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Let There Be Love  作者: 武城 諸行
Ⅱ D'You Know What I Mean ?
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 数日後のことだった。その日は道場の稽古のある日だった。朝、僕は気乗りがしなかったが、それでも道着を持って家を出た。僕は道場の稽古で彼女を圧倒させるような技を見せてやろうぐらいの気持ちだった。しかし、いざ学校が終わるとそんな気持ちはとうに失せていた。むしろ彼女とどう接すればいいのか、彼女がどう僕に接してくるか、不安になっていった。それ以前に、彼女のことを考えるだけで僕は辛かった。道場の最寄り駅に着くと、稽古の始まるまで時間があったので、近くの図書館へと向かった。いつものように本やCDを漁っていた。それだけが心の癒しであった。僕は図書館に行くといつも心が癒される。それは、本の量に圧倒されるからだ。僕は自分が結構本を読むほうだと思っている。しかし、それでも図書館には知らない本がまだまだあるのだ。そんな僕の知らない世の中の本を眺めると埋もれている本を少しでも多く知ることができた気がして落ち着く。CDもそうだ。僕はもともと音楽には疎いほうであるから、名前を聞いたことのあるアーティストのCDを借りて聴くことにハマっていた。しかし、その日はいつものようにピンとくる本やCDがあまりなく借りるものがなく、途方に暮れていた。仕方ないので、自分の持っている本を取り出し、図書館の椅子に座って読むことにした。持っていた本は「ロミオとジュリエット」だった。しおりのはさんでいるところから読み始めたが、今の気分には合いそうになかった。数ページ読んだところで、耐えられなくなり、本を閉じて今の気分に合う本を探しに行った。もっとシリアスな小説が読みたかった。

探してきて結局読み始めた本は「罪と罰」。それまで読んだことがなかったが、題名から内容の暗さが伝わってきた。読み始めると僕は小説の世界に引き込まれていくのを感じた。素晴らしい小説だ、そう思った。主人公の感情や情景が生々しく描写されており、気持ち悪い世界観だった。ラスコーリニコフの罪意識が痛いほどよくわかった。もっとも僕は人を殺めたわけではないので、ラスコーリニコフほどの罪意識を抱いているわけではなかったが…。

 ふと、視線を本から時計に移すと、稽古の始まる時間になっていた。その時には僕は朝のような感情は持っておらず、小説の中のラスコーリニコフを通して罪意識に苛まれていた。僕は今日の稽古には出席しない決心をしたわけではないが、行くのをやめた。そして小説の世界に戻った。それは「罪と罰」を読むことで少しでもこの罪意識を償えるのではないか、という気がしたからだ。

一巻を読み終えたとき、時間は閉館時間になっていた。あっという間に時間が過ぎていた。僕は続きの二冊を借りて図書館を出た。

外は真っ暗になっていた。家はそんなに近くはないが、道場から歩いて三〇分程度なのでいつも歩いて帰っている。その日もいつものように歩いて家へ向かった。いつもと違うのは隣に彼女がいないこと。途中まで彼女と帰り道が同じなのでいつもは彼女と二人で帰っていた。こういう一人の時に限って世の中の賑やかさは目立つ。通りには酔っ払いや客引きの人であふれていた。僕は今まで気にも留めなかったそんな街の風景をぼんやりと眺めていた。ふと、寂しさがこみ上げてきた。この賑やかさに溶け込めず、誰からも振り向かれない幽霊、そうまさに僕は幽霊のようだった。そんな世界から僕は自分を隔離しようと、イヤホンを耳に差し込み、ウォークマンで音楽を流した。流れてきた曲は「Let There Be Love」だった。曲名の日本語訳は「そこに愛がありますように」。その曲を聴きながら、視線を雑踏から空へ移した。初め、街の明かりで空は暗闇でしかなかった。曲が終わったので一曲リピートモードにして再び「Let There Be Love」を流し始めた。二周目が終わるころには町から大分離れ、空に埋められた星々が見えるようになっていた。その空はもしかするといつもと同じ程度のありきたりな空だったのかもしれない。しかし、その時の僕の目には大変美しいもののように映った。勿体ないほどだった。僕は空へ手をのばした。手のある部分の星々が見えなくなる。手を握ってみたが、手の中には何の感覚もない。開いても何も手の中から出てくることはなかった。もう一度同じ動作を繰り返したが、星を捕まえることはできなかった。ふと、腹の奥底から何かが上ってくるのを感じた。肺は新鮮な空気を求めた。足が少しずつ止まっていくのを感じた。足を動かすことさえ億劫だった。目が熱くなっていく。視界がぼやけ、今まで見ていた一つの星が無数の星に分裂していくように見えた。あっ、今泣いているのか?そう思った瞬間、抑えていた感情が、どこかへ隠していた感情が抑えきれなくなった。涙が止まらなくなった。僕はうめき声のようなものを上げて、路上でしばらくの間、泣いた。泣くことだけに集中した。道にいた人々は誰もそんな僕に声をかけなかった。遠くから時々ちらちらと視線を送ってくるだけだった。イヤホンから流れてくるかすれた歌声だけが僕を慰めてくれた。「そこに愛がありますように」。僕の願いはそれだけだったのだ。求めていたのはそれだけだったのだ。そこでやっと僕は彼女のことを“本気で”愛していたことに、そして今も愛していることに気がついた。もう後の祭りなのだが。


その日以来、僕は必死で勉強をするようになった。彼女との関係のけじめをつけるために道場もやめた。道場のほうには受験勉強に専念したいとだけ伝えた。受験という理由は罪意識に対する償いとまではいかないが、口実上の彼女との別れた理由だった。もう、僕には気を使うものはなかった。この勉強のせいで体が壊れるならそれはそれでよかった。いや、どこかで僕は自分の体が壊れることを望んでいたのかもしれない。そうすれば、彼女のことなどもう考えなくて済む、そう思っていたのかもしれない。彼女というものを犠牲にしたのだから、その対価に見合う何か罰が欲しかったのかもしれない。毎日何の変化もなく、僕は勉強だけをした。

そのおかげもあってか、僕は彼女に会う機会はほとんどなくなった。ほとんどというのは模試などを受ける際にたまに彼女を見かけたからだ。そんな時、彼女はいつもの彼女らしく友人と話をしていた。目が合うこともあったが、彼女が僕に対し何か反応を示す前に僕はその場を立ち去った。正直に言おう。僕はそんな状態でありながらも、彼女に対する好意をまだ持っていたのだ。彼女を見つけると決まって僕の心臓の鼓動が速くなり、僕の胸を締め付けるのである。それは彼女に対する恋愛感情からでもあり、彼女に対する罪意識からでもあった。本当は声をかけようかと思ったことが何度もあった。しかし、僕は声をかけなかった。それはけじめであるつもりだったが、もしかしたら、単に彼女と話をする勇気がなかっただけなのかもしれない。


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