災難
その少女の声を合図に、たくさんの女性が部屋の中から出てきた。通路を埋め尽くすぐらいの人数が、押し合いながらこちらに迫っている。
「どきなさいよ!一番風呂は私のものよ!」
「あんたがどきなさいよ!ここの温泉はお肌にいいって聞いて来たんだから!」
女性の群れからこんな話し声が聞こえた。どうやらここの風呂は温泉らしい。美容のためならばこの女性たちはどんなことでもするんじゃないだろうか。
「って、そんなこと考えてる場合じゃねえぇぇ!」
180度回転して猛ダッシュ。死ぬ。あれに捕まったら死ぬ。とにかく逃げないと。
「どこに逃げれば良いんだよ!?」
いきなりのことで頭が回らない。そうだ、食堂へ逃げよう。今来た道を引き返せばいいだけだ。走りながら後ろを振り向くと、女性たちの目が血走っていた。速度も先ほどより速くなっている。
「ヤバい。急がないと」
食堂に向かっていると途中で分かれ道に出会った。確かにここは通ったのだが、ここから先の道を覚えていない。後ろからは猛獣の群れが迫っている。僕は右に曲がるか左に曲がるか選ばなければいけない。
「ああもうっ!こっちだ!」
僕は右に曲がることにした。全力で走るとすぐに扉の前に着くことができた。最後の希望を賭け、へとへとになりながら戸を開けるとそこは、
「マジかよ・・・」
脱衣所だった。
【死刑確定だよ!やったね!】
そんな音声ガイダンスが頭の中で聞こえた。来た道からは先ほどよりも激しい轟音が響いてくる。もう逃げることは叶わないだろう。僕は逃げることを諦め、両手を広げて迫り来る猛獣達に向かって叫んだ。
「よっしゃあ、どっからでもかかって来いやぁぁぁぁぁぁ!」
言い終わった瞬間、僕は群れに押しつぶされた。こうして、日本にいたときには出来ない体験をしながら僕は気を失った。
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「カズト、ずいぶん遅いわね」
食事を終えて私は先に部屋へ戻ったのだけど、カズトが帰ってこない。あの量ならそれほど時間はかからないはずなんだけど。
「まあいっか。そろそろお風呂の時間だし」
私はここの温泉を楽しみにしている。前に来たときは温泉ではなく、ただ体を洗うシャワーが備え付けられているだけだった。お湯に浸かるのはどんな感じなんだろう?
「ふふっ。考えただけでわくわくしちゃうわ」
「女性のお客様ー!ご入浴の時間でーす!」
少女の声が聞こえてきた。ちょうどいいタイミングだ。私は着替えを持って部屋の戸を開けた。その時だ。
ドタドタドタドタドタ!
たくさんの女性がものすごい勢いで目の前を通り過ぎた。
「一体何なのよ…みんな温泉目当て?」
だとしても走る必要は無いのではないか。突然のことでびっくりしたが、気にせずゆっくり行こうと思ったが、聞こえてきた声でその考えは消え失せた。
「そんなこと考えてる場合じゃねえぇぇ!」
「今の声ってカズト?」
聞こえてきた方向はたった今女性客が向かった方向だ。もしかしたら巻き込まれたのではないだろうか。あの勢いで突っ込まれたらひとたまりもないはずだ。
「カズト、お願いだから無事でいてね…」
私は女性客の後を追った。風呂場の方へ向かうと
傭兵らしい男の人たちが酒を持ちながら歩いていた。食堂を借りて酒盛りでもするのだろう。カズトの居場所は知っているだろうか。
「すいません、カズトを見なかったですか。これくらいの背丈で、白いシャツを着てる人で」
「ああ、あんたと一緒に泊まりに来てたボウズか。ボウズだったら食堂と風呂場の通路に走って行ったぞ」
「すいません、ありがとうございます!」
どうやらカズトは食堂に向かって逃げたようだ。しかし食堂への通路には何の案内も無い。ちゃんと逃げられただろうか。私は嫌な予感がして急いで風呂場へ向かった。
「っ! カズト!」
向かうと案の定と言うべきか、カズトがボロボロの状態で倒れていた。
「大丈夫?しっかりして!」
呼びかけるも返事はない。気を失っているみたいだ。目立った怪我はないが打撲している所は何カ所かあるだろう。
「とにかく運ばないと」
カズトを抱えて宿のカウンターに向かう。そこには期待したとおり、バンダナをつけた少女がいた。
「すいません!治療してもらえますか?」
「は、はい!では治療室に行きますので付いてきてください」
やっぱりこの子は頼りになる。カウンターの奥にある治療室に向かう。到着すると私はカズトをベットに寝かせた。後はこの子に任せるしかない。
「カズトは大丈夫ですか?」
少女はしばらくカズトの体を触っていたが、程なくこちらを向いて言った。
「大丈夫ですよ。少し全身に打撲の跡がありますが問題ないです。今ちゃちゃっと治します」
そう言うと少女は詠唱を始めた。
「魔力を用いて宣言する、この者の傷を癒せ」
『再生』
アザだらけの体がみるみる治っていき、痛みで乱れていた呼吸も元通りになった。
「すいません。ありがとうございます。相変わらずすごい回復魔法ですね」
「いえいえ、適性があっただけですからたいしたことではないですよ」
たいしたことではない訳がない。この国に回復魔法を扱える人はそう多くない。適性が無ければ魔力不足で唱えることすらままならないからだ。
「傷は治りましたが、大事を取って今日は休ませてあげてください。使いの方から明日は大事な用事があるとお聞きしていますので」
「分かりました。本当にありがとうございます」
私はカズトを抱えて部屋に戻った。




