1 名ばかり王女
――親に愛情がないことは早くから分かっており、周囲の興味関心も欠片も向けられたことがない。良い方に捉えるならば何の責任も背負わず気が楽とも言えるのかもしれない。
ビアンカは第六王女だ。
しかしただの第六王女ではなく、父親は間違いなく国王のようだったが母親がメイドであるらしい。ビアンカは自分のことなのに他人のことのように耳に挟んだ程度だが、どうりで王妃様、つまり「お母さま」に温かみを感じたことがないはずだ。
王の色彩も継がず、当然王妃の色彩も継がず、毛先に至ると軽く癖毛でくるりとなった亜麻色の髪に淡い青色の目をしたビアンカが、そこらの石同然に見えない聞こえないふりをするのだから。
それがビアンカの「お母さま」ではなく、王妃様にとってはビアンカは実の子ではなかったというのだから、腑に落ちるというもの。
兄王子たちに笑われ、姉王女たちからも扇の影でくすくす笑われる。ビアンカの衣服は彼らと比べると質素なものだった。
また、不便は感じないものの、兄や姉より格段に少ない侍女は沈鬱な表情をしている。
王にはそもそも子どもへの関心がなかった。
その反面で女性にだらしないことから複数いる王子たちの母親は全員違い、全員が年頃の今水面下での蹴落とし合いがはじまっているとかなんとか。
ビアンカには関係がないことだ。いずれどこかの国に嫁がされるか臣下に嫁がされるか。今のところ、ビアンカ的にはこのまま忘れ去られるという説が有力だ。生きていけるか不安なのだが、どうしようもない。
「いっそ今からでも下働きにしてくれないでしょうか。今からなら何とか間に合う気がするのですが……」
一人部屋を抜け出していても誰も探しにくることはない。ビアンカは絶対的に必要な存在ではないから。
それでも王族の娘としたのは、きっといずれ王族の血を引いていると明らかになれば、起こるかもしれない面倒な事がいくつも浮かんだに違いない。
これはビアンカが卑屈なのではなく単なる事実。
もしも……メイドだと聞いた母が生まれたビアンカを疎ましく思っても、王族の娘として引き取られなければ今みたいに城の隅っこで何もすることなく生きることはなかっただろうか。
「……先が全く見えません……」
困った、とビアンカはひっそりため息をつきつつ、存在感をできるだけ消して廊下の隅っこを歩く。そして、時おり司書が来る程度の書庫に籠りに行く。
いくら行ったときに司書も煙たそうな顔をしようとも、籠ってしまえば長時間の安寧と時間潰しが得られる。読書だけがビアンカの唯一の贅沢にしてできることなのだ。
「例の噂、どうも本当だそうだ」
「帝国に歯向かうというあれか、無謀だろう」
「陛下がまずは帝国に支配された隣国を攻めると仰っているらしい。隣国を拠点にしていつ帝国の手がこの国に及ぶか分からないからな」
「だからといって……」
聞こえてきた瞬間に耳を澄ませていた会話は、すぐに遠ざかっていった。
棚がところ狭しと並べられ、本がぎっしり詰められた書庫はこういう意味でも情報の宝庫。静かで人がいない場所でちょっとした話をしていく人たちがいる。
いずれも城の書庫という場所柄、単なる下らない噂話からして話題に上がるのは名の知れた人たちのスキャンダルから身内話、そして難しい政治上の話まで様々。
「戦争は、嫌ですね……」
本の頁を音もなく捲り、ビアンカは、静寂にすぐに消える声を落とした。
最近この国と境を接する国の一つが帝国に支配された。
その影響でこの国にも帝国から攻められるのではないかと恐れ、警戒を募らせた結果、反対に進軍するとの噂にしてはまことしやかな噂が流れていた。
噂の渦中にある帝国の名はブルディオグ帝国。
大陸で一番強大な力を持ち、周辺国はおろかそのまた周辺国のほとんどを手中に収め続けている国。
ビアンカの住む国からは遠く遠く離れた国で、確か、陸路で行くにはいくつもの国と山を越えなければならず、最短ルートは地図上では海路。
それほどまでに遠いので、わざわざ巨大な帝国からこの国へ来る商人などは中々おらず、帝国とも接点を持たないため、帝国の情報はあまり多く詳しいものは入ってきていない。
だが一つだけ、帝国を語る際に、少なくとも王宮の者全員が知り口々にそれだけを噂できる情報があった。
かの国を治めるのは、「人」ではないという。
「吸血鬼……」
血を吸う鬼。鬼と言うからには人の形をせず、「化け物」だとでも言うのだろうか。野蛮な人種なのだと言う人もいる。
しかし数ヵ月前にビアンカを王女とも思わず、困ったように道を尋ねてきた商人は帝国近隣へ行ったことがあったらしく、事実とは異なると首を振っていた。
吸血鬼は人と同じような形をしている。ただ、人間にはない赤い目を持っていることが目に見える形での彼らである証であるらしく、また歯が鋭い。
この国の人間が恐ろしそうに、けれど物好きにも好んで話しているように吸血鬼は人の血を吸うことはない。それどころかかの帝国には人間もおり共存しているそうだ。
動物からも血を直接吸うことははしたないことであるらしく、ない、と。
血を摂取することは否定されなかったので一つだけ事実があった。
――「……お詳しいのですね」
――「私は帝国にも行ったことがあるもので」
――「実際に吸血鬼も見たことがあるのですか?」
――「はい。良い国ですよ、王は我々を守ってくださいますから」
城から出たこともなく、異国に見聞しに行ける立場でもないビアンカは、国内の城下のことはもちろん、国外を見たことがない。
思わず見ず知らずの商人に時間の許す限りの話を聞かせてもらってしまったものだ。
リアルな話の数々はもう一年も前になるのに、頭にしっかり記憶されている。狭い色褪せた日常の中では、唯一色鮮やかな気持ちがするからだろう。
ビアンカには一生縁がないと諦め外に出る度胸もないから、特に。
「次に人のよさそうな商人の方に会うことがあれば、一緒に連れて行ってもらってしまいましょうか」
実際には迷惑をかけることになることと、やはり決定的に度胸が欠けているもので夢物語に過ぎない。
ここではないどこかに行ってしまいたいと、以前読んだ物語本の主人公の台詞にあった気もするが、最近は物語を読むことは止めてしまった。
物語には夢が詰まりすぎており、いつだって主人公たちはいきいきと外へ飛び出していく。
以前のビアンカはきっと憧れがあったのだろうが、現実は甘くないと達観しはじめてきたのだから、恋愛物語の主人公の可愛らしさも望めない。つくづく正反対すぎて急に冷めてしまったのだと思われる。
「……どこか、遠くに」
行って、その先は。
存在感がまるでない王女だとしても、欲張らなければ特に不自由は感じない生活をして、働くこともなく城にいるビアンカがどうやって生活するのだ。
そう考えるまでには冷めてしまっている。
そして手を中途半端に止め、捲りきっていなかった頁を捲り追うことを止めていた文字の連なりを追うことを再開する。この文字列を吸収しても発揮される未来もないとはまだ思わないことにして、追い続ける。
その日の夕と夜の境の時刻のこと、ビアンカが書庫にいたときから実は国に静かな足音が忍び寄っており、気がついたときには取り返しのつかないことになる前。
人生が転がり始めるとは知らず、ビアンカはいつも通りこればかりは避けられない、ちょっぴり憂鬱な気持ちで自室へと戻った。