16 お風呂事件
ぽちゃん、とビアンカは肩より下まで熱いお湯に浸かった。
「ふうぅ」
息とだらしなく気の抜けた声が漏れ出て、場所により普段とは違う響きの声になった。
しかし周りを気にする必要もなく、浴槽のつるりとした縁にダラリと寄りかからせ垂らした腕もそのまま。身体からも、心からも、すっかり力が抜きっている。
この時間こそ、ビアンカがリラックスしきれる時間だ。
お風呂の時間。人が何十人入れるか見当がつかない広い長方形の浴槽は真っ白で、透明のお湯がたっぷりと張られていた。浴室の空間いっぱいに湯気が立ち込めて白く、ビアンカ以外には誰もいない。
大きな浴室は恐縮にもビアンカが入るときには貸し切りになっていて、洗ってくれるという人の手を悪いからと断った結果でもある。
ぴちょん、とどこかで雫が落ちた音を耳にするビアンカは、二の腕に頬をつけて目を閉じていた。至福の時である。
身を包むお湯は温かくて、身体を芯から温めてくれる。こんなに大きな湯船を見たのははじめてで、最初は驚き、今も端っこに浸からせてもらっていることがすごく贅沢なことのように思える。間違いなく贅沢だ。
二の腕に預け顔を倒していることで、見える景色は角度が異なる。ビアンカがお湯に足をつけ入ったときに立った小さな波が、ゆらゆらと水面を揺らしている。
置かれている立場上あまり長風呂はしてはいけないな、と思うので、少し浸かったら上がるつもりだ。
濡れそぼった髪が、まとめていた束から一房溢れ、湯に落ちてささやかな新たな湯の動きと模様を形作った。
その形が消えていくにつれて、ビアンカはゆっくり瞼を落てしていく。
ぴちょんという雫の音も失せて、ビアンカの声もとうの昔に消えて静かな空間。身体を動かす気も起きない中で、時間が動いていることを示すのは、段々身体が温められ体感温度がじわじわと変わっていくことくらい。
一人なのは祖国では大抵そうだった。
そのときの一人は同じように静かだった。
ここも静か。
静か。
腕にかかる自分の息を感じる。
静か。
ひた、
耳に届いた音に、とろんと閉じていた目を薄く開く。何の音だろう。
「――誰かいるのか」
(……誰ですか……!?)
前方からか、少なくとも湯が広がる横からではない方向から向けられてきた声に作られた言葉ではあるが、こちらの台詞である。
ビクリと肩が跳ねるや、ビアンカは腕から頬を離して顔を起こした。ちゃぷ、と湯が動く。
誰もいない自分一人の空間だと思って油断していただけに、心臓が止まるかと思うくらい仰天した。ここは贅沢にも貴人専用の浴室らしく、入浴時間は上手くずらしてあるようで、かち合うことはない。なかった。
何よりまずもうこうしてはおれず、ざぱりとお湯の中で勢いよく立ち上がる。
いやしかし浴室の壁に反響している声は聞いた覚えのある声、のような。お湯から立ち上る白い湯気が充満している中で、置いていたタオルをしっかり握りしめる。
視線は一点に定まらない。誰が、どこに。
そして湯気の中から、徐々に姿が現れて――
「!? え、え、あ……ぇ?」
姿が見えたら見えたで、ビアンカは余計狼狽する。
白く揺らぐ湯気の中に、長身と白金の髪と赤い瞳をはじめとした顔が見え――すぐに目を逸らすことに成功する。目にしてしまった時点で失敗しているとも言える。
デューベルハイトだ。
まさかの入浴時間が被ったというのか。でも外にはアリスがいるはずなのに。もうこんなことになっている以上はそこはもういいのだけれど、とにかく場所が悪い。場所が。
目にしてしまった、鍛えぬかれた身体が目の裏から離れなくて、混乱の極みに突き落とされた気分だった。
部屋で会うのとでは百八十度勝手が違う。
どうして。理由は一つ。
お風呂とは何をするために入り、そのためにどのような格好になるか。
「お前」
「わ、わたしは出ますのでごゆっくりッ」
「なぜだ? 一緒に入ればいいだろう。私は気にしないから入っておけ」
(わたしが気にします……!)
入浴するとき専用の一枚の薄い衣服は心もとなくて、その上から隠すように覆わせたタオルをより一層しっかり握る。波を上げた浴槽から出て逃走を開始しようと思ったら、赤い瞳に捉えられて、出たところで足が縫いつけられたように動けなくなる。
(どうぞ放って置いてくださいぃ)
どうして近づいてくるのであろうか。
そんなに長く浸かっていないのに、顔はお湯に浸かっているときより火照って、熱くて前から容赦なく距離を縮めてくる姿に頭が爆発しそうだ。
濡れた床でずらす足が冷めて、冷たさを感じる。お湯から出て段々と温度が下がっていく肌が、平素より断然に露な状態を意識させてより混乱を増幅させる。
壁際に追い詰められてゆき……壁に行き着いた背中がひやっとして、剥き出しの背中を意識するはめに。
「そうでは、そうではなくて……わたしは、…………そう、そうです十分入ったといいますか」
目を回しかけながらも、しどろもどろに懸命に言葉を作って理由を作る。
一緒に入るとは何事か。ベッドで共に横になるよりもハードルが高いのは、気のせいではないはずだ。
身体に身に纏う衣服は衣服の形はしてはいるが、言うまでもなくドレスよりもっともっと薄くて、普段の格好と比べるのならばこれは衣服とは呼べないほどとにかく薄い代物。
水に濡れれば肌の色が透けることも知っており、今はお湯から出てぺたりと肌に張りつく感覚がもっと頼りない。元々の身体を隠す面積も少なすぎて、腕はともかく足が露だ。
ほぼ裸を見られていると言っても過言ではない。お嫁に行けない。
もはや心の中だけには抱えきれないアクシデントに、ビアンカは実際ほとんど泣きべそをかいていたが、もうすぐそこまで来ている王が気づいた様子はない。
それどころか泣き声間近な声も小さすぎたのか、聞こえた様子が……吸血鬼は耳が良いと聞いた覚えがあるのに。興味のないことは聞き流すあれか。
「さっきまで浸かっていただろう?」
「そ、それは……」
見られていたのか。
王は手を伸ばせば触れる距離に来ていて、視線を逸らすにも限度がある。端々まで引き締まった身体が視界にちらついて、ビアンカの頬が濃く色づく。頭と感覚がふわふわとするくらい熱くて、視線を上に逃がす。
「遠慮するな」
まだ濡れていない白金の髪が首が傾くと揺れ、赤い瞳がビアンカを見る。
下がろうとすると、ピタリと背中全体がタイルにくっつきヒヤリとする。冷たい。
そうか、もう壁際だった。
火照った頬と、冷やされる背中が真反対でわけが分からない。わけが分からないのはこの状況の方で、どうやったらこの状況を切り抜けられるのかビアンカには見当がつかない。
「ほら来い」
前から、避けようのない腕が伸びてきて、壁と身体の間に器用に差し込まれ容易にビアンカの身体が離される。
腰を抱かれた。
触れられた瞬間、とうとう思考がはち切れた。