、という感じで手を当てるアリスがそう言った。
「浴室で……?」
「はい。運ばれてきたときには顔が真っ赤で火照ってましたけど、もう大丈夫みたいですね」
一度は不思議そうに聞き返したビアンカではあったが、浴室。陛下。の言葉でぱっと甦る記憶があった。
湯気でおぼろげな周り、現れる逞しい身体つきの人物、正体は吸血鬼の王、デューベルハイト。
うぅ……と直後記憶を拒否したくなったことは言うまでもない。浴室という場所により裸同然の姿であるとき、王と鉢合わせしたのだ。それも、距離が、近く。あともう少しで、一緒に、入ることに。
――さすがにお風呂で「狼枠」扱いは許容範囲外だった
「頭が痛いですか?」
「い、いいえ……これは、何と言いますか、精神的に落ち着くために」
現実を拒否、即刻記憶を消去したい。
思い出してしまったが最後、衝撃的な体験すぎて中々消えてくれそうになく、恥ずかしさでとりあえず隅っこに行きたい。そうだ、隅っこで落ち着こう。
頭を抱えたビアンカは、ふらふらとソファーから下りる。
「お姫様!? ふらふらしてますよ! まだ動かないでください!」
「大丈夫です……精神的なことから来ていますから……」
それは間違いない。それなのに、隅っこへ吸い込まれに行こうとするビアンカはアリスによってソファーに戻された。ポスン、と後戻り。
「いいですか! まだしばらくはじっとしていてください!」
「……はい」
アリスがビッと人差し指を立てて真剣な顔つきで言うので、あまりの勢いに、精神的にか細くなっているビアンカは頷いた。
ここで落ち着くしかなさそうだ。
「念のためにお医者様を――」
「大丈、大丈夫ですアリスさん……! 少しすれば落ち着きますから……!」
医者を呼ばれても無駄足になってしまう。意識して吐こうとしていた息を吸って、大慌てだ。
アリスは何とか止まってくれた。
ビアンカは止める際に浮かせかけていた腰をソファーに落ち着ける。改めて落ち着かなければ。大丈夫、客観的に見よう客観的に。結果的には何も問題はなかった、と思うから大丈夫だ。残りは記憶からいかに消すか、記憶を追いやるか。
ビアンカは、近くで姿勢よくお座りしている狼をじっと見つめることにした。
………………。
「お水を召し上がってくださいませ」
「――あ、ありがとうございます……」
すっと反対方向の傍らから、水の満ちたグラスが手を添えられて差し出された。はっとしてすぐさま受けとると、見上げたアリスではない女性が微笑んで離れていった。
アリス一人ではない侍女にも、ビアンカは少しずつ慣れてきてはいた。彼女たちも例外なく吸血鬼で、皆にこやかで優しい。
その姿をしばし見てから、グラスに口をつける。水が喉を滑り、身体に染み渡るようだった。
「……っけほっ」
扉が開いて何気なく見たがために喉が水を拒否した。
「お前は倒れたと思えば、また忙しいな」
座ったまま見上げると、首が痛くなるほど高い位置で、王は低いところのビアンカを覗くように首を傾けた。
ビアンカは全力で小さな咳き込みを止める。幸いにも変なところに入りはしなかったのだろう、落ち着いてくれた。
「……あ、あの」
グラスをテーブルの上に置いて背筋を伸ばし見上げ……ようとしたが、視線が少しばかりずれることは許していただきたく思う。
視線は肩の辺り。
「は、運んでくださったと聞きしました。あの、申し訳ありませんでした……」
「ああいきなりだったな」
「……すみません」
謝罪しか出てきようがない。経緯はどうあれ王に迷惑をかけたことに変わりはない。
「!?」
シュンと目線も下がっていたところ、自分の意思ではなく顎に触れたものによって視線が上げられた。
合わせなかったはずの顔がそこにあった。
どうやら王が身を屈めて、ビアンカの顔を上げさせたようなのだ。顎にある手に特別力は入っていないようだが、やはり何かしら機嫌を損ねてしまっていたかと、とっくに冷めていた身体がサァァと冷える。
「な、何でしょうか……?」
「お前は白いのに、よくもあんなに赤く染まったものだと思ってな」
怒ったりはしていないようでほっとするが、しげしげと見ないでいただきたい。記憶を掘り返された気分で、また顔に熱が集まりそう。
(誰か、誰か助けてください……!)
たまらず部屋の中にいた侍女の姿を探し求め見つけた、のに、にこりと微笑まれただけだった。微笑ましそうな感じで、あの、助けてくれないと……。
困るで収まらない。
最後に見た反対側、それも一番近くにフリッツを見つけて懇願の念を送ってみる。だがしかしフリッツはフリッツで王をじっ、と見ているので視線さえ合わなかった、悲しい。
これではもうやり過ごすしかない。
それなのに、悲壮感でもいっぱいなはずが頬にぶり返す熱を抱えこっそり視線を戻すと、王の口元の笑みが深まっていたように見えた。なにゆえに。
「お前は白いばかりだと思っていたが……面白いな」
そう言った王の手がふと顎から離れたと思えば、その手はビアンカの膝裏に差し込まれ、抱き上げる。
「寝るか」
(この状況からですか……!?)
しかしその存在を押し退ける力は、身体的にも精神的にも元々あるわけはなかった。