10 狼と
寝たというより、気絶して意識が落ちていただけなのか、ビアンカは起きたばかりなのに疲れていた。とんでもないことを聞かされたからという可能性も捨てきれない。
しかし寒いなぁと腕を擦りながら寝室から出ると、一人の女性が隣室にいた。
「おはようございますお姫様!」
「アリスさん……」
おそらく昨日ぶりであるはずのアリスはやけに久しぶりのように思えてならず、溌剌とした声が染み渡ったが、元気に返す元気はない。元から彼女に合わせられる元気は持ち合わせていなかったけれど。
それにしてもアリスは武骨な印象の軍服ではなく、ドレス姿だった。髪も飾り気なくまとめられているのではなく下ろされ、女性らしさが全面に出ていた。元々美人だったが、余計に輝いて見える。
美人令嬢の姿にビアンカが見とれておお……となっていると、
「今日から正式にお姫様の侍女になりました!」
ということらしい。
侍女までつけてくれるとは、ますます待遇が……。確かに一人でおろおろしているより彼女がいてくれていた方が安心する気はするけれど、いいのだろうか。彼女はこの国の貴族だろうに、攻められた側の人間の侍女とは。
「お着替えしましょうお着替え!」
嬉しそうなので、何も言わないことにした。
「お洋服いっぱいありました!」
嬉しそうに促されて部屋を出たところで、さっきの部屋は……と考える。寝室からして王のものなのだろうか。
「あの、さっきの部屋は……」
「あそこは陛下のお部屋です! 陛下は別の場所にある執務室にいらっしゃるか会議のために会議室にいらっしゃることも多いですけどね!」
裏がとれた。
ビアンカが口ごもったのは、思えば自分はあの王のことを何と呼べばいいのだろうかと気がついたためだった。
周りに習い「陛下」? しかしビアンカにとっては自国の王が「陛下」であり、異国の王をそう呼ぶには違和感がぬぐえない。では「ブルディオグ王」? 立場としてはこれが正しいだろうが、一人だけ目立ちそうでならない。
……余計なことを話さなければ必要なこともないだろう。後ろ向きな結論が出た。
「……今は、夜なのですか?」
朝だと思っていたのに、廊下が異様に暗いことに気がついたビアンカは、窓の外を見て目を疑った。
暗い。
曇りとかいう問題ではなく、空が黒い。まるで夜のようだ。昨日城に着いたとき朝になりかけの夜であったから、それからしばらく寝ていたとしてもせいぜい昼くらいではないのだろうか。
「はい夜です!」
「あの、昨日……ここに着いたときも夜、だったような気がするのですが……」
「一日の大半は夜ですから!」
え。
なんということなしに言われたことに、足を止めてしまう。
「一日の大半が夜って……どういうことですか?」
「そうですね……えぇっと、そうです! お姫様のお国の朝昼と夜の時間がひっくり返った感じです!」
「うそ……」
――連れて来られたのは、どうやら摩訶不思議な国のようです。
さておき、前から日中から書庫にこもり、日が暮れるときに日の当たらない部屋に帰る生活をしていたビアンカにはたいした変化はないかと思われる。思うことにした。
ビアンカが起きたのは、本当なら昼の時刻だったようだ。
最初に放り込まれた部屋は、やはりビアンカに与えられた部屋だったらしい。
アリスに急かされて入った部屋の中には、どこから現れたのか色とりどりのドレスが並べられていた。こんなにたくさんのドレスは見たことがない。
目をさ迷わせているとアリスに目をきらきらさせて「どれを着ますか!」と期待に満ちた表情で見られた。
どれと言われてもと、並ぶドレスに視界情報はいっぱいで「お任せしてもいいですか……?」と言うと嬉々とした表情で身体の前にとっかえひっかえドレスをあてられた。返答を間違えたかもしれない。
結局着替え終えたのは一時間後で、身につけたドレスは青と紫へと移りゆくような色合いものだった。
服装は薄めだから寒く感じるためショールを肩にかけ、身につけるどころか触ることも気が引ける輝くネックレスをつけられ、髪にも髪飾りをつけられ完成となった。疲れたことは言うまでもない。
ビアンカは特別寒がりではないので、寒いと思うのはおかしくないと思うのだがアリスは寒くないようだった。
「人間の方にはこの国は少々寒いと感じるようです! ドレスは生地が厚めのものがいいかもしれませんね、仕立ててもらうまでは可愛いショールでもお作りしますね!」
「い、いえ気にしないでください。わたしは平気ですから……」
「駄目です駄目です! お姫様のお身体を冷してはいけませんから!」
「いえ本当に……っ」
ビアンカの衣装をわざわざ仕立てる必要などなく、ショールを作ってもらうことにも悪く思えて、首を振りその旨を伝えている途中。背後を何かが撫でていって、ゾワリと言い様のない感覚が走って声が引っ込んだ。
何事。このときばかりはビアンカが普段より数倍機敏に振り向くと――毛の塊があった。
「お……」
狼!
「入ってきてしまいましたね、この子たち器用なんですよ」
(自分で入ってきたのですか……!?)
大きすぎる狼が目の前にいて、身体が硬直したビアンカは目だけを動かし閉まっているはずの扉を見た。
確かに狼が入れそうなくらいの隙間がちょうど開いて、開きっ放しだ。器用にもほどがあるし、勝手に入ってくるのならばビアンカに安寧の場所はないのでは。
ガチガチに固まり狼の鼻面を見下ろすビアンカは、にらめっこしているみたいな状態をとても長く感じた。何しろ銀毛の狼はなぜかビアンカの前から動こうとせず、ビアンカは動けない。
黄色の獣の目を見ていると食われる未来がちらついて仕方がな、
(た、食べないでください!)
狼が動いたことで、心の中で叫び祈る気持ちで溢れる。泣きたい。最近泣きたい気持ちになることが多い……ずっと心の中で密かにしくしく泣いているけれど。
ふわり。
「……え」
予想とちらついた未来とは正反対に、狼はビアンカに身をすり寄せてきた。ふわふわ。と手に素晴らしい毛並みを感じ、尻尾がふわりふわりとゆったり揺れている。
腕に頭をこすりつけている狼は、友好的な態度そのもの。
「撫でてあげてください、定期的に洗われてブラッシングされているのでとても毛並みがいいんですよ!」
アリスはそう言ってドレスの片付けに行ってしまった。
撫でる。
下を見るとこちらを見上げてくる狼。先ほどのアリスの言葉を聞いたあとでは撫で待ちに見えなくもない。
じっと撫で待ち(たぶん)の狼と見つめ合うこと数分。敵意なさそうな様子を十分に確認してから、下げていた手を慎重に狼を刺激しないように持ち上げはじめる。
ゆっくり、そっと。
狼がピクリとも動かないので順調に行き、頭の上に持って行っても怒る気配はない。
「触っても、いいですか?」
答えは返ってこないに決まっているけれど、一応尋ねずにはいられず、無言と不動を肯定ととってとうとう三角の耳が生えた頭に触れた。
もふもふ。
もふもふ。
「おぉ……」
もふもふ。
感嘆の声が勝手に出た。触れた狼の毛並みは頭の上だけでもすでに素晴らしいものだったのだ。ここだけでこれほどなら、身体はどうなるのだろうか。
犬も触ったことがないビアンカは一触れで狼の毛並みに感動し、頭を何度も撫でた。
「素晴らしいです……」
頭を撫でると欲が出てきてより毛並みを堪能したい。相手は人ではなく動物なので人見知りは発揮しない。それでも勝手にすることは失礼だ。お伺いを立てねばならない。
「身体の毛を触ってもいいですか?」
もう怖くない黄色の目を覗き込んでそっと尋ねる。
声となっての答えは返ってこない。その代わりに、言っていることが分かったみたいに銀毛の狼はすっと頭が沈み、脚を投げ出して床にぺたりと座った。その上で見上げてくる。
(許してくれた、ととっても良いのでしょうか)
良いのだろう。
こんなときだけ前向きでしゃがみこみ、さっそく狼が横たえ露にした大きな身体の銀の毛に手を伸ばす。
もふもふ。
「おぉ……」
つやつやと輝く毛並みは、美しい外見を裏切らず肌触りも極上だった。手が沈む毛はよく手入れされていることが分かる。
素晴らしすぎる。
ちらちらと狼の機嫌は損ねないように様子を窺いながら撫で続けるが、狼は気持ち良さそうに前足に頭を乗せてくつろぐ体勢に入っていた。
そんな狼を良いことに、ビアンカは蓄積されているはずの疲れも忘れて飽きることなく毛並みを堪能し続けた。
***
食事を摂ってからも、銀毛の狼はビアンカに与えられた部屋にいた。
途中でもう一頭淡い茶色の毛の狼が増えて、ここはもしや狼の部屋なのではないかとの疑惑が出たが、アリスによって晴らされたので一安心。
狼の太い首には立派な首輪がつけられていた。黒い革性のもので……宝石があしらわれた一品だ。
さすが帝国の城で飼われている狼。毛並みだけではなく身につける首輪さえも一級品、と驚くやら納得するやら。
ビアンカもお風呂で身体を磨かれた記憶があるので、首輪をつけられる幻覚が一瞬見えて慌ててかき消した。大丈夫。獣と同じ扱いにはしないと言われたではないか。
「綺麗ですね……」
狼たちが絨毯の上とはいえ直接床に寝そべっているので、ここまでくるとビアンカも絨毯の上に座って狼たちの傍にいた。
最初は唸られた記憶もある狼たちが急に受け入れてくれた理由はさっぱり分からない。自分達と同じ立場だと感じ取ったのだろうか。とりあえず良いことだと思うこととする。
それにしても、いくら眺めていても飽きないのだ。生き物と共に過ごした経験がないからだろうか。
ソファーの影でビアンカはご機嫌だった。
「あ、お姫様いたいた」
ビクッと派手に身体が跳ねた。
リラックスしていた中、完全無防備に背を向けた方からの声かけであったもので首を巡らせ振り向き見上げると、フリッツがいるではないか。
いつ入ってきたのか全く気がつかなかったし、近づかれていたことにも気がつかなかった。
驚き、焦る。
「こ、こここ」
「にわとり?」
「こん、にちは…………」
「挨拶だったとはー」
びっくりーという感じでフリッツは笑った。
対するビアンカは挨拶もまともにできず恥ずかしいというより、今のは不可抗力だと、穴があったら入りたい気持ちに沈みこみ顔を覆う。
恥ずかしい。狼に警戒心を吸いとられ油断していた。
「あれ? 狼の数が足りないと思ったらお姫様のところに来ていたんですねー。いつもなら一日一回は陛下の傍に姿を見せるのに」
狼は一体何頭いるのだろうか。
船上で彼らは王が連れて帰って来るのだと聞いたから、やはりあの王に一番なついているのだろうな、と周りを闊歩していた姿を思い出した。羨ましい。
「お姫様に陛下の匂いでも嗅ぎとったんですかね?」
「……へ」
匂い。
移る要因なんて……と同じベッドで密着していたことを思い出してビアンカは変に焦る。あれは狼枠で連れて来られたからその役目をさせられているのであって。
十五の女の子としては本来なら由々しきことなのだ。
あれは毎日続くのだろうか。考えないようにしていたことが、時間が過ぎていき、眠りにつく時間が近づくにつれて頭をもたげてきた。気が重い。
隠れてしまうか。でもそのために連れて来られたのなら、忘れ去られる前に拒否すればビアンカはどうなるのか。
狼たちは最初からなついていたのだろうか。何だか支配者オーラを放っている王様なので、獣としての本能で服従していたりして……。
「あ、そうです。夕食ですから案内をしに来たんでした」
「案内、ですか?」
ここでするのではないのか。
ビアンカは首を捻ると、フリッツがにこやかに理由を教えてくれる。
「陛下と一緒にですよ」
食事は喉を通るだろうか。