11 恐ろしい提案
この一日は、吸血鬼の王のものであるらしい部屋から与えられた部屋に移ってから、一歩として部屋の外へは出なかった。
祖国にいるときから新しい場所に行こうとするような性格ではなく、自分の部屋と書庫とを、人気のない道筋で行き来するような生活だったので、異国の知らない城ともなればそうなってもおかしくはない。
それに、狼と仲良くなれた気がするので、他にやることがなくても退屈しなかった。
今度差し支えなければ許可を得てしか立ち入れないだろう書庫――までではなくても、図書館の場所を教えて頂き、利用させてもらいたい。
という予定はさておき、現在ビアンカは長テーブルにつき緊張しまくっていた。
食事との場には長いテーブルを挟み吸血鬼の王――この距離には安心した――その傍にフリッツ、ビアンカの背後にはアリスがいた。彼らだけならまだましと言えたかもしれない。
だがこの場には、給仕を担当する者たちが出入りすることになっていたのだ。見る限りで、全員が吸血鬼。王宮には吸血鬼だらけ、とおぼろ気な知識があるようなないような。
人間はただ一人ということを、初対面の吸血鬼に囲まれたこともあって強く感じさせられた。ちなみに狼はいない。
磨き抜かれた食器が並ぶ近くに置かれたグラスに、給仕によって赤い液体が注がれる。液体が出てきたのはワインボトルからだったように見えたが、極端に緊張しているビアンカは赤い飲み物にひくりと表情筋が強ばる。この飲み物はまさか……。
「――ワインですよ。お姫様、もしかしてお酒は飲めませんか?」
血ではなかった。赤い液体を凝視して固まったことにアリスが勘違いをしたが、不安を払拭してくれた。
それを聞いたビアンカは小さく首を振る。お酒は飲んだことがないのでこの場で挑戦しようとは思わないけれど、水が注がれたグラスもあるので大丈夫だ。
どうも敏感になり過ぎている。
でも気になるのだが、吸血鬼の王の元には赤い液体の入ったグラスが二つある。その内の一つはもしかして、そうですか?
あの濃い方の赤色が血に見えて仕方がないのは、ビアンカの思い込みでしかなければ杞憂だったと笑えるけれど。
彼らは吸血鬼。
血を吸う鬼。姿かたちは化け物などではなく、後ろ姿ではきっと人と間違えるくらいに変わらないと言える。しかし血を摂取する事実は否定された覚えはなく、彼ら自身にではないが、やんわり事実を肯定された記憶がある。
その事実が目の前にある、かもしれない。
ビアンカが盗み見る前で、王がグラスを口に運んだ。
吸血鬼が無条件に恐ろしい存在でないことはアリスやフリッツで完全に証明されているが、血を飲む光景を実際に目の当たりにしているとすると居心地が悪いというものではない。
小さく口に運びはしている料理の味が全くしない。これは思えば最初からなので、今に始まったことではなかったか。
「お前の祖国のことだが」
静かな空間で声を発したのは、ビアンカでなければ臣下の他の者でもなく、この場の空気を支配する王。
弾かれたように見ると、食事の手を止め肘掛けに肘をついた吸血鬼の王が、ゆったりとビアンカを見ていた。
王は初めて見た服装で、軍艦や陸路で見ていた軍服めいたものではなかった。
どうもあれが王様としての格好らしい。王の衣服らしく装飾がつくところにはついているようだが、祖国の王と比べると無駄な装飾がないが不思議かな特別上品で高貴な服に見えた。着る人物にもよるのだろうか。
今日この場に来る以前に見た、起きたばかりのどこかぼんやりした様子は皆無。
標準装備で眉間に刻まれたしわがあるせいで、笑みはある種の威圧感が拭えず、加えて雰囲気も近寄り難いそれ。つまりは正面で受け止めるには目を逸らしそうになってしまう感じだ。
ビアンカは何とか動かしていた食事の手を止めて、一生懸命見た。
「これから完全に帝国の支配下に入り、こちらから派遣した者の元で統治を行うことになる」
「……そうですか」
安心したのだろうか、しなかったか。自分の心の具合が分からないのは緊張しているからだろうか。
短い相づちだけを打つことが精一杯で、他に言うべきことが見つからなかった。
「お前は国で虐げられていたそうだな」
「……し、虐げられていたといいますか……」
単に存在がないと同じという扱いだったといいますか……。いつどこから仕入れた情報か、話は祖国の身の振らせ方だけで終わりではなく、思わぬ方向へ進み始めた。
「この機会を有効利用してお前に復讐の機会をやろうか」
「復讐……?」
「――どうする、煮るか焼くか裂くか千切るか?」
復讐とは聞きなれない言葉だ、と復唱して口の中で転がしていたビアンカはひゅっと息を吸った。
煮る、焼く、裂く、千切る。
何を。
物騒すぎる言葉を「好きなものを選べ」というようにさらっと述べた王。けれどもここで驚愕するべきことはもう一つ。ビアンカ以外には誰も、今の王の発言になんら変わった様子は見られないこと。
王の傍にいるフリッツなんて、微笑みを崩さず歩いてくる。
「とりあえずその中から苦しめてやりたい者がいれば選べばいい」
歩いてきたフリッツは、一枚の紙を手渡してきた。
わけが分からないままおずおずと受け取ったビアンカは、フリッツの微笑みが見るようにと促すので紙に目を落とす。
いくつもの名前が、紙に書かれていた。
聞いたことがある名前ばかりで、顔もまともにかどうかは置いておくと、見たことがあり関わりはどれも薄かった人たちの名前だった。血筋上は父親繋がりで「家族」である人たち。
祖国の王族の名前のみが、無機質に連ねられていた。
「……」
名前のリストを手に、ビアンカは話を理解しようと、言われたことを思い出そうと努力する。
復讐。苦しめたい相手を選べと渡された紙、がこの名前のリスト。
簡単に繋げることはできた。
こわい。
手が勝手に、少し震えはじめた。
「え、選ばなければどうなるのでしょうか……?」
復讐したいとは考えたこともないし、今提案されたからといってしたいとは思わないのだが、選ばなければビアンカが煮るか焼くか裂くか千切るかされるのか。
おそるおそる聞いた。
「選ばなければ残す必要がなくなるだけだ。今回我々がお前の国を制圧しに向かった理由は一つ、帝国支配下への進軍の計画を耳にしたからだ。その発案は王族であったというから民はともかく諸悪の根源は根絶やしにするのが一番だからな」
「…………根絶やし…………」
「後から思ってもどうすることもできなくなるぞ。遠慮するな、ついでに過ぎない。無理にとは言わないが」
全く遠慮とかではない。
すでに頭はついていかず、おいてけぼり。
辛うじて、前もって持っていた情報と繋がることがあった。
どうやら今回の侵略は祖国が企てていたことに原因があったらしい。噂は本当だったのだ、と。
「陛下、たぶん引かれてますよー」
「引く?」
「お姫様にとっては突拍子もないというか物騒との顔をされてますから」
どことなく不思議そうな王の声。
緊張感のないやり取りが耳に入って抜けて、頭の中では、聞いたばかりのとんでもない提案と言葉が答えを求めてぐるぐると回り続けている。
復讐。苦しめたい相手。王族。根絶やし。
その中で、一つの考えに行き着く。
「あの、」
「何だ」
「ど、どうして」
傍に戻ったフリッツと話していた王にかき消されそうな声で呼びかけると、顔を向けられる。
ビアンカは、一度息を吸う。
「どうしてわたしは、殺さないのですか?」
「なぜ殺さねばならない?」
この王は矛盾したことを言う。
ビアンカの国の王族を根絶やしにすることが最善の策だと言うのに、その末端であるが、一応王族のビアンカを連れてきた。そして復讐の機会までをも、ついでとばかりだが与えようとする。
お前も根絶やしだ、とは言わない。
「なぜ、と言われましても…………根絶やしにするのであれば、わたしもその血を継いでおります」
別にビアンカは殺してもらいたいのではない。自らの先行きが不透明感すぎて、物騒な言葉を聞いて尋ねずにはいられないのだ。
「私が傍に置くと決めたから例外だ」
そんなに簡単に例外を設けなさそうな雰囲気を醸し出しているのに、そんなことを当然のように言う。
まるでこの王が言えばどのようなことでも正論で、彼自身が決まりみたいな印象を受ける言動だ。
独裁者。帝国は独裁式ですか。
何か問題があるかと言いたげな王を前に、ビアンカは口をつぐむ。
帝国の首都に着いたばかりで、どんな手立てでいつの間に送られてきたのか分からない、祖国の王族の名前が連ねられ自分の名前はないリストを握ると紙が情けない音を立てた。
「少し質問を変えよう」
「……?」
「私がお前を生かしておいたとしてお前は『何か』起こすつもりでもあるのか?」
祖国を取り戻すためにクーデターの類の旗頭になる、とかいうことだろうか。
「……いいえ」
「そうだろう?」
答えはいいえ。そんな大それたこと考えつきもしなかった。言われたところでしようという気概はないのは、現実的に考えてということもあり、その他に、
「お前は初めに見たときから、私達を憎むもしくは恨んだ目はしてはいなかった。今もな」
その通りだ。ビアンカは彼らを恨んでいないのだ。
不思議なことではない。王族を家族と思い愛しているわけではなく、自分が生きていられていたのは国のお陰に相違なくとも、特に愛国心があったわけではない。
慣れた国とはいえ無理やりにでも渡らされて居住を変えさせられれば、ビアンカは諦めるだけで、祖国にどうにかして帰ろうという気はどうしてか起こっていなかった。
これが本心だろう。
だからさっき、祖国の行方を聞いても、心が安心にも安心しないにもどちらにも動かなかったのだ。
不安に思うのは、昔から自分の行き先暗雲なこと。これほど薄情な王族はいないだろう。
吸血鬼の王が自分たちを憎む目はしていなかったと言うのも、国を侵略されたとは住んでいた側として思ったまでであり、その事実によくもこの国をなどと憎々しげな感情はなかったから。
あったのは恐怖。
恐怖に憎みが負けたのではなく、恐怖しか生まれなかったのだ。これもまた、自分が殺されるかもしれない雰囲気が濃厚だったときの考えからきたもの。
ビアンカは、自らがいかに自らのことしか考えていないかを、祖国より遠い地で知らされることになった。
「所詮事のついでだ。必要がないならないで構わない」