10
ついに僕たちは修学旅行三日目の夜を迎えていた。修学旅行の夜としてはこの夜が最後の夜だった。時刻は二二時五〇分ごろ。消灯時間から五〇分近くが経過している。僕と彼は自分たちの二人用の部屋にいた。とはいうものの、自分の部屋の玄関のような場所にいた。下には廊下で履くスリッパが散らばっている。散らばったスリッパを踏みながら、僕は扉のすぐ前に立っていた。扉についた来客の確認用の小さな窓を覗き込んだ後、扉に耳をあてる。空気の流れる音だけが聞こえてくる。その空気の流れに変化はない。
「よし。」
小さな声で彼にそう告げた。彼のほうを見ると心配そうな顔をしながら頷いていた。僕はドアノブをしっかりと握り、音をたてないようにゆっくりと回した。もう一度彼のほうを向いてから扉をまたゆっくり押し、少しだけ開けた。廊下の光が入ってきて部屋も少し明るくなる。扉に顔をつけてその細い間から廊下の様子を見た。誰もいない。音も聞こえない。次にもう少し扉を開いて、顔を廊下に出し、反対側の廊下を見た。反対側もよし。振り返って彼と目を合わせた後、僕は扉を大きく開き、忍び足で廊下に出た。彼も僕たちの部屋の扉を静かに閉めた後、僕の後を付いてくる。隣の部屋の扉を軽くあまり音をたてないように三回ノックした後、扉を開けて素早く部屋に入った。もちろん音をたてないように。僕は襖を開けた。部屋の住人達は僕たちを確認した後、寝たふりをやめ、ため息をついて、それから僕らを歓迎した。僕の後ろから入ってくる彼が襖を閉めずにそのまま入ってきた。
「ほら、襖!」
僕が小さな声で彼に言った。
「はいはい、わかりました。それよりも慎重すぎないか?隣の部屋に移動するだけだよ。消灯後三〇分くらいで先生たちはほぼ見回りからいなくなるんだよ。もっと早く来れただろ。」
彼はそう言いながら襖を閉めた。
「まあ、彼は神経質な奴だから。」
「石橋をたたいて壊しそうなタイプだよな。」
などという評価を部屋の皆からもらった。僕は部屋の住人の二人の近くへ行き、乱れた布団の上に腰を下ろした。そして口を開く。
「まあまあ、念には念をと言うじゃないか。見つかったらお互い面倒なことになるんだぞ。」
「それはそうだけど。多少のリスクは必要だよ。」
彼が僕と住人の議論の間に入り、
「まあ、もう遅いし、さっさと本題に入ろうぜ。」
と言った。彼の言う本題とは恋愛話である。昼の間に決まっていたことだ。始めようとしたとき、部屋の住人の一人が
「俺はそろそろ部屋移動するわ。」
と言って立ち上がった。
「なんだよ。恋バナが始まろうって時に。話してから行けよ。」
「別に話すようなことはないし、約束した友達が待っているから。じゃあな。」
そう言って、部屋を出て行った。
「なんだよ。つまらないな。まあいいか、それじゃあ始めるか。」
彼がそう言って三人で恋バナが始まった。
「じゃあ、君からだな。」
彼にそう言われたのは僕だった。
「えっ。」
「そうだな。じゃあ、よろしく。」
友人もそう頷く。いきなり、僕は話せと言われ、たじろぐ。そして、言葉を選んでから慎重に話し始めた。
「じゃあ、僕が小学校の時に好きだった子の話をするね。」
僕がそう言うと、彼が口を開いた。
「それはもう聞いたから。最近の話をしろよ。」
僕の中では彼女との話を隠しておく予定だった。僕の秘密を明かした彼に怒りを覚えたが、怒ったところで無駄だった。僕はそれでも誤魔化そうと何も知らないようなふりをした。俺が首を傾げたふりをしていると、友人が彼に尋ねた。
「えっ、なにかあったの?」
「そうなんだよ。彼はこの前まで彼女がいたんだぜ。」
「そうなの?」
友人は今度僕のほうを向いてくる。僕はもう誤魔化すことができなくなっていた。彼を睨んで見た。彼は笑っていた。人の不幸をあざ笑うかのように。
「早く話せよ。」
友人も囃し立てくる。
しかたなく、僕は俯いて彼女とのことを話し始めた。間違いのないよう一語一語言葉を選んで伝えた。二人は無言で僕の話を一字一句もらさぬように聞いていた。おそらく、僕は初めて第三者に彼女とのことすべてを伝えた。僕は話していて胸が締め付けられるような気持だった。
「…だから、僕には恋というものは派手すぎたんだ。」
僕の話が終わると、沈黙が訪れた。二人とも僕に慰めも嘲笑も冷やかしも与えなかった。二人の様子を見て、
「ごめん。しらけさせちまったな。」
とだけ言葉を付け加えた。彼は漸く口を開いた。発した声はどこか弱弱しかった。
「で、いまだに納得できないんだけど、どうして別れたの?」
僕の胸をえぐる質問だった。お前のせいだよ。そう怒鳴ってやりたかった。しかし、そう言ったところで惨めさだけが残ることは目に見えていた。第一、それさえも僕の妄想であり、裏付ける証拠は一切なかった。僕は怒りを押し殺して、
「言ったとおりだよ。僕らはもう受験生だ。」
と言った。出てきた声は予想以上に低く重かった。
「それは言い訳にならないだろ。君は現に彼女のことが今でも好きなんだろ?」
「そうだよ。それは後から付けた理由だろ。ほかに決定的な理由があるはずだ。」
二人は鋭く聞いてくる。僕は視線を畳から彼へ、彼から友人へ移した。彼らは二人とも笑っておらず、真顔で僕の様子を窺っていた。そんな様子を見て、僕の中では話してもいいかなという気持ちが芽生え始めていた。僕の心はどこかで同情を欲していた。彼女のことを話すこと自体は辛かったが、話し終わった後の彼らの真面目な表情を見ていると少し気持ちが楽になるのを感じた。しかし、本当の話を彼には話すことができなかった。その僕の妄想が嘘であったとしても。もう一度二人を見る。相変わらず真顔で僕を見てくる。
「じゃあ、話すよ。ただ、君には話すことはできない。」
僕は彼のほうを見ながらそう告げた。彼は訝しげな顔をしていた。
「なんでだよ。」
「なんでもだ。だから、君には伝える。お前は彼から聞いてくれ。それは止めない。」
そう言って友人のほうを見る。友人も訝しげな顔をしていた。
「わかった。」
そう言ったのは友人のほうだった。友人は彼のほうを見ながら
「お前には彼から聞いた話をすべて話すから、安心しろ。」
と言った。僕は友人を見て頷く。そう、それでいい。
「おかしいだろ。なんで俺はダメなんだよ。」
彼は不機嫌になっていく。まあ、わからないでもない。僕と彼女のことを友人以上に知っているはずなのに、今仲間外れにされようとしているからだ。
「君がいる限り僕は話さない。頼むから、一旦席を外してくれ。自分でもすまないと思っている。」
そう僕が言うと、友人もうなずいた。彼は腹を立てながら、立ち上がり部屋の扉を開けて、隣の部屋へ戻っていった。ドアを閉める音がやたら大きかった。
「で、なんで別れたんだ。この状況で大体予想はつくが…。」
僕は友人に見透かされたようにそう言われて少し腹が立った。
「じゃあ、それを話してみろよ。」
「お前、彼に嫉妬したんだろ。」
言い当てられて、少し驚いた。いや、少しではなくだいぶ驚いた。一瞬言葉が出てこなかった。そんな気持ちが顔に表れていたのかもしれない。友人は僕を見ながらやっぱりなとでも言いたげな顔をしている。
「やっぱりそうか。」
「ああ、そうだよ。」
友人に嘘でも言ってやろうかという考えが一瞬頭をよぎった。しかし、僕は諦めて素直に認めた。
「彼と彼女はあまりにも似ていたんだ。性格もだが、趣味も好きなものまで似ているんだ。しかも彼女は彼の話をしてくるし、彼もいつも彼女とのことを尋ねてくるんだ。僕はそんな状態に耐えられなかった。彼女が僕を好きでなくなってしまうことが怖かったんだ。正直辛かった。」
友人は僕の様子を憐れむように見てきた。
やめろよ、僕のことをそんな風に憐れむな。
胸が苦しくなっていく。友人が僕の背中に手をそっと置いた。
「そうか…。でも、君は彼女の本当の気持ちを確認したのかい?」
「いや…。」
「なんでだ?彼女が君のことを嫌がるような表情を見せたことがあったわけじゃないんだろ?」
「そうだけど…。確認して振られるのが怖かったんだよ。僕は臆病者なんだ。弱虫なんだよ。傷つくのが怖いんだ。それに、君は会ったことがないかもしれないけど、彼女は人一倍優しい人なんだ。だから、そう聞いたとしても、素直に答えてくれはしなかったと思う。」
「それは彼女が君のことを好きだから、優しいんじゃないのか?それだし、本当に優しい人だったら、相手の気持ちに素直に応える筈だぞ。それが相手にとって嬉しい答えではなくとも。」
友人の言葉一つ一つが僕の胸を握りつぶしていく。友人の言っていることは全くの正論だった。
「それでもたとえ相手が本当に僕に好意を持っていたとしても僕は耐えられなかったんだ。これ以上は。いくら何と言おうと終わったものは終わったんだよ。」
「本当にそれでいいのか?彼女が本当に君のことが好きなら、君は彼女を傷つけたことになるんだぞ。それは君にとっても彼女にとっても不幸なことじゃないのか?」
やめてくれ。これ以上僕を責めないでくれ。ただでさえ僕は辛い思いをしているんだ。
「もうやめてくれ。頼むからやめてくれ。君には好きな人に嫌いと言う辛さがわかるか?」
そう言うと、友人は僕の背中に置いた手を外した。そうして、僕を軽蔑するかのような眼差しで見てくる。
「いや、やめないぞ。君は自分のことしか考えていないんだ。君が好きなはずの彼女の気持ちを一切考えていないんだよ。結局、君は自分が傷つくことを恐れ、自分が振られることを恐れるだけで、彼女のことを傷つけているかもしれないということは一切考えていないんだ。」
「君に何がわかるんだ!」
大きな声が出てしまった。僕は友人の言葉に耐えられなかった。僕は興奮しており、自制が働いていなかった。友人は僕の声に驚き、一旦口を閉じた。それから、小さな声で
「わかったような口を聞いて悪かった。彼を呼んでくる。」
と言って、立ち上がり部屋の扉へ歩いて行った。僕は友人に対し申し訳ないという気持ちが出てきて
「ごめん。」
と小さな声で言った。友人は僕の声が聞こえたのか聞こえなかったのかわからないが、何も言わずに扉を開け、廊下へ出て行った。扉の閉まる音が重苦しく響いた。
しばらくしてから、彼と友人は部屋に戻ってきた。彼は部屋を出ていく時と変わらず、不機嫌だった。彼は座るなり、友人のほうを見ながら、
「で、彼の話はどうだった?」
と聞いた。僕はその様子を見るなり、立ち上がり扉へ向かって歩いて行こうとした。彼に対しても友人に対しても後ろめたく、気まずかった。
「何しているんだ?」
僕の背中に向かって彼は声をかけてきた。
「僕がいないほうが話しやすいだろ。僕も君が僕の話を聞いているところに一緒にいたくないんだ。」
僕は後ろを振り返らずに彼にそう告げて、扉をゆっくり開けて部屋を後にした。彼も友人もそれ以上は何も言わなかった。僕は早くその場を立ち去りたかったので好都合だった。
自分の部屋に入ると真っ暗だった。もちろん彼との二人部屋なので誰もいない。僕は何も考えず、静かに布団に入った。彼が帰ってくるまでに寝てしまおう、そう思った。寝て朝になれば世界がリセットされているのではないか、そう思えた。目を閉じたが、なぜか眠れなかった。心が落ち着かないのだ。友人は今彼に先ほどの話を伝えているのだろう。彼はどんな反応をしているのだろうか。僕を嘲笑っているのだろうか。考えれば考えるほど目が覚めてきた。一旦布団から出て、リュックの中を探った。取り出したのはウォークマンだった。気分転換をしたかったのだ。音楽だけはいつでも僕を慰めてくれた。イヤホンを耳に差し込み、ウォークマンの電源を立ち上げた。画面が明るく光りはじめる。曲のリストを開き、「Let There Be Love」を探し画面をスクロールした。そうしていると目に留まる題名がふと現れ、スクロールしていた手を止めた。「Stop crying your heart out」それが曲の名前だった。この曲のほうが今の気持ちには合っているかもな、そう思って再生ボタンを押した。静かでゆっくりとした音楽だった。サビの部分の歌い方は誰かに何かを訴えかけているようだった。ふと、道場をさぼった時の帰り道に見た星空を思い出した。美しかったなあ、あの夜のあの空は…。心がぽっかりと空に満たされていくのを感じた。泣きたいのに涙は出なかった。この曲がもう泣くなと訴えかけていたからかもしれない。




