平穏を求めて
虐待、陰鬱な描写が非常に多く存在します。
苦手な方はブラウザバックをお勧めします。
大丈夫な方もご注意ください。
代わりに次の更新時、前書きに今回の話をさらっとまとめたものを掲載しておきます。
いつかの記憶。時々夢で見る。この世界に来る前にいた家だった。
「お母さん、今日は何作るの?」
「今日はトンカツよ。お兄ちゃんが帰ってきたら揚げるから待っててね」
「分かった、私待ってる!」
それほど広くもないリビング。4人で暮らすには少し狭い寝室。寝るときはお父さんを除いて皆一緒に。ちょっと変? だけどそれで私は幸せだった。身の回りには一握りの幸福がある。たとえどれだけの不幸に見舞われようとも、母と兄が私の支えになっていた。
「おい、飯持ってこい! 梓、もう出来てんだろ? さっさとしろ!」
「はーい、今揚げるから待ってて」
「チッ、待たせんじゃねえよ!!」
苛ただしげにリビングのテーブルに酒瓶を叩きつける音が響く。
こいつさえ居なければ。全てを壊すこの男さえ居なければ平和に日々を送る事が出来たのに。この男の血が流れていると思うだけで吐き気がする。
体だけが成長し精神年齢がいつまでも幼稚なままの年老いた子供。私は父を、我が家の不幸の最たる原因である男をそう定義していた。
酒に溺れ、気に食わない事があればお母さんに暴力を振るう。小学生の私と普通の女性のお母さんでは、力のある大きな子供に太刀打ちすることなど不可能だった。
学校では皆が楽しそうに家族の話をする。遊園地で遊んできたとか、お祭りに行ったとか、お父さんと釣りに行っただとか。
授業参観で後ろが気になってそわそわしてるとき。友達のお母さんやお父さんが沢山来ている。いいな、いいお父さんが居て。今日も私の駄目な父は家で酒を飲んでいる。家の環境のせいか、先生や周りの人達からは大人びていると言われている。格好いいとか言われたりして女子が集まることも多かった。
(……好きでこうなったわけじゃないのに)
人並み程度に友達と遊び、それなりに運動し、精一杯勉強をして、お母さんの負担をなるべく少なく。小さい私が掲げ続けた目標だった。
家族の見えない授業参観。今日も仕方ないと先生の話を聞いていると、廊下を走る誰かの足音。私のいる教室にそれは近づいてきて、中に入ってくる。振り向くと、息を荒げながら学生服のままのお兄ちゃんがいた。
つまらなかった授業参観が、お兄ちゃんの参上によって楽しくなった。お兄ちゃんにいいところ見せないと。張り切って私は授業に参加しだした。
「悠莉、今日の授業参観、とてもよかったよ」
「ほんと!? よかった、どうよかった?」
「一生懸命手を上げてたところ。元気いっぱいで悠莉らしかったよ。お母さんが帰ってきたら一緒に報告しようか」
「はーい!」
高校生のお兄ちゃんはアルバイトをしている。学業よりも大事だと言い切るくらいに働いていて大変そうだ。高校を卒業したらすぐに就職して、お母さんに少しでも楽をさせてあげるんだと意気込んでいる。
お兄ちゃんも、お母さんが大好きなのだ。優しくて、いつも頑張ってて、見えないところで頑張っているお母さんが、私とお兄ちゃんは大好きなのだ。
小学生の私は何もできない。親に頼ることしか能の無い子供だ。できるのは負担を減らして沢山お手伝いをすること。学校で沢山頑張っていいところを見せること。私が頑張っているところをお母さんが見れば喜んでくれる。お母さんが喜んでくれれば私も嬉しい。お母さんの笑顔のために沢山我慢して、沢山頑張って、私は生活していた。
ちょっと歪だけど、普通の物差しで測れば変だけど、それでもこの家族は何とか平和を保ち続けていたのだ。
壊れ始めたのは、それから数日後だった。今日も学校から帰ってきて家に入ると、見たことの無い靴が沢山玄関にあった。お客さんかな?
「ただいまー!」
お帰りの挨拶をしながらリビングに向かうとお客さんがいた。怖そうな男の人達が沢山居てお母さんを取り囲み、何かを話している。
「ごめんね、お嬢ちゃん。今ちょっと君のお母さんとお話させて貰ってるから、しばらくお部屋で待っててくれるかな?」
若そうに見える男の人が同じくらいの目線にきて優しく話し掛けてくる。笑顔だけどその目は学校のお習字で使う墨汁のように真っ黒で、どこか気味悪さを感じた。貼り付けたような笑みに気圧されて、私はお母さんに助けを求めた。
「お母さん……!」
「悠莉、お部屋に戻ってて。すぐにお話は終わるから」
そのお母さんも、私をこの場から遠ざけようとする。渋々私は自分の部屋へと歩いて行った。中に入ると襖が閉められてリビングの様子が見えなくなる。そこからは微かにリビングで話されている会話の内容が聞き取れた。
「……ずささん、貴方の夫がこさえた借金、いつになったら返せますかねえ」
「すいません、娘たちと夫で私は手一杯なんです……」
「だーかーら、週に一万円返してくれればいいって言ってんの。週一万円、たった百回それを繰り返せば全額返済、簡単でしょ?」
信じられなかった。あの男は百万円も闇金から金を借りていたなんて。大方返済は全てお母さん任せ。また今日も夜に帰ってきては飯を出せ、酒を出せと喚き散らすのだろう。
「そんなこと、出来ません……」
「はあ、これじゃあ埒が明かないな。梓さん、どうしても出来ないようであれば、家の物を差し押さえさせてもらいますよ?」
「それは困ります……!」
「こちらも困ってるんですよ梓さん!!」
床を強く叩いて話している男の人が激昂する。
「うちも百万踏み倒されるわけにはいけないんですよ、文句があるならあんたの夫にでも言ってください。言っときますけど、うちは他と比べて良心的ですよ? トイチなんて阿保らしい金利は設定してませんし、取り立てもかなり甘い方です。年七割、それを無しにしてご返済を待つと言っているんです。よくお考えになってください。とにかく、来週また来ます。その時にお返事が変わらないようであれば、今言った通りのことになります。良いお返事を期待していますよ。よしお前ら、さっさとずらかるぞ!」
「「「「「「ウス!」」」」」」
どたどたと男の人たちが立ち上がる音がする。あと一週間、猶予なんてこれっぽっちもない。
「……おい坊主、なんだ」
帰るかと思っていた借金取りの一人が声を上げる。襖をゆっくりと空けて様子を窺うと、お兄ちゃんが玄関に立っていた。
「あんたらが父さんの借金取りか?」
「そうですが、何か問題でもありますか? 私たちが行っていることは至って正当なことですので」
「いや、ちょうどよかった」
そう言ってお兄ちゃんは学校の鞄から茶色の封筒を取り出した。結構厚い。
「五十万、確かめてくれ」
そう言って借金取りのリーダーらしき男にそれを押し付けた。その人が中身を部下に確かめさせた。
「……確かに五十万あります」
「で、要件は何だ。わざわざ一度に返すってのは何か要求があるんだろ」
「返済期間を一年延ばせ」
「そいつは出来ねえな。こっちが潰れちまう」
「ハナからそのつもりなんだろ。耳障りの良いことばっか言っておいて一気に潰す、あんたらのやり方は人の心をへし折るにはもってこいだ」
「へえ、物知りだな。面白え、一カ月待ってやる。それまでに返せなかったら……覚悟しておけ」
しばらくにらみ合った後、借金取りの人たちは家を出て行った。私たち家族だけになると、私とお兄ちゃんはお母さんに駆け寄った。
「母さん、父さんと別れよう。縁を切ろう。あんな奴といつまでも一緒にいるからこんな目に遭うんだ」
「そうだよお母さん! お母さんばっかり辛い目に遭う理由はないんだよ! 悪いのは全部あいつのせいなのに」
「父さんのことを悪く言っちゃだめよ、二人とも」
私たちの主張に対して、お母さんはそう返した。なんで? 何であの男を庇うの?
「私がいなくなっちゃったら皆が困るでしょ? 悠莉に一斗にお父さんもみーんな。困っている人が居たら助ける、お母さんのモットーなの」
「だからって、自分の身を削ってまであんな奴を庇う必要なんかないよ!」
「はい、このお話はもうおしまい。晩ご飯の支度をしましょ、二人とも」
「母さん……」
私には理解できなかった。見境なく人を助けることを。そもそも、誰かを助けるという事が理解できなかった。だから私はその日、この終わりの見えない悲劇に終止符を打とうとしたのだ。
_______________
誰もが寝静まる夜に私は起きた。ご飯を食べてすぐに寝たからだ。隣に寝ているお兄ちゃんを起こさぬよう静かに布団から出ると、リビングに向かう。そこでは大きな子供が酒を飲んでテレビを見ている。
今日はお母さんは夜勤で帰ってこない。やるなら、今しかない。
台所に向かうと、私は果物ナイフと酒瓶を手に取った。後ろから刺せばいいのだろうが、どこに刺せばいいのか分からない。人を確実に殺せる急所を小さな子供が知っている方が異常だとは思うけど。
ゆっくりと静かに背後から忍び寄る。テレビと酒に夢中なのか私に気付く素振りは無い。男の頭を射程に収めると、私は振り上げた酒瓶を叩きつけた。
鈍い音と共に酒瓶が砕け散る。それくらいの力で殴ったのに男は少しよろめいただけで、後ろの私に気付くとおぞましい形相で睨み付けてきた。
「この餓鬼ぃ、覚悟は出来てんだろうな……?」
地の底から響くような低い声が轟く。本能的に恐怖を感じた私は、男がこちらを向く前に果物ナイフを心臓のある辺りに突き刺した。
肉を切り裂く確かな感覚が手と腕に伝わる。手を止めたら殺される、すぐに引き抜き次は脇腹に突き立てたのだが上手く刺さらない。筋肉にでも遮られているような感覚だ。
「死んで出直して来やがれこのクソ餓鬼ぃ! 楽には死なせねえぞ!」
刃物を使う私は刃物以外の力を持たない。男の人のように筋力など持ち合わせている訳がない。父親はナイフをものともせず私の首を片手で締め上げた。首が折れてしまうのではないかと感じるほどの力が喉から空気を絞り出す。そのまま片手で私の体を持ち上げると、思い切り床に叩きつけられた。
脳が、激しく揺れた。痛みではない、ただ強い衝撃としか捉えられない何かが全身を襲い、体が思うように動かない。
「へへ、待ってろよ! 今たっぷり苦しめてやるからなあ!」
下卑た笑いを浮かべると、男は台所からナイフを持ってきた。ただし調理用のナイフではなく、食事で使うような切れ味の悪いナイフだ。大方の想像は付く。いたぶり苦しみ泣き喚く姿を見ながらじっくりと殺していくのだろう。
朦朧とする意識の中、私は床を這って男から離れようとする。無駄だって分かってる。でも逃げずにはいられなかったのだ。もちろん逃げられる訳がなく、すぐに首を押さえられた。男はナイフを振り上げると、私の右手首に勢いよく突き立てた。
「………ぃああああああああっっ!」
激痛が全てを支配する。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い! 身を捩って叫んで暴れて、手首に走る痛みを紛らわそうと私は必死になった。
「いい声で鳴くじゃねえか、もっと叫べよ、ほらっ!」
「やめて! 痛い、痛いよ! ごめんなさい! ごめんなさい!」
男は笑いながら顔を殴る。時には別の場所をナイフで抉り顔を、傷口を、腹を、目に映る私の全てを殴り続ける。叫んでも謝っても逃げても終わりは来ない。声も枯れるような頃、ふと私をいたぶる手が止んだ。
「そういや餓鬼とはいえ女だよな……どうせ殺すんだ、先に楽しませてもらうか」
何を言っているのだろう? 男の言っていることが私には分からなかった。男は自分の服を脱ぎ始める。やがて裸になると、今まで目もくれなかった私の服に手を掛けた。その時ようやく私の理解が追いついた。
私を慰めものにするのだと。
抵抗する気など起きなかった。そもそも暴行によって受けた痛み疲れまともに体が動かない。そのまま男が服を剥ごうとしたとき、襖の開く音がした。
「悠莉!」
「ああん? なんだ?」
「お、にい、ちゃん……!」
焦ったような表情でお兄ちゃんが私に駆け寄ってくる。私を犯すことで頭が一杯だったのか男の反応は鈍く、そのまま兄に蹴り倒された。
「ここから逃げるぞ悠莉! 今病院に連れて行くからな! 母さんには後で連絡するから!」
私を抱きかかえてお兄ちゃんが言う。
逃げられなどしなかったのに。
私が見たのはついさっきみた刃物だった。
私が父を刺した果物ナイフだった。
それは脇腹に刺したはずなのに、
なぜか兄の首のつけ根からその先端が見えていた。
やけに鮮やかな朱が首から噴き出る。
数歩進んだところでお兄ちゃんの膝が沈んだ。
そのまま両膝をついて。
前のめりに倒れ込んで。
動かなくなった。
突き出た位置は喉。後ろには延髄があり、傷つけるとほぼ即死。
大きな動脈が存在し、呼吸をするところもあったはず。喉にあなが開いたら呼吸も出来なくなっちゃう。お兄ちゃんが動かなくなるのは必然だった。
「ざーんねんでしたあ!」
男の笑い声が木霊する。私が殺した、愛する兄を殺した、私が果物ナイフで、私が、私が、私が私が私が私が私が私が私が私が私が私がわたしがわたしがわたしがわたしがわたしがワタシガワタシガワタシガワタシガワタシガワタシガワタシガワタシガワタシガワタシガ私が私がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!
兄を殺した。
そんな事実だけがはっきりとその場に残っていて。
部屋中赤のペイントが施された適度にスプラッターな状態の中、私は意識を手放した。
どうして?
私は小さな幸せを掴むことすら許されないの?
ただ、お母さんとお兄ちゃんと、平和な毎日を過ごしたかっただけなのに。それなのに! どうして叶わないのだろう。
ねえ、誰か教えてよ。私は一体如何すればよかったの? 誰か……
「誰か、教えてよっ!」
「じゃあ、もう一度答えを探してみるかい?」
誰かの声が、私に応えた。




